八代亜紀さんの訃報が報道された。ご冥福をお祈りします。

 

膠原病で闘病中だということだった。私も膠原病、その中でも間質性肺炎も同じだ。

やはり動揺している。

 

昨日10日間過ごした息子宅から色々置いてあるままの物を持ち帰り、これから整理しなければいけないのに、まだ散乱したままだ。

面倒なので理由づけで怠けているだけという事も、私の場合はありえるのだが。

 

私の入院は突然で予期せぬ出来事だった。否、後から思えばいくつかの兆候はあった。

夏も過ぎ、秋風の吹く頃から少し咳が出るようになっていた。熱もなく鼻水も出なかったが、風邪かなあ?

位の気持ちで近くのY医院に出かけた。すぐ撮ったレントゲンの画像を見て愕然とした。

真っ白だった。母が肺癌で亡くなっていたので、今年いっぱいもつかなぁという漠然とした判断ができた。

先生も僕が出たK病院は胸部外科がないからとT病院を紹介された。

勿論先生も肺癌を確証されてのことだった。

 

重い結果を知ったのに意外と動転しなかった。まあ運命かともう受け入れるしか他はなかったのです。

直ぐに呼吸器科受診した。撮れたレントゲンの映像はY医院のものより白さがましだった。

肺に水がまあ2リットルは溜まっているだろうということで、CTの予約をした。

 

京都の一人暮らしの初ちゃんが、膀胱癌が見つかり11月8日に入院することになり、私が付き添うことになっていた。

それで先生にその日までに水を抜いて京都に行けるようにとお願いした。

循環器科にも回され、そこで心房細動という病名をつけられた。

それからCTの予約日を待つ間、歩くのが辛いくらい痛くなった。茶の間で横たわってテレビを見ているだけ。

食事は近くに住む長女と近郊に住む長男が会社帰りに来てくれたりしていた。

 

その日ちょっと痛みが和らいで暇すぎるので、ビデオでも見たいと、娘と一緒にレンタル店に自転車で出かけた。

そこで階段を上っている途中、とてつもない気持ち悪さに襲われた。それまでに何回か同じように突然苦しくなり、すぐに病院で点滴を受け回復していたが、その時よりどうしようもない気持ち悪さだった。

カウンターにたどり着き、突っ伏して娘に救急車呼んで!と叫んだ。

救急車の中で聞かれ、娘はCT待ちのT病院にと言ったが、意識ははっきりしていた私は、自転車も置いているし近くだしと、近くのS病院にと頼んだ。

救急隊員の人は本人の意思にしましょうとS病院に運んでくれた。

すぐに点滴を受け担当の若いお医者さんから、すぐにリウマチ膠原病科を受信するように言われた。

それまでも何回か気持ち悪くなり同じ病院でも点滴を受けていたのに。

 

そして受診してみると即入院が決まった。なんと初ちゃんの入院日と同じ11月8日。

 

その頃次女は、長男である夫の歳を取ってきた母親と同居するために東京から一家で姫路から播但線で1時間かかる田舎に引っ越していた。

次女が初ちゃんの入院付き添いを引き受けてくれた。

 

京都N病院の東病棟4階。私はN病院東病棟4階。

符合に驚いた。

初ちゃんは手術も無事に終わり、ただ再発が多いと言われたが、退院できた。

 

私はそれから3か月半。

お正月も1月の誕生日も、そして友達6人といく予定の私の一番好きな小椋圭さんのコンサートも入院中で行けなかった。