今から75年前の6月、沖縄では日米の凄絶な決戦が繰り広げられていました。大東亜戦争(太平洋戦争)の終末、沖縄戦では軍民ともに多くの犠牲を出しました。この時、住民を救うために最期まで力を尽くしたのが沖縄県最後の官選知事である島田叡です。

 

有名な電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配賜ランコトヲ」と太田實(おおたみのる)海軍中将が訴えたように、沖縄戦では「軍民一体」の壮烈な戦いを展開しました。それが可能だったのも、この時期の県知事が島田叡であったことが大きく関わっているでしょう。文官たる島田知事の戦いぶりを見ていきましょう。

沖縄が米軍の空襲に見舞われるようになると、前知事は出張と称して本土に出かけたまま沖縄に帰らず、離職してしまったのです。内務省では、後任の知事選出に困りました。なぜなら、まもなくアメリカ軍が沖縄に上陸することは明瞭だったので、誰も引き受ける者がいなかったからです。

 

昭和201月、沖縄守備軍の司令官・牛島満中将から「ぜひ島田叡君を」との指名がきます。牛島中将は島田と旧知の間柄で、二人とも西郷隆盛に私淑していたことが機縁で肝胆相照らす仲だったのです。沖縄戦を目前にした牛島中将は「今、沖縄県知事をやれるのは島田君しかいない」との確信を持って、知事就任の要請をしたのでした。沖縄を守るために最期まで烈々たる戦いを指揮し、沖縄の土となった牛島満中将が見込んだ島田叡とはどのような人だったのでしょうか。

 

当時43歳でエリート官僚として大阪府に勤めていた島田は、府知事から呼び出されて沖縄県知事への就任を要請されました。島田は「私が行きます」と即答しました。島田は兵庫県神戸市の出身で、沖縄県とは縁もゆかりもありません。府知事は「君、家族もあるのだから、相談した上で返事してもいいんだぞ。断ってもいいんだ」と言いました。しかし、島田は 「いや、これは妻子に相談することではありません。私が決めることです」と答えたといいます。帰宅後、妻の「なぜ、あなたが!?」との問いに、島田はこう言いました。

「誰かが、どうしても行かなならんとなれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。俺が断ったら誰かが行かなならん。…これが若い者なら、赤紙一枚で否応なしにどこへでも行かなならんのや。俺が断れるからというので断ったら、俺は卑怯者として外も歩けんようになる」

のちに島田はこうも言っています。「牛島さんから赴任を望まれた。男として名指しされて断ることはできへん」。

こうして、1945年1月31日、島田叡は沖縄県知事として単身、赴任しました。島田の荷物はトランク2つだけ。中には衣服と茶道具、薬、『南洲翁遺訓』と『葉隠』。そして、ピストル2丁。胸ポケットには青酸カリが入っていました。決死の覚悟が窺えます。

 

県庁職員を前にした島田知事の挨拶は次のようなものでした。

「本当の奮闘はこれからだ。一緒になって共に勝利への道に突進しよう。無理な注文かもしれないが、まず元気にやれ。明朗にやろうじゃないか。私が万一、元気を無くしたら強くしかってもらいたい。これからは知事も部長も課長も思い切ったことを言い、創意と工夫を重ねて良心を持ってやろう。そして力一杯、早くやることだ」

これを聞いた職員たちは「この知事は自分たちを捨てていかない。この人になら最期までついていける」と思ったといいます。

ある人から、

「前の知事は逃げてけしからん。知事さんも大変ですね」と言われた島田知事は、「人間、誰でも命は惜しいですから仕方がないです。私だって死ぬのは恐いですよ。しかし、それより卑怯者といわれるのは、もっと恐い。私が来なければ、誰かが来ないといけなかった。人間とは運というものがあってね」

と、前の知事の悪口は一言も言いませんでした。

 

島田知事は軍との協力に努め、県民の疎開を推進しました。その結果、約16万人の県民の命が救われることになります。また、食料や医療品の確保に手を尽くし、台湾から約3600トンもの米を運びこみました。やがて県民は知事に深い信頼の念を抱くようになっていきます。

 

多忙の中、島田知事は頻繁に農村を視察しました。その際、村民と座り込んで食事をしたり、酒を酌み交わしたりしました。当時の知事といったら雲の上のような存在だったので、皆一様に驚き、島田知事に惚れ込んでしまいました。しかし知事は、勝利を信じて軍に協力を惜しまない住民が不憫でなりませんでした。「アメリカ軍が上陸すれば、この人たちは皆死んでしまうかもしれない…。今のうちに少しでも楽しい思いをさせてやりたい」。

島田知事は酒の増配を実施し、禁じられていた村の芝居も再開させて県民を楽しませました。この知事のためなら死んでもかまわないと思った県民も多かったといいます。

3月に入り空襲が激化すると、県庁は首里に移転され、行政は地下壕で行わざるを得なくなりました。壕内はかなり暑く、天井は鍾乳石がむき出しで、頭がぶつかりそうな低さでした。全職員が家族を疎開させ、想いを断ち切って、県民のために尽くしました。この頃には、島田知事の姿勢が職員に浸透していたのです。

4月、とうとうアメリカ軍が上陸し、激戦が続きました。「ありったけの地獄を一つにまとめたような戦い」の中で多くの命が失われ、軍民ともに沖縄本島の南部に追い詰められていきました。そして、ついに県庁も崩壊しました。

「知事さんは県民のために十分働かれました。文官なのですから、最後は手を上げて出られたら…」と周囲の人から提言された島田知事は毅然としてこう言いました。

「君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね? 沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろう」その責任感はまったく衰えませんでした。

 

いよいよ最期の時が近づいてきました。島田知事は、女子職員に「僕たちはこれから軍の壕に行く。米軍は君たちにはなにもしないから、最後は手を上げて出るんだぞ」と言い聞かせました。後にこの女子職員は、「悔しくて、悔しくてたまりませんでした」と証言しています。そして激戦のなか、軍の壕を目指して出て行った島田知事はそのまま消息不明になってしまったのです。沖縄陥落の直前のことでした。

昭和47年、島田知事が自決した直後に現場を訪れた兵士の方が見つかりました。しかし、壕の場所が特定できず、その遺体は今もって見つかっていません。

 

終戦から6年後の昭和26(1951)年、沖縄県民の寄付によって、島田知事と亡くなった県職員453名の慰霊碑が摩文仁の丘に建てられました。その名も「島守の塔」。島田知事が沖縄に在任したのは、わずか5ヶ月足らずです。しかし、全力で県民を保護した島田知事は誰言うともなく「沖縄の島守」と呼ばれるようになりました。沖縄の土となって、今でも島を守ってくれていると県民は信じているのです。「島守の塔」は参拝する人々でお線香の煙が絶えることはありません。毎年622日には慰霊祭が行われています。

 

島田知事が佐賀県の警察部長を務めていた時のエピソードを紹介しましょう。まだ30代半ばだった島田は、尊敬する西郷隆盛を学ぶ会に参加していました。そこで、かつて桐野利秋から「偉い人とはどんな人ですか」と質問に答えた西郷の言葉を知って、大きな衝撃を受けます。西郷はこう答えたのです。

「偉い人とは、大臣であるとか大将であるとかの地位ではない。財産の有無ではない。一言に尽くせば、後ろから拝まれる人である。死後、慕われる人である」

これを聞いた島田は、

「今夜は本当に痛棒を喫しました。中学時代から野球選手としてチヤホヤされていい気になり、大学卒業後は官吏となって部下から頭を下げられてうぬぼれていました。泡のような人気、煙のような権力の地位、今後こうした臭みを一掃して、真の自己完成に精進します」と師に誓い、これを生涯の修養目標にしたといいます。

そして、島田知事は死して「島守の神」となり、本当に「後ろから拝まれる人。死後、慕われる人」になったのです。

 

生前、島田知事が人に請われると好んで書いた字があります。それは「断」の一文字でした。「決断する」「断固、行う」「迷いを断つ」。本意であろうとなかろうと、そんなことは関係ない。引き受けたからには全力で責任を果たす、ということでしょう。自分の役割に誠心誠意、徹底して立ち向かった島田知事の強い責任感から学ぶことは多いでしょう。

 

服部剛著『

 

 

 

』より