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blues harmonicaのブログ

ハーモニカが好きで吹いています。全然ヘタですが。
これから日々気が付いた事など書いて行こうと思っています、、
宜しくお願い致します。。。。。

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 「ジャズ喫茶/ サムライ」

 

JBLが聴ける店・新宿・JazzBarサムライ 06

 

次から次へと話題がつきない、マスターの宮崎さん

 

JBLが聴ける店・新宿・JazzBarサムライ 05

 

 

店の佇まいと聴こえて来る音色から、「アナログレコードを掛けて居る!」と思い込まされるが、実はデータ音源が殆んどで、インターネットラジオも流して居る。とは言え、店にはモダンジャズから知る人ぞ知るプレイヤーまで約6000枚のレコードがあり、勿論リクエストもOKだ。そんな宮崎さんにもっとも気に入って居るプレイヤーを尋ねると、「南アフリカ・ケープタウン出身のアブドゥーラ・イブラヒムですね。人種差別や厳しい政治状況におかれても、孤高で魂を揺さぶる演奏をして居ます。本当に素晴らしいです」

 

✳︎今回のblog記事は長いので、一度に読めない方は。区切って何回にも分けて、読んで見て貰えると嬉しいです。宜しく。。。

 

 

短足の私。恥ずかしい姿晒してます、、なら、載せるなって、でも4kg痩せたんですよ😅。しかも6日で、、まあ、食べ物、食べてませんからね。。。。

 

 

 

 

ーバンド放浪記ー

1970年代の中頃から1980年代の初頭に、私はブルースバンドを組んで居たのは前にも話したが、実はふたつのバンドを掛け持ちして居た。ひとつは自分がブルースハープを吹くバンドと、それとは別にジャズ・ブルースをギターで弾くバンドだ。此方の方のバンドは高校の同級生が中心のバンドだった。初めはロック・バンドとしてスタートしたのだけども、ツイン・ギターでもう1人のリード・ギターは兄貴がなんと漫画家の石ノ森章太郎のアシスタントをやって居た。ベースの兄貴はSF小説家だった。私が高校生ぐらいの頃は男が少女漫画を観ると言う事が流行った。何故なら、萩尾望都の「ポーの一族」やら、一条ゆかりの「デザイナー」水野英子の「フャイヤー」などに代表される女流漫画家の作品は滅法面白かったからだ。そのベーシストの兄貴がSF作家で、尚且つ、少女漫画は哲学的だと言って漫画本を所有して居た為、当然弟のベーシストも影響を受けて居て、私に「こんな面白い漫画があるぞ」と貸してくれて居たのだった。私は当時「ガロ」でカムイ伝、つげ義春の「ねじ式」を知り、「COM」で「漫画家残酷物語」の永島慎二。そして「少年マガジン」で、ちばてつやの「あしたのジョー」「少年ジャンプ」で「デビルマン」などを知って居た。私は一部のSF小説やら、セリ・ノワール。文学作品と同列にそれらの漫画を読んだ。私にとって松本零士は「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」「キャプテン・ハーロック」では無く。「男おいどん」なのだ。

 

下は一条ゆかりの「デザイナー」からです。

 

 

 

 

女流漫画家「一条ゆかり」

 

 

 

バンドは初め「ロビン・トロワー」やら「クリーム」の曲を演奏して居たが。もう1人のリード・ギターは、自分のバンドを結成したくて辞めて行った。ドラマーは明星大学の男とやって居たが、同級生のベーシストが突然ベースをやめてドラマーになると言い出して、気まずい関係になって、ドラマーは辞めて行った。さて、問題はベーシストだ。「ギターマガジン」にベース募集の広告を出したら。何故かギタリストの応募が殺到した。5人は来た。或る者は、アメリカ育ちでサイドギターでいいから一緒にやりたいと言う。「残念ながらギタリストは募集して居ない」と言ったら。「お前の腕前はどうなんだ!人を図れるだけの腕前があるのか」と言う。そこで仕方なく自宅で12小節のブルースを演奏して、7thやら9thを弾いてくれと言ったら、急に言われても解らないと言うので、弾いて見せたら、「フン、俺を断れたらリーダーとして認めてやる」と言う。此方は穏便に引き取って貰いたかったが、そうはいかず駄々をこねるので「俺がリーダなんだよ!お前とは一緒に出来ない!!」と怒ったら。「怒れるとは大したものだ、俺はアメリカで、あのマイク・ブルーム・フィールドとセッションもした事もあるんだぞ。」と言うので、「ああ、そうですか、でもね、此処は日本なんだからお引き取りを!!」と言ったら、要約帰って行った事があった。そして、今度は28歳のギタリストが、また会いたいと電話を掛けて来た。私はじゃあ、京王線の代田橋の喫茶店で待って居るからと言うと「わかった代田橋だな」と言って、1時間半経っても来ない。代田橋の喫茶店とは高校の先輩が経営して居た純喫茶だった。主に映画音楽を流して居た。その店の電話が突然けたたましく鳴って、出て見たら「貴様、年下のくせに俺を愚弄する気か!」と怒って居る。今何処に居るんだと言うと、「駅の出口に居る。お前が言った純喫茶の名前を言っても誰も知らないと言って居るぞ!!」と怒り心頭だ。。。

 

「あのですね・・・そうか、もしかして代田橋という駅は二つあるから・・・」と言って「井の頭線の新代田橋駅では無く京王線の代田橋駅ですよ?」と言ったら「馬鹿野郎!!違う駅に居るじゃないか!?」と自分で間違えて居て怒って居る。それで其れから40分位したらやって来てガットギターを取り出して、「まあ、いい、俺のギターを聴いてくれ」と言うので、暫く弾かせた後。「ちょっと貸してみて」と言って私がブルースを弾いたら。。。

 

「分かった。俺が間違って居た。あんたの方が上手い。」そして続けて言った。

 

「俺は法政大学出身だけどもよく学園祭やらライブハウスでベースを弾いて居たんだ。」と言う「ベースが弾けるなら一緒に出来るかも知れない」と言うと。「音合わせには何時来ればいい」と言うので、「また電話で連絡する」と言って一旦、その場は帰って貰った。ジャズも演奏するのでアルトサックスを探して居たが、此れは東大在学中のサックス奏者に決まった。東大には友人が居て、結構、親しくして居たから。ジャズ研で聴かせて貰うと、腕前はそんなに上手くは無かったが、人柄が気に入った。 残るはボーカリストだ。これは知り合いのミュージシャンから、もう、ブルースを10年間も唄って居ると言う30歳の男を紹介されて直ぐに決まった。音合わせはブルースを2曲演奏した。「All Your Love」と「Ain`t Nobody`s Business」だ。そしてそのメンバーでやる事になった。

 

 

 

Gary Moore - All Your Love

 

 

 

 ROBERT JR. LOCKWOOD 神LIVE②/「Ain`t Nobody`s Business」 

 

 

 

バンドを組んでから初めて演奏した曲は、Otis Rushの「 I`Cant Quit You Baby」だった。心配して居たベースからドラムに変わった同級生は、ベースと共にドラムも練習して居ただけあって、まあ、及第点だった。30歳のボーカルも中々の嗄れ声でいい味を出して居た。サックスはジャズの先生に付いて居た為か、要領が分からないと言った面持ちで居たので、私が「バックで吹いてくれれば良いよ。ホーンセクションは任せたから」と言うと要約落ち着いた様だった。あとはベースだ。しかしベースはイマイチだった。元の様に。今ドラムを叩いて居る彼に、ベースに戻って貰いたいぐらいだった。しかも、このベーシスト、確かに年は私より上だが、態度が横暴だ。私が或る日、ジャズ風にイントロから入ったら、なんか、様子がおかしい。それで一度中止したら。ベースが「リズム感が何にもなかった」と言うので、アフタービートの曲なのでギターもゆったりとしたフレーズで弾いて居るのにだ。明らかにリズムがおかしいのだ。「ギターを早く弾け」と言うので、まあ、テンポを上げて弾いて見ても、おかしい。要するに文句を言って居るベースのテンポが遅いのだ。サックスが「ベースのテンポが遅いんじゃないか?」と言ったら。「俺は完璧だ!」と怒る。他のメンバーもシラけてしまい。そしてある時に、慶應大学のリード・ギターと一緒にツイン・リードでギグをしたら、そのベースが私なんかより上手いとベタ誉めで、ベースから電話が掛かって来て「あいつをメンバーにしろ」と言う。しかしねぇ、そのギタリストは私に「あのベーシストは下手だし、性格が悪いから辞めさせた方が良いよ」と忠告をしてくれて居た。だからそのギタリストから知り合いのベーシストを紹介して貰う事になった。バンドのベーシストには「バンドは解散するから」と言った。すると「じゃあ、メンバーの連絡先とあのギタリストの電話番号を教えろ!!」と言う。私は一言「なめるな、バカ野郎!!。」と言って電話を叩き切った。風の噂ではその後、そのベーシストは行く先々のバンドでトラブルを起こして居たと言う。そして次に入って来たベーシストは気さくな良い奴で、腕も確かだった。このバンドは4年間活動を続けた。。。

 

 

Otis Rush: I`Cant Quit You Baby 

 

Jimmy Page & Robert Plant I Can't Quit You 

 

『I Can’t Guit You Babe』日本語訳。

 

君とは別れられない、ただ暫く離れて居たいだけだ

君とは別れられない、ただ暫く離れて居たいだけだ

君は俺の幸せな家庭を滅茶滅茶にした、俺にたった一人の子どもを虐待させた

俺が愛しているのは知って居るだろう

君への愛を俺は隠す事が出来ない

俺が愛しているのは知って居るだろう

君への愛を俺は隠す事が出来ない

君を身近に感じる時、君は俺の掛け外の無い希望なんだ

呻き声を上げる時俺は心の奥底に激しい痛みを感じて居る

呻き声を上げる時俺は心の奥底に激しい痛みを感じて居る

俺が君の名を叫ぶ時 君は俺の掛け外の無い希望なんだ

 

 

私はこのバンドを組む前に小学校から付き合って居た法政大学のドラマーと一緒にコテコテのシカゴ・ブルースのバンドを組んだ事があった。彼は凄いテクニシャンで、どのジャンルも難なく演奏出来た。ただ好きな音楽はキング・クリムゾンとビートルズ。そして10CCとクラシックだった。メロディーが綺麗なロックを好んで居たのだ。ある日「ブルース喫茶」にメンバー全員で行ったら。マスターが様子を察してアーバン・ブルースを掛けてくれた。

 

アーバン・ブルースの特徴はJAZZとの繋がりをより深めた処にある。同じ様にJAZZの影響を受けた「クラシック・ブルース」と違い、JAZZに飲み込まれること無く、また、「シティー・ブルース」ほど弾語りへの執着も無かった。1940年代に入ると、アーバン・ブルースは大きな展開をみせ、テキサスではTボーン・ウォーカーが初めてエレキ・ギター(電気ギターと言った方が適切)をブルースに取り入れた。Tボーン・ウォーカーはロニー・ジョンソンやチャーリー・クリスチャン(JAZZに初めてエレキギターを取り入れたギタリスト。ちなみにTボーンはチャーリー・クリスチャンよりも早くエレキを使い始めたと言われて居ます。)らとも親交があり、コンボ・スタイルのバンドをバックに、イントロや間奏でギターソロを弾くと言う現在のロックにも通じるスタイルを確立した。その後、ラジオの普及によりブルースの地域差はしだいに無くなり、これらのアーバン・ブルースはメンフィスのB.Bキングらの手により統合され「モダン・ブルース」と呼ばれる様になった。そしてマスターは客が来たのでホワイトブルースのスタン・ウエッブやらピーター・グリーン。ロリー・ギャラガーなども掛け出した。

 

「〇〇さぁ〜。こう言うブルース・ロックもあるじゃない。何でブルースを演奏するの?」

ロック好きの彼はウンザリして居たのでしょう。そして「キング・クリムゾン」の曲をやりたいと言い出した。


私の18歳の時のバンドでのエレキギター演奏(練習音源)。

 

「ストーミーマンディー」

 

 

 

「エヴリデイ・アイ・ハブ・ザ・ブルース」

 

 

「ジャズ・ブルース」

 

 

 

 

1940年代前半、多くの黒人たち同様デルタのブルースマンたちがシカゴへ移住して来た。 当時のマックスウエルズ・ストリートはストリート・ミュージシャンで溢れ返り、その中から後のシカゴ・ブルースの屋台骨を支える素晴らしいブルースマンが数多く発掘された。

シカゴ・ブルースの基礎を築き上げた「マディー・ウォーターズ」も1943年ミシシッピからシカゴへ移住した一人だ。彼は最初典型的なデルタの弾語りスタイルだったが、当時流行して居たシティー・ブルースのバンドスタイルとデルタ・スタイルを融合する事で、一種の泥臭さの有るシカゴ・ブルース・スタイルを確立して行った。マディーのバンドからは、オーティス・スパン、リトル・ウォルター、ジミー・ロジャース、ジェイムス・コットンなど多くの有名ブルースマンが巣立ち、彼は「シカゴ・ブルースの父」と呼ばれる様になった。

 

1940年代後半から一気に広がったシカゴ・スタイルは1956年B.Bキングの影響を受けたオーティス・ラッシュのデビューによりモダン・ブルースとの統合を果たし、ブルースの代名詞となって行った。

 私は「なら、俺はこのバンド辞めるから、最後にキング・クリムゾンの曲をやるよ」と言って、ライブでキング・クリムゾンの「21世紀の精神異常者」「エピタフ」と言う曲を演奏した。ドラムは吃驚しながらも喜んで私を見て居たが。私は辞めるつもりで居たので。ドラムが「やれば出来るんじゃないか!!何でブルースに拘るんだよ?」と言うので、私は「黒人の音楽がやりたいんだよ」と言った。他のメンバーも「ブルースなんか辞めてロックをやろう!!」「おまえさぁ、プログレや、ハードロックも弾けるじゃないか」と言うのだが、「まあ...でもね」と言って当時クリエイションの竹田和夫に心酔していたハードロックのギタリストを入れて、ウィッシュボン・アッシュの「剣を捨てろ」を演奏してから、私は後をそのギタリストに任せて脱退した。彼らはその後ハードロックのバンドに成って行った。

 

 

人間椅子 21世紀の精神異常者 

 

 

Wishbone Ash - Throw Down the Sword - 40th Anniversary 

 

 

 

高校から大学生の頃、私は毎日その日の授業が終わると、高円寺にある「ブルース喫茶」まで通って居た。宿題やレポートも店の中で済まして居た。高校生の頃、同じぐらいの高校生が隣に座って、「あのさぁ〜君、オーティス・ラッシュの事、どう思う?」と訊いて来た。「俺はコブラ盤が一番好きだよ・・・」と言ったら、「俺もそう思う」と言って、友人に成った。その男は漫画に詳しく当時ビックコミック・スピリッツ関連で単行本に成って居た....。いや、それは外伝の方だった。「ガロ」でだ!!。「カムイ伝」を貸してくれたので、私は講談社から単行本に成って居た「男おいどん」を貸した。そして大学時代に次第にレコードの貸し借りなどもするように成って行った。マスターは私には何時も出がらしのコーヒーを入れてくれて居た。何しろ、2時半ぐらいから6時まで居るのでコーヒー一杯では持たない。そうしたらマスターが「君さあ、たまには酒飲まない?」と訊いて来たのでウイスキーの水割りを水を多めにして貰い飲んだ。私はアルコールに弱い。と言うか殆ど下戸に近い。ビールなどは飲めないのだ。腹が空くと、焼きそばを注文して食べた、当時340円だった。常連の客は色々な人が居た。そして暗黙の了解があった。偶にその事を知らない客が来店して相手にされて居なかった。

 

「ねえ、マスター、ロバート・ジョンソンのスイート・シックスティーンを掛けてよ!」「???」要するに分かって居ないのだ。その曲は BBkingの曲だ、しかしそう言った変な客は居場所が無く成り帰って行く事になる。或る日店の常連から、当時、まだレコードには成って居なかった、マジック・サムの「アン・アーバー・ブルース・フェスティバル」での音源を録音した幻のテープを聴かされた。噂には訊いて居たがその演奏に驚き。テープをダビングして貰った。勿論店のマスターもだ。中にはアメリカのシカゴのクラブまで行ってオーティス・ラッシュの生演奏を録音してきた強者もいた。勿論ダビングさせて貰った。当時私はギターとブルースハープを演奏して居て。特にオーティスのギタープレイには心底影響を受けて居た。そうした時に年上のブルース・ハーピストに店で出会った。彼は上手かった。私は彼の元でギターを弾く事に成った。或る日、スタジオで音合わせをして居て、さて始めるかとばかりに、典型的なシカゴ・スタイルのイントロのリフから入ったのだが、その男は、アドリブを吹かないで、なんとリトル・ウォルターの曲のソロを吹き出したのだ。それで一緒には出来ないと成って仕舞ったのだが、当時知り合いの女性のブルースシンガーに一緒にやろうとしたハーピストの事を話したら「ああ、あいつは、駄目よ。何しろコピーしたまましか吹けないんだから、自分のフレーズ吹けないんだからね」と言って居て、成る程と思った。その後に、ウイーピング・ハープ・セノウさん率いるオフ・ザ・ウオールと言うバンドを妹尾さんが解散させて、新しいハーピストで再結成されたバンドを渋谷の道玄坂で演奏するのを観に行って。実は自分もブルースハープをやって居ると言うと。何とそのハーピストは私が持って居たウオークマンをアンプの上に置いて録音させてくれた。そのハーピストは今日は風邪を引いて居て、本調子では無いと言いながらも、演奏は素晴らしかった。

 

ブルース喫茶では他に服飾デザイナーを職業にして居る男とも友人に成って。彼のアパートに遊びに行った事がある。彼の部屋は上半身のマネキンが置いてあり、なぜかユーライア・ヒープのポスターが壁に貼ってあった。狭い部屋ながらもセパレートステレオを持って居て、しかし大きなスピーカーからは音が鳴らせないので、ラジカセにステレオのラインアウト端子から繋げて聴いて居た。彼はブルース以外のロックも好きで、パンク・ロックのバンドを作ろうと仕手居た。その人からも貴重なロックやらブルースの海賊音源をオーディオ・テープにダビングさせて貰った。「ブルース喫茶」の方は段々経営が苦しく成って行き、ある日、私がカウンターで水割りを飲んで居て、ふと、「マスター、店、辞めるつもりでしょう?」と言うと「そうなんだ、来週の土曜日にボトルを用意して待ってるから、閉店のお別れ会に来てくれよな!!」と言われたが。私は障害を持つ様に成り、行けなかったのが未だに悔やまれて居る。。。

 

或る日、見知らぬ相手から電話が掛かって来た。「俺はオニオン・スライスと言うロック・バンドのリードギターだけども」と言って話を続けた。「あんたポール・バターフィールド知ってるか?」「知って居ますよ。」と言ったら、「彼みたいに吹けるか」と聞く。彼は白人のハーピストの中でもずば抜けて高度なテクニックを持って居る。私も一応はコピーをしたが彼見たいには吹けない。断ろうとしたら続けて言う「処でデビット・カヴァーデイル知ってるか?」「ディープ・パープルの第3期のボーカリストでしょう。のちにホワイトス・ネイクを結成した人でしょう。」と言ったら「よく知ってるなぁ、、いやねぇ〜なかなかロックを知って居る人がいなくてさぁ〜〜」と言うのだ。こちらは曲がり成りにも小学生から高校までロックを聴いて来た。そのぐらいは解る。そしたら「ウチらはロックバンドだけども、ハーピストを探して居る」と言う。何だか嫌な気になって断ろうとしたら、「渋谷のスタジオに俺の名前を言ってあるから明日夕方の4時に来てくれ」と言って電話が切れた。

 

この私の話をずっと読んで来て解らないかも知れないが、1970年代から1980年代当時は、ブルースマンとロッカーは対立して居た、そう昔イギリスでモッズとビートニクが対立して居た様にだ。モッズ (ModMods、Modernism or sometimes Modism) は、イギリスの若い労働者の間で1950年代後半から1960年代中頃に掛けて流行した音楽やファッション、それらをベースとしたライフスタイル、およびその支持者を指す。ロンドン近辺で発祥した。モッズ・ファッションとしてよく連想されるものとして、髪を下ろしたMod Cut、細身の三つボタンのスーツ、ミリタリーパーカー、多数のミラーで装飾されたスクーターなどがある。1951年にアメリカ軍に採用されたミリタリーパーカー(M-51)は、モッズの人々に愛用され、「モッズ・コート」(「モッズ・パーカ」とも呼ぶ)として知られて居る。

 

モッズは衣服や音楽に興味を示し、彼らが好んで聴いた音楽はアメリカのレアな黒人音楽、R&Bやソウル・ミュージック、ジャマイカのスカ(多くのスカのレコードを出したレコードレーベル名により、ブルービートとも呼ばれる)などであった。またイギリスのグループとしてはザ・フー、スモール・フェイシス、キンクス(ただし、レイ・ディビィスはモッズを嫌って居たと言う説がある)、スペンサー・ディビィス・グループなどが好まれた。ビートルズは、デビュー前は正反対のロッカーズ・ファッションをして居たがマネージャーの指示によりモッズ・ファッションでデビューした。1955年から1964年頃にかけて、アメリカ合衆国の文学界で異彩を放ったグループ、あるいはその活動の総称を、ビートニク(Beatnik)と呼ぶ。生年で言うと、概ね1914年から1929年までの、第一次世界大戦からから狂騒の20年代までに生まれた世代に相当する。最盛期にはジャック・ケルアックやアレン・キングバーグそしてウイリアム・バロウズを初めとするビート・ジェネレーションの作家たちは多くの若者達、特にヒッピーから熱狂的な支持を受け、やがて世界中で広く知られる様になった。

 

そしてこの2つのジェネレーションは仲が悪かった。それと同じことが1970年代の後半から1980年代の日本で起きて居た。はっきり言って仕舞えば、ロックを聴いて居る連中ないし評論家はブルースを敵視して居たのだ。例を挙げれば1970年代当時、仕事中にラジオを付けたら、丁度、永井隆と上田正樹と柳ジョージと成毛滋の対談をやって居たのだが、司会者があからさまに永井と上田にキツく当たり、柳ジョージとかには優しく接して居るのだ。そして黒人のブルースとそれのカバーのロックで演奏して居る曲を交互に掛け、黒人のブルースは音楽的に成って居ない。ロックの方が上手いのだと言う。そう言う偏見があった時代でした、私に言わせれば、安易なロック・バンドしか知らないから、黒人のエネルギッシュに溢れたブルースやらR&B、ソウルはよく解らなかったのだと思う。処で、私が中野サンプラザにハーモニカ・フランクとフィリップ・ウオーカーのコンサートを見に行った時に、丁度隣の席に音楽評論家の「中村とうよう」が座って居て。ステージ上が暗くてブルース・ハープのキーが解らなくてハーモニカ・フランクが慌てて居たら。

 

「暗くて見えないじゃないか!!ステージの裏方、ちゃんとしろ!!」と怒って檄を飛ばして居た。中村とうよう氏は私が尊敬して居た音楽評論家で、ピアノも弾けた人だ。彼のラグ・タイム・ピアノはプロ級だった。当時彼は「ブルースの世界」と言う、ラジオ番組のパーソナリティーをして居て。日本にブルースを根づかせた張本人だった。私はこの時の模様を密かに録音したオーディオ・テープを未だに所有している居る。話が大分飛んだが、そう言う訳で渋谷の道玄坂にあったヤマハのスタジオに行って見て受付に名前を聞いて見ると名前は聞いて居ないと言う。丁度、喉が渇いたので、缶コーヒを買って飲んで居たら。派手なミニスカートにブレスレットを付けた女の子が男とやって来た。私の前に座るとその女の子が「あんた、タバコ持ってんだろ!頂戴よ!」と威嚇して言う。すると男の方が「俺がギターでこいつがボーカル」。「あんたの名前を聞いても知らないと言われたよ」と言うとにやりと笑って、「そう。」と言う。そうしたらドラムとベースがやって来て。「さて、メンバー来たからおっぱじめるぞ」と言う。私は「なんだかなぁ〜」と嫌な気分で居たが。リードギターが「 Need Your Love So Bad 」をやるからハーモニカ吹いてくれと言う。この連中はブルースの事は何も知らない様だった。

 

 

Gary Moore - Need Your Love So Bad (HD) traducida español - Live Montreux 1999

 

 

 

 

それで演奏が始まるとヘビメタの曲ばっかりで、黙って聴いて居ると、「何してるんだブルースハープを吹け」と言う。セカンド奏法で吹こうにも唯でさえ曲のキーも教えられず、まるでギターを弾く如く、一本のブルースハープで全ての曲が吹けると思って居る。何も解って居ないのだ。それでやりようが無いのでめちゃくちゃ吹いて見た。そうしたら、ボーカルの子が「結構やるじゃん」と言う・・・。そして「Need Your Love So Bad」に成ってこの曲はキーを知って居るので順調に吹けた。すると、「ポール・バターフィールドとは行かないけどいい感じじゃん」と言う。その後はブルースを3曲ほど演奏した。(と言ってもロックのブルースだが)もうそろそろ時間だとスタジオの従業員が知らせに来たので。そこまでにして終わりにして防音室を出ると、ギターが「又連絡をするからな、」と言う。嫌なセッションだったが一つ言える事は、これまでの黒人のタイプのブルースでは無くロックに成って居たと言う事だ。ウオークマンを持って行ったので録音して来たが、そのテープは弟が聴かせてくれと行って持って行ったきり、ついに返して貰えなかった。まあ、あれはブルースではない、ロックだった。。。その後。そのギタリストから電話は掛かっては来たが、私は居留守をして断って貰った。どうも、相性が悪すぎたし、あくまで私はブルースに拘って居るのだから。。。

 

 

The Ali Maas Band - Need Your Love So Bad 

 

 

 

或る日、東大在学中のサックス奏者にナット・キング・コールのバンドのテナーサックスをフィチャーした曲を演奏させた。ギターのアレンジは自分でやった。まあ、モダン・ブルースと言うか、ジャズなのだけども、あのサックス奏者は何もレコードを知らなかった。私はナット・キング・コールのバンドのギタリストのオスカー・ムーアが好きだった。ムードのあるギターを弾いて居たからだ。前にも書いたが、「エブリディ・アイ・ハブ・ザ・ブルース」をスイング調にアレンジしてから、どうしてもナット・キング・コールの曲は演奏したかった。ナット・キング・コールは1930年代からピアニストとして活動して居て。スイング・ジャズ時代末期の傑出したピアニストとしての業績を残した。1939年にピアノ、ギター、ベースのシンプルな編成からなる「ナット・キング・コール・トリオ」を結成。 ビックバンドの時代におけるコールの編成は革新的と見られ、トリオバンド流行の火付け役となった。ピアニストとしての活動の間、艶のある声を買われて、歌手としても活動するに至った。1944年、歌手として「ストレイトン・アップ・アンド・フライ・ライト(Straighten Up and Fly Right)」を大ヒットさせた。           

私は、サックス中心の曲で行くぞと言い、サックス奏者にレコードを貸してコピーをさせた。しかし,ベースはブルースでは無いと嫌がった、最も、ジャズのベースなので特に嫌だったのだろう。この曲はボーカリストも気に入ってくれて、ほとんど練習もせずに一発で演奏出来た。我乍らよく出来たと思い録音したテープは大切に持って居ようとしたが、サックスがテープを聞きたいので貸してくれと言う。私は絶対に返せよと念を押して貸したのだがテープは戻っては来なかった。ボーカルも聴きたくて私の処まで来のだが、、、そのくせ次の練習は何時なんだとサックスから電話が掛かって来た。私は「お前には、あれほど念を押してテープを貸したよな、返さないのか」と言っても「返さない」と言う。だから私は「お前は今日限りで首だ!!」と言った。そうしたら黙って居る。「バンドのメンバー間の決まりを守れない者とは一緒に出来ないね!!」そう言って電話を切った。それまでもサックスの面倒は見てやって居た。ジャズが好きなくせに「ソニー・ステット」のレコードも聴いて無かったぐらいで、レコードを貸してコピーをさせて居た程だ。恩を仇で返すと言うのは正に此れの事だ。それにほぼ5年間に渡るバンド活動で心底疲れても居た。                                                              

サックスはまた一緒にやりたいと何遍も電話を掛けて来たが無視をした。そんな時にあるギタリストから電話が掛かって来た。ブルースハープ奏者を探して居ると言う。会って話がしたいと言われた。そして会う場所はその男のアパート、いや下宿だった。行って見ると3畳半の部屋にギブソンのギター335が置いてあって何時も磨いて居ると言って居た。少し興ざめした。仕事は長距離トラックの運転手だった。部屋の鴨居には、高価な毛皮のコートが数着掛けてあったが、それとギターとラジカセだけが置いてあった。他は何も無かった。缶ビールを飲めとくれたが、私はビールはダメな方なのであまり飲まなかった。バンド編成を聞いて見ると、女の子のボーカルに、ベース、ドラム、ギターの編成だった。聞くと女の子のボーカルもブルースハープを吹くと言う。私は、「ならば自分は必要ないだろう」と言ったが、矢張りブルースハープは男がいいと言う。                                                                               

やる曲はと言うとマジック・サムの「I need you so bad」「I Feel So Good」それとアルバートキングの「Bom Under a Bad  Sign」リトルウォルターの「juke」 だった。

 

 

Magic Sam LIVE I need you so bad 

 

 

Magic Sam-I Feel So Good (I Wanna Boogie)

 

 

 

Born Under a Bad Sign Albert King Ohne Filter 

 

 

Little Walter - Juke

 

 

 

 

秋口だったので冷えて来て、トイレはどこだと聞いたら、3畳半の部屋の前に出たところの外にあると言う。いったい、この男はどうしてこんなに貧乏暮らしを、仕手居るのだろうかと思ったが、訳は聞かなかった。人には色々と人には言えない事情があるものだ....>

 

まあ、その頃はハープもロクに吹いては居なかったから、承諾した。。。

 

1ヶ月後、渋谷のスタジオでの演奏と成った。ボーカルの女の子は、男勝りで、「あんた、なんかより、私のハープの方が上手いわよ、きっと!!」と言って威嚇して来た。その子はボニー・レイットとココ・テイラーが好きだそうで、見た処ハープに付いてはダメだと思った。持ち方がちゃんとして居なかったからだ。演奏が始まると、多少ボーカルがヒステリー気味になるが、全体としては纏まっては居た。処でブルースハープは、なんと言うかダブルハープの2重奏に成って仕舞った。予想した通りだった。一歩も引かないのだ。リードギターが痺れを切らせて、その子にハープを吹くのを辞めさせた。そしてリトル・ウォルターの「Juke」は私が演奏した。その子は不貞腐れて聴いて居たけど。。。私は此の頃に成ると持病が悪化して来て居て、とてもバンドを続ける気には慣れなかった。それでバンドの方は休止する事と成った。

 
 
Robert Johnson- Crossroad 
 

 

CREAM Crossroads 1968 

 

 

CROSSROAD 

 

十字路へ行ってひざまずいた
十字路へ行ってひざまずいた
天の神様、どうかこの可哀想なボブをお助けください
ああ、十字路に立って車を止めようと手を振った
十字路に立って車を止めようと手を振った
誰も俺に気がつかず、みな通り過ぎてゆく
ああ、日が沈み、闇が俺を取り囲む
ああ、闇が俺を取り囲む
俺を愛してなぐさめてくれる女は、ここじゃ一人も見つからなかった
走れ、走れ、それで友達のウィリー・ブラウンに言ってやるんだ
走れ、走れ、それで友達のウィリー・ブラウンに言ってやるんだ
神様、十字路に立ち尽くす俺は此の儘、沈んで行って仕舞います

 
 
 
 
親父の会社で働いて居た頃。前のblog記事でも書いたが、バンドをやって居る、 女の子がパートのアルバイトとして会社に来て居た。その子は変わった子で、「プエルトルコの子とヴェトナムの子とシンガポールの子とで昨日、働いたのよ。」とか、「昨日さあ、ライヴの打ち上げでライブハウスの楽屋の通路に居たら、『レイジー・キル』のベーシストがさあ、私のベースを蹴って行ったんだ。考えられる?頭来ちゃうわよ。」「アパートの隣の部屋の白人がさあ〜〜ジャズだと言ってピアノ弾くんだけどさあ、無茶苦茶なのよ。」働きに来て居るのか、音楽の話をしに来て居るのか解らない。

終いには、「〇〇君は私のバンド聴きに来てくれたけど、〇〇さんは来てくれないじゃない!!」と私に言う。段々と図に乗って来る。私もバンドでブルースとかジャズを演奏して居たが、私のブルースハープのバンドのメンバーは、ボーカルの〇〇が、仕事場に来たと言って、怒って居たぐらいだ。もっとも、私がブルースハープで、本来は歌も歌うのがいいのだけど、当時は自信がなくて、中央大学出身の21歳の男をボーカルとして居た。芸大を出たベースとドラムは可成り上手くて、まさにプロだった。私が19歳の時に2人共30歳だった。丁度ベーシストの奥さんが、私と同じ拓殖大学出身で、話が盛り上がった。何時もスタジオでの練習の帰りに居酒屋の「村さ来」でビールとツマミのおかずを注文して、皆んなで音楽談議に花を咲かせていた。
 
そのベーシストの奥さんはライブハウスで演奏するときにも、何時も見に来て居て、私は「自分もこんな奥さんを持ちたいなぁ」と思って居たぐらいだ。そのせいで当時付き合って居た彼女が怒って居たが。中央大学出身の男は、「自分は大学に入ってから音楽を聴いたんだ。皆んな見たいに、勉強をしなくて音楽を聴いて居たのとは訳が違う」と言って居て、ベースとドラムは鼻で笑って居た、「あいつ、あんな事言って居るけど、英語の歌詞分かって歌って居るのかねぇ...」練習中にボーカルが歌って居ると。「おい、お前さあ、チャパティーって言ってるけど、なんだそれ〜〜」「そう聞こえるよ」「へ〜〜、そう」「一度レコードの、歌詞良く読んでみな!!」

 

しかし不思議と私には皆んな何も言わなかった。多分、歳が若い事で多目に見られて居たのだろう。ハープの腕前もまだまだだったのにだ。此の間、探したらその当時の練習中のオーディオ・テープが出て来た。今、改めて聴いてみるとボーカルの歌と私のブルースハープが下手だ。。。ギタリストは同志社出身だった。暫くは京都と大阪で活動して居たと言って居た。ブルースとジャズに精通して居て、テクニックは可成りあった。歳は矢張り私より上の27歳だった。ベースとドラムはプロとして活動もして居て、楽器屋でも働いて居た。ギターは小さな喫茶店の経営者だった。漫画喫茶で中古レコードなども売って居た。夏になると良くアメリカにレコードを買いに行って居たので、私はアメリカ盤のブルースのレコードをよく彼を通じて買って居たものだ。ロッド・ピアッツアとかウイリアム・クラークなどアメリカ西海岸のブルース・ハーピストをそれで知った。このバンドはライブハウスで8回目の演奏をした後に、私は病気になり脱退した。その後はロックバンドに成って行ったらしい。

 

私は敢えてメンバーと連絡は取って居ない。皆んなは私が辞めると知ったら、慌てて何回も電話をくれたが、皆んな母が断って仕舞った。当初私は、何で自分に電話を渡さなかったのかと怒って母に文句を言ったが。。。。今は、それで良かったと思って居る。これが1970年代後半から1980年代の半ばに掛けてです。丁度この当時、ヘビメタのバンドでリードギターを弾いて居た高校時代の友人が行方不明になったと電話が掛かって来たが....その後彼がどうなったかは知らない。処でメンバーを集めるには、音楽雑誌や、ライブハウス、果ては電柱にまでメンバー募集のチラシを張った。

 

当時、アンダー・グラウンドで、今で言う、インディーズ・シーンだけども、よくバンドのメンバー同士を引き合わせる人間が居た。電話で問い合わせると、すぐに各楽器をやって居る人たちを紹介してくれたが、電話で話して見ると、みんなロック・バンドを組みたくて、ブルースは一緒にはやれないと言った話だった。1980年代になるとパンク・ロックやらテクノ・ロックが出て来て、日本でもブルースは余り良く聴かれて居なかった。まあ、私は、丁度、親父が「自分の会社なら、お前も余り身体の事は心配せずに働けるだろう」と私を会社に入れた。処が此れが裏目に出た。先に会社に入って居た。親父の兄貴の従兄弟2人が、よく思わなかった。特に従兄弟は私に「会社は俺が次期社長になるんだ!お前は何故入って来た!!」と言う。私が黙って居たら。「お前は俺の座を狙って入るのだろう!!」と言うのだ。「そんな事はないよ。」と言っても、「嘘だ!これからお前をいびり切ってやるからな!!」と言う。そしてそれを実行した。初めの内は忘年会やら出て居たが、私はそのうち出なく成って行った。

 

ある忘年会の座敷で、カラオケが置いてあり、皆んなは歌を歌って喜んで居たが、私は何時もカラオケでは「横浜ホンキートンク・ブルース」を持ち歌としては居たが、何だかその場がバカくさくて、歌わなかった。だから何時もベルトにフォルスターを付けてオールド・スタンバイを持歩いて居るので、まあ、仕方が無いので、アドリブで即興演奏をしてみた、カラオケのマイクを使ってカラオケに繋げて吹いたのだけども、そうしたら皆んな、呆気に取られて、「今の何だ、バッハか?」「いやぁ、ジャズだろ?」親父が「こいつが、今吹いたのはブルースですよ。」と言ったら丁度、食料品メーカーの人も来て居て、驚かれた事があった。従兄弟のゆきかずは、ハーモニカを見せろと言い、「穴が10個しか無いのに、よくあんな音が・・・」と、皆んな当時はブルースハープなんて聴いた事が無かったらしい。私ぐらい吹ける人は山程居る。当時は知って居る人でも、単に小さなハーモニカで、良くフォーク・ミュージシャンがピーピー吹いて居るのを知って居るぐらいだったらしい。従兄弟が「なんて曲だ」と聞くので「アドリブだよ」と言ったら「アドリブってなんだ?」と言うので「即興演奏」と言ったら「けっ!!」と言って居た。

 

私はある時期。仕切りにバンドのメンバー募集の記事を音楽誌に載せた事がある。そのお陰で色んな人と出会った。ある時、ある小柄な男がやって来た。その男は葛餅をお土産に持って来たが、母は「自分が食べたいのだろう」と言うと素っ気なく皿に載せて「相手に出してあげなさい」と私に渡した。その男は葛餅を出されると、「俺の好物なんだ」と言いながら美味しそうに口に運んだ。食べ終わると、何故か乗って来た車に乗れと言い。新宿に向かった。新宿に行くともう一人の背の高い男が待って居て。車に乗り込んだ。そして新宿で降りるのかと思ったが、何故か三軒茶屋まで行き、ある喫茶店に私を連れ出した。そこでそのもう1人の男が言った。「ブルースが弾けるギタリストを探して居る」と言う。私は「ギターなら、お門違いだ」と言った。私が探して居るメンバーはギタリストとベースなのだ。私はブルースハープのバンドを作りたかった。だからそう言ったが、その2人ずれはしつこくブルースギターを弾いてくれと言う。私は何か、嫌な奴らだなと思って聞いて居た。そうしたら、その背が低い男が「これから、自分のアパートに連れて行く」と言う。

 

私は「時間が無いから帰る」と言うと、アパートはすぐ側だと言う。私は強引だなと思ったが、この2人は私を帰しそうもない。だからアパートまで行く事になった。アパートに行って見ると8畳程の部屋に3畳のお勝手、そしてその8畳間にはセパレーツ・ステレオが置いてあった。そしてレコードが入って居るラックがあった。だけどもテレビは無かった。その男は私にギターを遣すと、何でもいいから弾いて見てくれと言う。私は仕方が無く。「ジョージア・オン・マイ・マインド」を弾いた。すると喜んで居る。そうこうして居るとドアが開いて、スカーフを被った女の人が入って来た。スカーフ?と少し驚いて居ると、彼女は、スカーフを外した、するとその背の低い男が側に寄って行ってキスをした。私は驚いた、彼女は白人の可成りな美人だったのだ。背の低い男が紹介した。「俺の奥さん、名前はアリーダ」私はびっくりして仕舞い、声が咄嗟には出なかった。すると彼女は「よろしくね」と言って、男に「もうそろそろ、社長が来るわよ」と言うと冷蔵庫からポテトなどを出して料理を作り始めた。私はそう言えばもう夕飯時かと思い、家に帰りたいのだけどなと思って居た。

 

それから暫くするとエルテンスープ(青豆が主な原料で、飲むと言うより食べるという方が正しいドロっとしたシチューっぽいもの)マスタードスープ(エルテンスープよりスープらしい。粒マスタードが原料でピリッと辛くて酸味がある)ハーリング(日本で言うニシンで味は鰯に近いかな。生の塩漬けしたものを、みじん切りした玉ねぎと食べます。時にはパンに挟んで食べる事も)タルタル(生の牛肉のペースト。パンに挟んで生肉のまま食べます。)クロケット(味がしっかりついたコロッケ。衣は日本のとは違い、かなりカリカリしている。パンに挟んで食べます)が食卓に並んだ。私はこれが家庭料理かと驚いて、男の顔を見た。男が「カミさんはオランダ人なんだよ」と言う。そして奥さんが「食べてね」と言うと食べながら話し始めた。

 

何でも彼女は今日が仕事始めで、仕事はデパートの食料品売り場の裏方だそうだ。そして背の高い方の男が言う。「1週間後にコンサートがあって、急遽出る事になった。こいつもギターだが、あんたにはブルースを演奏して貰いたい」だから言った。「ギターなら、俺は要らないじゃないですか」そしたらこう言うのだ。「こいつはロックなら弾けるがブルースはてんで駄目だ」演奏する曲もグランド・ファンク・レイルロードの「ハートブレイカー」だとかイーグルスの「ホテル・カルフォルニア」だと言う。そしてこう言う。「あんたにはフレディ・キングのインスト・ナンバー3曲を弾いて貰いたい」と言う。それもフレディーのソロでは無くそれを3大ロックギタリストのカバーのアドリブでと言う。私は何だか周りくどい選曲だなと思って聞いて居たら。金を払うと言うのだ。「いいアルバイトになるよ」と言う。私は考えて居たが、金になるのならやって見るかと思った。

 

そんな事を話しながら食事をして居たら、ドアが開き。一人の初老の男が入って来た。そして言った。「いや〜奥さん。今回旦那さんの仕事が決まりましたよ。今度は中央線沿線の自販機廻りだから、金になりますよ」そう言って微笑んで居る。すると背の高い男が側に寄って行って「社長よろしくお願いします」と言って居る。私は背の高い男に言った。「この人は何の仕事をして居るのですか」そう聞くと少し言葉を濁して言った、「いや、何と言うか、元々は彼は漫画家なんだよ」と言う。そして言う。「今は自販機の雑誌の入れ替えを職業として居る」私は「自販機の雑誌の入れ替え?」とピンと来なかった。するとその初老の男が言う「最近では自販機を壊して雑誌を盗む輩がいるからな、ガキだとは思うが・・・。」そして続けて言う。「中野の自販機には3日程張り付いて監視をして貰いたい」と言う。私は盗まれる?自販機が壊されて・・・と訳が分からない。そしてそう言うと前金だとお金が入った封筒を置いて居なくなった。するとその背の低い男は奥さんに「今回は金になるぞ、前金で15万入って居る」そう言って喜んだ。私は思い当たる事があった。

 

自分の住んで居るところにエロ本とエロ漫画の雑誌が入った自動販売機が置かれて、近所の主婦たちが怒って居たのだ。「それか・・・」と思い当たった。そしたら背の低い男が私に言って来た。「さっきこいつが言ったけど、俺はエロ雑誌に漫画を描いて暮らして居るんだよ」そしておもむろに机の上から雑誌を掴んで私に渡した「エロトピア」そう描いてあった。エロ漫画の週刊誌だ。自分の書いた漫画はこれだと私にぺージを開いて見せた、確かにエロ漫画だった、そして言った。「生活の為だよ。最近ではもっと猥褻に描けとか言われて嫌になって居るんだ。」私は奥さんの方を見た。奥さんは食事の後片付けをして居る。そしてその男は続けて言った。「女房はもう慣れてしまってさ、これでも昔はスポコン漫画を少年誌に書いて居たんだけどな、石ノ森章大郎とか、松本零士とかは知って居るぞ。」と言うのだ。私はまたもやこんがらがった。その男がギタリスト?そして俺にブルースを弾いてくれと言う。何だろうか....。背の高い方の男は、「俺がベースなんだ。ドラマーは不在なんで、キーボードと一緒にコンサートの時は人を頼む」と言う。「歌は誰が歌うんですか?」と聞いたら、奥さんが「私よ」と言う。私は、まあいいかと思いその話を引き受けた。

 

 

 

Focus - Hocus Pocus 

 

 

 

コンサート当日になった。キーボードとドラマーは20代の若者たちに決まって居た。控室でその若者たちから声を掛けられた。ドラマーが「あんたギター?今回は金払いがいいだろ」と言う。私は「何時も雇われるのか」と聞いたら、「あいつの奥さん、何やって居るか知ってる?」と言う。私は「何かデパートの食料品売り場で働いて居るとか聞いたけど?」と言ったら。「いや、売れない歌手なんだぜ」と言う。私はだからボーカルなのかと合点が行った。そして言うのだ「あいつが描くエロ漫画はシコれるぜ」と言うのだ。私はキーボードが持って居るフルートのケースを見て言った。「君、フルート吹くのか。」すると言った。「オレは音大生なんです」私は何か事情があるのだろうとその話はそれ以上聞かなかった。そしてコンサートの幕が上がった、まず、背の低い男が「ハートブレイカー」を弾いた。歌は奥さんだ上手いのだ、流石だ、

 

続いて、「ホテル・カルフォルニア」自分も一緒に弾いた。そして「フレディ・キング・メドレー」しかし私は最後に、それだけでは終らせずに、フォーカスの「フォーカス・ポーカス」を弾いた。すると奥さんの顔色が変わった。そして私の方を見てあのヨーデルを歌い始めた。上手かった。私はそのまま弾いた、バックも即興で合わせた。キーボードは慌てて、ケースからフルートを引っ張り出して吹いた。コンサートが終わって。皆んな、喜んで居た。奥さんが言った。「ヤン・アッカーマンはオランダの誇りなのよ!!」私は良かったと思った。すると、背の低い男は私にギャラだと言って1万円を渡した。私は「良いのですか」と言って喜んで貰った。その後、暫くその人とは付き合いがあった。その人は相変わらずエロ漫画を描いて居たが、その後、青年誌に刑事物の連載を始めた。私はファンになり読んで居た。しかし生活の為にエロ漫画も続けて書いて居た。こう書くと私がスケベに見えるかも知れないが、そのエロ漫画も読んだのです。刺激的すぎて堪らなくなった。それからその人は65歳になって病気で亡くなって仕舞った。その後奥さんは母国のオランダに帰ったそうだ。若い頃の思い出です...。

 

 

また、バンドの話です。1980年代に三軒茶屋の「ガソリン・アレイ」というライブハウスに急遽出る事に成った事があった。その一週間前に電話が掛かって来て「どうしてもブルースハープを吹いてくれ」と言うのだ。私はバンドを辞めた直後だったし、体調も悪くとてもブルースハープを吹ける状態では無かったが、一度会いたいと言う。仕方が無いので新宿で待ち合わせをして居ると、やって来て。ドーランやらを扱って居る店に入って行って、顔を黒く塗るのは無いか?と聞いて居る。歳は28歳ぐらいと言う処か、無いと分かると私を連れてキング・ビスケット(ブルース・バー)に連れて行き、水割りを注文するとウオークマンで自分たちの演奏を聴かせた。なんだか、ボーカルが入ってなくてロックン・ロール・バンドのカラオケみたいな感じがした。すると「これは練習のテープだ」「あんたにはスイート・ホーム・シカゴを演奏して貰う」「歌は俺がギター弾きながら歌う」と言う。「なんで俺なんだと聞いたら」「前にライブで見た事があったから」と言う。「ライブ聴いたなら分かると思うけど、下手だぜ?」と言ったらポンと肩を叩いて、「それじゃあ、当日夕方の5時開演だから」と言って居なくなった。

 

随分と慌ただしい男だなと思って居たが、何か上手く話に乗せられてやる羽目に成ってしまった。当日三軒茶屋まで電車とバスで行くと。楽屋では既に3組のバンドが控えて居て、この間の男が顔を真っ黒に塗って、ウッドベースとドラマーを紹介した。みんな顔は黒塗りだ、私は「ちょっと、待ってくれ、俺も黒塗りにするのか」と恐る恐る聞いて見たら、「あんたはゲストだからいい」との事でホッとした。今まで私は大学関係のミュージシャン達と一緒にやって来たが。彼らは長距離トラックの運ちゃん達だと言う。みんな30歳位だ。気はいい連中だった。バンド名は「ロッキン・キッド」と言った。私は「スイート・ホーム・シカゴ」一曲だけなので演奏中はステージの端で聴いて居たが、名前通りロカビリーのバンドだった。エルビスの曲やらを演奏して居た。そして出番が来て、「スイート・ホーム・シカゴ」を演奏し始めた。だが何かおかしい。8ビートでどんどん進めて行くのだ。シャッフルの伴奏では無いので勝手が違う、こうなったら、ブルースというかロックハープで行こうと決め、早吹きの連譜をかました。10分位演奏したか・・・エンディングを決めて、終わったら。ベーシストがウッドベースをクルクル廻し、ドラマーはステックを手で回して、そして最後にギターが「俺たちゃ、ロカビリーのバンドだぜ!!』と叫んだ。私は暫く呆然として居た。ライブが終わると、「連絡を必ず、するからな」と言われて私は別れた。ライブハウスの外では、出番が終わったロックバンドの連中が塒を巻いて話して居たっけ...。

 

 

 

Blues Harp NATSUKO - Sweet Home Chicago 2017.01.01 shinjuku jam 

 

 

 

其れから10日程経ったある日。その男から電話が掛かって来て「今度、千葉でメンバー皆んなで合宿をやる事になったのだけど来ないか、交通費は掛からない車で行くからな」と言うのだが、私は「あの一曲でもういいよ。大体が俺はブルースがやりたいんだから、、」と言ったら「そうか、じゃあ、また機会があったらな!」と電話は切れた。結構さっぱりした連中だった。しかし今、私は思って居る。ミッキー・カーティスみたいな老人になりたいと。無理ですか。お粗末。。。。

 

 

 

最近若い頃のバンド活動で思う事がある。それは私が20歳の時に音楽喫茶で共演した2人組のディオの事だ。当時私は、バンド活動は小休止して居たのだったが、そこにこの2人連れから声を掛けられた。私の事は知って居ると言う。それで1時間半程のライブに参加した。二人はガットギターを持って椅子に腰掛けて、その前にシュアのマイクがマイクスタンドにセッテングされてあり。私はセッティングのミキサーからダイナミック・マイクを渡されて、それをボーカルアンプに繋いでブルースハープを吹いた。マイクのインピーダンス・マッチングはちゃんとされて居た。インピーダンス・マッチングとはマイクロホンに大きな音を加えた場合には、出力に波形歪を生じる。この歪みが限度を超えないまでの、簡単に言えばマイクロホンが歪まずに使える入力音圧の限度。数値が高い方が大きな音に耐えられる。コンデンサー型はインピーダンス変換を行なうための電気回路を積んで居るので、1KHzの出力に一般的には1%歪みが出る時の入力音圧(限界を超えた過大な入力)を電気的に測定してデシベル(dB SPL)で表示して居る。ダイナミック型は、可成り高い入力レベルに耐えられる構造をもって居る上、過大入力による歪み方も聴感上は穏やかで、電気的測定が難しいので一般的には表示して居ない。

 

電子楽器、マイク、エフェクター、アンプ、ミキサー同士をケーブルで接続して演奏や録音をする際、この「インピーダンス」を知って居るかそうで無いかによって、実は出音に大きな違いが生じて仕舞う事もあるのです。確かにダイナミック・マイクを繋いでボーカルアンプから出る音はアコースティックな音だったが、私は単なるフォーク・ミュージシャンが吹く様なソロは吹かなかった。ジャズのソニーステットとチャーリーパーカーのフレーズを混ぜてリトル・ウォルターのスタイルで吐き出したフレーズを吹いたのです。だから持って行った。「グリーン・バネット」でアンプに繋げて音を歪ませて吹きたいと言ったのだが・・・。セッティング・ミキサーは露骨に嫌な顔をして、、それはそうだろう、フォーク・ミュージシャンが吹く様な軽いタッチのフレーズだろうと思って居たのだから。案の定。演奏が終わると、すぐにやって来て「マイクを寄越しな!!」と言って奪い取る様に取って行った。そして、2人は何故か黙って居たのだった。客もシーンと成って仕舞った。私は少し気まずく成って来て居た。やる前には片方のギタリストと音楽論議をして居たが、2人とも黙って居るのだ、だから約束通りボーカルの方から先に言われて頼まれて居た”ボーヤ”を連れてその場を後にしたのだった。


 

George Harmonica Smith 

 

 
悲しい色やね (Harmonica )ブルースハープ・ハーモニカ/"Osaka Bay Blues"  Kinta2012 
 

 

my one and only love ブルースハープでジャズ

 

 

 

 

”ボーヤ”とはロックバンドのアシスタント・スタッフの事です。ミュージシャン志望の若者が多いため、“ボーヤ”と呼ばれて居るが、男性ばかりでなく女性も居る。マネージャーと同じように、ミュージシャンの身の周りの世話をするが、仕事は、楽器の管理、修理、セット、片付けだ。楽器車の運転を任される事もある。私は17歳のその"ボーヤ"を連れて自宅に帰り、その子と話をして見た。その子は「ねえ、ハーモニカ教えてね!」と言う。私は何時からあの連中の”ボーヤ”をやって居るのだと聞くと半年前からだと言う。出身はと聞くと「秋田です」と言う。聞いて見るとその子は楽器は何も出来なくて、ただその2人組と一緒に居れば、自分もミュージシャンになれると思って居る。私は「なんだかねぇ...」と思い。その子を2晩泊めた。そして鰻の寝床の様な自分の部屋で過ごさした。食事はスーパーで適当に弁当などを買って来て食べさした。そしてその子は3日目の朝に成るとあの2人連れのディオ・グループの元へと帰って行った。

 

その日の夜、9時頃に、電話が掛かって来た。なんとあの2人連れのマネージャーからだった。「近いうちにあの二人があんたに、また会って話がしたいそうだ」と言って来た。そして「実はあの2人はレコーディングを控えて居て、あんたの事が気に入った見たいだ。レコーディングには参加してくれ」と言う。私は少し慎重に成って居た。彼らと組めば文字通りのプロ・デビューが出来る。しかし考えた末にその誘いを断って居た。私は当時まだ若干20歳だ。自分のブルースハープの腕前は自分が一番良く解って居た。とてもではないが、商業ペースの音楽業界で果たして、此れから先に通用して行けるとは思えない。それに障害の事もあった。あの2人組が私を気に入ってくれて。メンバーとして本格的にレコーディングに参加させようと思ってくれたのはとても嬉しかったが、私はその申し入れを断った。

 

 

 

kiyasumeのハードバップ風ブルースソロ。

 

 

 

しかし、今の身の上に成って締まって、私も考える。あの時に、あの連中と一緒にやって居れば。少なくとも今の様に暮らし向きに困ると言う事は無かったろう。まあ、しかし、障害者になればお仕舞いか。当時はブルースハープで本格的にブルースを吹く人は少なかった。皆んな、フォーク・ミュージシャンの様にファースト・ポジションで単なるハーモニカの流れとしてプカプカ、またはピーと吹くだけだった。何も私はフォーク・ミュージシャンを馬鹿にするつもりは無いし、そう言った吹き方もありだ。あれはあれでテクニックが居る。ただ私はクロス操法で、本格的なブルースやらジャズを吹きたかったのです。私はその後、最後のバンドを組んだ。そしてそのバンドで、自主レコードをメンバー全員で60万ほど都合を付けて作った。30枚プレスだ。そのレコードは手元にはもう残って居ない。スタジオで演奏した音源をレコード化した物だ。

 

なんか聞く処によると、このblogでコメントを偶にくれる。若い女の子が年上の友達から譲り受けて持って居ると言うのだが...。よく1970年代、80年代のミュージシャン崩れは自分の音源を自主レコードにして居た。今は、なんか最近トレンドのカセットテープに録音して、インディーズ・シーンで売るのが流行って居るそうだ。今は 自主CDを作るよりも自主カセット・テープを作るインディーズ・バンドが多いらしい。昔も今もミュージシャンは変わらないんだなぁと思います。此処までバンド活動について書いて来たが。私はその後エレキ・ギターとベース・ギターなどは処分をした。今はブルースハープだけを吹いて居る。しかし私より上手いギタリストやら、ブルースハーピストは星の数ほど居る。私は音楽活動はいい思い出として心に留めて於たい。そしてまた此処に書けなかった話などもいずれ、、まあ、機会があったら、また書くかも知れません。此処まで読んでくれて有難う。

 

 

Jason Ricci, Spring Harp Fest 

 

 

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『続・荒野の用心棒』リメイク版ドラマが本格始動 ─ ジャンゴ役は『オールド・ガード』マティアス・スーナールツ

続・荒野の用心棒
© 1966 – B.R.C. Produzione Film (Roma-Italia) Surf Film All Rights Reserved.

 

マカロニ・ウェスタン映画の傑作、セルジオ・コルブッチ監督『続・荒野の用心棒』(1966)がテレビドラマでリメイクされることがわかった。

The Hollywood Reporterなどによると、タイトルは映画の原題そのままに「ジャンゴ(原題:Django)」。シリーズは全10話構成で、主人公のジャンゴ役は『オールド・ガード』(2020)や『名もなき生涯』(2019)などのマティアス・スーナールツが演じる。

 

 

マティアス・スーナールツ

 

1860~70年代、アメリカ西部。恋人同士のサラとジョンは、流れ者が集まる町・ニューバビロンにたどり着いた。そこはあらゆる人種の人々、あらゆる信条や過去を持つ男女が、お互いを温かく迎え入れる土地。そんな中、8年前に家族を殺されたのち、娘の生存を信じて消息を追う男・ジャンゴがニューバビロンを訪れる。そこでジャンゴは発見した“娘”こそがサラだった。ジョンとの結婚を控えるサラは、ジャンゴが町にとどまる限りニューバビロンが危機にさらされると恐れた。しかし一方のジャンゴは、すでに町は危険な状況にあり、娘を再び失うまいと自分の意志を貫こうとする……。

 

あらすじを一読すれば明らかなように、本作は『続・荒野の用心棒』を原案とするオリジナルストーリーで、リメイク企画ながら“再創造”がコンセプト。イタリアの製作会社Cattleya、「ジ・エディ」(2019-)のAtlantique Productionsが制作を務め、シリーズのアーティスティック・ディレクター&第1話監督をイタリアの人気ドラマ「Gomorrah(原題)」(2014-)のフランチェスカ・コメンチーニが担当。脚本は同作のレオナルド・ファソリ、マッダレーナ・ラヴァッリらが執筆する。

ドラマ「ジャンゴ(原題:Django)」はフランスなどでCanal+局にて、イタリア・イギリスなどでSky局にて放送予定。世界配給権はスタジオカナルが保持している。なお、撮影は2021年5月から開始されて居る。

 

映画監督クエンティン・タランティーノが絶大なる愛情と敬意を注ぐ、マカロニ・ウェスタンの最高傑作とも名高い一作『続・荒野の用心棒』(1966)が、初公開から半世紀を経てデジタル・リマスター版として復活。『続・荒野の用心棒〈デジタル・リマスター版〉』として、昨年の1月31日(金)にシネマート新宿ほか全国の映画館にて公開された。昨年公開時に、劇場で公開当時のイタリア版ポスターを購入して来て今アパートのベランダのガラス戸に貼り付けてある。

 

「続・荒野の用心棒」予告編 

セルジオ・コルブッチ監督『続・荒野の用心棒』特報 

Django – Il Maggiore Jackson 

Django – La sorpresa dentro la bara 

「Django 」ラストシーン

 

 

メキシコとの国境沿いにある寂れた村に、棺桶を引きずる一人の男がやってきた。謎に満ちた男の名はジャンゴ。亡霊のように沼地を彷徨う男の棺が開くとき、死闘の火蓋が切って落とされる。セルジオ・レオーネとともにマカロニ・ウェスタンを牽引した映画監督、セルジオ・コルブッチによる言わずと知れた不朽の名作が、2018年にチネテカ・ディ・ボローニャにてオリジナルネガから4Kスキャン・レストアされたバージョンで昨年に上映された。

 

大の映画マニアとして知られるタランティーノは、マカロニ・ウェスタンをこよなく愛する人物であり、本作の原題『DJANGO』を『ジャンゴ 繋がれざる者』(2012)にそのまま引用。このたび公開された『続・荒野の用心棒』特報映像でも流れているテーマ曲の英語版を冒頭から流すなど、本作に対するオマージュを貫いた。また、本作を手がけたセルジオ・コルブッチ監督の名前は『ワンス・アポン・ア・ハリウッド』(2019)にも登場。タランティーノ作品をきっかけに、その元ネタとなった作品に触れるには、昨年の劇場公開はまさにうってつけの機会だったろう。

 

死の影を背負った流れ者のガンマン・ジャンゴ役を演じたのは、本作を機に、百本以上の映画に出演することになったフランコ・ネロ。陰鬱さと神秘的な雰囲気をまとうジャンゴの姿は強烈な印象を残し、マカロニ・ウェスタンの伝説的ヒーローとして一躍有名となった(ちなみに『ジャンゴ 繋がれざる者』にも出演している)。なお本作の大ヒットにより、ジャンゴのキャラクターはその後も多くの作品に流用されている。

 

画像1: 『続・荒野の用心棒』日本オリジナルのポスタービジュアルが完成

画像2: 『続・荒野の用心棒』日本オリジナルのポスタービジュアルが完成

画像3: 『続・荒野の用心棒』日本オリジナルのポスタービジュアルが完成

 

タランティーノがこよなく愛した傑作マカロニ・ウェスタン

本作は、セルジオ・レオーネと共にマカロニ・ウェスタンを牽引したセルジオ・コルブッチが1966年に製作した、いわずと知れた不朽の名作。荒唐無稽なまでに強烈で残酷な描写と、娯楽優先主義で大ヒットした伝説の作品だ。

 

今回上映となったのは2018 年にチネテカ・ディ・ボローニャにてオリジナルネガから 4K スキャン・レストアされた必見のバージョンとなる。

 

死の影を背負った流れ者のガンマン“ジャンゴ”を演じたのは、本作を機に百本以上の映画に出演することになったフランコ・ネロ。 反骨心と虚無感、粘り強さと体制に立ち向かうジャンゴの姿に世界中の若者が憧れ、今も語り継がれる究極のヒーローとなった。

 

本作のヒットによりその後も 50 本以上の作品に流用されたジャンゴのキャラクターだが、なかでもこよなく愛したのはクエンティン・タランティーノ。『レザボア・ドッグス』の耳切断シーンでも既にわかる通り、筋金入りのリスペクト。『ジャンゴ 繋がれざる者』では、その愛が高じて本作のオープニング・クレジットをそのまま再現してみせ、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』ではコルブッチの名前を引用してみせた。

 

このたび公開された日本オリジナルのポスタービジュアルは必殺のガトリング砲を構えたジャンゴの姿を捉えたもの。『ジャンゴ お前が愛した女はもういない』と言うキャッチコピーもインパクトを残す印象的なビジュアルになって居る。

 

続・荒野の用心棒
2020年1月31日(金)よりシネマート新宿ほか全国順次公開済み。
配給:コピアポア・フィルム
© 1966 世界公開作品

 

以下、昨年の冬の話から抜粋です。。。

 

今日は新宿に行って来た。久々です。用事があったのかと言えば、あったのですよ。映画を観に行ったのです。それも1966年製作のマカロニ・ウエスタンの「続・荒野の用心棒」4kリマスター・バージョンのリバイバル・ロードショー映画なのです。15時50分からの廽です。本当は18時30分からの、上映後に今回の上映の字幕翻訳を担当した。「マカロニ・ウエスタン研究家」の二階堂卓也さんなどが行うトークショーのある廽を観に行こうかと思ったのですが、、時間が遅いのと、最近調子が余り優れないので、余裕を見て、15時50分からの廽にしたのです。いや、、矢張り身体が、、調子が悪いと言うか、足が歩いて居て、痛く成って来るのですよ。それと寒いせいか、トイレが近い。だから伊勢丹のトイレで用を足して、伊勢丹の脇にあると言う。「シネマート新宿」を探すも、前に見た時には判ったのに、今回探しても良く判ら無い。試しにスマホで案内して貰うも、もう映画館に来て居ると言う。「おかしいな...。」と思いながら先に行くと。雑居ビルの6階と7階と成って居る。判りづらいなと思い、エレベーターに乗って6階まで行くと、映画館の中がジャンゴ(続・荒野の用心棒)祭りだ。人はまだ公開初日なのでか、それとも矢張り、過去のマカロニ映画と言う事だろうか、余り多くは居ない。

 

私は映画館で映画を観るのは10数年振りなので、鑑賞券はネットで購入した。購入と言っても鑑賞券が送られて来る訳では無くて、デジタル・データの数字とネットで購入時に考えた暗証番号がメールで送られて来るのだけども、何だか最近は本当にデータ化されて居ますね、何もかも・・・。しかし、カウンターにパンフレットやら置いて居ないし。あれ程、宣伝して居たポスターは売り場の壁に貼ってあるだけで、良く判らないので店員に聞いて見ると、両方とも売って居ると言う。だから「パンフレッド1冊とポスター1枚下さい」と言って購入した。するとその店員が「「ジャンゴ・ウイスキー」ありますよ。」と勧めてくれたが、私はアルコールに弱いから遠慮した。フロワーは余り広くは無く。暖房が入って居て少し暑いのだ。何しろ私は今日は寒いので、ブレザーにロング・コートを羽織って居る。これでは映画の上映中に暑いかなと思って居たが、、映画が始まると何だか寒くて、コートを着たままでも寒かったのでちょうど良かった。暑いのはフロワーだけだった。しかし鑑賞券を貰う為に、タブレットが置いてあるので。それで、メールで送られて来たデジタル・データと暗号番号を入れると、端末から鑑賞券が出て来るのだが、私は指でやるのだろうと思ってタブレットを見ながらキーボードの番号を押すも数字が入力されず、、焦って居たら店員の若い女の子が来て、付属のペンで数字を押したら入力されるので、私が数字番号を言って、やって貰った。端末から出て来た鑑賞券を渡されて、暫く館内の「ジャンゴ」に関する写真などを見て居て、時間に成るから、1階上のシネマ2に行くと鑑賞券のもぎりが居たので渡すと。お客はと言っても年配が多かったが、何も言われないのに私が鑑賞券を渡すと、半権をもぎって寄越して「ゆっくりとご鑑賞下さいね」と言われて少し良い気分に成りながら自分の予約の席へと・・・・。ちなみに私は障害者枠だから1,000円で見られる事に成った。行政に感謝です。。。

 

 

 

 

 

壁には、延々と「ジャンゴ」のポートレート写真やらポスターが並んで貼り付けてある。「シネマート新宿」のこの映画を再び、今の時代に上映する意気込みを感じた。私はこの映画館は、普段はどちらかと言うと、ディープな韓国映画を、上映して居る事で有名なので。名前は知っては居たが、韓国映画は余り好きでは無いので、来た事がなかったが。映画館は狭くこじんまりと纏まって居た。写真には撮らなかったが、韓国映画のDVDが何と100円で売って居たのには吃驚した。また、邦画も上映して居る。ミニシアターなので、可也マイナーな作品を上映して居る様だった。それから映画書籍も売って居た。良い映画館だと思った。。。私は良く行く「テアトル新宿」に次いで良いなと思った。

 

 

 

 

 

映画の内容は、もう知って居るけど、、この映画は1年間ぐらい見て居なかったから、新鮮だった。しかし、「4kリストアの割にはこんなものかぁ・・・」とは思ったが。多分、8kで撮影された映画を4kにダウン・コンバートしたものをアパートの4kテレビの55インチで見て居るからだろう。少し物足りなく感じたのだ。しかし映画館の大型スクリーンとデジタルに加工し直した音響が凄くて、音に関しては昔の映画なのでモノラルだが、台詞と映像の音楽は別に成って居るので。ドルビーに成って居て臨場感が凄い。矢張り自分のアパートでテレビ画面で見るのとは迫力があって段違いだ。あそこまで臨場感のある音声と効果音そして音楽を大音響では聴けない。満足して帰って来た。

 

 

Django 1966 tribute 

 

アパートに帰って来てから。購入したポスターとパンフレットを見てみた。私は1966年公開当時のパンフレットを持って居るのだが。今回のものは今風に新しく書き下ろしたパンフレットだった。

 

 

 

 

 

 
巷ではスターウォーズが人気だったのですが、、私はあえて、マイナーな映画を観に行きました。スターウォーズがSFのバイブルならば、こっちは西部劇のバイブルです。マカロニだけども。昨今は昔の映画が再び脚光を浴びて居るのです。私は最近のハリウッド映画が嫌いです。勿論、今時の良さは解りますが、、人間が古いせいか、如何しても観るのは昔の映画ですよ。私はマーベルヒーロー映画とか、嫌いなのです。CGを駆使して見せる映画の良さは解りますが、最近はそればっかりです。ストイックな男性映画が好きなのですよ。要するにハードボイルドです。ハードボイルドと言っても今時は死語ですね。ですので説明します。

「ハードボイルド」は元来、ゆで卵などが固くゆでられた状態を指す。転じて感傷や恐怖などの感情に流されない、冷酷非情、精神的・肉体的に強靭、妥協しないなどの人間の性格を表す。推理小説のジャンルであるが、サスペンスや文学など他のジャンルの主人公をハードボイルド風の文体で描く作品もある。アーネストヘミングウェイの作品は主に文学に分類されている。行動的な探偵が主人公であるが、ハードボイルドとは対照的に非情さを前面に出さず、穏健で道徳的な作品は「ソフトボイルド(Soft Boiled)」と呼ばれる。

 

ハードボイルド小説の歴史

ミステリのハードボイルド派は1920年代のアメリカで始まる。パルプマガジン『ブラックマスク』誌(1920創刊)に掲載されたタフで非情な主人公たちの物語がその原型で、同誌にはダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラー、E・Sガードナーらが寄稿した。特にハメットは『血の収穫』(1929年)や『マルタの鷹』(1930年)などにおいて、簡潔な客観的行動描写で主人公の内面を表現し、ハードボイルド・スタイルを確立した。『大いなる眠り』(1939年)で長篇デビューしたチャンドラーは、ハメットのスタイルに会話や比喩の妙味を加え、独特の感傷的味わいを持つ『さらば愛しき人よ』(1940年)、『長いお別れ』(1953年)などのフィリップ・マーロウ、シリーズを発表した。

 

ハリウッド映画でも多くのハードボイルド・スタイルの作品が作られ、『カサブランカ』(1942年)はアカデミー作品賞を受賞した。ハメットやチャンドラーの作品には、「西部開拓精神を内に宿した主人公がアメリカ社会の諸問題に対処していく物語」という面があり、『動く標的』(1949年)で私立探偵リュウ・アーチャーを登場させたロス・マクドナルドはその後継者とされる。一方、『差額のは俺だ』(1947年)でデビューしたミッキースピーレーンは暴力とセックスを扇情的な文体で描き、本作で「暴力的ハードボイルド」の代名詞となったマイク・ハマー・シリーズはベストセラーとなった。

 

1940年代終わりから1950年代にかけて、銃と軽口と女の扱いに長けた私立探偵が、おもにペーパーバック・オリジナルで大量に現れる。『マーチィと殺人と』(1947年)でピーター・チェンバーズを登場させたヘンリー・ケイン、『消された女』(1950年)でシェル・スコットを登場させたリチャード・S・プラザー、『のっぽのドロレス』(1953年)でエド・ヌーンを登場させたマイクル・アヴァロン、The Second Longest Night(1955年)でチェスター・ドラムを登場させたスティーブン・マーロウなどが主な作家である。極め付きはオーストラリア作家のカーターブラウンで、1958年からアメリカのペーパーバックに登場し、健全なお色気とユーモアにあふれた作品を、毎月1冊というペースで発表した。また、G・G・フィックリングの『ハニー貸します』(1957年)で登場したハニー・ウエストはセクシーな女性私立探偵として人気を博し、テレビ・シリーズにもなった。

 

1960年代になるとアメリカ社会の問題は、個人の行動だけでは対処できなくなる。ロス・マクドナルドのリュー・アーチャーは事件を見つめるだけで行動しなくなり、次第に内省的になっていく。これを受けて1960年代末から1970年代にかけて、社会的問題を正面から扱うよりも、探偵の個人的問題を通して社会を描くような作品が多くなる。主な作家には、マイクル・コリンズ、ジョセフ・ハンセン、ビル・プロンジーニ、マイクル・Z・リューイン、ロジャー・L・サイモン、ロバート・B・パーカー、ローレンスブロックなどがいる。日本においては、これらの作家の作品は当時、評論家小鷹信光が「ネオ・ハードボイルド」と名づけたが、実際にはハードボイルドの枠組みを超えた要素が多く、近年はこの表現はあまり使われない。

 

また、1960年代後半からはじまったフェミニズム運動と女性の社会進出により、1980年代には女性作家が女性の私立探偵を主人公にした作品を書くようになる。まずマーシャー・マラーのシャロン・スコーンが『人形の夜』(1977年)で登場し、続いてサラ・パレツキーのV・I・ウオーショースキーが『サマータイム・ブルース』(1982年)で、スー・グラフトンのキンギー・ミルフォーンが『アリバイのA』(1982年)で登場した。以後、リアリスティックな女性私立探偵小説は一大潮流となる。

 

1970年代以降の作品の多くは、文体も主人公たちの性格もハードボイルドではないため、私立探偵を探偵役にしたミステリは私立探偵小説(PIノベル、Private Eye Novel)という名称で呼ぶのが一般的になった。

 

こうした私立探偵小説の流れとは別に、ハードボイルド文体で描かれた犯罪小説がある。ハメットと同時期の作家で、ハードボイルド文体の創始者として挙げられるのが『リトル・シーザー』(1929年、映画『犯罪王リコ』の原作)のW・R・バーネットと、『郵便配達は2度ベルを鳴らす』(1934年)のジェームスM・ケインである。『ブラック・マスク』誌の出身であるが独自の道を歩んだホレス・マッコイは、『彼らは廃馬を撃つ』(1935年)で大恐慌時代の明日なき青春を冷徹な筆致で描く。また『ミス・ブランディッシュの蘭』(1939年)で登場したゼイムス・ハドリーチェイスは、イギリス人ではあるがアメリカ英語で作品を発表した。『殺人のためのバッジ』(1951年)など警察官を主人公としてアメリカの社会問題を描こうとしたウイリアム・P・マックバーン、ハメット・スタイルで書かれた『やとわれれた男』(1960年)でデビューしたドナルドー・E・ウィドレイクもハードボイルド小説に新風をもたらした。これらの作品の手法・文体は映画の影響を受けた部分もあり、また多くの作品が映画化されることによる相互作用で、ハードボイルド・タッチは熟成していった。

 

ゲッタウェイ~The Getaway~スティーブ・マックイーン Shotgunアクション ペキンパー監督 

ダーティハリー Dirty Harry 1971 

HARPER (1966) Trailer 

The Long Goodbye Official Trailer #1 - Elliott Gould Movie (1973) HD 

 

マカロニウエスタンとは、、(マカロニを知らない人へ)。

 

マカロニ・ウエスタンとは、1960年代前半からイタリアの映画製作者が主にスペインの荒野で撮影した西部劇の総称です。ただし、これは日本だけでの呼び方で、イギリスやアメリカではスパゲッティ・ウエスタン、あるいはヨーロッパ製ウエスタン、イタリア本国では単純に「ウエスタン・アル・イタリアーナ」(=イタリア製西部劇)などと呼ばれています。

 

実は『荒野の用心棒』が大ヒットして世界中にマカロニ・ブームが巻き起こる数年前から、数は多くないもののドイツやイギリス製の西部劇が作られていました。さらにブームのさなかにはフランスやアメリカ製西部劇もマカロニの聖地であるスペイン・アルメニアの荒野で製作されました。もちろん、本場スペインも独自の西部劇を作るようになりました。こうした「ヨーロッパで作られた西部劇」を総称して「ヨーロッパ製ウエスタン」と呼ぶようです。

 

 

荒野の用心棒

 

 

まあ、これが本質的には一番正しい呼び名だしょう。スパゲッティ・ウエスタンとは、基本的にアメリカ人が本場ハリウッド西部劇に対してチープなニセモノ西部劇をさして呼ぶジャンル名とされています。そして、わが日本でも少々バカにした気分で、映画評論家の淀川長治と深沢哲也両氏が最初にマカロニ・ウエスタンと命名したとされています。いまでこそ「マカロニ」といわれても定食屋で出てくるマカロニ・サラダくらいしかなじみはありませんが、当時の日本ではイタリアの食べ物の代表といえばマカロニだったのでしょう。スパゲッティはともかく、パスタなどという呼び方は誰も知らなかった時代です。その証拠に、日本のパスタ・メーカーの組合は今も「全日本マカロニ協会」というのです(!)
 

歴史観、正義感、道徳、整合性、リアリティ……。そんな、映画評論家が大事に胸に抱きしめているような教科書的ルールのおとがめ一切なし、面白ければそれでいいじゃないか、の精神で作られた娯楽アクション映画の元祖。それがマカロニ・ウエスタンです。

 

娯楽至上主義のマカロニ精神は、のちにカンフー映画やブラック・プロイテーション・ムービー、さらにはスター・ウォーズなどのSF映画にも確実に伝えられました。悪人しか住まない町、何発でも発射される主人公のコルト、こんなもん存在したの!? と観客が呆れる暇もなく銃弾を撒き散らすガトリング機関砲、次々と倒れる数百人の悪人、どんな酷い目にあっても最後には必ず勝つヒーロー(例外もあるけど)、よく考えてみるとひどい奴にしか思えない主人公なのに、エンディングに流れるクールな主題歌にのせられて「カッコイイぜ」と思いこんだ観客たちはガンマン気取りで町へ繰り出した……。

 

時は1960年代、世界中が変わろうとしていました。イギリスからはビートルズが、フランスにはヌーベル・ヴァーグが、アメリカでは人種差別撤廃・ベトナム戦争反対のムーブメントが巻き起こっていました。そんな時に、純粋な娯楽として作り出されたイタリア製ウエスタン映画が世界中で熱狂的に受け入れられたのです。それは、ハリウッドが作りつづけてきた正統派ウエスタンへのアンチテーゼ、伝統に対する異端、安定に対する行動、クラシックに対するロック!だったのです。

 

セルジオ・レオーネ監督、クリント・イーストウッド主演の『荒野の用心棒』(64年)は黒澤明の時代劇『用心棒』の盗作とされ訴訟騒ぎになり(結局レオーネは謝罪し黒澤はアジアでの配給権を得た)、所詮「マカロニ」とさげすまれ馬鹿にされました。しかし、ダイナマイトの大爆発、その硝煙爆風をバックにポンチョに身を包んだイーストウッドが姿を現すクライマックスの決闘シーンは、明らかに本家よりもスタイリッシュでカッコよかった。たとえ、イーストウッドの銃が、その先にいない敵を撃ち倒そうとも、続編『夕陽のガンマン』(65年)が実は共演者であるリー・ヴァン・クリーフの物語であろうとも、イーストウッドはマカロニ・ヒーロー第1号となり、その後ハリウッドへ戻るとまるでマカロニ的としか言いようのないワイルド刑事『ダーティ・ハリー』(71年)として再生したのです。かつてジョン・ウエインらが演じていた往年のハリウッドのヒーロー像とはまったく違う、「悪」の一面を持つ人間的なヒーローのスタイルはその後もシュワルツェネッガー、スタローン、メル・ギブソンらによって華やかにスクリーンを飾り続けているといえるでしょう。
 

『続 荒野の用心棒/DJANGO』(66年)に登場する西部の町は泥だらけで、底無し沼があり、女たちは泥レスに興じ男たちは殺しあうばかり……真面目なアメリカ人なら「そんな酷い町はわが国に存在しなかった」と異議を唱えるのでしょうが、そうは問屋がおろさない。19世紀のアメリカは、大都会のニューヨークでさえ、公共の場所には痰ツボが置かれ(そのまわりにはドジな男のはずした痰が……)、馬車が主要な交通機関なために道路には馬糞がいっぱい転がっていたといいます。それが、文明から遠く離れた西部の町なら……誰でも想像できるはず。『続荒野の用心棒』の監督セルジオ・コルブッチはただ「面白くするために」そんな町を創造し、めったやたらに殺戮シーンを撮りまくっただけなのでしょうが(そのために役者が足りなくなり悪党一味の部下に顔を隠す赤いマスクをかぶらせたほど)。異端は正統になり、ハリウッドから出稼ぎに来ていたイーストウッドとは違う、純粋イタリア産ヒーローとしてジャンゴ=フランコ・ネロをも産みだしたのです。

 

マカロニ・ウエスタンは一説では10年足らずの間に500本は作られたと言われています。
『続 荒野の用心棒』とは全然関係ない「ジャンゴ」シリーズも50本はあると言う。もちろん、イーストウッド、ネロのほかにも、アクロバチックなアクションと甘いマスクで女性に人気の高かったジュリアーノ・ジェンマ、ネロの贋者的にデビューしたが後期のコメディ路線でバカ売れしアメリカにも進出したテレンス・ヒル、人気があったかどうかは怪しいが何本も主演したアンソニー・ステファン、ジャンニ・ガルコ、ジョージ・ヒルトン、ハリウッドから出稼ぎに来たトーマス・ミリアン、トニー・アンソニー、マーク・ダモンといったマカロニ・スターを輩出しましたが、その作品のほとんどは映画史的あるいは映画批評的にまったくもって無視されてきました。

 

21世紀の今、60年代、70年代に量産されたマカロニ・ウエスタンを改めて見ると、意外にもしっかりした作りの作品が多いことに気づきます。史劇やコメディを作っていたベテラン監督が手がけた作品は構成がしっかりしているし、スタントマン(後にスターになった者も多い)は体を張ってアクションしている。セットは使いまわしが多いにせよ、本職が作りあげたリアリティあふれる背景だ。衣装にせよ、小道具にせよファッション大国イタリアの実力が発揮されているのです。素人がいきなり映画を撮ることが多くなり、なんでもCGで「絵」にしてしまう現代の映画作りとはまったく違う次元にマカロニ・ウエスタンは存在する。まさに、映画の中に肉体が躍動しているのです。
 

何故今もマカロニ・ウエスタンは世界中で熱く語られるのか。もうひとつの秘密は音楽の素晴らしさでしょう。朗々と歌い上げるバラードに乾いたギターやホーンが絡み、スクリーンに映し出されるスペインの荒野(=アメリカじゃないニセモノ)を、本当の大西部以上に雄大に感じさせ、主人公(たいていは流れ者)の孤独感を盛り上げる。オペラやカンツォーネの国イタリアの特色が最も顕著に出た特徴でしょう。決闘シーンにはここぞとばかりにドラマチックな演奏が轟き、トランペット、ハーモニカ、鞭や鐘の音や銃声といったSE……。ドラマチックなオ-ケストレイションに絡むエレキ・サウンドはGSブームに乗って日本中で大ヒット。66年〜67年にかけての洋楽ベスト10は常に半分以上がマカロニ主題歌、ビートルズもローリング・ストーンズもボブ・ディランもその後塵を拝したほどでした。

 

イギリスの大学教授でスパゲティ・ウエスタンの研究家クリストファー・フレイリング氏はこう語っています。「アメリカの西部劇に日本の黒澤明の時代劇をうまく混ぜこんで生れ、世界中で好まれたたスパゲッティ・ウエスタンは、中国の麺がイタリアへ伝わりパスタとして農民たちの主食になったのに似ている」

 


殺しが静かにやって来る4

 

 

ところで、東洋と西洋が交じり合い、世界的に通用する「味」となる傾向は近年特に強い気がします。ハリウッドへの香港映画人の進出、日本のアニメの世界的人気……こうした娯楽商品の国際化のさきがけとなったのがマカロニ・ウエスタンとも言えるのです。マカロニ・ウエスタン自体は、先に述べた60年代後半の世情に乗せられてか、コルブッチの『ガンマン大連合』(68年)、レオーネの『夕陽のギャングたち』(71年)など、次第にその背景をアメリカの西部からメキシコの革命へと移していき、その後、衰退していきました。最後の作品はアンソニー・ドーソン監督の『ワイルドトレイル』(75年)と言われています。が、それは、すっかり「マカロニ」本来の濃厚な味付けとは程遠い、気の抜けた似非コカコーラのような西部劇でした。その後、『続 荒野の用心棒』の正統派続編『ジャンゴ/灼熱の戦場』(87)が作られたりもしましたが、マカロニ・ウエスタンはほとんど息絶えました。が、そのスタイル、演出、音楽などは今も世界中の西部劇、アクション映画に受け継がれています。

 

マカロニは消滅しようとも、その存在が世界中に与えた影響は甚大でした。香港では『燃えよドラゴン』(73年)による爆発的なカン・フー映画ブームを、マカロニ的やっつけ仕事で盛り上げました。どこかで見たような話に残虐味をふりかけ英語版を作って世界中に売り出したのです。ブルース・リーならぬ、ブルース・リ、ブルース・リャンなどが主役になったのは、かつて、二流三流のマカロニ西部劇の主役がみんな「ジャンゴ」だったことの倣いでしょうか。ジョン・ウーの『カラテ愚連隊』(73年)の国際版予告編には『復讐のガンマン』のテーマが使われていたほど。みな、マカロニを食べて大きくなったのだ。

 

その頃、日本ではテレビでの映画放映が大ブームになっており、なかでもマカロニは得意メニューで、日曜洋画劇場で放映された『荒野の用心棒』は視聴率24%を超え、かつてマカロニをバカにした淀川さんも、マカロニのおかげで面目を保っていたのです。レオーネ三部作、『続荒野の用心棒』『ミスター・ノーボディ』など、彼のおかげでマカロニ・ファンになった男たちが日本中に無数に歩き回っていました。さらには、作品が足りなくなり未公開のマカロニ西部劇が次々とブラウン管で日本デビューを飾りました。そして、テレビ時代劇にマカロニ調の主題曲やガトリング銃が登場するようになり、マンガの世界でも「マカロニほうれん荘」やら「浦安鉄筋家族」といったマカロニの影響大(?)と思わせる作品が生み出されていったのです。

 

世界的にもマカロニ再評価は進んでいます。レゲエ映画の名作『ハーダー・ゼイ・カム』(72年)では、映画館で『続荒野の用心棒』を見る観客が喝采する。悪徳の横行するジャマイカの首都キングストンで歌手を目指す主人公ジミー・クリフは「ジャンゴ」のようにマカロニ機関砲で悪い奴らをなぎ倒したい気分なのだ。『シド・アンド・ナンシー』のアレックス・コックスは当時のアイランド・レーベルのミュージシャンたちを集めてスペイン・アルメリアのマカロニ・ロケ地を使い『ストレート・トゥ・ヘル』(87年)を作りました。主題歌はポーグスによる『続・夕陽のガンマン』のカバーです。映画界でもマカロニの影響力は顕著です。黒人監督のマリオ・ヴァン・ピーブルズは『荒野の1ドル銀貨』(65年)のアイディアをいただいた『黒豹のバラード』(93年)を撮り、さらにはもうひとりのマカロニ・マニア、クリストファー・ランバートと組み『続・夕陽のガンマン』そっくりのストーリー展開の『ガンメン』(93年)も放ちました。クエンティン・タランティーノは「レオーネの『ウエスタン』は俺にとっての『市民ケーン』だ」とうそぶき、香港の名監督ジョン・ウーはハリウッド進出第1作『ハード・ターゲット』(93年)で『続 荒野の用心棒』さながらの“耳裂き”シーンを撮りました(アメリカではカット。またイギリスでは“耳裂き”のおかげで『続荒野の用心棒』自体が30年間上映禁止だった)。トリニティという女主人公が登場した『マトリックス』のウォチャウスキー兄弟は、『暗殺者』(95年)の脚本を担当し『ミスター・ノーボディ』 (73)の中で語られた小話を引用しちゃいました。

 

ミュージック・シーンにもマカロニ・ファンは多いのです。モリコーネの曲を必ずレパートリーに入れていた70年代のイギリスのバンドがベーブ・ルース、最近ではヘヴィ・メタルの代表的バンド・メタリカはライブのオープニングで鳴り響く『続・夕陽のガンマン』の「ガンマンの祈り」とともに登場しました。2007年にアカデミー名誉賞を受賞したエンニオ・モリコーネのために捧げられたトリビュート・アルバムでは、ブルース・スプリングスティーンが『ウエスタン』のテーマを奏でました。

 

こうして、マカロニ・ウエスタンは世界中の、映画、テレビ、音楽、マンガ、ファッションといった世界で確実に生き続けています。いわば、評論家の野心には響かなかった(そんなもの褒めても評論界じゃ偉くなれない)が、純粋な映画ファンや、アーティストたちの心には確実に根をおろしたのです。純粋に娯楽を目指す作り手たちには、マカロニはポップ・アートとして映るのかもしれません。または、徹底的に無責任に無秩序に作られた娯楽作品は、時として見るものによっては哲学的に捉えられることもあるかも知れない。

 

 

マカロニ・DVDコレクション、絶賛発売中です。これを買って集めれば、マカロニはパーフェクトですよ。。

 

 

 

また喫茶店に行きました。これで此処のホットケーキを食べるのは6回目です。今日もまた、モカ・ホットケーキとカフェオレを注文しました。値段は合わせて1,400円です。ホットケーキは860円です。カフェオレが540円です。高いですが...。

 

味は抜群に美味しいです・・・・。

 

 

 

 

〜〜懐かし映画館〜〜

 

「暁の用心棒」イタリア映画。1966年制作。

              ーマカロニウエスタンー

 

 

 

1966年にイタリア・アメリカ合作で製作されたマカロニ・ウェスタン。メキシコ国境に近い寂れた村を舞台に、流れ者のガンマンと悪党一味の激闘を描いていく。

 

Un Dollaro tra i Denti Trailer Italiano 

 

✳︎ストーリー

舞台は西部開拓時代のアメリカ、メキシコ国境近くのとある町。この寂れた町に、よそ者のガンマンが現れることから物語は始まります。この町はアギラという悪党一味によって牛耳られており、暴力によって支配されて居ました。

ガンマンがこの町を訪れたちょうどそのとき、アギラたちはメキシコ軍の一団を騙し討ちにして居ました。アギラは口癖の様に自分を「正しき人」と呼んで居ましたが、実際にはメキシコ軍の兵士を機関銃で皆殺しにする様「な非常に残酷な人物でした。

その様子を陰で見て居たガンマンは、アギラたちの力を利用する方法を思いつきました。それは、メキシコに金貨を輸送するアメリカ兵の一団から金貨を奪う、と言うものでした。早速、ガンマンはアギラたちに接触すると、アギラは警戒しつつもガンマンの話に興味を示して来ました。ガンマンは、先ほどアギラたちが殺したのはアメリカから金貨を受け取る為に集結したメキシコ軍だった事を明かしました。ガンマンはレンジャー部隊の隊長で、この金貨引き渡しでメキシコ軍側の本人確認を行う任務を命じられて居た事を明かしました。しかし、メキシコ軍が全滅した今、この状況を最大限に利用して金貨を横取りしようと考えたのです。自分がアギラをメキシコ軍将校と言えば、必ずアメリカ軍は信用して金貨を引き渡すだろう…。ガンマンのこの話に、アギラは飛びつきました。

 

それから間もなく、アメリカ軍が金貨を持って到着しました。ガンマンはアメリカ軍の将校に近づくやいなや銃を突きつけ、周囲がアギラ一味のガンマンに囲まれて居る事を告げました。アメリカ軍将校はガンマンの要求を聞き、金貨を引き渡しますが、いずれ金貨を取り戻す意志がある事を告げて去って行きました。

その後、ガンマンとアギラ一味は金貨の取り分について話し合い、ガンマンは半分欲しいと主張しました。ガンマンは高飛びを計画しており、それだけの金貨が必要だと言うのです。両者の交渉は決裂し、すぐに銃撃戦が始まりました。ガンマンは金貨と共に逃亡を図ろうとしますが、この侭では町の人々まで犠牲になる事を恐れ、金貨を捨てる事を決意。馬に乗って町から出て行ったガンマンでしたが、すぐにアギラ一味が追って来ました。

そんな中、アギラの使者がガンマンの元を訪れ、金貨の取り分について話し合いたいとアギラの言葉を伝えて来ました。しかし、これはガンマンを油断させようとしたもので、物陰には大勢の手下が潜んで居ました。ガンマンはすぐにその気配に気づき、手下たちを返り討ちにしました。

 

その夜、ガンマンはアギラのアジトに忍び込みました。アジトの中には、町の若い女が人質として捕らえられて居ました。ガンマンはアギラたちが酒を飲んで居るタイミングを見計らって地下室に侵入、金貨を探し回りました。処が、地下室にはすでにアギラ一味が待ち構えており、ガンマンは捕らえられ、ひどいリンチを加えられて仕舞います。


リンチは途中からアギラの恋人マリカに交代し、アギラたちはその場を去って行きました。マリカはガンマンを痛めつけようとしますが、ガンマンはマリカの油断を見逃さず、反撃に出ました。ガンマンはマリカを倒すと、地下室に爆薬を仕掛け爆発させました。アギラたちがこの爆発に驚いている間に、ガンマンは人質の女と金貨とともにアジトを脱出しました。

重傷を負っていたガンマンは若い女の看病を受けながらなんとか町に戻りましたが、アギラたちがすぐに追って来るのは間違いありませんでした。ガンマンは女からショットガンを譲り受け、来たるアギラたちの戦闘に備え避難する様指示しますが、その矢先にアギラたちは町に到着して仕舞います。

 

アギラは若い女の赤子を人質にとってガンマンの場所を吐くよう女に迫って来ました。そして、アギラの手下が赤子にナイフを突きつけた時でした。ガンマンは物陰から銃撃を開始し、アギラたちはたちまち混乱に陥りました。その後もガンマンは建物の陰を上手く利用しながら一人一人アギラの手下を撃ち、残すはアギラのみとなりました。

アギラは機関銃を準備し、ガンマンに激しい攻撃を加えて来ました。しかし、攻撃して居るうちに大量の煙が立ちこめ、アギラはガンマンの姿を見失って仕舞いました。ガンマンはその一瞬の隙をつき、アギラの利き腕に銃撃を加えました。ガンマンはゆっくり近づき、ショットガンでアギラを数発殴ると、真剣勝負を申し込みました。ガンマンはショットガン、アギラは機関銃という異色の早撃ち勝負となりましたが、ガンマンは見事この戦いに勝利を収めました。ガンマンは死んだアギラの口に一枚の金貨を入れ、「俺は"正しき人"さ」と語りかけました。

それからすぐ、金貨を取り戻しにアメリカ軍の一団が到着しました。ガンマンは金貨を素直に引き渡しますが、賞金首のアギラ一味を倒した賞金をアメリカ軍将校に求めました。将校はガンマンの言い分を飲み、金貨の一部を引き渡しました。去り際、ガンマンは金貨が一枚足りないことを伝え、「経費だよ」とアメリカ軍将校にニヤリと笑いかけました。ガンマンは「また会おうぜ」と言って町を去り、命を助けられた若い女はその姿を陰ながら何時迄も見送って居ました。

 

 本編映画ノーカット版です。日本語字幕付きです。ご堪能あれ。。。

暁の用心棒 スペシャル・エディション Un Dollaro tra i Denti - Film Completo by Film&Clips 

 

東宝東和が“用心棒”シリーズ第五弾として1966年に公開したのが、『暁の用心棒』です。トニー・アンソニー主演“ストレンジャー”シリーズの1作目であり、『盲目ガンマン』『Get Mean』『荒野の復讐』などのアーキタイプとなった傑作でもあります。元型とは言え、後に展開されるトニー・アンソニー作品の魅力が全て詰まって居るんですよ。2作目、3作目ともなると演技に余裕が出て来たのか、ニヤニヤ笑いに拍車が掛かってハードボイルドな雰囲気を台無しにしてくれますが、この作品では初出演で緊張気味だったのか、トニー・アンソニーは大いに格好良い姿を披露して居ます。

 

国境に近い町に流れ着いた一匹狼のガンマン、対立する二つの勢力、機関銃による皆殺し、それぞれが得意とする得物を使ったクライマックスの果たし合い…『荒野の用心棒』の設定を上手に真似ながら、ドキュメンタリー出身のヴァンス・ルイス監督は独特のタッチでオリジナリティを発揮してます。それは、ポンチョならぬサラッペを身に巻き付け、一撃必殺のスラッグ弾を込めた散弾銃で山賊の機関銃に対抗する“よそ者”のバイタリティ溢れるキャラの活写であり、殆ど台詞を排し、無言で進行するストーリーであったりしますが、全篇に満ち溢れているマカロニの魅力とも言うべき、無数の“格好良さ”が、本作を際だたせて居ます。
 

アギラの手下を一人倒すごとに流れる、「“よそ者”のテーマ」。暗闇の中でのマズル・フラッシュしか見えない銃撃戦。山賊の手下どもをやっつける数々の殺しのテクニック。少しずつゴーストタウンの夜が明け、明るくなった時に残される首領との一騎打ち。決闘の際の散弾銃を操る鮮やかな手際と、振り向きざま発砲するスタイリッシュなアクション……シチュエーションやストーリーが『荒野の用心棒』に似ながら同じ印象にならないのは、演出に工夫があり、スタッフやキャストに熱意が感じられるからです。低予算、限られたスケジュールの中で、最大限の工夫と努力をそそぎ込んだ、イタリア人スタッフ&キャストの意地が伝わって来るからなんです。

 

『暁の用心棒』最大の見せ場は、最後の決闘で使われる、“よそ者”の散弾銃 対 アギラの機関銃対決です。“よそ者”は、古めかしいアンダー・レバー・アクションの有鶏頭サイド・バイ・サイド・ショットガンに、バカでかい鉛の弾頭の付いた単発弾を装填して、山賊の機関銃に立ち向かいます。それぞれ弾の尽きた仇同士は、“よそ者”の合図と共に得物に弾丸を装填、一瞬の間に勝負が決まる一騎打ちとなります。通常の散弾銃ですと装填のプロセスが短いため、シュワルツローゼの装填時間に合わせて、監督はアンダー・レバーの散弾銃を持たせたのかも知れません。トリガー・ガードに被さる様に付けられたアンダー・レバーの動きが、映像的に目立つと言う利点もあります。

 

見事にアギラと山賊一味を仕留めた“よそ者”でしたが、高らかに鳴り響く“よそ者”のテーマと共に、彼はショットガンを投げ捨て、颯爽と町を去って行きました。甘いマスクにクールなガンアクションと、主人公を演じたトニー・アンソニーのかっこよさが際立つ作品でした。アメリカ軍将校にジョークを言う場面も含めて、主人公のクールさにうっとりさせられました。

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今回は以上、過去からと新しい情報を合わせた記事でした。また更新できたらお逢いしましょう。。。

 

 

今回は音楽は入りません。文章だけです。宜しくです。。。

 

 

昼の昼食です。馴染みの蕎麦処「笹陣」で、今回はミニ野菜天丼に「うどん」を食べました。

 

 

 

 

 

 

 

※ GACKT君の状態が早く良くなる事を願って、此処に再び掲載します。

 読んで見て下さいね。宜しく。

 

 

『GACKTの言葉』

 

此のインタビューを読めば分かりますが、彼は何事にも真面目に取り組んで居るんですよね。

 

じつはボクも、10代までは何をやっても途中でくじけて居たし、すごくネガティブに生きて居たんだよ。  ただ、19歳であるメンターに出会って、「帝王学」と呼ばれる考え方を通して、「勝つまで折れない思考法」を徹底的に叩き込んで貰ったんだ。 そこから1年、教わった事をひとつひとつ実践して、その思考を完全にモノにした20歳(ハタチ)の時…。「ああ、勝ったな」と思ったんだよ。  ナンパ。 「1日50人に声を掛ける」と決めて、とにかく実行して行ったんだよ。 ボク自身、若い子にこの思考法を教える為に、今もこの教育法を使ってるんだけど… 此れって凄いトレーニングで、めちゃくちゃ傷つくんだ。鼻で笑われたり、変な人扱いされたりする事の連続だから。 でもさ、どれだけ断られようが関係ない。目標はあくまでも「時間内に50人に声を掛ける事」だから。 時間内にクリアしようと思ったら、傷ついてる時間なんかない。すぐ次に行かなきゃ行けない。 そうしてるうちに、「断られる」と言う行為がなんともなくなって来る。

 

失敗が、ミッションをクリアするうえで「当たり前に起こる事」でしかなくなる訳さ。 「打たれ強くなる、ならない」って話じゃないんだよ、これ。 失敗とは、「結果」では無く「結果を出すまでのプロセスの事」である。だから、そもそも傷つく必要が無い。 この事実を理解させる事が、このトレーニングの目的なんだ。  結果を出せる人と出せない人の違い。この答えは非常にシンプルなんだ。 「途中で諦めるか、諦めないか」。此れだけ。 結果を出す人は、途中でどれだけ失敗しようが「結果を出すまでやる」。彼らは「結果が出ない」なんて言葉は使わない。常に、「まだ結果が出て無いだけ」。 「モノゴトは『成功』と『失敗』に分岐なんかして居ない。『失敗』『失敗』『失敗』…『成功』。成功するまで一本道が続いて居るだけ」 でも、それを気合いや根性で乗り越えろと言うのはナンセンス。みんな途中で折れない為には「メンタルの強さ」が必要だと思ってるけど、そんなの必要ないんだよ。 ただ、「失敗=結果を出すまでのプロセス」と言う真実に気づけばいい。 そしてこの真実にいちはやく気づきたいなら、ある程度「失敗の数」が必要だぜって話さ。

 

まずは、「結果が出るまで努力出来る人と、途中でくじけてしまう人の差」とは、いったい何なのか。此処を理解しよう。 考えて見てくれ。どうしてみんな、「ゲーム」は何度失敗しても頑張れると思う?  これは、「ゴールしたときの喜びを知って居るから」なんだよ。  ゲームって本当によく出来てて、必ず最初のステージに“誰でも乗り越えられる簡単なハードル”を設定して、「クリアする達成感」を教えてくれるんだよ。 その後少しずつハードルが上がって行く訳だけど…。「ハードルを突破してゴールに到達する」と言うある種の“Mの快感”を刻み込まれたプレイヤーは、もうゴールしか見て居ない。 だから何度失敗しようが、クリア出来るまで挑戦しつづけられる。  一方、ハードルの先に快楽が待ってる事を知らない人は、目の前の「苦しい」「辛い」と言う気持ちばかりに目線が行ってしまう。だからくじけてしまう。

 

つまり、「結果が出るまで折れない人」になる為には、「ハードルを突破してゴールする快感」を知る事が必要なんだ。  ただ、クリエイターが絶妙に「頑張れる高さ」のハードルを設計してくれるゲームと違い…。自分の人生は自分でハードルを設定しなくちゃいけない。 世の中の殆んどの人は、この自己プロデュースが致命的に下手なんだ。  皆んな、いきなり高すぎるハードルを設定して、ゴールの喜びを知る前に挫折してしまうんだよ。 そうじゃない。どんな成功者も最初は、「1日単位のハードルをクリア出来る人間になる」所から始めるんだ。 それこそボクのナンパも、「1日で50人声を掛ける」と言う1日単位のハードルから始めた。 最初は此れをクリアするのすらギリギリなんだ。でも、3か月くらいつづけると、当たり前に出来る様になる。

 

そうしたら次は「1日で50人に『こんにちは』と返して貰う」に、その次は「1日で50人と会話に発展する」にハードルを上げて行った。 1週間は、「1日」×7。1カ月は「1日」×30。1年は「1日」×365。 人生は「1日」と言うの繰り返し。 如何に自分の「1日」の精度を上げられるかが大事なんだ。此処を疎かにして大きな結果を出せる人なんて居ない。  まずは1カ月でも十分。ひとつの事を1カ月続けられる人間って、じつはめちゃくちゃ少ないから。 そうやって「1日」の質が上がって行ったら、要約「1週間の目標」「1か月の目標」と言う様に、目標のスケールを大きくして行くんだ。 それを繰り返して「1年の目標をクリア出来る人間」になった時には、間違いなく「結果を出せる側」になってる。

 

 

 

 

 

あのさ… こう言ったら失礼だけど、「戦略」ってよく言うけど。それはもっとレベルの高い人たちが使う言葉なんだよ。 少なくとも、「仕事がうまく行かないんです」とか「途中で諦めてしまうんです」とか言ってる人たちは、はっきり言って「戦略」なんてまったく関係ない。 もっと言うと、「才能」なんて一切関係ない。 みんなけっこう簡単に「才能が無いから」って話をしたりするじゃ無い? でも、「いや、才能関係無いから」って話なんだよ。うまく行かないのは、ただ「やって無い」だけ。  ボク自身も、いまだに「才能」なんて言葉は使わない。 自分で認識してるんだけど、ボクはすごく不器用なんだ。だからこそ、ただ「やった」んだよ。 殆んどの人に取って、「才能」や「戦略」なんて言葉はまったく必要ない。キツイ言葉かも知れないけど、

 

実際「自分はそのフェーズ」だと思った方がいい。必要なのは「チャレンジする回数」だ。ただ、「やれ」。 今この話を読んでるなかにも、「自分には才能が」とか「今戦略を練ってるから」なんて理由で動き出せてない人が居るかも知れないけど… いや今のオマエが、「才能」とか「戦略」とか… もう「さ」も「せ」も言うな!(笑) 才能のあるなしを、やらない理由にするな。 人生通してやるべき事をやり続けて、それでも自分が納得の行く到達点にたどり着けなかった人たち。その人たちだけが、死に際にはじめて口にする事を許されるんだ。 「才能が無かった」って。「結果が出ず自信をなくし掛けて居る人」も居ると思うけど…。 べつに 悲観する必要なんて、まったくない。だってまだ途中じゃ無い。 殆んどの人は、まだ勝負もついて無いのに勝手に挫折して歩くのを辞めてるだけ。それ、「出来ない」じゃないよ。「やってない」んだよ。 人生は死ぬまで勝負の途中なんだ。

 

「彼が17歳の時にやった引越し業者の仕事で自分は何時も一番下で階段の時に物を持つので荷物が重い。一緒に働いて居たオヤジが自分に苦しい方をさせて居るんだろうと思い。今度、運ぶ時には前の方を運びたいと言ったら。その親父が「大丈夫か?」と聞いて来たので階段の上で前を持とうとしたら、びくとも動かなかったそうです。そのオヤジは今まで自分に楽な方を受け持たせてくれて居た。そんな事も解らずに自分は相手がズルをして居ると思って居たと情けなく申し訳ない気持ちになったと書いて居る。」本当は、上側で運んでたオヤジのほうが死ぬほどキツかった。 他の仕事も全部そう。彼はどんな仕事でも何も言わずにつらい方を選んで、ボクをフォローしてくれてたんだ。 「浅はかだった」と心底思った。「自分が一番頑張ってる」なんて、殆んどの場合勘違いなんだ。 「なんで俺だけ」と言いながら生きてる人が日本には大勢居るけど、そんな思い込みは今この瞬間に捨てた方がいい。 その「ありもしない被害妄想」を抱えてる限り、努力しても一生幸せになれない。

 

「要するに、普通だったらそこまで深くは考えずになんだ前の方が重たかったのかで終わる所だ。しかし彼は如何なる事でも学びに変える。そして相手を敬う心を持って居る。なかなかの人物だと思いますよ。そして言う。」

 

今回、コロナ禍でいろんな会社が経営難に陥った。 この状況で求められる「正しい努力」とは、何だと思う?  経営視点に立って考えてみな。一発で解るから。 会社のトップって言うのは、三角形の頂点にあぐらを甲斐て座って居る人間じゃない。逆三角形の一番下で、三角形を支えるのが社長であり、会社のトップなんだ。 雇用する側は、「お金の事しか考えて無い」とか「血も涙もない人間だ」とか言われる事があるけど、違う。結果にこだわらなきゃ、利益を出せなきゃ仲間を食わせられないんだ。  そう考えた時、三角形がただただ大きくなってしまったら、支えきれなくなってしまう。 「結果」を出せる有能な人間を残して、ムダな人間は省かなきゃ行けないと考えるのは、仲間を守るために取る当たり前の選択なんだよ。 では、此処で言う「ムダな人間」とは誰なのか。 考える必要も無い。「そこに居る事」に対価を求め、結果を出す力を伸ばして来なかった人たちの事。 生き残りたかったら、「努力の仕方」を変えて行くしかない。

 

ヤバすぎるGACKTの熱愛遍歴!!衝撃的なその内容と熱愛彼女達の画像

 

そして、それに気づけるかどうかと言う分岐点が、今まさに目の前に来てる…。「キミはどう動く?」 って話だよ。  ボクが若い人たちに何時もアドバイスして居るのは、「人を雇用する側に回れ」って事。 人生に一度でも、短い期間でも、どんなに小さな仕事でもいいから、雇用する側に回れ。  起業して、人を雇う側になって、自分でお金を払って見な? 「頑張る」とは何か、一発で分かる。どんだけ人が動いて無いか分かる。 その時に初めて、「そこに居るだけ」だった、自分の頑張り方に如何に危機感を持つべきだったか。  「結果を求める側」を経験して見れば解る。 これ、「部下を持つ」「チームリーダーになる」とかでも実感出来る事なのかもな。日本は、なるべく「貧乏人」も「金持ち」も作らず、「真ん中」を増やす。 そして政治家は言うんだよ。「見て下さい。日本で仕事が無い人たちはたった数%以下です。素晴らしい国だと思いませんか」って。 でも、毎日「そこに居るだけ」の9時間を過ごす人生が、本当に幸せなのか? 自分の人生をどう生きたいのか…。今だからこそ一度本気で考えて見るといいよ。

 

「運がいい/悪い」は、あるかないかで言ったら間違いなくある。これは事実。  でも、ボクの言う「運がいい」と言うのは、90%まで到達して、最終的に200%の結果が出るとき。 反対に「運が悪い」のは、90%まで到達したけど、最終的に95%の地点で仕事が終わってしまうとき。 此れだけの違い。つまり、「何事も90%までは自分の努力で決まる」って話さ。 つまり、どれだけ運が悪くても95%までは行けるんだよって言う話。 運なんてのはその程度のもんさ。ボーナスみたいなもの。 ただし、「90%まで努力した人」にだけ出るおまけ。 世の中、何もしてないのにおまけを期待してる人が多すぎるよって事なんだ。 最後にひとつ…。今の時代、「いい言葉」なんて幾らでも読み漁れる。 でも、話を読んでも、自分がやらなきゃ何も変わらない。 キミ次第だ。自分次第だよ、全部ね。

 

取材・文=サノトモキ/私による多少の記事構成に於ける脚色あり。

 

 

 

 

GACKT君は私よりも13歳年下の男だ。しかし彼の言う事は全て道理が通って居る。だから私は彼の事が好きだ。男としても。そして女性がキャーキャー言う外見にしても。いい男だと思う。ただ今回の話は確かにその通りなのですけど。私には当て嵌ら無いですよ。彼の言う様には何一つ出来ない。投薬の後遺症のせいで毎日眠くて寝て仕舞い。何をやりたくても出来無い。そんな状態がもう40数年間続いて居ます。勝手、保冷車で荷物を運んで居た時に、意識朦朧として居て、保冷車から冷凍食材を出して納めた帰りに保冷車の後ろの荷台のドアが開いて仕舞った事があった。私が鍵を閉めるのを忘れて居たのだ。その当時は私は「ドンパン」と異名を持つ。飲むと気絶して仕舞う様な薬を飲まされて居たからだ。私は車の助手席で眠って居たのだが。運転して居た年配の社員が、気が付いて「危ない!!」と大声を挙げた声で目が覚めて「どうしたんですか?」と聞いたら「後ろ見てみろ!!」と言うので後ろ見たら。丁度自転車に乗ったお母さんが前のカゴに子供を乗せて居て、後ろの扉にぶつかりそうになって居たので、車を止めて、その年配の社員が後ろの扉を閉めて。怒って居た自転車に乗って居た母親に謝って来てくれた。

 

私は、とっさに荷物満載だったから落ちなかったかと思い。何故かと言うと、荷物が子供に当たったら大変だと思ったからだが、年配の社員は出来た人で「〇〇ちゃん、鍵はキチンと閉めなよ。扉が開いたら人に当たるし、だいたいが荷物が満載だから落ちるから、、」しかしこうも言った「そんなに辛い薬を飲まされて居るのかい?」だから私は正直に「働ける状態じゃ無いんですよ。本当は・・・・」と言ったら、「でも仕方が無いんだろう。働かなかったら喰ねえしなぁ、、」そして突然、大阪万博の事を言い出した。「あの頃、俺は喫茶店でコーヒーの焙煎とサイフォンでコーヒー入れて居てなぁ、、そのコーヒーの店が。大阪万博で客にコーヒー入れる事に成って。俺らが万博会場で振舞ったんだよなぁ。その時の同僚が自律神経失調症で苦にして自殺してさぁ、だから、精神分裂ってのか、今は統合疾病症?」「いいえ、統合失調症に名前が変わりました」と言ったら、「俺は高卒だけども大学に行ってもそんな嫌がらせを受けたのかい」と言うので。「よく解りましたね。宗教団体の男に半年以上付き纏われて挙げ句の果てに、、」そう言ったら「だいたい何処の宗教団体か俺には解ったよ・・・・。」と言うのですよね。

 

 

 

 

そして会社に帰って来たら。その日は営業会議で、私も出たのだけども。私の会社は飲料水で有名だったコーヒーだとかカルピスなどの飲料水のメーカー「カセイ」からコーヒー飲料を扱ってくれないかと誘いが来て居ると言い。従兄弟のあきゆきが「今回はこれを売りましょう社長。」社員に向かって「売れる楽しみを味わえるよ....。」と言って居るので私は「なんだかなぁ、、」と思い聞いて居たら社長が「〇〇ちゃんはどう思うの?」と聞いて来たので。私は先ほどの年配の社員に聞いて見て下さいと言って。「山岸さんどう思います?」と言ったら、困った顔をして居たけど。従兄弟がコップにサンプルを注いで社員全員に飲ませたのだが。私は飲んで甘いだけで「何だか、これがコーヒーか?」と思って、社長に歳取った社員の「山岸さんの意見を聞いた方がいいですよ」と言ったら無視して、「僕より山岸さんの意見の方が、、元コーヒー扱って居たのだから・・・・」と言って、私が「山岸さんどう思う?」と聞いたら「全然、駄目だね....。」と言うので、そう言って居ますよ。と言ったら。社長が「私は〇〇ちゃんの意見を聞きたいんだ」と言って。あきゆきにどう思うか聞いたら「社長これはうまいです」と言って居るので。「常務がああ言って居るからいいのでは無いですか?」と言ったら「そうか〇〇ちゃんも認めた味だな。では仕入れよう」と言うのですよ。私は何で的確な意見を言って居る人の話を無視して私に聞くのかと訝しがった。そして会議はまだ続居たが、私は体調が優れず眠くなり途中で退席した、そんな事がありましたね。

 

会社の事務所の裏の私のウナギの寝床の様な部屋では。弟が私の好きだった新日本プロレスの放映をビデオデッキでCMカットして録ってくれて居た。私が営業会議で夜8時から始まる放送を観られ無いし。当時、丁度、藤波辰巳と長州力の喧嘩試合が話題になり始めて居たし。タイガーマスクのアクロバテックなダイナマイト・キッドとの試合などをコレクションして居たのだ。120分テープに3倍モードで録画して居た。猪木はすでにスーパースターだったし。彼の延髄切りには毎回感動して居た。私は純粋に娯楽として。そして演出があろうと選手たちのファイトを「凄いなぁ......」と思い観て居たが。それを気に喰わない男たちが会社には沢山居たのだ。プロレスなんて皆んな筋書きが決まって居て。その通りに演じて居るだけで、身体何て何も鍛えては居ないんだと言うのだ。そしてある社員は私がプロレス会場に行けば解ると言い。今度一緒に会場に連れてってやると言い。

 

私はいいですよ。テレビだけで十分解るからと言うと「あれは全部演技なんだ技なんか何も掛かって居ないんだ」と言うのだ。私は人が何観ても俺の勝手だろう。自分たちは小卒か中卒。高校中退の身で、何を言えた義理があるのだと思って居たら。ある歳が行った社員が、「馬場の全日本プロレスのチケットなら手に入るぞ、どうだ!!」と言うので、私は馬場が嫌いだったから断ったら、あきゆきが車に乗れと言う。そして何時もの様に先に私を車に乗せて居て。後から乗って来て、「お前は飛んだ大バカヤローだ!!プロレスなぞ観やがって、あんな八百長も解らない低脳か、やはり頭がキチガイだから解らないか。あ〜〜!!キチガイやろう!!」と言う。私は笑ってしまって。「何観ても俺の勝手でしょう?」と言ったら。「タイガーマスクなんて、倒れて居て相手がコーナの棒の上に登ったら、起きるじゃ無いか八百長だろ!!」と言うので「棒じゃなくてトップ・ロープねぇ.....。あれはダメージ受けたフリして相手を油断させて居るんでしょう?」「貴様俺の言う事聞けないのか!!プロレス何て観るの辞めろ!!」と絶叫するので「ハイハイ、プロレスは八百長ですよね。」と言ったら「ほら〇〇も八百長だと認めたぞ!!他にプロレス観て居るのは誰だ!!」と言うのだ。

 

此処でプロレスを知らない人が、この文を飛んで居るかとも思うので言いますが。プロレスのロープに選手が飛ばされて相手の処まで走って行きますよね。厳密に言えば走る必要は本来なら無いですよ(笑)でもプロレスのルールで、相手の処まで行かないと行けないと言う規則があるのですよ。プロレスは殺し合いでは無くてショー的なスポーツですから、細かいルールが沢山あるのですよ。そして技には掛から無いと行けない規則もあります。もし、レスラーが相手の技に掛から無かったら試合になりません。それに場外乱闘で確かラッシャー木村だったっけな、リングの下に首と手突っ込んで少し経って出て来たら額から血が流れて居た事もありました。確かに自分でリング下に用意してある剃刀で切ったのでしょう。しかし此れは八百長ではありません。プロレスには善玉、悪玉という枠があります。善玉のことをベビーフェイス。悪玉の事をヒールと言います。ヒールは悪役だからスーパースターの技を引立て無くてはなりません。だからそう言う演出をします。プロレスを見て居るファンはそんな事は皆んな承知で観て居ます。そして試合の流れがあります。要するにスーパースターが勝つシナリオです。そのストーリーに沿って試合が展開します。ですが。時たま。そのストーリーが気に喰わない選手も居て喧嘩試合になる事もあります。

 

最後の決め技は選手のオリジナルの技で相手の3カウントを取ります。そうですプロレスはショーなんですよ。プロのフィギィア・スケーターの華麗な滑りと同じです。如何にカッコよく華々しく試合を終えるのかはストーリーがありますが。その時の客の反応と選手のコンデション。相手の選手との確執。色々と条件が揃った上で選手各自が考えて最後のフィナーレを飾るのです。勝手、全日本の天龍源一郎は「プロレスはジャズに似て居る。いい試合は如何にスイングして居るかだ」と言いましたし。アントニオ猪木は試合の上では妥協をしませんでした。いつも武士道精神でした。それが観るものに感動を与えて居たのですよ。特に猪木は千両役者でしたね。彼の演出は鬼気迫るものがあった。いい芝居やら。いい映画を見た気分に成れました。私がプロレスを観て居た時期は小学生から少しと20歳から28歳までです。今のプロレスは演出が下手です。軽めの技で難なく相手から3カウントを取ります。やはり往年のプロレス黄金期の1970年代から1980年代でしょうね。勝手、藤波辰巳が言って居たけど「皆さんは俺たちの華々しくカッコイイ、颯爽とした姿しか見て居ないでしょう。実際問題その裏では練習生などは鼓膜が破れたり、骨折したりして居るんですよ?」昔、タイガーマスクがダイナマイト・キッドとの試合でパイルドライバー(脳天杭打ち)と言う頭から真っ逆さまに落とす技があるのですが。あまりに激しく受け身が取れずに首の骨を骨折してしまった事がありました。誰が、どのレスラーが身体を鍛えて居ないのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

Antonio Inoki 

 

 

 

 

 

そして話は続きます。社員旅行に行った時です。私は社長、従兄弟たちと同じ部屋になりました。バカ親父が同じ部屋に入れたのです。私はその当時。睡眠薬を飲んで居ましたが夜8時に飲んだので、9時頃には、まだ眠れません。だから部屋にあったZライトを少しだけ点けて、毎週楽しみに読んで居た週間プロレスを購入して、睡眠薬が効いて来るまで、読みながら眠気が出て来るのを待って居ました。1980年代初頭は凄い売れ行きだったのですよ。何せプロレスは大ブームでしたからね。そうしたら、社長のかしろうが「ああ、灯が点いて居ると眠れません!!」と言うのです。だから、何だろと思ったけど灯りを消して月灯りで読んで居たら、今度は「ああ!雑誌の紙をめくる音が煩くて眠れません!!」と怒鳴るのです。私はこんな馬鹿連中は居ないだろうと思って居ると。今度は旅館の柱時計の音に対して「時計の音が煩くて眠れません!」

 

 

 

 

そう怒鳴ったら一緒に寝て居た若い社員が「ケッ!!」と言って毛布だけ持って他の部屋に行ってしまったら。「〇〇ちゃんの息を吐く音がうるさいです!!」私も嫌になったけど薬が回って来たので、寝て朝になるともう朝の4時半から社長は目を覚まして、旅館の椅子に浴衣姿で腰掛けて居るのです」「朝食時になって、流石にあきゆきでも私に言い訳、仕始めたので。私は一言「うるせ〜バカ野郎。もう2度と社員旅行なんてこね〜よ。馬鹿野郎どもが!!」と言ってそれ以来旅行には行きませんでした。大体があきゆきが前の夜に女の子たちがチアガールの扮装して足挙げてたら「〇〇。世の中は凄いだろう〜〜!!」とまるでストリップを見るが如く言うので吹き出してしまった。確かにパンチラは見えたけどもね。

 

何しろ田舎の旅館だ。働いて居る女の子たちは皆、東南アジアの18歳ぐらいの女の子たちだ。皆、夜遅くから朝方早くまで働きづめだ。少しエッチなラインダンスは見せるは、歌謡ショーはこなすし。朝は朝食ができる前の5時半ごろから喫茶バーでコーヒーも入れて居る。私はその中で目がくるりと大きな子に「君、国はどこ?」と言ったら「国?」と言うので「Where do you come from?」って言ったら「フィリッピン」と言ったっけなあ。しかしあれだけ働かされるのは大変だろうにと思う。フィリッピンの子なんて目の下にクマ作って居たからね。なんか、かわいそうだったよなぁ。日本に来てこんな仕事しかないのかなと思って・・・・・。前に、電車に乗って居たら、カンボジア人らしき男の学生が乗って居たけど周りに誰も座らないんだよね。まあ、今から30年ほど前の事だから差別があったね。日本人の愚かな処ですよ。白人の隣には進んで座るのにね。肌の色が黒いともう座らない。私はその様子を離れた席から見て居て日本人はアジアとか中東の人に冷たいなぁと思いましたよ......。

 

日本人が海外に行ってよく思われない事もあるのにさ、差別でね。アメリカ人が日本人を好意的に観てくれてるとでも思って居るのかねぇ。ジャップ。ニップ。吊り目野郎。色々言われて居るよ。芸能人だって日本人が嫌いな俳優とか女優。映画監督とか居るだろ。日本に原爆落としたのはアメリカ人の65%が正解だったと言って居るらしい。落とされた方は堪ったものでは無いのにね。ただ「火垂るの墓」のアニメと「焼き場に立つ少年」の写真には海外の人たちがショックを受けて泣いてくれたよ。アメリカ人も泣いてくれた。根本的にどこの国の人間でも感情は大方同じなんだよ。肌の色、目の色、背の大きさの違いを除けば。だから本来人は皆解り合えるはずなんだよね。実際はそれなのに差別がある。アメリカでは日本人の兵隊は若い女性を皆レイプし殺し。子供などを虐殺して脳味噌を食べたとか言われて居るの知って居ますか、皆さん。そんな事を言われて居る英霊たちが気の毒ですよね。沖縄で小学6年生の女の子をレイプしたのはアメリカ兵ですよ。若松孝二監督が、アメリカは酷いと生前怒って居ましたよ。女子高生では無いですよ?小学生ですよ?まあ、私の話は此処までにしときます。また長くなりました。

 

 

【海外の反応/アニメ】火垂るの墓 泣きながら翻訳しました Grave of the Firefiles reaction 

 

 

 

海外・焼き場に立つ気丈な少年の姿に涙。

 
今回ご紹介する「焼き場に立つ少年」と題された1枚の写真は、
米国の写真家ジョー・オダネル氏が原爆投下後の長崎の火葬場で撮影した物で、
亡くなった弟を背負い、直立不動の姿勢で立つ少年の姿が収められています。

この写真は、少年が弟を荼毘に付す順番を待っている際に撮影されたのですが、
オダネル氏によると、少年は硬い表情で目を凝らして立ち尽くしており、
何の感情も見せず、涙も流していなかったそうです。
しかし弟が荼毘に付されている最中には炎を食い入るように見つめ始め、
その唇には血が滲んていたとオダネル氏は回想しています。

写真を取り上げた投稿には、少年の姿に日本人の特別な精神性を見出す声など、
多くの反応が海外から寄せられていましたので、その一部をご紹介します。

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■ 少年の気高さと力強さに敬意を覚えた。
  あの年齢の子供がこれだけの責任感を持っているなんて、
  ちょっと信じられないよ。 +4 オーストラリア




■ 涙が止まらない。
  こんな悲しいことは二度と、絶対に起こしちゃ駄目だ! カナダ




■ こんなに人の心を揺さぶる写真は他にないだろ。 +4 アメリカ




■ なんて強い子なんだろう。気丈な少年に敬意を。 +2 国籍不明




■ 日本人の高潔さであったり責任感の強さであったりは、
  生まれ持ったものなのかもしれないね。 カナダ




■ この写真は核兵器の愚かさを伝えるものとして、
  ずっと語り継がれていく必要があるな……。 +59 カナダ




■ アメリカ政府こそ真のテロリストだったように思うの😟 +3 アメリカ




■ こんなに心を揺さぶられる写真に出会ったのは初めてだ。
  人間はなんて残酷なんだろう。
  そして、なんて気高い存在になれるんだろうか。 アメリカ




■ 少年の気丈な態度を見てると、胸が張り裂けそう。
  あの子がどんな辛い現実を目にして来たのか想像もつかない。
  気高い魂と勇気があの子を支えているのね。 +3 国籍不明




■ あんなに小さな体なのに、素晴らしく強い精神を持ってるね。 メキシコ




■ 「火垂るの墓」を想起したのは僕だけじゃないよね? +3 カナダ





■ この勇敢な少年は、どんな男性へと成長していったのかしら。
  本当に心を揺さぶられました。 +12 アメリカ




■ 政治的なコメントは求められてないことは分かってる。
  それでも言わざるを得ない。
  アメリカは原爆なんか使わなくても日本に勝てただろ。 +4 アメリカ




■ 原爆投下前に日本が降伏に動いてたことを現代人はみんな知ってる。
  アメリカは原爆の威力をテストしたかったんだよ。
  もちろん全てのアメリカ国民や連合国が知ってたとは思わないよ。
  だけど少なくともトルーマンや軍部は知っていた……。
  残念ながら今となってはその証拠は残ってないが。 +13 イタリア




■ 誰が悪いとか、今となっては詮無いことでしょ……。
  俺はただただあの勇敢な少年に感銘を受けてる。
  彼はまだ幼い少年であっても、日本人であり、
  そしてサムライだったんだ。 +6 オーストラリア




■ 僕ならあんなに気丈に振る舞えない。強いなぁ……。 アメリカ




■ あの男の子はおそらく、天涯孤独の身だよね……。
  このあと、どんな青年に成長したんだろう。 +5 カナダ




■ 当時の日本は軍国主義ではあったけど、
  それでも他の国の人たちと比較した時、
  日本人の精神性は一番高潔だったと思う。 +12 ベトナム





■ こんなに直視が難しい写真に出会ったのは初めてだ。 +212 アメリカ




■ 日本人は幼い頃から強い男になる準備が出来てるんだな……。 アメリカ




■ 70年が経った今も戦争はなくなっていない。
  俺たちは何も学んでこなかったのか……? +4 カナダ




■ 心が痛い……。
  しかしあの少年の精神の強さと気高さは見事だなぁ。 +1 アメリカ




■ とても凛々しい表情をしてるけど、
  そこから読み取れるのは、悲しみだけ……。 +2 アメリカ




■ 今もご存命なのかしら。
  あの姿勢が全てを物語ってる。辛くても強くあろうとしてるのよ。
  あの小さなサムライがどれだけの悲しみを背負っているのか、
  私たちには想像もできない。本当に、本当に悲しい。 +8 日本在住




■ 心が引き裂かれるような思いだ……。
  確かにアメリカを先に攻撃したのは日本かもしれない。
  だけど彼らはその代償を受けた。
  日本人は国のために戦った兵士達に敬意を払っているけど、
  アメリカに戦争を仕掛けたことは誇ってはいない。
  そのへんは歴史を修正しようとするネオナチとは違う。 +5 ギリシャ




■ 悲しすぎる。
  戦争で一番被害を受けるのは一般市民、特に子供なんだよ。 +7 インド




■ この写真を撮影したジョーは数年をかけて、
  あの少年をまた見つけ出そうとしたんだよね。 +2 アメリカ




■ アメリカが日本で「実験」をしたのはかなりひどいこと。
  それでも日本人はアメリカを恨んでいない。
  そういう精神性を持つ国民だからこそ、
  破壊された都市を復興させる奇跡を起こせたんだと思う。 +18 イタリア




■ 日本人は、なんて気高い民族なんだろう。
  あんな小さな子供でさえ、高潔な精神を持ってるんだ。 +52 ベトナム




■ 自分の祖国が過去に外国の一般人に対して、
  こんなひどい事をしたなんていまだに信じられない。 +2 アメリカ




■ 少年の目と姿勢から、断固とした決意と勇気がうかがえる。
  一般的な大人でさえ目にしたことがないような色々なことが、
  少年の目の前で起きてきたんだろうな。 +2 イギリス




■ とても強い人たち。それが日本人なんだよ。 +3 アメリカ




■ 強い子だ。俺だったら耐えられない。
  しかし子供が苦しむ姿は本当に嫌なもんだな……。 +1 ポーランド




■ 悲劇の最中に子供があれだけの落ち着きを……。
  日本人はどんな悲劇に見舞われたあとであっても、
  常に素晴らしい気高さを見せてくれるね……。 イタリア




■ この写真から目を背けてはいけない。これは歴史なんだ。
  そして過去があったからこそ、現在の世界がある。
  今はただ、あの少年に敬意を表しよう。 +7 スペイン
 

 

 

 

 

『大バカ女』

今から18年程前に、実家の駅の近くにあった中華料理店に母と二人で行った。そこには賄いのおばさんが居て、私は母が認知症だから母を気遣い。当時はまだ、スマホでは無くて携帯電話だったから、携帯を見せて二人で話して居たのだが、その様子を見て居たそのおばさんが、ニヤニヤして私たちを見て居た。そして、コック長にこう言ったのだ「あの二人出来てるよ。あの若いのツバメだよ!!」そして私はレバニラ炒め定食を頼み母は広東麺を頼んだのだが。そいつが料理を持って来た時に母にコップの水を引っ掛けた。母は認知症だから何されたのかよく解らない。私は頭に来て携帯で近所の知り合いの派出所の警官を呼んで事情を説明した。そうしたら、そのババアは初めはわざとでは無いとか言って居たが、暫くすると「何さ、60にもなって30ぐらいの若い男を咥え込んで!!あたしゃ、頭に来たのさぁ!!」と言った。私は警官に一緒に居るのは母親で。此処へは数回食事を食べに来たが何時もいやたらしい顔をして。あの、おばさんが対応して居たと言った。警官はそのババアに「水は故意に掛けたんだな?」と問いただすと。「若い男がレバニラ炒めなんか食べて居るのは、この後、ラブホテルに行って懇ろになる為だろう?」と警官にそう言った。警官は黙って私を見て、「どうしますか?こう言った場合。侮辱罪にもなるし名誉毀損で訴える事も出来ますが?」そう私に言ったから。

 

私が店の責任者と話をしたいと言うと。店の責任者のコックが出て来て平謝りに誤った。その時に店には客が3組ほど居たが。皆、苦虫をすり潰すような顔をしてそのババアを見て居た。そして私は別に何もしないが2度と此処へは来ないと言ったら。コック長は料金をタダにするからそれで勘弁してくれと言った。私たちは料理だけ食べて二人で帰って来た。その後その店は悪い噂が広まり潰れた。毋は何時も歳より若く見られる。私の家系は皆若く見られるし、私もだが色が白い。よく訪問看護師の女の子たちから「色がなんて白いの?いいわよね。」と言われるが。当時、母はもう70歳近かった。母が福島にいた頃だ。田舎で女学校の帰りに畦道を歩いて居るとすれ違う男たちから「この色女!!」と罵声をよく浴びせられたと言って居た。私の自慢では無いが、母は色が白くて東北美人だ。母が18歳ぐらいの頃に、役場に勤めて居たらそこの人から顔を洗ってみろと言われて、冬なのに、しかも東北だ。母はまた従わないと親が居ない身だから何を言われるか解らない。自分がそこをクビになったら。2人の妹たちはどうなるのかと思い。

 

仕方が無く顔をバケツの汲み置きの冷たい水で洗ったそうだ。そうしたら、ただでさえ白い顔が寒さで凍りつくような水で洗ったから青白くなったそうだ。そうしたら、そいつは「なんだか厚化粧をして居るからと思って顔を洗わせたら、ますます白くなったぞ」と言ってそれから母の事を色女とは言わなくなったそうだ。母が中学生だった弟と一緒に和気藹々と話をしてデパートからタクシー乗り場に行った時だ。あるババアがこう言い放った。「あの女あんな若いツバメとデートした帰りなんだ!!」一体どれだけバカな中年のババアが多いいか!!当時母は50歳ぐらいだ。母はよく近所の八百屋に行って話をして居て子供が3人居ると言うと。皆んな腰を抜かして「お嬢さん、まだ20ぐらいだろう冗談はやめてくれ」と言って誰も信じないと言って30代の頃に困って居た。

 

私は前にも書いたが。小学生の頃に若かった母がタンクトップにミニスカートを履いて私の手を引いて新宿に行った時に思った「僕のママはこんなに美人で色が白くて素敵なんだぞ」と自慢だった。丁度、1969年ぐらいだ。ババアは、ほとほと嫌になる。此れは日本だけが特有な事なのだろう。外国では歳を重ねて居て若いと言う事は。誉なのですよ、周りの皆んなも絶賛してくれる。日本だけだ。村社会で閉鎖的なのは。そして色魔が多い。男も女も。現にネットを観て見ろ!!どれだけ破廉恥な画像が垂れ流しになって居るか?外国では一部の有料ポルノサイトでも無い限りネットで猥褻画像は見る事は出来ない。日本人は男も女も最近は色魔が大いいのですよ。日頃からおばさんたちはセックスの事しか考えて居ないから。今書いて来た様に歳を取った美人が自分の息子と歩いて居るのにツバメだと言って勝手に絡んで僻んで言うのですよね。

 

私も兎角若く見られる。最近になって要約、いい加減に歳になって来て歳取って見えるが。周りは皆んな酷い人になると62歳の私を40歳、いや酷い場合は30代に観て居る人が居る。この事は何遍も言うけど。弁当屋に僻まれたり美容院で僻まれたり、だから私はもう弁当屋に電話を掛けて言った。ドアの横に弁当ボックスが置いてあるから。そこにドライアイスと一緒に毎日弁当は入れと居て下さいと。集金の時だけチャイムを5回鳴らして下さい。そうしたら集金のお金を払いに出ますからと言ってある。だってね「あんた、まだ、若いんだろう。長髪にしてカッコつけてさぁ。黒いロングベストに黒いシャツ着てさぁ!!何なわけぇ!!」と言われるのだから。下のアパートの住人には私は62歳だと年齢をわざと明かしてある。そうすれば話が近所に回ると思ったからだ。でも自分でも不思議と鏡を見て居て体が浮腫んで居ない時にはあれ?40代に見えるかな?と思う時もある。「しょってら〜〜!」と言われるだろうけどね。まあ、確かに私は若作りだし。気が若い。

 

大体が70歳以上の人は漫画と言っても殆ど興味が無い人が多いが。本来ならば全共闘世代は漫画が好きだったはずなのだが。矢張り60代以前の人たちが、圧倒的に漫画をよく知って居て読んで居る。アニメもそうだ。70代は殆ど皆知らない。私は此れでも若い頃にこの事は何遍もまた言うが。アニメーションの演出家を目座した時期があるから。アニメは最近のものも見て居るが...。現に、私が自分よりも若い女性に「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を進めてファンにさせて居るぐらいだ。私は女性が好むものでも若者が好むものでもいいと思えば自分に取り入れて居ますよ。何でも参考にする。だから場合によっては下手な若者よりも知識がある事もある。年取って居るから、当たり前だと思われるかも知れないけど・・・。人は結構学んで居ないものですよ。私が、だからと言って人よりも学んで居るとは思えないけど。特にお年を召した方々に言いたい。何遍も口を酸っぱくして言って居るが。何時までも昭和30年代では無いのだから。それは私も1950年代生まれだから気持ちは分かる。

 

しかし、この21世紀にもなってロックは不良のやる音楽だとか?何、時代錯誤も甚だしい事を言って居るのだと言いたくなります。それは好みもあるでしょう?ロックが嫌いな人も居る訳でして、、私は音楽は何でも聴きますが。ただ、私とてロックの中でもグラム・ロック。ソフト・ロック。プログレッシブ・ロック。パンク・ロック。最近ではガレージ。ノイズ。ビジュアル系ヒップホップなどと色々な波形形態の音楽が出始めて居ますよね。私はロックは昔は知的なものだったのにパンク・ロック(自分らを最低なやろう)と言って出て来た。パンク・ロック辺りからロックの衰退が始まったと思って居ますけどね。まあ、でも私はジャズもロックもブルースもクラシックも同列に考えて聴いて居ますが。普通は何か一つのジャンルに留まってそれ以外聴かないものですね。私はタンゴもボサノバもシャンソンも聴きますが。ある時に浅川マキの歌うシャンソンを聴いて居たら。やって来た女の子が、「なんて変な曲聴いてるの?」と言って居たから。

 

だから私が「浅川マキが歌っているシャンソンだよ?」と言ってもシャンソンの事を知らない。だから、「浅川マキは全共闘世代から支持されたアングラの女王と言われた歌手だよ」と説明した。それでも訳解らない顔をして居たけどね。私は美輪明宏さんを尊敬して居るけど。その子は。「何であんな男のくせに。女装して居る人のどこがいいの?」と私に聞いて来た。だから私が彼女(彼)の功績を聞かせて紫綬褒章も貰って居る人だよと言っても。よく解らない見たいだった。最近では、GACKT君でさえ、嫌う人が居る程だ。ただある人からこう言われた

 

「あなたはいいけど。酷い人は眼も当てられないわよ」.....。「それって皮肉かなぁ〜」とか一瞬思ったけど、、そう言う事では無い見たいだし、、最近、馴染みのミニストップやらセブンイレブンの店員さんから好意的に見られる事が多くなった。何時も買いに行くからだが。私の格好が何時も黒い服を着て居るからだろう。もう覚えられて居るのですよね。だから私は悪い事はこの町では出来ないですよ。話が大分ズレて仕舞ったけど。若く見られるのはイイ場合もあるけど。矢張りある程度は歳に見えないと。自分の実年齢に見えないとおかしいですよね。私の弟は色が白いのを嫌って日焼けサロンで肌を焼いて居たっけなぁ、、その事を訪問看護師の女の子に言ったら。「何て勿体無い事してるんですかぁ?」と吃驚された。何故、私も実年齢よりも多少なりとも若く見られるのだろうと思ったら、シワがないのですよね。顔にね、、最近になって豊麗線が要約出て来て、矢張り年取ったなぁと流石に思いますが。それも疲れて居ると目立つけど。普段はそんなに目立た無いですね。それに長髪にすると可成り若く見えますよ。男性諸氏には長髪をお勧めしますよ。それでは今回は此れぐらいにしときます。話はまだ継きますが一旦ここで休憩です。。。

 

 

 

嫌われるおばさんは、一言で言えばどうしようもない人でしょう。ダメ人間と考えても良いかも知れません。その様な人から、たとえ嫌がらせをされても仕返しをしない方が良いでしょう。そうする事で、さらにエスカレートし、手が付けられなくなるでしょう。人間関係は距離感が解決してくれる事もあります。関わらない事が一番の策かも知れません。

 

私の親戚のおばさんで、私が小学校高学年の時に隙間棚を工作で作って家に置いて居た事がありました。そうしたら、それを見て「あら見て!!何時こんなに高価な棚を買ったのよ!?」と言うのですよね。私は「それは自分が作ったんだ」と言ったら、「あらだって、ニスだって塗ってあるじゃないのヨォ!!」私が幾ら自作したものだと言っても信じずに、「こんなに高価な棚を買って贅沢をして居る・・・。」と言うのですよね。私は見かねて「欲しいんですか。なら挙げますよ?」と言ったんですよ。そうしたら「あら、こんなに高価な棚貰えるなんて貰って行くわよ!!」と言って持って行きました。私は最低な親戚のバカなおばさんだと思いましたよ........。

 

 

 

 

 

 

 

最近、大評判で大ヒットになって居た「鬼滅の刃」をある女の子が観に行ったのだと言う。しかも泣きたくて、泣ける映画だと言うから観に行ったのに、全然泣けなくて面白いことは面白いのだが、ともかく泣ける映画ではなかったと言うので、私は京アニのアニメでは「聲の形」と言う泣ける映画が「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の他にもう1本あるじゃ無いかと言ったら。知らないと言うので、ストーリーを話して聞かせた。

 

 

 

『聲の形』

 

「小学校にある可愛い女の子が編入して来る。しかし彼女は障害を持って居て耳が聞こえなかった。そのクラスのガキ大将、石田将也は、その子に興味を示すが、それはその子に対して残酷なものだった、西宮硝子をからかい、そしていじめ始めたのだ。そしてからかったのは生徒の半分ぐらいの子たちだった。彼女の補聴器は貸して見てと言われて、将也に校庭に窓から投げて捨てられた。捨てられた補聴器は8個にも及んだ。そして将也がある時に硝子の両耳から補聴器をもぎ取ったら彼女の耳から血が流れて来た。それでも友達たちは「お前やりすぎ〜。」としか言わなかった。彼女を庇うのは同じ同級生でも優しい女の子の一部だけだった。他は知らん顔だった。

 

そんなある日一人で居た彼女に将也は小石をぶつけて、こう言うのだった。「お前さあ、うまくしねえと皆んなから、うざがられるんじゃねえの?」すると彼女は指を自分にさして次に彼に差し両手を握った。手話がわからない彼は一言「気持ち悪いんだよ」と言って彼女に砂を掛けた。それから数日経って、彼は自分の机が綺麗な事に気が付いた。何と硝子が毎日きれいに布巾で拭いて居たのだった。それを観た彼は硝子に掴みかかり二人はもつれ合って叩き合いになって行った。泣きながら怒って彼女は抗議した。将也は「何言ってるかわかんねえよ!!」と言って居た。

 

そして、それから、数日して彼女はスケッチブックに「ごめんなさい」と書いた。しかし石田将也は、「言いたい事があれば言えよ。」と言って、その連絡用に使って居るスケッチブックを、学校の用水路の中に放り投げて仲間たちと「行こうぜ」と言って居なくなった。それから暫く経って西宮硝子は学校を辞めた。そして小学校の校長と担任は彼女をいじめて居た人物を探した。担任にはすぐに分かった。「いじめてたのは石田だろう!!」と将也に迫った。彼は周りも半数の生徒がいじめて居たと言い張ったが。彼一人のせいになった。

 

それから今度は同級生たちは彼の事を仲間外れにし、いじめ出した。彼は中学の新学期に一番仲が良かった同級生に。「石田はいじめっ子だから声をかけるなよ」と言われて居るのを知った、、彼は悟った。「自分のした事は悪かった。これが罰だ自分はもう一生誰からも相手にされないだろう。」そして全財産を銀行から下ろし。母親の寝て居る枕元に置いて自殺しようとした。しかし死にきれなかった。そして時は流れ彼は高校生になって居た。そして何と同じ高校に西宮硝子が居ると聞かされた。

 

彼は彼女が居るクラスまで。自分が用水路に捨てた、彼女が小学生の頃に大切にして居た、連絡用のスケッチブックとフランスパンを土産に買って出向いた。もちろん彼女に謝罪するつもりでだ。彼を見た硝子は初め嫌がって逃げるが。彼は彼女を追いかけて言った。自分を指差しそして彼女を指差し両手を握った。それは彼女が小学校の時に散々彼にやって居た手話だった「君と友達になりたい」そう言う意味だったと将也は自分の頬を打って「要約分かった」と言った。そして許しを乞うた。目の前にいる西宮硝子は可愛くそして綺麗な17歳の女の子になって居た。

 

彼はスケッチブックを顔に当てて涙ぐむ彼女に言った。「泣かないで、泣くなよ、、西宮」

彼女は手話で聞いた「手話どうして分かるの?」彼は言った。「あっ、勉強した」それから二人は付き合い始めた仲間の女の子の意地の悪い子が二人で居る所を見て将也に言った「いじめて居た奴と仲直りして付き合ってんの笑う〜〜。」私は思うが二人は両方とも孤独だったのだと思う。だからこの後の展開があるのだ....。そしてある夏休みに硝子と二人で雄大な自然の景色を見に行ったら、何故だか彼女は浮かない顔をして居る。いや誘った時から浮かない顔をして居た。

 

彼は何故だろうと思って居たら、彼女が自分を指差しそして彼を指差しそれを手で切る仕草をした。「私と居るとあなたは不幸になる」そう言ったのだ。将也は「何言ってんだよ、そんな事ある訳無いだろ!!」そう言った。それから暫く経ったある日、友達と硝子と将也は祭りに出かけて花火を見た。西宮硝子は笑顔で見て居た。そして彼女を家に送って行き。一旦は帰ろうとしたが、言い忘れた事があると戻ると硝子は居なくて、窓の隙間からベランダの上からガードの上に彼女が登るのが見えた。将也は慌てて止めようとして椅子にぶつかって倒れた。しかしすぐに立ち上がって聞こえないであろう彼女に、彼女の名を精一杯の声で叫んだ「しょうこ!!」そして落ちた彼女の腕を必死で掴んで引っ張り上げようとして居た。

 

彼は祈った。「神様。僕に力を下さい。明日からちゃんと周りを見ます。生きる努力もします。だから力を・・・・」すると彼女は自力で、もう片方の手でベランダを掴みそして上に上がろうとした、しかしその反動で将也が下まで落ちて行った。下は川だった。将也は重傷を負ったが助かった。彼は病院に入院した。彼女は塞ぎ込んで居た。そこに彼の女友達の一人がやって来て言った「てめえ!!何様だ。死ぬなら自分一人で勝手にくたばれ!!てめえのせいで将也は命なくす所だったんだぞ。私はなぁ、お前見たいな自分の事しか考えられない女が!!一番腹立つんだよ!!」」そう言いながら彼女は硝子を袋叩きにした。それを見て居た硝子の母親が止めに入った。するとその子が硝子の母親に言った「てめえ何様だ。ちゃんと子供の躾が出来ないならガキなんか産むんじゃねえよ!!」すると今度は石田将也のお母さんが止めに入った。

 

すると硝子は彼女の足元に跪き。いつまでも、いつまでも「ごめんなさい。ごめんなさい」と喋れない声で泣きながら謝り続けた。それから暫く経って寝て居たら、夢の中に石田将也が現れて「硝子、じゃあな〜」。と居なくなる夢を見た。彼女は飛び起き、サンダルを履くと彼が落ちた川のそばの橋の上に立ってそして蹲るとすぐに声をあげて「あああああ〜」と泣き叫んだ。その頃、石田将也も何かを感じ「硝子に会わないと彼女は無事か、、」とベットから点滴を外して起き上がり、病院を抜け出して、彼女の家まで行こうと橋のところまで来て西宮硝子が泣いて居るのを見つけて声を掛けた。

 

すると彼女はふらふらと彼のもとに来て人差し指で彼を触ると、後ろに下がってそして座り込み彼に謝り始めた「私が死のうとしたから、あなたが、落ちた、私のせい」口が聞けない彼女が必死に彼にそう言って居た。将也は彼女の肩にそっと触れて落ち着かせると言った。「君に頼みがある。僕が生きるのを手伝って欲しい」告白だった。彼女は安堵して小指に小指を掛けて。「約束?」と言った。彼女は次の日に嫌がる将也を連れて早足で高校の文化祭に連れて行った。彼は仲間たちに言った。「皆んなに頼みがあるんだ。今日一日文化祭を皆んなで見たい」そう言った。彼は仲間たちと文化祭を見て廻った。すると誰もが彼を見て微笑んで居た。彼の眼からは大粒の涙が溢れ出して居た。彼は男泣きに泣いた。彼は許されそして愛を得たのだった。。。」

 

 

 

この話をしたらその女の子は、「話は聞いて見るものね。人の話が役に立つ。」と言ったので私は「観て見なよ」と言った。今巷では「鬼滅の刃」が大ヒットを飛ばして居た。凄いヒットだ。私は此間テレビシリーズの初めを少し観ただけだ。だからいいとも悪いとも言えない。しかし、私には合いそうも無いなと思った。あれは若者が見て喜ぶ話だ。私は此処の所。自分より歳を取った人にもっと若者の文化も取り入れて見てはどうだと言って来た。しかし、矢張り、歳には勝てない。まあ、観て居ないのだから判断の下し様は無いのだが、初めの5分で、「何だかこれは自分の様な歳のものには無理だな」と思ったのですよね。私は「エヴァンゲリオン」は何とか最近になって解って来たが。この「鬼滅の刃」は自分には合いそうもない。要するに私も老人になったと言う事です。下にある女性への返信のコメントですが、「聲の形」の事を書いて居るの此処にも貼り付けて置きますね。

 

 

 

 

この作品「聲の形」はついこの間テレビで放映して居ました。
私は持って居なかったのでBlu-rayに録画しました。

もうこの作品を作って居たアニメーターたちには会えません。
そう、京アニにガソリン撒いて火をつけた精神異常者に38人も
殺されてしまったからです。皆んな優秀な若者たちでした。

「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」が彼らの最後の作品になったのでしょうね、、
あの惨劇の後に、現場にはドイツやら、ノルウェイ、イタリア、フランス、
アメリカの京都アニメの作品のファンが来て献花台に花束を添えて
ローソクを灯して夜遅くまで日本のファンたちと一緒になって
お祈りをして居ました、皆んなこの「聲の形」が好きだったんですよ。

私はこの作品は今から16年ほど前に入院して居た病院に
確か新人漫画賞入選作品として「別冊少年マガジン」に掲載されて
居たものを読んで、見ながら涙が滲んで来た事を覚えて居ます。

アニメも素晴らしいですが。原作の漫画の方も素晴らしいですよ。
当時若干19歳でこの作品を描いた大今良時君と矢張りそれを
アニメ化した山田尚子監督。そして素晴らしい声優陣たち。

元ガキ大将の主人公と聴覚障害があるヒロインの切ない青春を描い
た名作アニメですね。私は最近のアニメは余り見ないのですが、、
この作品は一度。配信で見て、気に入って居たのですよ。

だからこの間のテレビ放送は本当にありがたかったです。
是非、アニメ。漫画共々観て見て下さいね。
いい作品は世代も時代も性別も超えて普遍的な輝きを
持って居るものですよ。

確か漫画の方は単行本8巻ぐらいあるのかな、、アニメで描いた
その後の話が続いてあるのでしょうね。私は漫画の方は
「別冊少年マガジン」入選時のものしか見ておりませんが。
絵柄はアニメよりも精密だった様な気がします。
とにかく泣けた漫画でした。


何故か書きたくなりました。多分私が此間自殺しようと思った
事があったからでしょうね。 障害は苦しいですよ。

でも、まあ、今は余り悲観的には思っては居ません。
人は生きていれば皆んな辛いですからね・・・・。

 

 

 

聲の形 自殺シーン

 

聲の形 ごめんなさい

 

 

 

 

 

【MAD】Koe no Katachi - Koi wo Shita no wa (恋をしたのは)

 

 

 

 

 

 

今回は此処までです。また更新したらお逢いしましょう。。。