【思ったこと】何気ない一言に、傷ついたときに。 | 思考も部屋も行動も! スッキリ楽に暮らしたい♪

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思ったことを徒然に書きつつ、大切なものを大事にして、楽に自由に生きたいなあと思ってます。


「何気ないひとこと」、お互いに気をつけられたら素敵ですね|マダレナ の Come on!ミラクルハッピースパイラル♪

 マダレナさんの記事を読んで。

 目の前で同じことを語っていらっしゃった、マダレナさんの雰囲気を思い出し。

 その切実な気持ちは涙が出るほどわかる。
 想像もつく。

 それが、どう頑張っても私の想像の範囲内でないということも。
 それすらも重々にわかってしまう。

 だから、口をつぐみがちになってしまうこともある。


 相手の何気ない一言が、どれほど誰かを傷つけるか。

 そこを考えた時に色々と頭をよぎった。

 今回、傷つける意図を持った言葉でないことを前提にしています。
 傷つけるために吐きつけられた言葉は、またちょっと意味が異なると思うので。


 まず、ひとつ思い出したこと。

 ママイキの「区別」。

 言葉は一つ。
 意味は、二つ。

 言った方の裏にある意図や状況と、
 受け取った側の状況や気持ち。

 二つの意味はこの立場の違いと状況の違いで決定的に異なる。

 傷ついたことは事実だとしても、
 言った側の意図は傷つけるためではなかった、
 ということはよくあることで。

 だから、「傷ついたのがダメなんだ」とか
 「傷つけたのがダメなんだ」とかは思わない。
 (傷ついた人にとって、傷つけた人がダメ、ということはあるだろうけれども)

 だけど、そこに人が傷つくことは往々にしてある。

 だから、

 「傷ついた」

 ことと

 「傷つけるつもりはなかった」

 ということは、

 同時に存在して、
 どちらも間違いではない。

 と思う。

 それを、「傷ついた側」はもっとわかってもいい気がする。
 もちろん、「傷ついた瞬間」にそんなことを思えることはないとわかっているけれど。

 でも、不要なほどに傷つき続けることもないと思う。

 はい。できるかどうかは、別。
 割り切れるかどうかは、別問題です。
 ただ、そういう切り分けもある、かなと。


 そして、もう一つ。

 コメントに書かれていた、
 「だからこそ、自分は気を付けたい」
 という趣旨の言葉。

 お互いが思いあって言葉がかけられたら、もちろん素敵なこと。
 マダレナさんが書かれているように、
 「だからこそ自分こそはそうならないように」
 「それが無理だとわかっているけれど、そうはなりたくない」という気持ち。

 私にとって一番違和感があったのはここ。

 だって、

 傷つけるつもりがなかった言葉が、
 誰かを傷つける。

 これは、結局のところ予測し得ないということ。
 想像できないということ。

 どんなに頑張っても同じ人間は二人いない。
 あなたと私は同じ人間にはなりえない。

 親でも子でも。
 夫婦でも。
 親友でも。

 ということは、
 何かの拍子に、自分の言葉が誰かを傷つけることは、
 あり得る、ということ。

 それをわかっていながら、
 「そうならないように、自分はする。したい」
 という気持ちは、どうなんだろう。

 しかも、傷つけられた側が。
 傷つけられたから、気づけたことかもしれない。
 だから、そう思うかもしれない。

 それはわかるけど、
 傷ついた側だからこそ、
 それを切実に願えば願うほど、
 悲しくなる気がしてしまった。

 いつだれを傷つけるか、わからない。
 いつだれを傷つけるか、考えていたら、
 何もしゃべれない。
 何も伝えられない。
 何も言えなくなる。

 考えれば考える分だけ、言葉はなくなっていくと思う。

 そこにある背景の、どれだけを自分が知っているか考えたら、
 何を言っても傷つける可能性はいくらでもある。

 「これは絶対に大丈夫だ」と言える言葉がどれだけあるのだろう?

 それなら、

 「絶対に誰もを傷つけないことはありえない。
 だから、誰かを傷つけることがあっても自分を許そう」

 が、いいんじゃないかな。
 そう思った。

 傷は傷。
 それは傷つけた側のものではない。
 どうしようもない。

 傷つけられることがダメなわけでもない。
 傷ついた気持ちを否定しているわけでもない。

 でも、それならば、余計に、
 「傷つけないように」と考えてたら、
 苦しくなるだけじゃないかな。

 だって、わからないから。

 それなら、もう少しおおらかに。

 傷ついたから。
 どんなに苦しくて悲しくて悔しいかわかるから。
 だから、傷ついた自分が、もしも誰かを傷つけたときに自分を許せたら、
 どれほど素敵だろうか。

 人に迷惑をかけてはいけない、
 ではなくて、
 人に迷惑をかけて生きていることを認めて助け合って生きる
 ことが大事、というけど。

 同じことじゃないかな。

 人に迷惑をかけて生きている自分を認めて生きたら、
 人に迷惑をかけている他の人も認められる。

 自分を傷つけた人が自分に他意がなかったことを知っていても、
 自分の傷を持て余して、
 相手に対する憎しみが消えなくなって、
 そしてさらに自分の苦しみが増すくらいなら、

 自分の傷は傷で、いたわってあげて、
 伝えてあげて、
 同じように傷つく人を少しでも減らすように行動するのはもちろんよくて。
 もちろん相手を思いやって言葉を使うことは、大事なことで。

 だけど、
 もし自分も誰かを傷つけることがあっても、許してあげる。
 そうすると、ちょっとだけ、気持ちが楽になるかも。

 傷ついたから、傷つけない。

 理想だけど、
 あり得ない。

 生きていくなら。

 そんなことを思った。



 あくまでも、その傷を受けた瞬間から少しでも時間が経った後の話です。
 傷ついた人を非難したり意見したりしたいわけではないのです。
 その一歩先が、あるなら、と考えてみました。