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Hurt    その3

 挨拶について、だらだらと二回に分けて書いた。大陸に来て知った挨拶のこと、生活に深くかかわる挨拶のこと。たいしたことではない。でもそんなことが、今のわたしたちにはとても有効で、重要であると言うこと。

わざわざ書いているのは、ほかでもない、挨拶ができないと言うことへの、絶望感のためだ。

きのう、6歳の女の子が死んだ。香音のずっとずっと前からの友達だ。
ふたりが出会った時、ふたりとも歩けないし、ちゃんと話せなかった。
ふたりは生まれた時から双方の親を心配させ、泣かせ、そして助けてきた。
ブンカちゃんの方が、先に歩きはじめた。
ブンカちゃんが歩きはじめた時、
彼女は両親の間で、切れかかっていた糸を繋ぎとめた。
だから妹のひよりちゃんをこの世にもたらしたのは、神でも両親でもない、ブンカだ。
香音とブンカは会えばぴったりと並んで、決して離れなかった。
ちょっと見えなくなると、どちらも必死で探した。
いくら間隔が開いて久しぶりの再会となっても、会えばふたりは瞬時にいつものハーモニーを紡いだ。

ふたりの間には、独特の空気が流れていたようだった。
ふたりとも、痩せっぽっちなくせに大喰らいだった。
香音が遊びに行くと、ブンカのママは腕を奮い、痩せの大食いふたりにごちそうをこさえてくれた。
それをふたりは、むしゃむしゃと、延々と食べた。
生を貪る、というけれど、
身体の弱いふたりがあんなに発散して生きるのに、むしゃむしゃと食べることはきっととても重要だったろうし、今思うと、懸命に食べて、懸命に生きていたことが、いまさら痛く感じられる。
音楽が大好きなふたりは、父親たちのギグで再会するたび、いちばん前で踊っていた。
ブンカはいつも、香音の手を取り、いちばん前まで連れてった。
ピョンピョン飛び跳ねて踊るふたりは、BRIDGE の名物みたいなガキどもだった。
人をその場の空気ごと写し取ることができる写真家は、そんなふたりを驚くほど美しく切りとってくれていた。いつも、いつも。
自分を追いつめるタイプの演奏者は、そんなふたりにどれだけ救われたことだろうか。
時に刃物みたいに胸にくる演奏と向き合った人々のなかにも、どんな演奏も屈託なく
受け入れるガキどもにほっとすることだって、あったはずだ。


もう、挨拶も、できないの。
こんど会えたら、会えたことに感謝しながらさえずる様に挨拶できたのに。
何だってしてあげる、って思いながら、挨拶だってできたのに。
道行く人との、何のこともない小さい軽い挨拶が、ふわっとわたしの肩の力を抜かせ、そっと励まし風に散る様になくなっていくというのに、それよりももっと大切で、もっと大きくって、恩寵深い挨拶を、もうブンカから貰えないなんて。


挨拶好きな香音が、無言のうちにまたブンカと挨拶することを楽しみにしているというのに。
なんて言えばいいんだろう。
いつどうやって、告げればいいんだろう。
あの小さい胸が、つぶれてしまうんじゃないだろうか。
ブンカと作ったこころの中のやさしい世界が、崩れてしまうんじゃないだろうか。
こんにちはの挨拶をしてないまま、サヨナラを言わなくちゃいけないなんて、おかしいじゃないか。


ロンドンにいる彼と、電話で話しました。
何を話したわけでもない。
お互いの嗚咽を聴いて、心を鎮めていただけです。
ハロゥ、ハロゥ、聴こえてますか?
私はここで泣いています。
人目もはばからず泣いています。
私もこちらで泣いています。
誰にも届かない声をあげて、泣いています。
ろくでもないね。
どうしようもないよ。
どうしたらいいの?
何もできないよ。


外へ出て、誰かに会って。
「きのう、友人の子が死んだのです。香音も仲が良かった子です。それは仲が良かった。ふたりが揃うと、誰もが救われた気持になりました。唐突です。ショックです。だからThanks God もいい朝ですとも、言いたくないのです」相手の目からちょっと目線を落として、荷物を持つ手もとなんかを見ながら頭の中で告げる。
外側の私は、いつもより力なく、短く、ひかえめなハロゥでやり過ごす。
そんな外皮を破り割いてはじけそうな感情は、しみったれた笑顔にうまく潜んで隠れる。
ハロウ、ハロゥ、
まだ大丈夫です。いちばん小さい挨拶ならできます。
いちばん小さい挨拶を繋いで凌ぎながら、どうすればいいのかずっと考えています。

市川修さん

市川修さんが、亡くなったそうですね。
クモ膜下出血で倒れられて、10日間生死の境を彷徨ってのことだったそうです。
もう、頭に血が上って…だなんて、市川さんらしいんだから。
ピアノに触っていた時だったんだろうか。きっと、そうなんだろうな。
そうじゃなかったとしても、同じだろう、きっと。


わたしは薄情者で恩知らずなので、あの人にはお世話になった、と思う人が少ない方かもしれない。
友達に恩情は感じているけど、友達ではない人にあまりそういう感情を残さない。
ただ、誰よりも音楽を愛している人の傍に居るわたしが、音楽のことを彼に教わる以前に、多少なりともその深さや熱や強さを知っていられたことに、ある何人かの人々の言葉とか、情熱とか、そして音自体の存在がある。

京都でふらふらしていた頃、会うごとに酔っては、こんなわたしに音楽のことをやたら懸命に語ってくれたのは大原さんだったし、ライブの感想を訊いてくれては結局、いつもわたしが「飲み下せないこと」を教えてくれたのは登さんだった。登さんとは随分会ってないけど、ほんとに今でも感謝してる。

ジャズが、大人のカッコイイ趣味だと思い込み、生演奏を聴きながらお酒を呑む、イメージの冒険みたいな夜遊びを覚えた頃。あの頃の Sesamo はまだまだ薄汚れていて怪しくて、夜な夜な集まる不良中年達がとても楽しそうに見えるBarだった。そこにまぎれ込んで、マスターの山田さんや常駐する輩どもの恩情を受け、来る日も来る日も末席を汚させて頂いていた。あの頃あの街で徘徊していた、今で言うなら鼻の利くニート、みたいな若いヤツも次ぎから次ぎへと集まっていた。

市川さんは、ほんとうにカッコよかった。
荒ぶる、という言葉があふれ出してくるようなピアノを弾く人だった。
スタンダードを弾いても、ブルースを弾き叩いても、意外なほどすがすがしいオリジナルを弾き奏でても、いつも「節 ぶし」がそこにあった。劇画チックな言い方をすると、荒ぶる魂のピアノ! そんなこッ恥ずかしい形容が似合うくらい、血と泥にたっぷりとまみれたピアノだったと思う。

大きなガタイで Sesamo のアップライトピアノの前で背を丸めると、ピアノに謝ってるみたいな、ピアノに何か懇願してるかのように見えた。


いちど、まだ早くお客さんもいない時間に、指ならしみたいにして市川さんが「Good Bye」を弾いた。
わたしはまだその曲を知らなかったんだけど、その調べの美しさにドキドキした。
夜、11時をまわって、最後のステージをという時、カウンターの顔見知りに向かって リクエストありますか、と言うので、すかさず頼んだ。さっきの! 
「あれは、板橋文男さんの「Good Bye」という曲です」。
そう言って、あらためて、たっぷりと、聴かせてくれた。
泣けるくらい、美しかった。いや泣いた。
ただただ言葉をなくして、眼が濡れることなんて何も恥ずかしくない、と笑えるほど、美しさに泣けた。

当時、市川さんはその店で週に一回は演奏していて、わたしは時に友達と飲んで楽しんだり、時にひとりで出かけたりしていたんだけど、ひとりで静かに飲みに行った時だけ、市川さんはわたしの顔を見ると黙って「Good Bye」を弾いてくれた。わたしはいつも、市川さんの丸い背中を見ながら聴いて、飲んだ。


市川さんは、わたしに名前を何度も尋ねた。訊いてはその漢字で「ああ、あの」と思い出し、名前を褒めてくれた。何回も訊くのは、なんだか照れ隠しみたいでもあった。というのは、お子さんが生まれた時、男友達と連名で日本酒を贈ったら、そののし紙の送り名主を見て即座にわたしにお礼を言いにきてくれたからだ。律儀な人なのだ。


熱い男、市川さんは、いろんな場面で怒り心頭になっているのを見かけた。
自分より強い立場の人にも間違ってると思ったら直言し、弱い立場の人にも堂々と、声を荒げていかっていた。
若い人にあんなにちゃんといかれていたのは、ほかでもない、音楽を信じて、若い人をほんとに大事にしてたからだ。


 わたしはすっかり生演奏のある店に飲みに行く、ということをしなくなった。

Sesamo は居心地の良さと酒や料理のうまさからどんどん若者が集まる店となり、生演奏が主役の店ではなくなっていった。音楽の嗜好もシフトしはじめ、どうしても生演奏をBGMとして飲むことができなくなってしまった。
でも、あの、丸い背中をぼんやりとみつめながらビールをすすり、あんな情熱むき出しのピアノをまるごと聴きひたることができた時代があったので、いまもわたしは「したり顔でジャズをけなすような大人」には成らなくてすんでいる。

お葬式にも行けないし、今居るこの街で一緒に思い出話のできる相手もいないので、なんだか実感がわかない。ぽかーんとして、見えない穴を覗いてるみたいな気がする。きっと、まわりにいた、市川さんをもっとちゃんと理解し、共に生きた人々が、お弔いなさることと思う。それにはわたしは、かなわない。


市川さんはきっと、あの人に会いたかった、あの人にお礼を言いたかったと、きっと夢の中で芳枝さんにこぼして、奥さんを困らせているだろうな。わたしは市川さんの、そんな忙しい走馬灯には入り込んでいないと思うんだけど、それでちょっとホッとする。わたしには、あの人が聴かせてくれた音楽が、ずっと奥に残っている。あの人の未練にはコミットしていない。それでいい。それでイイと思う。だからわたしは、素直に、でもこころから感謝して、お礼が言える。

あとからそっちへ行ったら、あらためて、たっぷりありがとう、と言います。


それまで、そっちでお元気で・・・。


  

予告。

あけて久しいですが、おめでとうございます。

いやぁ、おろおろふらふらしてる間に、一ヶ月もご無沙汰してしまいました。
さすが、万年休業の執筆屋さんです。洒落にもなりませんが。

けれども、こちらのブログは大事に書いていこうと思っているので、どうしてもエナジー蓄積してフルパワーで…と思うが故、腰が、いや筆が重くなってしまいます。書くことがない、書きたくならない、なんてコトは一切、無いのですが。(だから物書きを名乗る人が「書くことがない」とおほざきになるのを目にする度、ご臨終遊ばせと内心思ったりするわたくしですが)。

言い訳でもないことを書いておりますが、やっと今週からいろいろなことが落ち着きまして、時間とエナジーを費やせそうです。書きはじめることでしょう。おそらく。きっと。

ということで、予告です。
まぁ予告したれば、ちょっとはお尻にともし火でもつくかと思ってみたり、でもありますが。
覗きにきては、がっかりした方があられましたらすみません。
書きますよ。そろそろ。

では、近いうちに・・・。


   

Fairytale of New York

 若くて眩しかったあの子が白昼のハイウェイで私より早くに死んで、きっぱりゴッドと決別したわたしは、今年からは誓ってクリスマスは祝わないと決め込んでいた。誓ってんなよ、という突っ込み付きで。
この世の百八+αの煩悩を一身に背負ってリンチ死したナザレの大工には同情するけども、そのプロモーターには反吐が出るというものです。


たった9ヶ月のブランクをはさんで再会した朋友どもは、誰もが皆あたたかく、だけど面切ってあの子の話をしてしまったのは、他でもない彼女をその両親と共に送った彼とだけだった。

悪辣に毒を盛り込んだメディアアート「ドラびでお」の犯人・一楽さんは、私が無理に引っ張り込んだ過日のトークイヴェントでくしくも、「あのことがあってから、死については安易になれなくなった」と私の眼を見て吐露してしまった。根性無しの司会者たる私は、「その死」については突っ込まなかった。そこで敢えて切り込むのが司会者の使命なのかもしれないけど、それなら速攻で自爆して不名誉除隊で結構である。司会者である前に、駄目な人間で結構だ。


さて聖夜。
すべてのオサレなレストランやバーが、ラブホが、サカリのついた男女の予約でいっぱいになる我が国の聖夜の実態。女子校出身のプチクリスチャンだったあたくし、本物志向を気取って母校の教会に行ってみたり、巨大ツリーを用意してみたり、我が子にまっとうな絵本を探してやったりと工夫に工夫を重ねてきたものでありまして、ゴッドとの決別を決心してはじめてのクリスマスというのがなかなか違和感炸裂であった。人生のダークサイドをまだ知らぬ我が子にも、甘ったるい物語を与えてあげたい気もしたが、周到なストーリーでがんじがらめにしたプレゼント攻撃、などにコミットしなくとも、ファンタジーを提供することができるはず我々ならば、と信じてグッとこらえて。


街中の乱痴気をどうにか無視して素通りしてうちに戻り、邪気を払ったついでにうちの人のライブの誘いもスルー。クリスマスのソフトジャズイベントだなんて。もうッ。
イヴの果物屋で背の折れ曲がったおばあちゃんから買ってきたみかんを一緒に食べて、チビを寝かす。
接続したネット上で、お気に入りのブログの見てなかったエントリーをまとめて読んでくと、標題にしたあの名曲に話が及ぶ。Fairytale of New York 。この街に来た時のあんたは輝いていたけど、今じゃ何よ、この怠け者最低男あたしの夢を持ってどっかやっちまってさ返してよ、うんにゃベイベー、違うべよ。ユーの夢はミーがまだ持ってんのさ俺の夢と一緒にさ。ほりゃクリスマスぜよ。
去年観た「In America」を思い出すなぁ。

その昔、うちの人に拾われる前のその前。
トム・ウェイツとサイツとパスカルコモラード。コンポステラと友部正人とBlue Cherry。繰り返し繰り返し聴いていたのはCDよりもカセットがまだ多くって、ポーグスのアルバムタイトルも曲の名も、いやバンドの綴りさえも知らなかった。時々聞き取れる言葉からは曲全般の物語なんて想像もつかなかった。だけど好きだったこの曲。
彼の地英国ではこの曲が「英国人が選ぶクリスマスソングトップ10」だかの堂々一位だったとかで、「Do They Know It's Xsmas」とか「Last Christmas」だとかを抑えての一位ということに、トピック限定的にではあるがこの世の楽園とは英国ナリと限定的に断定してしまう勢いを得る。

ラジカセで聴いていた。当時京都にいっぱいあった、小汚いおでんやとか小さい酒場で熱燗とかチューハイをくらい自転車を飛ばして帰った。飽きるほど聴いた。飽きないもんだからいつまでも聴いていた。ラジカセとは親密なもので、聴こえてくる音楽が今自分のためだけに奏でられているかのように錯覚できた。
Can't make it all alone
I've built my dreams around you
こんなこと声高に唄っちゃいけない。こうして嗄れて、呂律も怪しく、無賃ナントカで留置所に放り込まれるような有様で、唄ってこそなのだ。聖夜に。

狂気のクリスマスの夜、穴があいたような気分になったら Fairytale of New York を聴けばよい。
穴を塞いでくれる訳ではないけれど、そこにちょっと生温かい風を通してくれることだけは、請け合い。

Fairytale of Kyoto


古橋悌二が死んで、10年が過ぎてしまったらしい。
遺作といわれる、悌二のインスタレーション「Lovers」は、信じていたとおり優しく、果てしない作品だった。
時にこちらをじっと見据え、立ち去り、駆け抜ける人像。浮かんでは消えてゆく、裸の誰かたちはそのフォーカスのあやうさゆえか、熟視していると悲しくさえなるし愛しくさえなる。立ちすくんで見つめていると、自分まで映像の中の誰かたちのように裸であるかのように錯覚に陥り、いや観るものを裸にし、というべきか。そして映像の中の誰かたちのように、やがて自分も蒸発してしまいそうな心持ちにされる。
悌二が人を、人々を愛してやまなかったことが、遺稿集の「メモランダム」や最後のDumbType作品「S/N」らと同じように、切々と伝わって。

ぎりぎり到着で観覧きたトークイヴェントでは森村泰昌がどーしても「やしきたかじん」に見えて仕方なかったんだけれども(苦笑)、やっぱり私はシンポジウムはやるのも観るのも向いてない、と痛感する、大変居心地の悪い学習時間と相成った。「はいこの中から勉強しなさい」とでも迫ってくるかのような言説を楽しむことが、できないんだもの。古橋悌二を偲んで集まった人たちにそういった権威的な物腰は一切無かったけれども、それでも「理解することを前提に語られる言葉」は、得てして退屈で物憂い。さらに、死んだ人の話だから仕方ないかもしれないけど「過去」についての検証は好みではない。だってさ。ただでさえ主役は死んでるんだよ、集まって何かするなら、エッセンスとしてだけでも“未来”につながる何かが無いと、葬式を凌駕することはできないよ。故人を偲ぶのに、葬式に勝る行事は無いみたいよ。

ただその中で、高嶺格が唯一、名作「S/N」について小さな疑問を提示していた。
とっさに松尾恵が口走った言葉には、無用な擁護感が拭えなかったし、問題提起の落としどころも見当たらなかったからかこの疑問も引っ込められてしまった。作品理解とか評価とか評論とか、そういうアプローチとしてこの「疑問」が妥当なのかとか、それには興味はありません。がしかし、疑問という、問いかけるというまなざしは、それは必ずミライに向かっている訳で、キボウのカケラが見えるではなりませんか。ほんのりと、こっそりと。そんなカケラがこぼれ落ちたそれだけで、今宵の集いに救いを感じた、勝手な聴衆であった。わたくし。
(*その「疑問」にも「返答」にも、厳密な言葉遣いの記憶が曖昧なので敢えてここで書かないことにします。でも松尾さんの苦肉の返答には愛らしい意地が垣間見えて可愛かった、というと不謹慎かしら。高嶺くんの「疑問」はきっと、これからの(きっとこれまでにも)彼の作品で問われ、解題されていくことでしょう。信じてます。)
(*えと。誰かの逝去を「死んだ」と言ったり書いたりしてるのは、有意識です。ですので苦言は受けつけません、ごめりんこ。)


宵のシンポジウムから引き続きメトロにて、ダイアモンドフォーエヴァー。
80'sサブカル臭が満載なカルトムーヴィ「ダイアモンドアワーズ」を楽しんで、かなりしっとりしてしまう。遺稿集「メモランダム」でも書かれていたと思うけど、悌二は第一線アーティストとしての活動とドラァグクィーンだったりの素顔の融合、と言うか調和を模索実践していたことに思いが飛んでく。多面性の真実。彼がやりたかったことは総てやり遂げられたのかな、漏れなく担い継がれているのかな、と、会ったことも無い死んだ人の、生前の乱痴気パーティの貴重映像がプロジェクトされるのを酒啜りつつ眺めつつ、ぼんやりと思う。
プロジェクターの調子は山中さんが嘆いていたとおりヒドく、そんななんともアングラで錆ついた臭いつきまとう映像が、ダンスフロアが盛り上がるほど侘しさを醸し出しちゃう。アルコールを啜りながら眺め続けるのはちょっと痛すぎるか。
目の前では、「踊り狂って何もかもワーって成ったらいいんだと教えられた」などとシンポジウムでぬかしていた高嶺くんがチャイナドレスで踊り狂ってる。ピンクのパンスト、顔に巻いて。映画でも輝いてたMamieちゃんも切れのあるフザけたダンスで盛り上がってる。追いかけていても追いつく人生なんてあり得ない。美術館に逃げ込んで懺悔しても、アートのパードレなんて現れない。プロジェクターは相変わらず容赦ない荒れ模様で被写体を冒涜している。オヤジDJは懐メロを稚拙に垂れ流し、それゆえ青二才DJの仕事を更に輝かせる。踊るしかない、ええじゃないかえじゃないか。(フィーメルドラァグクイーンと呼ぶには余りに芸が無いので親愛込めてこう呼ぶと敢えてこうなる→)オカマは踊り、(美しさ故、字のとおり→)ゲイたちはキスしてる。美しい。この世の真実は実に、美しい。踊るしかない、踊り倒してかますしか、ないやんけ。朝まで踊って、翌昼爽快に目覚めて、肩こりとつまらない迷いが霧消した自分にコニャニャチワ。


今年は死にまつわる年だったと、自覚せざるを得ない。
大原裕が2年前の12月に焼死してから、もうこの月は寒さの中でそのことを思うささやかな業を背負わして頂いたようなもんですが、もう、死について考察することから、逃げない、絶対に。完璧にしらふの頭で朝まで踊り倒したこの夜から、肝が座ったワタクチです。