ハンバーグ大好きなけんちゃんの夢追いブログ-連続と離散

放射線の放出ということについて考える。

結論から言うと、放射線の放出は、ある状態から別の状態に移る際に系からエネルギーが放出されることに他ならない。

ここで古典物理学と量子論の2つを考える。
物理学というのは、大まかに言って、古典物理学と量子論という2つの体系からなっているからだ。

古典物理学では、エネルギーの変換または放出は連続的に起こる。
最初の条件とそれに働く力が与えられれば、その系の運命は正確に決定され・予測できる、というシンプルな世界だからだ。
これこそが古典物理学の世界だ。

数学において「連続」とは、いくら拡大しても近くにあって差が無いことを示す極限概念である。
要は、隣と隣がずっとつながっているという意味で、たとえば1と2の間には無数の細かい値が存在していて、それを1.5と1.6の間というように、いくら細かく拡大していっても、その間にはやっぱり無数の細かい値が存在して、数字上に切れ目がないという意味だ。

エネルギー保存則に従う限り、その値がいかに小さかろうと任意の量のエネルギーが変換できるはずだ。
わかりやすく言うと、エネルギーが100のときの放出される放射線エネルギーは100、50の時は50という単純な直線関係が成り立っているとき、75なら75という値を取ることが決定予測されるというのが古典物理学の世界だ。
この古典物理学の世界は、いわゆる私たちの一般常識が通用する世界と思って間違いない。

ある日、古典物理学が支配する物理学の世界に量子論が登場する。
量子論によれば、ある系が一つの状態から別の状態に移る際に、ある特定のエネルギーが変換される。
すなわち、エネルギー変換量は、連続的ではなく離散的であるわけだ。
数学において「離散」とは、連続の反対語と考えてよい。
要は、隣と隣の間には細かい数字はない、たとえば1と2の間には1.5などの細かい数字はないとする有限の世界、飛び飛びの世界、という意味だ。

量子論の世界でも、保存則が満たされている条件は必要であるが、その系の結果を決定するには不十分だということ。
初期条件で結果を考えるとき、古典物理学では結果は決定されるが、量子論では結果は決定されない、という違いがあるのだ。
量子論で唯一決まるのは、その系がAであるか、Bであるか、果てまたCであるかの確率が決まるだけなのだ。
したがって、量子論が導入されて以降、物理学は確率論に変わったともいえる。

何が言いたいかというと、原子や原子核から放出される放射線は、量子論に従っているということだ。
原子核から放出される粒子数を計測しようとする場合、その数は時間的に一定ではないということを示している。
温度計で水温を測るとき、その温度は温度計の誤差を除けば、何度測っても常に一緒の値である。
しかし放射性セシウムをGM管で計測したとき、複数回測定しても、その値は時間的に一定ではないのだ。
最初に1分間計測した時のカウント数と、次の1分間に計測したカウント数は違っており、どのような値が出るかは、確率のみが支配しているということだ。
これは放射線計測器の誤差の影響という意味ではなく、本質的に一定にはならないというという意味だ。
なぜなら、その数がいくらになるかは、そもそも確率のみが支配しているのであって、それをいかに正確な計測器を使ったところで、その値は不確定なのだ。
これを不確定性原理といって、量子論の重要な特徴の一つだ。

量子論では、エネルギーが100のとき100のエネルギーがでるかもしれないが、95かもしれないし、105かもしれない。
古典物理学と違って、結果は、初期条件によって定まらず、わかるのは確率のみという世界だ。

放射性セシウムは電子を放出する放射線源であるが、その線源から単位時間に放出される電子の個数を測定する場合を考えてみる。
線源の各セシウム原子は、次の単位時間内に電子を放出する確率を持っている。
その真の個数は決して測定することはできない。
単位時間に放出される粒子の個数は時間的に一定ではない。
したがって計測できるのは、放出される電子の平均個数ということになる。
そして計測された平均値というのは、不確定性の誤差を含んでいるわけだ。
放射線を理解するとき、放射線測定した結果には、常にこの誤差が付きまとっていることを忘れてはならない。


非常に難解に感じられたかもしれない。
でも、これが放射線の理解や、放射線測定の基礎の基礎だ。
これを知らずして放射線測定したところで、その結果には何の意味もない。

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