つまり釈迦仏法では必ずしも成仏するという保証が無いわけです。
ですから天台ですら理論的に理解するしかなかった。 そのために彼は法華経の解説書を残したのです。
それに対し日蓮仏法ではまったく様相が異なります。
常々、(かしょうや天台にも過ぎ)と言っているように釈迦の弟子たちとは比べ物にならないくらいの力と福運と勇気を既に得ているのです。
何故なら過去世において日蓮自ら訓練し鍛えてきた弟子たちだからです。
その弟子たちが今世に生まれ集って題目を唱えている。 その総大将が池田先生なのです。
この千載一遇 かつ前代未聞のチャンスを飛翔の好機と確信して戦いきった人は必ず勝ちます。 断言します。
それくらいに今はすごい時なのです。
前回 書いたように釈迦仏法と日蓮仏法では修行も違えば成仏の考え方も違います。
① 釈迦仏法では仏と衆生は別々の存在なので、生死を繰り返しながら地獄から菩薩までの生命を一つずつ切っていきます。
そして最後にやっと仏にたどり着くのです。 長遠な時間と厳しい修行が必要です。
ですから山登りに例えられます。 出発点は明確ですが目標とゴールは曖昧です。
修行したからといって成仏できるという確実な保証も有りません。
② それに対して日蓮仏法では衆生即仏と考えるので修行自体が仏の行となるわけです。
さらに(南無妙法蓮華経と唱えることが仏である証明)と考えるので、、信心するということは山の頂上に立つのと同じ訳です。
修行の根本は折伏ですから、衆生の中へ飛び込んでいかなければなりません。
頂上の静穏な所で澄ましているわけではないのです。 つまり山を下りていく必要が有ります。
苦難を覚悟の上で。
さらに言うと不軽菩薩の24文字は法華経 不軽品にやっと出てくる話だから法華経を勉強しないと分からない。
ここで注意しなければならないのは不軽菩薩が釈迦の過去世の姿であるということだ。
つまり釈迦と日蓮の成仏理念が根本的に違うのである。
前者は生死を繰り返す中で修行を重ね、階段を上るように成仏へと近付いていく。
後者は南無妙法蓮華経と唱え保った瞬間から仏だと、さらに言えば仏でなければ南無妙法蓮華経は保てないと説くのである。
言い方を変えれば、麓から頂上を目指すのが釈迦の修行であり、頂上から下りてくるのが日蓮の修行である。