先日殴り書きした下書き記事をまとめ直してみます。
ちょうど、書いた後に見た「すくすく子育て」の『子育ての大原則って?』で、大日向雅美先生が言われていた言葉を思い出したので、最後に書いてみようと思います。
すくすく子育て
子育ての大原則って?
母の子育てが良かったかどうかをどう測るかはわからないけど、
私の自己肯定感が育まれたかと言えば、否。
これはもう、明確に。
(それが母だけの責任だったかと言えば、それはよくわからないのですが)
だけど、その自己肯定感が育たなかったことだけを取り上げて、それが悪かったかと一概に言えるかと考えると、それもないな。
もちろん、自己肯定感を育むことができれば、それはそれでいいと思うけど。
それが、良いとは思うけど。
だって、自己肯定感がなかったから、どんなにゆっくりだったとしても、
私はここまで来た。
私は自分で学んで、感じて、考えてきたんだと思う。
その道は、母のものではない。
その道は、自己肯定感が満たされていたら、歩んだものではない。
もちろん、そうだったらいいな、と思うことはあるし、そうだったらもっと違う道もあったと思うけど、
かといって、今までの道を否定する気にはならない。
それを否定できる人はいない。
あるものを覆すことはできない。
過去を変えることはできない。
だけど、私は変われる。
変わらない部分もあっても、変わる部分もある。
感じ方は、変えられる。
変わらない部分にばかり、こだわり続けるのはもったいない。
だって、私は変わりたいと思ったんだから。
変わりたくないと思うなら、それもいい。
それを存分に味わってみるといい。
それで一生が終わったって、別に何の問題もない。
ただ、私は、ずっと変わりたいと思っていたから。
だから、その経過の道を、今更なかったものにしたいとは思わない。
ずっと母に対して、
愛していれば、何をしてもいいわけではない。
何を言っていいわけでもない。
と思っていたけれど。
だけど、
愛があれば、なんでもできるわけでもない。
愛があれば、絶対に誰も傷つけないわけでもない。
それも、良くわかる。
子どもがこんなに小さくても、それでも、私には、いいと思えることを全部、完璧にできるわけではない。
実際、現実問題として。
理想はあったとしても。
愛はあるかどうかではなくて、伝わったかどうか、とママイキでもコーチが言われていたが、
愛があるのがわかっていても、受け入れられることもあれば受け入れられないこともある。
それは、親もそうだし、私もそうだし、子どももそうだろう。
だから、その相手に伝えるにはどの方法がいいのかを、模索するしかない。
そしてその結果が、「すべて悪かった」なんて、決められる人は、いない。
どんな状況でも、どんな結果でも、何があっても、そこから何を選んで行くかは、本人の問題。
そこで何を得るとしても、それは本人の力と努力。
すくすく子育て
子育ての大原則って?
子育ての原則はシンプル。複雑なことはいりません。
(大日向雅美さん)
「生きるって楽しい」と感じさせ、「この子らしく生きていく」と信じて。
(汐見稔幸さん)
ということだったけど、こういう言葉が印象に残った。
「育児の目標は、『子供の自立』。でもそれは、一人で何でもできるようにする、ということではありません。
人は一人では生きていけません。
だから、人に頼り、人に助けてもらえる人になること。
『子供の自立』とは、人に愛されるようになること。
育児は、そのために必要なことを教えること」
何となくこういうことだった、と思い出しながら書いているので、一言一句あっているわけではないのですが要約すればこんな感じだったかと思います。
その子の自立の程度は、その子の状況にもよるだろう。
でも確かに、
人に頼ること、
人に頼られること、
そして誰かを大事に扱えること、
誰かに大事にしてもらえること。
そのために必要なことが(その子にできる範囲で)最低限身に着けば、親としてはいいのかな、と思えました。
いいとか悪いとかは、きっとないんだと信じたいところです。
先日読んだ本。
もちろん、乙武さんのこのお母様のような、自己肯定感を一つも損なわない育て方にあこがれるけど、私には無理そうなので。
できることはやって、できないことは努力しよう。
それでも、できなかった部分は、きっと本人が自分の力で打開してくれるだろうと信じて。