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blues harmonicaのブログ

ハーモニカが好きで吹いています。全然ヘタですが。
これから日々気が付いた事など書いて行こうと思っています、、
宜しくお願い致します。。。。。

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Light of Hope〜精神病院で出会ったふたりの奇跡

 

私は今、猛烈に眠たい。全て薬のせいだ。今から、2年前、私は意識が無くなった。この時は食欲が無くなり、ものを食べると吐いてしまう有様でした。だから主治医に、言ったら、薬を処方すると言われて、5錠も薬が出た。それを飲んだら、ある日意識が無くなって病院に担ぎ込まれたのです。結果。薬が悪かったと解り、すべて外された。そのお陰で、薬の離脱状態時に見る、幻覚を見た。生まれて初めての幻覚だった。幻覚は2度あった。一つは病院から抜け出して、繁華街に行き。彷徨いて居るのだ。私はその街で外国人の若い女の子に物凄く優しくされて、その子に熱々になった。しかしこれは幻覚の夢だった。私が目を開けると、看護師の女の子が私のベットの前に椅子を持って来て座って、私を見て居た。私はその子に言った。「カレンは?」すると微笑んで居る。「カレンはどこ?」するとこう言った。

 

「〇〇さんの幻覚の夢は良い夢だった見たいね。」そして。ベットに寝ながら尿道に管を通されて居るお小水が溜まる袋を取り替えて言った。「もう2日も魘されて居ましたよ。」私は現実に戻ったのだった。そしてもう一度。幻覚を見た。それは恐ろしい幻覚だった、私のベットはだだっ広い、草原に置いてあり。その周りでは全身白塗りのスキンヘッドに褌姿の男たちが何千人と居て、私のベットを囲む様にして踊り狂って居るのだ。そして手にはするどい刃物を持って居てお互いに斬り合いをして居る。白い身体から真っ赤な赤い血が迸って血塗れで踊って居た。まるで暗黒舞踏家の土方巽が躍る舞踏に似て居た。是等は坑精神薬の薬が体内から抜ける時に見た幻覚だった。まるで大麻やコカイン。SLDなどの麻薬と一緒だ抗精神薬は確かに精神がおかしい人には薬になるだろうけど、その分副作用は強く怖いものです。

 

私は3人姉弟に生まれた。私は長男だ。次男の弟と3歳違いの姉が居た。弟とは8歳違いだった。姉は死んだ父型の祖母に似て居て物凄く、きつい女だ。弟は勉強が出来て頭が良かった。良く弟が子供の頃、三輪車に弟を乗せて後ろから押してやったり。箱に車輪が付いたものに乗せて。紐を付けて引っ張って遊んでやった記憶がある。近所のおばさんが「あら、○ちゃん、良いわねぇ〜お兄ちゃんに遊んで貰って!!」と言って居た。その弟はもう居ない。私はこう見えても小学校では結構有名だった。何故なら、毎年必ず2枚かそこらの賞状を貰うからだった。私は小学校の頃は勉強が良く出来た。副学級委員にもなった。私は小学校低学年の頃からグループサウンズやら、ロックが好きだった。私の家は何遍も言うが下宿屋をして居た。小学校低学年の頃には北海道から来た大学生が下宿して居て、よくその学生の部屋に入り浸って。

 

14型の白黒テレビを観せて貰って居た。北海道から来たお兄ちゃんは、テレビが好きでよく私に乾物屋に行って、かっぱえびせんとポテトチップにコカコーラを買って来いと言って。二人して、「あしたのジョー」「ルパン三世」「ゲバゲバ90分」「キイハンター」「冬物語」「佐武と市捕物控」「忍風カムイ外伝」「天才バカボン」「気になる嫁さん」「雑居時代」などを見て居た。私の父は時代劇と西部劇が好きだった。だからお兄ちゃんとテレビが見られない時は、父とテレビを見て居た「子連れ狼」「木枯紋次郎」「唖侍・鬼一方眼」「新選組血風録」「燃えよ剣」「コンバット」「ローハイド」「ララミー牧場」「ライフルマン」「拳銃無宿」などをよく見て居た。母は優しい人で、私の誕生日には私の好物の唐揚げやら、母が作る特製のミートソースのスパゲティーとちらし寿司を作ってくれた。

 

 

URIAH HEEP JULY MORNING 1972

 

私は、小学校の3年生まではラジオを持って居なかった。だから、鉱石ラジオの三百八十円のものを玩具屋から購入して自分で組み立てて、聴いて居た、鉱石ラジオは長さ5センチくらいの物だ。アンテナシールドを電話機のコードに挟んで電波を受信した。スピーカーは無くイヤフォンを挿して聴く。私は、小学生の頃は、特に低学年の頃はラジオは鉱石ラジオしか持って居なかったので、それで、音楽を聴いて居た。勿論音は悪い。しかしある日の夜、鉱石ラジオから、爆音のエレキギターが聴こえて来たのだ。私は「何だ!この物凄いエレキは!!」と耳を疑った。ジミ・ヘンドリックスのブルース・ロックギターだったのだ。

 

ラジオを聴いて居ると、何でも「ウッドストック」と言う、音楽の祭典があって。その時のライブの音源だった。曲名は「Star,spangled,banner(星条旗よ永遠なれ/アメリカ国家)」だった。私は「この人は天才か?」と思った。翌日。大学生に聞いて見ると、最近のロックギタリストでは最高峰の男だと聞いた。私はそれ以来ロックを本格的に聴こうと思って、母に言った。「ラジカセ買ってくれない。」母は見て居たのだろうと思う。なぜか反対はしなかった。

 

そして3日後にデパートの家電売り場で懇意にして居た店員からサンヨーの普及型ラジカセを買って帰って来た。そして私に渡して行った。「勉強はしっかりやりなさい」。なんでもこのサンヨーのラジカセは高域がよく出て、低音もしっかりと伸びるワイドレンジな音と言う感じで、この当時、ナショナルやらソニーと比べても良い音だと言われて居たものだった。私はそのラジカセを何時もはな身放さず持って居た。小学校にも持って行った。当時、レコードは高くて買えなかったし、要約、小遣いを貯めて、「豪華、マカロニウエスタン・テーマ曲集・決定盤」と言う。2枚組のレコード3千8百円の物を持って居ただけだった。そのレコードは、近所の大学生のステレオで再生し、カセットテープに録音して居た。当時はラジカセがトレンドだった、

 

各々、手持ちのラジカセを持ち寄って、ラジカセ評論会などをして居た。友人たちも負けじ踊らずアイワだとか、ナショナル、ソニーまたは日立、シャープと色々とラジカセを持って居た。私はそのサンヨーのラジカセは中学3年まで使って居た。そして中学3年の時に壊れて仕舞った。何とか音は鳴るのだが、ラジオが入り難く成ったのだ。私は3年の学園祭で友人から、「そのラジカセを寄越せ」と言われた。バザーに出すと言う、壊れて居るし良いかと思い渡して。その後、幾らに成ったと聞いたら「けっ!百円だ!!」と言って居た。私はそれを聞いてその同級生の友達とは絶交した。

 

The Jimi Hendrix Experience - Hey Joe - LIVE (1967) 

 

私は北海道のお兄ちやんが大学を卒業して実家に帰った後も、その次に来た、大学生に取り入った。色々な学生が居た。東大。明治大学。高千穂商科大学。慶應義塾大学。明星大学。色々な大学生が私の家に下宿に来て、そして卒業とともに実家に帰って行った。だから私は小学生から中学ぐらいまでの間、全共闘世代の学生と子供の時から話をして居た事になる。勿論影響は受けた。私は高校生になると家は下宿人を余り置か無くなって。私は次に自分の感性を磨く処。音楽喫茶と映画小屋に通う様になった。勿論誰もそんな処があるとは教えてくれない。だから当時の情報誌「ぴあ」が頼りだった。それと若者向けの男性週刊誌「平凡パンチ」だった。私は「ぴあ」で埋もれたイタリア映画。フランスのフィルム・ノワールと名作映画を良く観た。そしてテレビの映画劇場は全て観た。特にマカロニ・ウエスタンは、この頃はテレビでマカロニの未公開映画を多数放映してくれて居た。私はむしゃぶる様に観た。映画喫茶に行って、「ぴあ」でコンサートの予定を調べた。サントラ・レコードを結構聴いたし、ジャズ喫茶で通が好んで聞くレコードを知り。ブルース喫茶でバンドでの演奏の肥やしに成るブルースのレコードを可也聞いた。最新のサブ・カルチャーなどの動向は「平凡パンチ」で仕入れて居た。その代わり勉強はダメに成って行った。

 

勉強が分からなく成ったのは小学校3年生の時に扁桃腺の手術をして学校を半年休んでからだ。同級生は勉強が進んで行くが私は置いてきぼりにされて仕舞った。私は親に教えてくれと言ったが父は1日朝早く起きて教えてくれただけで次から教えてはくれなかった。母も塾の先生だとかは付けてくれなかった。私は孤立した。だから尚更、音楽と映画に没頭し猛進して行った。そして何とか大学に受かり、もう勉強をしようと思って、勉強を仕出した。処が当時の大学生の気風はしらけて居て大学でちゃんと勉強をする学生など居なかった。せっかく大学で専門的な勉強が出来るのだ。それなのに・・・。私は同学年の学生を軽蔑した。自分は勉強して優を貰った。私は大学生活と並行にバンド活動をして居た。当時のバンドはブルースバンドだった、ジャズも演奏した。そして二つのバンドを掛け持ちして居た。そんな時にある宗教団体のバカにストーカー行為をされて、そいつを振り払ったが、私は大学2年で統合失調症を発病して仕舞った。バンド活動は出来なくなった。私はバンドを解散した。

 

Sergio Leone Greatest Western Music of All Time (2018 Remastered 𝐇𝐃 Audio)

 

そして親父の会社に入社した。そこいら辺の事は今まで散々書いて来て居る。良く、成功する為やら、自分を高める為には環境を大切にしろと言います。そして自分より上の人たちの輪に入れとも言う。要するにバカな連中と一緒に居ると、その人までバカになるが。自分より出来る人たちやら、利口な人たちの輪に入ったり成功者の人と交流を続けると、その人まで利口に成り出来る人間に成ると言いますよ。私の周りには1970年代当時の最新の風俗やら社会性を持った大学生が居た。私の青春時代はだから20歳に成ってからでは無く。10代の頃にもう形成されて居たと思います。20代からの私の青春は惨めな事しか起こらなかったし、嫌な事しか無かった。そして全てが失われて仕舞ったが、最近に成って、自分らしさが戻って来て居る。もう年は62歳と老骨になって仕舞ったが、気分は30代だ。しかし後生きても10年程の命だと思う。

 

私は薬を飲み過ぎて居る。抗精神薬の強い薬をほぼ40年間飲んで居るのです。薬害は怖いが。もう身体に出て居ますよ。前に今の病院では無いが、別の病院の主治医に言われた。「こんなに強い薬を数十年と飲んで来て、身体めちゃくちゃでしょ・・・。」そして、たった一人に成ったのです。身内である姉はもう私の事は兄弟とは思っては居ない。精神病になった弟は、最早、血が繋がって居るとは思わないそうだ。だから向こうも縁を切ると言って居るのだから。私も縁を切る。もう此れで身内は誰も居なくなった。ああ、母が居るが姉が絶対に会わせない。私の母親はもう90歳になろうとして居ます。認知症で何も、最早、分からなく成って居ます。恐らく母が死んでも姉は知らせても来ないでしょう。母親は本来なら長男の私がちゃんと面倒を見るべきなのに、私たちに面倒を見させて居る。「ふざけるな!!。」だから。

 

私は従兄弟と姉を恨みます。私が何をした。障害者に成ったのですよ。それで嫌がらせをしたり縁を切るですか....。従兄弟は、私を目の敵にした。私が東久留米で車に乗って居た時にUFOを見た。その時は従兄弟にも教えたのだが、彼は運転をして居て、見えなかった見たいだった。次の日に彼は私を大嘘つきだと言い出した。「すぐ嘘をつく!!」と言う。そして次の日から私を見ると「嘘をつくな!!」と怒鳴り出した。彼は私より8歳年上だ。私を子供呼ばわりして居たが、自分は何も知らないバカだった。彼が私に言った事を思い出す。「ねえ、あの早稲田を出た井口さんが私を次期社長だと言ってくれたんだよ。凄いだろう。」ちなみに従兄弟は大学生の頃に「棒」と言う字が読めなくて書けなかった。「この字なんて読むの?」と小学校3年生の私に聞いたぐらいだ。

 

「ねえ、〇〇ちゃん、私はこんなにも難しい本を読んで居るのだよ。」そう言って見せた本は1千4百円の「すぐ解る、マーケッティング・リサーチ」だった。そして私が哲学書の類やらを、思想書/芸術書籍関係の本を倉庫番で暇だから為にも成るので、読んで居ると、「そんな本は読むのを辞めろ!!」と言うのですよ。だから私は呆れて「人の勝手だろ」。と言うと「だってその本をさっきお前がトイレに行った時に、少し読んで見たが、ちんぷんかんぷんで何も解らなかった....。」と言うのですよ。まあ、でもいいのでは無いかな。親父と親父の兄貴の会社の跡を取って念願の社長で今は暮らせて居るのだから・・・・・。

 

姉に付いてはもう何も言いたく無い。最後に電話で話した時に思った。この人は生涯虚勢を張って友達も無くして生きて行くのだろう。と、現に姉さんは「近所の連中は皆敵だ」と言って居た。友人は皆姉から離れて行ってしまった。「さよなら姉さん...。」、今は母が施設でコロナに移らない様に祈るばかりです。でも、返って何も解らなくなって生きて居るよりもコロナに掛かって亡くなった方がいいのかも知れない。私は母が元気なら最後まで面倒は見るつもりでした。私は発作を起こして、強制的に病院送りにされた時に、最後に一人になった認知症の母はどうなったのだったか心配した。私は親不孝者です。情けないけど。

 

 

 

 

 

 

弟も姉も私には母がどうなったのか一切教えなかった。私は弟と姉に日頃、母の事を自分一人では、面倒見るのが大変だからと相談しようと電話を掛けたが。二人とも「そんな話は聞きたくも無い」だった。私は思う。私は働いて居た時に給料もボーナスも全部母に渡して居た。私は月3万の小遣いしか、そこから貰っては居なかった。何故かって、何遍も言うが実家は学生を置いて面倒を見て、飲食費と部屋代を貰わなければ、やっては行けない状態だったのです。だから私は給料もボーナスも親に渡して居た。先の事は考えなかった。

 

彼女が出来た。生涯でただ一度愛した女だった。彼女の実家は旅館をして居て。父親は農園を栽培して居た。彼女の母親は旅館のおかみさんとして活躍して居た。そんな彼女は、私がジャズとかブルースが好きなのを知るとジャズマニアの父親から何時も、ジャズのニューヨークやらロサンジェルス。そしてパリのライブの模様のビデオを貰って私に持って来てくれて居た。小柄だが、素直で、しかし負けん気が強く。そして可愛く。私を良く思ってくれた彼女だった。しかし一緒には成れなかった。ある事情があったのだ。今でも覚えて居る。最後に会おうと、吉祥寺の「ジャズ喫茶」で待ち合わせをしたのだが、従兄弟の嫌がらせに会い。とうとう会えなかった。

 

最後に彼女がラジオ番組の伝言板に「あなたが好きでした。もう会える事はないでしょうけど。どうか身体に気をつけて....。」と伝言を残して・・・・。私は泣いた。それからこんな事もあった。新宿の「ICBM」と言う。中古輸入ビデオと国内レーザーディスクそして、輸入レーザーディスク、まあ、主にアメリカのクライテリオン盤だったが。月に3万の小遣いのうち、殆どを映画やらアニメのレーザーディスクやらビデオに費やして居たのだけども、まあ、それも親に食費を持って貰って。実家と言う住居があったからですが。服も母がデパートで買って来るモノを唯着て居た。しかし母は何と思ったか、その売り場の女の子にハンカチを手渡して居たのだった。その子は田舎から出て来て、一人暮らしをして居た子だった。

 

彼女は私のリクエストを全て受け付けてくれた。その当時はレンタルもして居たのだ。私は毎回映画を結構注文して居た。彼女は言った「出来る限り、お客様の要望にお応えします」そして、何時も同僚から、「無理をしなくてもいいのに」と言われて居るのに。私の為に商品を取り揃えてくれて居た。しかしある時に、私が店に行くとその子は居なかった。私が映画がよく分かって居ない店員に聞くと。白血病に掛かって辞めたのだと言う。その子は自分が病気に罹って大変なのに。私が無理をして注文した。「夕陽のギャングたち」のドイツ盤をドイツの輸入盤の会社と店を辞める直前まで交渉してくれて居たのだった。その子がどうなったかは知らない。おそらく亡くなっただろう。そして、ただ、私の為に奔走してくれたのだ。恩義は今でも感じて居る。

 

その子は苦労して輸入した。「夕陽のギャングたち」のレーザーディスクを同僚に渡して、私に渡す様に準備してくれて居たのだった。私が30代の頃だ。私は、その店で、彼女が最後に客用に取り寄せた「野獣暁に死す」と言う輸入ビデオを購入して持って居る。その子の記念の為にだ。そして私はその子が苦労して取り寄せてくれた「夕陽のギャングたち」で輸入盤は5分長いことを知って居たので、パソコン通信の掲示板で探して居た「海老原」さんに教えて挙げたのだった。その人はコンピューターのプログラマーで、IT企業の会社で働いて居た。会社が横浜にあるのだが、自分は家から自転車通勤をして居ると言って居た。何でも距離的に近かったそうだ。しかし彼女も程なくして、胃癌で亡くなって仕舞った。まだ20代だったのに・・・・。まあ、書きたい事は山ほどあるが此処までに仕手置こうと思う。

 

そんな事やら色々とあったのですよ。しかしその事は主治医は知らない。私は3流大学の途中で発病したバカで教養は無く何も知らないし。何もとち狂って居て解らない患者だと思って居る。私が昔を懐かしんでそう言う話をする相手は居ない。訪問看護師?彼女らは特殊な人間だ。私との付き合いはあくまで患者と看護師としての関係だろう。私は結構。音楽の事やら、思想書でいいものがあったり漫画でいいモノを彼女らに教えるが、反応は余り良くない。彼女らも自分は看護師で病気の患者である私を見て居ると言う考え方だ・・・・。最近はこのアパートの子供たちに、自分が待って居るDVDだとかケーブル TVで録画したDVDを挙げるのが、楽しみで挙げて居た。

 

私は子供が居ないから。そしてそれだけだとその子らの親御さんが詰まら無いだろうから。子供にはアニメのDVDを挙げて居たが、たまに親御さん向けに映画のDVDを挙げて居たのですよ。子供に手渡しをする時もあるが子供が外で遊んで居る時にとか。以前は親御さんに会ったら「何時もDVD有難う御座います〜〜。」と奥さんから笑顔でお礼を言われた。人が喜んでくれる事は、非常に私に取っても嬉しい事なのです。DVD一枚幾らもしませんよ。お陰で近所付き合いは上手く行って居ます。

 

最後に前回のblogで書いた様に。私は以前の美容室で陽気に話をして居たが、美容師はそれで私はバカだと踏んだらしい。大体が私の飲んで居る抗精神薬は飲むとやたら陽気になるのですよね。大体が飲まないと物凄く鬱になるのでして.....。今回書いて来て先ほども言ったが環境を変える必要があるなと思う。バカにされて居る美容院に行くより。色々と問題があった生まれた土地は離れて新境地の今の場所の美容院に通った方がいいと思い出して。今は地元の美容室に通って居ます。前の美容室のあの美容師は老骨すぎた。考え方が親父根性だ。私の様な客は居ないと思う。パーマと髪を染めるので幾ら金が舞い込む。美容師は客商売だ。客をバカにする様な処にはもう行かない。此間、前に美容室に行って居た時に、私は初めて自分の歳を言った。すると、その美容師はもの凄く驚いた顔をした。その男の美容師は56歳ぐらいなのだ。

 

そして私は気が付いたのだが、そこは美容院みたく装っては居るが。元は床屋なのですよ。彼は美容師では無い。理髪師です。現に私が最近美容界で有名な、スーパー美容師。高木琢也君の事を言っても「誰?、、知らない。」と言うのですから。美容師なら誰でも知って居るはずの名ですよ。だから男の長髪は許せないのですよ。床屋なのだから(笑)美容師の振りをして居ますが.....。自分でバカだから化けの皮を剥がして居るのですね。此れからも多少高くても。越して来た街の美容室に掛かろうと思います。今日も外に出た時に、近所の若い夫婦の美容師2人でやって居る。美容室の中を外から覗いて居たら。相手の美容師が、気が付いて「微笑んでくれた」。そこでイイなと思って居る。美容師は若いほうがいいです。話は今回は此処迄です。読んでくれて有難う御座いました。

 

 

【カット】高木琢也が作る2021年‼️次に流行る髪型に三科光平をカット 

 

 

「フォロー・ミー」

 

輝く海を越えた地へ、私は行きます
そこは、私たちの知って居る世界を超え、
夢でしかなかった世界をも超えた先
私たちが味わって来た事の無い喜びが待ってる場所

愛だけが見い出せる道にそって、私を追って来て
 

喜びの歳月の夜を登り、私たちが無駄に流した涙も、

無駄に過ごした年月をも超えて、光の中へ

遠く離れた地へ、この山を超えて、私は行くんです
そこでは、私たちがずっと隠して来た音楽すべてが、空にひびきわたる
沈黙の中で歌えば、退屈な日常から離れ、こころは自由になる場所へ
この世界がまわり、まわりつづけ、
堕ちつづけているうちに

 

 

聴いて見て下さい.....。

 

Ghost In the Shell: Innocence 

 

 

更新は控えようと思いますが、今日は調子が上向いて来たので、また書いて見ました。今回は、以前の記事から1970年代の高度成長から今迄までの事を書いて見ました。

コメント頂けると嬉しいです。気軽に何でも書いて下さいね。よろしく〜〜。

 

 

 

此間来た、30代の訪問看護師に1970年代の世相と当時何が流行って、世の中の状態がどうだったかを話した。例えば音楽に付いてだ。「1970年代、当時はブルースが流行って居たよ。丁度、今で言う処のヒップホップ見たいにね。」しかし声高く笑って話を聞いて居ない。人によっては、自分の生まれる前の事なんか、興味が無いと言う人も居る。しかしそう言って居る人たちに言いたい。若いうちはすぐに時が経つ。すぐに歳老いて行くのですよね。それに過去の事は知って居た方がいいのですよ。何かと後々為に成るのですよね。皆さんにも言って於くが。1970年代はエポック・メーキングだった、即ち、大量生産時代の到来である。

 

ニッポン高度成長物語

 

日本に於ける消費社会の成立は,1970年代初頭の高度経済成長の終焉に見いだす事が出来る。 日本の「初期近代」の到達点である高度経済成長期に於いては,消費者の欲望は,有限なものとして捉えられて居た。それに対し,高度経済成長の終焉後の「後期近代」においては, 消費者の欲望は操作可能なものと捉えられる様になった。  高度経済成長期は,「経済成長」と言う「大きな物語」が消費者の消費を動機づけて居た。 この「経済成長」と言う「大きな物語」は,多くの消費者にアメリカ的なライフスタイルへの憧憬を抱かせ,消費への欲望を喚起した。その象徴が,家電製品をはじめとする耐久消費財の消費である。 いわゆる三種の神器(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)の普及率は,当時の一般家庭の生活水準から考えれば高価な商品であったにもかかわらず,1950年代末から1960年代にかけて爆発的に普及して行った。1955年には洗濯機が約4%,テレビと冷蔵庫は1%にも満たない普及率だった。

 

しかし,1960年には洗濯機45%,テレビ54%,冷蔵庫15%に激増した。 特に,テレビの受信率の爆発的な増加によって,アメリカ的なライフスタイルへの憧憬と言う価値観が人びとに大量に供給される様になる。と言うのも,1960年代前半までのテレビ放送を支えて居たのは,アメリカから輸入された大量の番組であったからだ。アメリカ製の人気ホームドラマが映しだす豊かな生活のイメージ が,「経済成長」の理想像として,人々に供給されて居た。 その様なアメリカ的な豊かな生活と言うイメージは,洗濯機や掃除機,冷蔵庫などの様な家電製品によって,主婦の家事労働からの自由を達成し,「家庭の民主化」を実現出来ると言った価値観を供給した。その結果,多くの消費者は消費への自由の欲望を喚起された 。 この様に,「経済成長」と言う「大きな物語」は,人びとにアメリカ的なライススタイルへの憧憬に裏づけられた社会的な階層の上昇 と「上流階級」への欲望を抱かせる事によって,「消費への自由」へと動機づけを行って居た。

 

1966  昭和東京 

 

 

そして人々は,「消費への自由」を通じて,生活水準向上への自由を追求して行ったのだった。 しかし,高度経済成長にも限界が訪れる。と言うのも「経済成長」と言う「大きな物語」は、そもそも消費者の欲望を急速に満たす事によって,アメリカ的なライフスタイルへの憧憬を希薄化すると共に,社会的な階層の差異を解消して行く事を最大の目標として居たからだ。 有限な素材たる消費者の欲望を源泉とする大量生産による価格の引き下げは,需要の拡大を進め,資本の蓄積を生み出す。そして,資本の蓄積は大量生産の合理化を推し進める。大量生産の合理化と,さらなる技術革新をおこなう事によって「生産への自由」を阻害するものを不在とする「消極的自由」の環境を確保しつつ, 「経済的欲望への自由」をさらに追求する。

 

 その結果,生産力が成熟する事で,過剰生産に陥り,消費は飽和点に達して仕舞う 。現 に,耐久消費財の普及率を見ると,1970年までには冷蔵庫や洗濯機は90%を超えており,1975 年までには95%の世帯で冷蔵庫,掃除機,洗濯機,カラーテレビを所有して居た事が確認出来る。 人びとの生活水準の向上で社会的階級の差異等が縮小する事によって,消費者を動機づけて居た。アメリカ的なライフスタイルや「上流階級」への憧憬と言った「大きな物語」も機能不全に陥る事になる。そして,消費者を「消費への自由」へと動機づける「大きな物語」も 凋落すると共に,有限な消費者の欲望も枯渇して仕舞った。

 

80年代の日本

 

 

この様な消費者の欲望の枯渇と「大きな物語」の凋落を受けて,新たな差異の創造に基づいて,消費者の欲望を創出する消費社会が 出現する事となる。 高度経済成長期における単一の商品の大量生産から,差異化にもとづく多品種少量生産へと消費社会の変容と自由の所在転換を行なう事により,「機能性や合理性を基盤とするモノ作りの社会」から「消費者の欲望を創出する社会」へと転換された。 生産者は差異化された商品,記号化された商品を生産する事によって,消費者の欲望を創出する。それを通して,自らの「積極的自由」 を行使出来る「消極的自由」の環境を創出する事によって「経済的欲望への自由」を拡大して行く事になる。 消費社会に於いては,消費者の欲望は差異を生産する事によって操作可能なものとして捉えられる。それゆえ,消費社会に於いては限界効用よりも「限界差異」が追求される。

 

生産されるモノも,「使用価値」と言う視点からは捉えられない「超機能的なモノ」が大量に生産される様になる。そしてモノは,他の物との差異の体系のなかで,「記号」としての価値を獲得して行く事となる 消費社会における自由消費社会における消費者の最大のテーマは, 「消費への自由」を通じた自己アイデンティティの形成であると言える。「大きな物語」が凋落した後期近代の社会に於いては,個人が自らの物語を紡ぎだし,自己アイデンティティを形成し,維持する事になるからだ。 例えば,リースマンは『孤独な群衆』のな中で,差異の生産の軸になる「製品差」と似た様な考え方が,パーソナリティの生産に付いても当て嵌まると言って居る。

 

つまり差異化は生産の場のみならず 消費の場に於いても重要な要素となり,パーソナリティや自己アイデンティティの形成にも影響を与えると言う事だ。 また,1980年代のパルコや西武百貨店の広告に於ける,「女の時代」「じぶん新発見」「裸を見るな裸になれ」と言ったキャッチコピーに象徴される様に,消費社会では消費する事の意味と生きる意味(自分らしさ)とが密接に結びついて居る事が確認出来る。 80年代当時。吉本隆明が広告塔となり「コム・デ・ギャルソン」を颯爽と羽織り、埴谷雄高などから。「哲学者が時代と寝てどうする。」と強く批判を浴びせられる論争があった。。。

 

 

井上雅人「コム・デ・ギャルソン論争とアンアン革命――埴谷雄高と吉本隆明の論争にみる、プレタポルテへのまなざしの変化」 

 

 

私は、時代の流れには「波」があると思って居ます。あくまでも「個人的な感覚」ですが、10年毎の時代のトレンドを以下の様に見て居ます。

1980年代 『金融』の時代
1990年代 『IT』の時代
2000年代 『環境/ECO(エコ)』の時代
2010年代 『ヘルスケア』の時代
2020年代 『AI・ロボット』の時代

此処でひとつ補足して於たいのは、上の記載は、それぞれの時代に於いて「何が重要であるか」ではありません。「ヘルスケア」や「環境」と書いてある事からも分かる通り、上に記載してあるものは、全て、「今も、これまでも、これからも」、時代に関係なく、重要なものです。では、上の年代毎の分類は何を意味して居るのでしょうか。これは、それぞれの時代の中で「ビジネスと言う切り口で見た際に、拡がりを見せる業界」を記載して居るものになります。

 

【4K】[東京散歩] 原宿 竹下通り キャットストリート 渋谷 2020/02/22 [Tokyo Walk] Harajuku Takeshita Street and Shibuya 

 

 

 

今日の昼食です・・・・。

 

ーーー今回は、また、近所の喫茶店に行って見たーーー。

 

野菜カレーライスとドリンク(アイスコーヒー)セット。730円とミニサラダ140円で合計870円でした。

 

 

眠たい『私』です。。。

 

 

 

 

「オタクの視点から見たポストモダン」

 

「動物には精神がないから、単なる機械である」と定義したのはデカルトだ。さらに彼は「人間には精神があるから単なる機械ではない」と人間と動物の区別をその精神の有無に寄るものとした。では動物が単なる機械なら、人間は複雑な機械なのだろうか。

 

「動物と機械における制御と通信」という挑発的な副題がついた『サイバネテックス』の著者である数学者、故ノーバート・ウィーナーは、コンピュータ文化の生みの親のひとり。彼は第二次世界大戦中に米国防総省の要請を受けて、ナチス・ドイツを打ち破るため、まずはナチスの爆撃機を効率よく撃ち落とす対空砲火の開発のため、数学を軸に、脳科学、物理学、生物学の研究者を一堂に集めて領域を横断した新たな学問を生み出す。それが「サイバネティックス」だ。

そこでウィーナーは計算機、しかも自らが計算する機械を構想する。彼は『サイバネティックス』のなかでこう述べる。「演算の全過程を計算機の内部に置いて、データが計算機の中にはいり、計算の最終結果がとりだされるまでのあいだ、人間が介入しなくてもよい様にする事、またその為に必要な論理的判断は、計算機が自ら行うこと」

 

この本が世に出されたのが戦後すぐの1948年。ウィーナーのサイバネティックスと、イギリスでは数学者アラン・チューリングの自動計算機の発明から、コンピューターの歴史が始まったと言っていいだろう。だがウィーナーは次の著作『人間機械論ーー人間の人間的利用』に於いて、自動で判断する計算機がもたらす危険性への警鐘を鳴らす。

 

「現実に危険なのは、そのような機械が、それ自体では無力だが、一人の人間または一握りの人間によって、人類の他のすべてのメンバーを管理するのに利用されること。または政治の指導者たちが大衆を、機械そのものによって管理するのではなく、あたかも機械によって算出されたかの様な狭くて人間の可能性を無視した政治的技術によって管理しようとする事である」この様に、自ら計算する機械への信奉と恐怖も、この時点から始まって居るのだ。ウィーナーはなおも続ける。「ファシストや実業界や政界の実力者の支配のもとで、人間は、ある高級な神経系をもつ有機体といわれるものの行動器官のレベルに引き下げられて仕舞った。私は本書を、人間のこの様な非人間的な利用に対する抗議に捧げたいのである」。人間の機械性を先んじて研究し発表したウィーナーは、それがもたらす人間の動物的な利用への抗議に残りの半生を費やすことになる。

 

自ら計算する機械──それをAIとまとめて語っているが──の可能性とダークサイドを考える事は、人間の動物性ならびに機械性を考えることにほかならない。この連載タイトル「動物と機械からはなれて」を決める際に、もうひとつ参照したのが、思想家の東浩紀が『動物化するポストモダン』で提唱した「動物化」の概念だった。動物化とはなにか。フランスの思想家アレクサンドル・コジェーヴが『ヘーゲル読解入門』にて人間と動物の差異を「欲望」と「欲求」という言葉を用いて表現した。コジェーヴによれば人間は欲望をもつが、動物は欲求しかもたない。動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。「『動物になる』とは、そのような間主観的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏─満足の回路を閉じて仕舞う状態の到来を意味する」と、東は『動物化するポストモダン』で解説して居る。

 

 

また、2009年9月号の『文學界』に掲載されているエッセイ「動物化について」では、「動物化」を次の様に説明して居る。 「それは取り敢えずは、社会が複雑化し、その全体を見渡すことが誰にも出来なくなって仕舞い、結果として多くのひとが短期的な視野と局所的な利害だけに基づいて行動する様になる、そのような社会の変化を意味する言葉です。だからこそ、動物化の時代に如何にして公共性が成立するのか、問われなければならない」

 

 

『動物化するポストモダン』の刊行から18年が経つ。 「ポストモダン社会になり、消費者はさまざまな記号の波を軽やかに渡って行く事になりましたが、実際にそこに拡がったのは、消費のなかで与えられるファストフード化された消費財を動物みたいに食べる事になる、という現実でした。

 

ポストモダン化された社会で行き着く先の人間像は『動物化』と言う訳です。動物化に対抗すべきか、それとも人間は動物なのだから柔軟に管理すべきか、人間性を巡る議論はこの2つの道に分かれて居ます。現代社会に於いて『人間である為にはどうすればよいか』を改めて考えるべきだと思いますね」   人間は環境と調和し、「動物的」に生きて居れば幸福である エッセイ「動物化について」にて、東は「ぼくたちは人間をモノのように処理する社会に生きて居る。その極限がアウシュビッツですが、原理的には消費社会の日常についても同じことが言える」とも指摘している。消費社会においてそれは加速して居る様に思えるが、東はどの様に捉えて居るのか。

 

Amazonのレコメンデーションエンジンやグーグルによる検索カスタマイズを例に挙げながら、こう答えた。「わたしたちは最適な商品が与えられ、その事に対してお金を供給する機械のような存在になって居ます。それでも人間が幸せならば、それでいいと言う考え方もあります。フロイトが言う処の快楽原則では、幸福とはわたしたちの身体が要求して居る機械的なものなので、それを満たす環境が整う事自体はよい事です。飢えて居るよりも満腹がいいし、硬い床で寝るよりも柔らかいベッドで寝たいでしょう。空虚な日常よりも適度に耳障りな音楽を与えられ、適度に泣ける物語を与えられたほうがよいに決まって居ます」   「動物化とは、そんなに悪い事では無いんですよ」と東は意外にもそう語る。しかし「そこに飽き足らない人々の事も考えなければ行けないんです」と補足する。

 

「人間は動物的に生きても問題ない訳です。コジェーヴが動物化を定義するときに、人間は環境と調和して居ない、動物は環境と調和して居ると表現しましたが、周りの環境と調和して生きたっていい訳です。でも、どんな人でも環境と調和したく無くなるときはあるんですよ。親族の不幸かも知れないし、病気になった瞬間かも知れない。『なぜ人は生きて居るのか』や『なぜ世界は存在するのだろう』と超越論的な思考をして仕舞う時が人間にはあるんです」

 

 

 

 

 

 

「リアルな社会に息苦しさを感じるからこそ、さまざまな出会いや発見のあるヴァーチャルな世界が必要だと言われますよね。ぼくは逆だと思って居ます。リアルな世界のほうが偶然性が高く、さまざまなものに出合える可能性が存在して居ます。リアルな世界での思いがけないものや知らない事との出合いが、実は頭をリフレッシュしてくれるんです」

人間は支配に順応する生き物 巨大プラットフォーマーである米国のGAFAや中国のBATの成長に伴い、アリババのような企業が提供する「芝麻信用」などのサーヴィスを、ドイツの政治学者セバスチャン・ハイルマンは「デジタル・レーニン主義」と表現した。しかしながら「共産主義をAI社会のメタファーとしてもち出すのは間違いではないか」と東は指摘する。

 

「共産主義というのは、所有権を廃止するなどの人間の本性に反する事をやらせる体制です。一方で現代の巨大デジタルプラットフォーマーは、人間の本性に反する事をやらせて居ません。GAFA批判やBAT批判をしてもしょうがないんです。なぜなら彼らが提供するサーヴィスは人間の本性に基づいて居ますし、プラットフォーマーが交代し 巨大デジタルプラットフォーマーの発展の先に、AIによる人類の支配を恐れる様な考え方も登場して居る。東はその指摘に対して「いまの世界と本質的に何が変わるのだろう?」と疑問を呈する。

 

「いまぼくたちが生きている世界は、世界の超富裕層26人が資産150兆円をもち、それは世界の貧困層38億人と同額と言われて居ます。ごく少数の人々の意向によって世界はガラリと様相を変えてい居るとも言える訳です。それでもぼくたちは普通に生きて居る。『AIに富が集中していておかしくないかな? でもやむなし』と適度に対処するだけだと思うんです。ぼくらが考える以上に、人間は支配や権力に対して柔軟です。AIやロボットによってぼくらのアイデンティティや日常的な感覚、暮らし方も大きく変わらないと思っています」 そのような人間の動物的な側面を意識した上での社会設計が求められていると東は提唱している。  
 
「いまや人間性は、動物性や機械性のノイズとしてしか存在しないんです。人間は基本的に動物なんですよ。ただ与えられたモノを食べ、働けと言われたら働き、何も考えずに税金を納め、選挙に行ったらなんとなく政党に票を投じるんです。ゆえに人間の動物的な部分と人間的な部分を考えたときに、どうバランスをとるかが社会設計にとって重要です。今後は、人々の無意識の行動がビッグデータによって自動的に政策になったり、社会的な改善策になったりするデジタル・デモクラシーも台頭して来るでしょう。その様な『動物的な民主主義』と、投票による議会制民主主義をどの様に調停させるか、ぼくが以前提唱した『一般意志2.0』のような仕組みを考えて行かなければなりません」  
 
 

 

「10年ほど前までは、資金やイデオロギーがなくても、ソーシャルメディアで人を動員すれば政治的な力がつくれるという夢があった。でも、その果てがトランプです。ソーシャルメディアによる政治の実験は終わった、と認めるべきだと思います。これからは、いままで放置していた問題に立ち戻るべきです。単に人を動員すればいいと考えるのではなく、いまの時代において政治組織とはどうあるべきなのか、新しい時代のイデオロギーや社会を導く理念はどうあるべきなのか、それらの難しい問題に立ち向かうべきです」 それは政治運動に限らない。コミュニケーション・テクノロジーは、わたしたちのライフスタイルを大きく変えたと思われて居る。だからこそ東は「市民社会をどうつくるか」と言う古い問題に関心が移って居ると言う。
 

 

 

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「言いたい事」

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人は自分の考え方で人を見る。人には誰にも譲れない考え方がある。言って見れば其の人間の型(尺度)だ。その人は自分にある、いや、自分が考えた思想で生きて居る。この思想。この型(尺度)は何人にも侵し難きものだ。それは何時出来上がったものだろうか。何時形成されたのだろうか。思想は誰でも持って居る。型(尺度)は誰でも持って居る。しかし、この型(尺度)は、一丁一端で出来たものでは無い。生きて来る上で考えたものだ。人生経験から来て居るとも言える。「知・覚・考・動」この言葉の定義を知って居るか?世の中の大半普通の人の思考はこれだ。しかしこれでは何にも出来ない。「知・覚・動・考」こう変えて見る。この四つの言葉で一番大切な言葉は何か?答えはすでにある。「とも(知)・かく(覚)・うご(動)・こう(考)」だ。ミュージシャンのGACKTは言う....。「物事を知って居たら覚えたなら。とにかくすぐに動く事、行動する事。動きながら、知る事も覚える事さえも出来る。逆に行動しないと。知って居ても其の意味が解らなかったり覚えた事さえどんどん忘れて行く。だからこそ行動こそが結果を出す一番の近道。考えてから動くからスピードが遅くなる。。考えるのは行動をした後でいい。全ての人間の行動は思考が支配して居る。思考が結果を生み出す。」

 

私は、物事がうまくいく人に共通する要素は「素直さ」だと思って居ます。素直な人はビジネス書を読んで、面白い事が書かれて居たら「自分もやって見よう」と、すぐに行動に移す事が出来ます。柔軟性に富んで居るから、自分とは異なる意見を取り入れ、行動に移す事が出来るのです。一方、素直でない人は他者の意見をなかなか受け入れようとはしません。悪い意味でこだわりが強く、頑固です。他者の意見を取り入れないと、結局は自分の勘や経験、そしてわずかな知識に頼るしか無く、遠回りをして仕舞います。どんな物差しで自己の価値を測って居るのか、わざわざ意識した事は無いかも知れませんが、実は心の奥では気づいて居るかも知れません。結局の処、「自分は基準に達して居る」と感じれば、自分に対する感情が良くなりますが、「自分は基準に達して居ない」と感じると、自己評価は暴落します。相手を苦手に感じ、相手の事が嫌いになるとき、人は理由を相手に求めます。自分の意に沿わない言動によって、自分は苦しめられて居ると感じるのです。しかし、自分の意に沿わないと決めて居る基準はなんでしょうか。それは自分の価値観で作った自分の型であり、絶対的なものではありません。

 

それでは、そもそも人はどんなときに、相手を「苦手」「嫌い」と感じるのでしょうか。殆んどの場合、原因は相手の発言やふるまいにあるのだと思います。相手の発した言葉で傷ついた、無神経なもののいい方が癇に障った、だらしないふるまいを見て不愉快だった……。そうした自分の意に沿わない言動が、悪印象を持つ切っ掛けになるのです。勿論、型はあっていいのです。それは自分の発言や行動の規範になるものですし、型がある事によって、自分という人間が作られます。ただし、他人をはかるときには、型に“嵌めて考える”のは辞めましょう。自分の型と他人の型は違うのですよ。

 

此処で「禅」の求道者、枡野 俊明氏の言葉を抜粋して於きます。

『「禅の庭」をつくるときに、私は時折、「山是山、水是水(やまはこれやま、みずはこれみず)」と言う禅語を思い出します。意味するのは、山は山として本分を真っ当し、水は水として本分を真っ当して居ると言う事です。山が水に対して「山になれ」と命令する事もなければ、水が山に向かって「水になれ」と指図する事もありません。

 

 禅の教えは、人の社会全般に当て嵌ります。「山是山、水是水」を人間関係に当て嵌めるなら、自分が山なのであれば、水である相手が山になる様に求めては行け無いし、自分も水になろうと頑張る必要は無いと言う事になるのです。山は山として、水は水として本分を真っ当するのが美しいのであり、自然は当たり前の様にそうして居ます。

 

禅では、人と自分に付いて、「人は人で絶対、自分は自分で絶対」と考えます。絶対という意味は、今、此処に、命を頂いて、過不足なく生きて居ると言う事です。人も自分も、共にその様な存在なのです。過不足なく生きて居る誰かに、「此処が足りないじゃないか」などとは言え無いのです。人は人で絶対、自分は自分で絶対と言う事を意識して、誰に対しても、「水平の視線」で見る様にして見ましょう。

 

視線を高くして見下ろせば、人は小さく見えますし、視線を低くして見上げれば、人は大きく見えます。どちらも相手を正しく見る事になりません。』常に水平の視線で人を見ることを心がけ、その様に努めて行く。それを怠らない事で、人は人、自分は自分と言う事が身体で解って来る。つまり、実践出来る様になるのだと思います。

 

 

 ==「最後に」==

 

自分の思想。型には、程度があります。つまり型を使う為には己の意思と行動力が必要です。人を妬んで居る。口を開けば他人を憎んでばかり。他人のやり方考え方をただ不定したいだけ。他人の夢を馬鹿にする奴。あなたはどうですか?悔いを残したか。人を憎んだか。人を愛せたか。罪を刻んだか。何かを失ったか。自分を愛せたか。GACKTは言う。「今日と言う日は、昨日。今日を本気で行きたくて、それでも、この世を去らなければ成らなかった者たちが残して行った輝かしい未来だ。そんな一日だ。だから本気で生きろ!!」自分の思想。型(尺度)。然しながら、其の思想は常に更新し。そして磨いて居なければチンケなプライドと成って仕舞うのですよ。私は自分の思想(型)。を持っては居ますが。それで人ははかりません。あくまで、それは自分の型だからです。自分の思想。要するに旗ですね。それは大切です。然し他人が掲げて居る旗もまた大切なのですよ。下賤な考えで其の旗を汚すのは辞めましょう

 

GACKT「Last Song」

                                             

                 以上....。『私』が言いたかった事でした。

 

 

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「レット・イット・ビー制作秘話」

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1969年1月30日、ロンドンの高級住宅地サヴィル・ロウにあるアップル社のオフィスの屋上でザ・ビートルズ(The Beatles)が行ったゲリラ・ライヴを、彼らのフェアウェル・ライヴと考えてもおかしくは無いだろう。演奏後に、バンドは静かに階段を降りて通りに出て、集まった人たちは仕事に戻り、ザ・ビートルズのメンバーはそれぞれの道を進んで行き、そうしてバンドの物語は終わり。と言う事を想像するのは難しくない。しかしそこで物語は終わらなった。

 

The Beatles - Don't Let Me Down

 

 

その数週間後、ザ・ビートルズはスタジオに戻り、そのまま春の間もレコーディングを続け、その後、7月と8月のほぼこの全期間を『Let It Be』が発売される何か月も前るリリースされたアルバム『Abbey Road』の完成に費やした。映画『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズを手掛けた名監督ピーター・ジャクソンが新たに手掛けているドキュメンタリー映画『The Beatles: Get Back』は、1969年1月に撮影された何時間ものフィルムから、今までとは異なるバンドの物語を提示する事になるだろう。「現実は神話とは全く異なるものです」と監督は最近明らかにしている。映画についてリンゴ・スターはこのようにコメントしている。

 

「バンドが解散する18ヶ月前、マイケル・リンゼイ=ホッグによって撮影した映像と音声をすべて見直して見ましたが、驚くべき歴史の宝庫でした。確かにドラマチックな瞬間もありますが、このプロジェクトで長い間言われて来た僕らの不仲なものはありません。沢山の喜びがありましたし、ピーターはそれを見せてくれると思います。今回のバージョンは、私たちが本当にそうだった様に、もっと平和で愛に満ちたものになると思います」そしてポール・マッカートニーもリンゴの意見に同意してこう付け加えている。「明らかに僕らに一緒に居て楽しんで居ました。お互いに尊敬し合い、一緒に音楽を作って居るのが皆さんも見る事が出来ます、それが紐解かれて行くのがとても楽しみです」では、なぜ『Let It Be』のアルバムが彼らの解散と結びつけられる様になったのだろうか?

 

ゲット・バック・セッション

1969年は、ザ・ビートルズの名を冠した2枚組のアルバム、通称『White Album』がチャート1位にランクインした事で始まった。それだけでは十分ではないかの様に、アニメーション映画『イエロー・サブマリン』のサウンドトラックが、1月17日に発売されて居る。そんな中、彼らは元旦の翌日、次のプロジェクトの準備をして居る処を撮影される為に、トゥイッケナムのスタジオに向かう為に、夜明け前に起きて居たのだ。

 

トゥイッケナムには少なくともアルバムを録音するのに十分な機材は無かったが、この企画は当初、テレビ特番用にリハーサルやパフォーマンスを撮影する事だった。撮影したのは当時28歳の若くてダイナミックなマイケル・リンゼイ=ホッグだ。彼は、革命的なポップTV番組「Ready Steady Go!」を担当し、ザ・ビートルズの「Paperback Writer」「Rain」「Hey Jude」「Revolution」のプロモ・クリップを監督した経験があった。音楽プロデューサーのグリン・ジョンズもこの場におり、彼は、テレビ特番として収録される予定だったライヴ・コンサートの音響監修のために招かれて居た。グリンはリンゼイ=ホッグと共にザ・ローリング・ストーンズの『The Rolling Stones Rock and Roll Circus』のTVスペシャルで仕事をした事があった為だ。

 

The Beatles - Penny Lane

 

 

トゥイッケナムからアップルへ

ライヴ・パフォーマンスに適した曲が詰まったアルバム『The Beatles (White Album)』でチャート1位を獲得したにも関わらず、ザ・ビートルズはすぐに新曲の制作に取り掛かった。1月2日、ジョン・レノンがジョージ・ハリスンと共にギターをチューニングする間に「Don’t Let Me Down」を演奏。二人がこの曲に慣れ始めた頃、リンゴ・スターが到着し、すぐにドラムで参加した。ジョージはジョンに「いい曲だね。シンプルな曲が好きなんだ」と「Don’t Let Me Down」が気に入ったと伝えて居る。この最初の朝のセッションにポールは遅刻して来たが、到着したと同時にポールも演奏に参加した。

 

こうしてセッションは続き、「Don’t Let Me Down」の他にも「Two Of Us」「I’ve Got A Feeling」「All Things Must Pass」「Maxwell’s Silver Hammer」などの演奏が行われた。彼らは新曲に集中しただけでなく、リバプールやハンブルグでの名声を得る前の時代に遡って、多くのカバー曲をジャムしたりもして居た。しかし、前年の『The Beatles (White Album)』のセッションの途中で、リンゴが一時バンドを脱退した時と同じ緊張が再燃した。1月10日の金曜日の昼食前に、ジョージが脱退を宣言して、スタジオを離れて仕舞った。

 

残った3人のメンバーは、トゥイッケナムから場所を移すまでの数日間、ジョージ抜きで活動を続けた。そして1月20日、ロンドン中心部のサヴィル・ロウにあるアップルのビルの地下に新しく設置されたスタジオにジョージを含めた全員が集結した。しかし、ザ・ビートルズの仲間だったギリシャの電子技術者マジック・アレックスが設定したセットアップに不備がある事が判明し、翌日にアビーロードにあるEMIのスタジオからポータブル機器が運び込まれ、作業が再開された。

 

リンゴはこう振り返って居る。「アップルの設備は素晴らしかった。とても快適で、自分たちの家の様でもありました。私たちが働いてない時でも、居心地を良くする為に、暖炉の周りに座ってくつろぐ事も出来ました。ただ、自分たちの演奏をプレイバックで聴くときだけは火は使えませんでした、薪のはじける音がしたのでね」

 

プロジェクトを締めくくるライヴ・パフォーマンスの場所の候補として、北アフリカの古代円形劇場から孤児院まで、幾つかの会場が検討されて居たが、最終的にロンドンの賑やかなリージェント・ストリートの裏手にあるアップル社のビルの屋上で、ゲリラ・ライヴを行う事が土壇場で決定された。ポールはこう振り返る「『あと2週間でどうやってこれを終わらせるか?』って映画の終わり方を探して居たんです。そこで、屋上に上がってコンサートをして、それぞれが家に帰るって事になったんです」

 

ゲット・バック・セッションが終了してから1年以上経った1970年5月8日、ついに『Let It Be』がリリースされた。裏表紙には「新しいフェーズのザ・ビートルズのアルバム…」と書かれて居たが、アルバムがプレスされて居る間には、バンドはもう存在しなかった。このアルバムは実際には彼らの最後の音楽作品にはならなかったかも知れないが、これはビートルズがその侭にして於いた(Let It Be)サウンドだったのである。

 

The Beatles - Let It Be - Let It Be (STEREO REMASTERED)

 

 

 

 

 

今回は此処までです。体調が凄く悪い為に、しばらく更新まで時間が掛かると思いますが。皆さん宜しく。更新出来なくても。皆さんの処には見に行きますので。

宜しくお願い致しますね。最近挙げた物とか読んで居なかったら、過去記事も読んで見て下さいね。宜しくお願いします.....。でわでわ。。。。

 

 

私の短い、ハーモニカ・ソロです。昨日吹き込みました.......。

 

 

 

 

私が実家で暮らして居た頃、丁度、中学生ぐらいの時に、うちに親父が連れて来た。猪狩と言う男が居た。そいつはブローカーであり宝石商でもあった。私の古い実家の家では学生を間借りさせて居た、手前、玄関は開けっぱなしになって居た。私が大学の頃も同じ年代の大学生を置いて居たのだが、、そいつらは門限までに帰らなかった。何時も12時を廻ってから、帰って来て、私が寝て居ても、隣の家の庭に入り窓を開けて、竹竿で私の顔を突いて起こした。そして言うのだ「玄関開けてくれない!!」毎回なので私が怒って「あんたら、ちゃんと門限守れよ!!」と怒るのだけども。そうすると「ハハハハハ!!」と笑って、2階に上がって行くのだった。大体が私は人から「ハハハハハ」と笑われるのが大っ嫌いだ。要するに人をバカにして居るから笑うのだろうが。それから「へっ!!」だとか「ケッ!!」と言われるのも大嫌いだ。要するに人を愚弄する奴らは、はっきり言って殺してやりたくなるのですよ。怒り(おこり)よりも怒り(イカリ)が湧いて来るのです。まあ、バカだから言うのですけどね。利口な人間はただ黙って居るだけだ。そして人は、私が自分よりも脳のある事を言うと突然不機嫌になる。要するに私を障害がある丸バカと言う認識で居るから。脳のある事を言われると認めたく無いのですね。

 

言っとくけど、私に以上の様な事を言う人間が来たら私は躊躇わず。此れからはぶん殴ろうとさえ思って仕舞います。男女限らずね、、皆んないい気になりすぎだ。金は盗むは本は盗むは、それで居て人を見て「ケッ!!」とはどう言う事だ。まだ同じバカにして来るなら態度で示された方が納得が行く。と言うか、気にならない。単に私は無視をするだけだからだ。それから人をすぐに批判する人も大っ嫌いですね。自分はどれだけ偉いのか?大したものでは無いだろう?人を批判する事はバカにも出来る。私は自分の事と人の事を混同して、考えた事は今までに一度だって無いですよ。人は人の旗の下で生きて居るし、自分は自分の旗の下で生きて居る。物事の考え方、要するにその人の思想とか生い立ちは自分と比べて非難出来ようも無いのですよ。ただ自分の筋だけは通しますけどね。筋を通すのと批判は違う。よしんば、あなたに哲学の素養があるとしよう。そして確かに哲学に付いては知って居るとして、それでも、相手が自分寄り知識が無いからと、批判するのは道理が通って居ない事になる。真の賢者とは黙して語らないものだ。そして相手がその事について、ある事について悩んで居たり、困って居たりした時に初めて適切な助言をするものです。確かに外国では違う。論理だって物事を言えないと海外では相手にされない。日本では曖昧な事でも通るが。外国ではそうは行かない、白黒はっきりと結果を出さないと相手にもされない。昔から、プラトンの昔からアカデミアで蘊蓄を習う者達は沢山居ました。アカデミアの由来を、説明すると、、

 

古代ギリシァの都市国家アテナイ(アテネ)。町を囲む城壁の外、北西の郊外に、アカデモスという名の英雄神(英霊)を祀る土地があって、英霊の名にちなんで「アカデメイア」または「アカデミア」と呼ばれ、プラタナスが美しく繁る公園として、古くから人びとに親しまれて居た。紀元前387年ころ、哲学者プラトンがこの地に学園を創設し、それ以来「アカデミア」(アカデメイア)は、このプラトンの学園の名前となりました。

 

プラトンはどの様な経緯で、この学園アカデミアを創設したのであろうか。アカデミアの精神とは、何であったか。

 

 

復讐の用心棒  Due Once di Piombo

 

 

 

紀元前399年、プラトンの敬愛してやまなかったソクラテスが、ギリシァの世界大戦であったペロボネソス戦争終結後の政治的混乱のあおりを受けて、国の法廷に告発され、死刑に処せられた。この出来事は、それまで政治の実践を志して居た当時28歳のプラトンに、大きな衝撃を与えた。同時代の誰よりも正義の人であったソクラテスが、国法の名のもとに処刑された事への憤り。この様な不条理を根絶する為には、政治的党派の間の争いと言った次元を突き抜けた、抜本的な国家社会の変革しか道はないと、プラトンは考える様になる。

 

だが、その抜本的な変革とは、どの様なものであるべきか。プラトンはその方途をまさぐり求めて、あらためて亡きソクラテスの哲学の教えを省みて噛みしめながら、12年間にわたる思索と旅の遍歴時代を過ごす。考察のすえ、根本的にはこれしか道はありえないと思い定めた原則は、政治的権力と哲学的(学問的)精神との一体化、すなわち、国の統治に当る者は、知を希求してやまない哲人(philosophos)であるべきだと言う、のちに主著『国家』で表明された哲人政治の思想であった。この理想の完全な実現は――特に、「哲学」がまだ一人前の仕事と認められて居なかった当時のアテナイでは――不可能かも知れない。しかし少しでもこの理想に近づく努力を続けないかぎり、人類は永久に禍いと不幸から救われないだろう。そう心に決めたプラトンは、遍歴時代最後のシケリア(シチリア)への旅からアテナイに帰ると、自分の理想と目的にかなった教育を行なって有為の人材を育成するために、上述のように、学園アカデミアを創設したのである。時にプラトンは40歳。

 

 

夕陽のガンマン テーマ

 

 

 

アカデミアは何人もの政治家や立法家を世に出したが、その教育方法は、哲学的精神にもとづいて真理そのものへと「魂の目を向けかえること」を目ざす。純理想的な学問――数学・天文学・音階理論・哲学的問答法など――の学習と研究であった。こうしてプラトンの学園は、ギリシァにおける学問研究の一大センターとなる。エウクレイデス(ユークリッド)の幾何学も、その基礎はアカデミアにおいて形づくられた。

 

紀元前4世紀前半の時点に創立されたアカデミアは、プラトン亡きのちも代々の学頭に継承されて、紀元後の529年に東ローマ皇帝ユスティニアヌスの勅令によって閉鎖されるまで、約900年間存続した。そして学園は閉鎖されても、「アカデミア」(アカデミー)の名は今日まで、大学などの教育研究機関や、学問上の組織体を表わす普通名詞として、生き続けて居る。名前だけでなく、大本にあった精神も、時代を超えて不朽である。政治家は、真の意味でのすぐれた知性をもたなければならないこと、教育とは、魂の目を向け帰る事は仕事であること。その事によってのみ人間は、確かな幸福に与かりうること。――こうした理念は、今の世にこそ生かされなければならないと思います。そうなのですよ。論理を武装して、処構わず相手に挑み掛かり。相手より自分が上だと虚勢を張るのは。それはただ単に物事を知って居るに過ぎないのですよ。本当の賢者は自ずとそれが滲み出て居る人の事を言うのですよ。要するに物事を理解して血肉にして居るのですよね。そしてそう言う人は自分の旗の下に居るが。他人の旗も認めて居るものです。批判はしないものですね。要するにソフィストになってはいけないと言う事だと思います。 ソフィスト、とは「知恵ある者」の意味で、前5世紀ごろ、アテネなどのポリスの市民に、弁論術や自然科学などを教えて報酬を受ける、いわば家庭教師たちの事を言います。

 

 

「真昼の用心棒 Massacre Time」セルジョ・エンドリゴ SERGIO ENDRIGO 

 

 

彼らは真理の探究よりも、いかに相手を論破するかと言う事に力を注いだので、詭弁に陥る事が多かった。代表的なソフィストとしてプロタゴラスがいる。プロタゴラス(前500年頃~前430年頃)はトラキアのアブデラ出身であるがペリクレス時代のアテネに来て、ポリスの有力者に授業料を取って弁論術を教授し、ソフィストの最初の成功者となった。その思想は「人間は万物の尺度である」という著作の一節がよく知られており、絶対的な真理は存在せず、価値は人間=個人によって異なると言う相対主義と言えるものであった。ソフィストの相対主義的な思考を厳しく批判して、徹底した対話の方法によって絶対的な真理を目指したのがソクラテスであった。しかし、喜劇作者アリストファレスが『雲』でソクラテスをソフィストの一人としてからかって居る様に、当時はソクラテスもまたソフィストの一人と思われて居た。ソクラテスを主人公とした多くの対話編で、ソクラテスの口からソフィスト批判を展開したのがプラトンである。

 

なんか話が本筋から離れて、締まったけど。話を戻します。その猪狩と言う男だが。私の母親は嫌って居た。何時も勝手に玄関を上り部屋に入って来て、座り込んでは、自分の自慢話をする様な男だった。そしてブローカーとして暗躍し、彼は学業ブローカーであった。要するに裏口入学の斡旋業者だ。そして口だけは立った。詭弁で人を弄するのだ。そいつは何時も言って居た。「お宅のお嬢さんと弟さんを私に任せれば。早稲田や芸大などには行かせる事が出来ますよ。何ね、私は300万円程貰えればそれでいい。」だから母は物凄く嫌って居た。しかしそいつはある日、キャバレーで大金を使って遊び。酔っ払ってタクシーから降りて道を歩いて居たら、意識が無くなって倒れて仕舞ったのだそうだが。なんと顔が、前の日の大雨でくぼみに水溜りが出来て居て....。そこに顔を突っ込み、要するに鼻と口を当てて意識が無くなって仕舞い。水深わずか4センチ未満の水溜りで溺死して仕舞ったそうだ。詭弁が幾ら経っても自分の命一つ救えなかったらしい。私は何遍も言うが。高校の時の担任に、日大芸術学部に30点も取れば入れる事が出来ると、言われた。私は断り続けたが。あまりに煩くしつこかったので。一応は日大の芸術学部を受験したが、結果は落ちた。

 

すると私にテストの点なんざ30点も取れて居なかったんだろうと言い張ったが。自分でも先輩の体育の教師から誘われて言って居た事なので、日大に行き自分は教師だといい。この生徒のテストの結果を見せてくれと言って、見たがテストは49点だった。自分では30点も取れれば御の字だ。と言って居た手前引っ込みが付かなくなった。車を運転してその教師と私を日大まで連れて来た親父に話があると言って、私に車で待って居てくれと言い張った。あのバカ親父はそいつの詭弁に翻弄されて。私は何時の間にかテストの点は10点ぐらいしか取れては居なかったと嘘を付かれて、その話は立ち消えになった。私は「惚れ見た事か.....。」と思った。姉もやられた。有坂というブローカーだった。姉はある大学を受験したが。そのブローカーが母の元に来てこう言った。「お嬢さんは合格ギリギリの処に居ます。だから、私に任せて下さい。その代わり300万円用意して下さい。すぐに!!」

 

 

「南から来た用心棒 Arizona Colt」ラオール、Raoul 

 

 

処が母は姉からテストの感触を掴んで居たから。大学に自ら出向いて試験の結果を聞いたら、大学側は「お宅のお嬢さんは合格圏内に居ますから安心して下さい」と言われたと言って。金を急いで欲しがったブローカーの有坂を無視して試験の合格発表まで待った。有坂はヒステリー気味に「あなたは、お嬢さんがこの大学に入れなくていいのですか?私に任せれば今ならなんとかなる。さぁ、早く300万を!!」と言ったが、合格発表の日に、合格して居る事を確かめて有坂に言った。「あなた、嘘つきましたね。私の娘はちゃんと合格点を取って合格して居ますよ。」有坂は黙りこくって仕舞った。弟は私立小学校に入学したが。母の知り合いだった教授が学校側に聞いた処「お子さんは立派に成績を取って合格ラインに居ますからご安心を」と言われたと言って。また弟も、テストでどんな問題が出たかと、テストを受けた後に母に言って居たので。周りのお母さん達が自分の子供が何も言えないので、弟に詳しく聞かせてくれと言って来た程だった。弟はちゃんと合格して居た。

 

ソフィストという言葉は、「詭弁家」などの訳語に見られるように、悪い名前として広く用いられて居る。納富氏の『ソフィストとは誰か?』はその様な偏見を払いのける好著であるが、氏も触れて居る様に、ソフィストの本来の姿、あり方に迫った日本人哲学者が、すでに戦前に存在して居た。田中美知太郎が1941(昭和16)年に発表した『ソフィスト』である。同書は戦後の1957年に改訂出版され、1976年には講談社学術文庫にも収められたので、読む事が出来る。田中氏は、「むかしソフィストの悪名を負わされた人たちが、事実どの様な人たちであって、どんな時代に、どんな仕事をしたのかと言う事を、根本史料にもとづいて、直接に著者が見たままを明らかにした」のが本書であると語り始める。氏に拠ればギリシア語の原語「ソピステース」の意味は、ただ「智慧のよくはたらく人」とう意味であったが、紀元前5~4世紀にはすでに悪い意味の言葉となって仕舞って居た、

 

「ソフィスト」とは「知者」と言うぐらいの意味だが、その多くは、イオニアやシチリアなどのギリシア世界の周辺部からやって来て、一定の報酬を受け取る代わりに、政治の術や法廷弁論などを教えた知識人であった。民主制アテネにおいては、従来の政治体制とは異なり、家柄や財産の多寡に関係なく、「言論」を支配するものこそが国政に参画することが出来た。この時代に政治的野望を抱く青年たちは、政治の中枢部に入って行くのに必須の言論の力を養成してくれる物を求めた。この要望に応えて登場したのが、アブデラ出身のプロタゴラス、レオンティノイ出身のゴルギアス、さらにケオス出身のプロディコスやエリス出身のヒッピアスなどのソフィストたちであった。

 

 

荒野の1ドル銀貨 Un Dollaro Bucato

 

 

 

ソフィストと同時代の人であるが、ソクラテスだけは生粋のアテネ生まれであった。彼自身が当時はソフィストの一人とされて居た事は、アリストファネスの喜劇『雲』で。最も悪どいソフィストとして笑いものにされて居る事で分かる。しかし、次第にソクラテスは、ソフィストとの議論を重ねるうちに、決定的にその違いが明らかになって行く。そして『雲』が上演された前423年から約24年後の前399年にソクラテスは国家の手で殺されてしまう。<参考文献。山川偉也『古代ギリシアの思想』1993 講談社学術文庫>

 

知識と言うものは、ただ知って居ただけでは何の役にも立たない。生活の上で役立てないとすぐに忘れて仕舞うものだ。そしてその知識を振りかざすバカ者が居る。表面上の知識なら何とでも言える。今はYouTubeを見ても。ラジオを聴いても、テレビを観ても。本を読んでも、際限なく情報は溢れ返って居る。私の知り合いと言わせて貰いますが。詩人の、「にのみや・あきら」さんと言う方が居ます。最近。彼の詩集「人間・人生・生きる」をAmazonから購入したが。その分かり易く思索に溢れた、詩篇は彼が若い頃に演劇人であったと言う事もあり、心に響いて来る詩です。こう言った分かり易く。誰にでも分かる様に書いて、しかし思索に溢れて居る詩を書くと言う事は、奥深い人生経験が無いと書けないと思います。そして私は言いたいが勉強とは、何も学校で教わる事が全てでも無いし。また学問と言っても何にでも学問はありますよ。私が好きなブルース。ジャズ。ロック。漫画。これらも学術的に観て。勉強するに足り得るものだと思って居ます。私はよく、ドキュメンタリー番組を観ます。人生の裏街道を歩いて居る人たちやら、アパレル・メーカー、もしくは、食品業界の話。ITソリューションの話。何でもが、勉強になります。ドキュメンタリーの語り部たちの言う事は芯を突いて居て。私は励まさられ、そして共に目頭を熱くします。アニメだってそうです。日本には海外とは、比べ物になら無いくらいの質のいいアニメが沢山ありますよ。小説にしたってそうですよね。

 

それらを知らずに一生を終える事は、どんなに勿体ない事でありましょうか?私は残念ながら障害の身ですから。薬によって頭は半分は塞がれて居ます。そして、私は鬱病の薬の副作用だとは思うのですが、最近多弁です。人から見たら「何?このハイな人?」と言われて仕舞う事が儘あります。だから人から疎まれます。私にはもう時間が残って居ませんよ。もう62歳です。あと生きて10年持つかどうか?それまでに成し遂げたい事があります。それはハーモニカを吹く事を完成させる事です。私はそれに賭けます。残りの人生を費やして上達させて、そして音源をパソコンに残したいのですよ。もちろんYouTubeにも今まで通り挙げます。そして足り無い知識を増やす事に力を注ぎたいです。と言っても毎日、寝て仕舞うのですけどね。薬の後遺症で、直ぐに寝て仕舞います。人はそんな私を。多分、水車小屋がドラゴンだと思って立ち向かった。セルバンデスの「ドンキ・ホーテ」だと言う人もおられるかと思います。そうですね。私は病と言うドラゴンに翻弄される「ドンキ・ホーテ」ですね。旗から見たら滑稽なだけでしょうね。しかし、この事やら哲学の思索などはおこなって行きたいですね。今日は此処までに、しときます。読んでくれて有難う御座いました。記事はまだ続きます........。

 

 

散歩に出掛けて。今日はラーメン屋に入った。広東麺と餃子セットを注文した。。。

 

 

それから、喫茶店でアイス・カフェオレを飲んだ。。。

 

 

 

『人には敵意を向けなければ、普通は相手も敵意を向けて来ないものです。』誰かに言われたけど。『人は自分が思うほど他人の事をよく見ては居ない。すれ違ったって余程、印象深い格好でもして居なければ気にもしないし。今は皆んな歩きスマホで歩いて居るからいい服着てても、見て居ないから関心が無いものだ。』でもね、私はよく人から敵意を向けられる。体格が小柄な事もあるが。私がおっとりした性格だからだろう。頭からバカにして掛かられる。私は今でこそ訪問看護師の女の子たちと上手く行き出したけど。初めは酷かった。前に契約して居た看護ステーションの46歳ぐらいの看護師は私が話のついでで、自分が一番気に入って居たデザイナーが作って居たブレザーを見せて、トイレに入ったら。大きなリックに入れて盗んで帰って行ったしね。ブレザーなんか畳めばリックに簡単に入って仕舞う。その証拠に彼女が帰った後にクローゼット開けて見たら掛けてあるはずのブレザーがどこにも無かった。またその中年女は、私がパーカーを隣の部屋に脱ぎ捨てて置いたら。それも盗んで持って帰った。

 

そして毎回来て。私にコーヒー入れさして話して帰るだけ。私が怒って「ちゃんと見て下さい!!」と言ったら、「な〜〜にが!!フン!!」と言うのだ。他の人にも来て貰ったが。若い20歳ぐらいの子に「萩尾望都を知らない?」と聞いたら。「知らない、、」と言うので、彼女の著作の「ポーの一族」を貸したら。読み終わったら。ほん投げて返して来て。貸した単行本を観て見たら所々破けて居る。私が嫌な顔をしたら。そのバカガキはこう言った「あたしはねぇ、通勤中に見てたんだ。破けるの当たり前だろう!!何か文句あるの!バカヤロー!!」これには私は激怒した。だから事業所に自分で電話を掛けて断った。そうしたら看護師2人で来てニヤニヤ笑って居て帰らない。私は帰らないので仕方が無く、要らない年賀状などのプリントが出来るプリンターを挙げたら要約「あら、ありがと。」と言って帰って行った。悪い訪問看護師はそう言う人が居るんですよ。特に悪い看護ステーションはね。。。

 

今、契約して居る。看護ステーションから、来て居る看護師たちも初めは他人行儀だった。だから私は本音を彼女らにぶつけた。勿論、主治医にも頭に来て居たから言った。今は新しい看護師と前から来て居る人とが3人交互で来て来れるが。そうしたら3人ともよく人の話を聞く様に成った。私は病院に3回ほど短期入院した。4回目は1年間の長期入院だった。病院では看護婦も看護師も皆優しかった。私は一人。凄く可愛い子が居たので、その子が診に来てくれると嬉しかった。本当の看護婦さんに会いたければ病院に見学に行けばいい。皆んなプロフェッショナルでナイチンゲール魂を持って居るからだ。ただ私は訪問看護師に付いても悪くばかりは思っては居ない。彼女らもある意味命がけでやって来るからだ。患者は酷い奴になると妄想で頭が一杯で良からぬ事を考えるものも居ると聞く。医師だった、弟が生きて居た生前に聞いた話だが。病院勤務のインターンの時に。病室に入ったら看護師の女の子が泣いて床に蹲って居て。その横のベットにあぐらを描いた患者がニヤついて居たのだそうだ。弟はその子に「一体どうしたの」と聞いても泣くだけで何も言わなかったそうだ。

 

 

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弟は直感的に「性的暴行を受けたな....。」と思って。その子を病室から付き添いの看護師に出して貰い。看護室に連れて行って貰ったそうだ。弟はその患者に「どうしたんですか?」と問いただしても「あ〜。オリャ〜何にも知らねえよ?」と惚けるばかりだったそうだ。そして「何も知らない訳ないだろう!!」と言ったら。「うるせ〜んだよ、ガキが!!」と言って壁をゲンコツで思いっきり叩き穴を開けて仕舞ったそうだ。やくざ者だったのだ。そしてその看護師の女の子は暫く病院に来なかったそうだ。だから普通の病院でもそうなのだ。ある意味、看護は重い症状の患者を居る。看護師たちはある意味覚悟を持って居るはずだ。それなのに患者に嫌な顔一つ見せない。だが綺麗で可愛い新任の看護師は、先輩の看護師から徹底的にマークされる。私がこの子、可愛い子だなと思って居たら。先輩から「オイ!!篠崎!!てめえ。ちゃんとトイレの掃除やったのか。ふざけてんじゃねえぞ、クソ捨ててねぇだろうバカヤロー」と言われて「はい。すみません。今こっちが終わったらすぐやります」と言ったら「いちいち、てめえは口答えしなくてもいいんだよバカ!!」と言われてコキ使われて居た。その先輩の看護師は患者には優しいのだった。私はある時に見て居られ無くなり「君!!ちゃんと寝れて居る。休憩は取らせて貰えて居るの?」と心配に成って聞いたら。その子は笑顔で「大丈夫よ。ちゃんと寝れて居るし休憩も取って居るから、心配してくれたの?ありがとう....。」と言っては居たが・・・。患者で入院歴が長い男が、隣のベットで本読んで居て。私が考え込んで居たら。「どうしたんですか?」と言うので。「あの篠崎と言う美人で可愛い看護師居るでしょう?あの子は何であんなに先輩からいびられて居るんだろう.....。」と言ったら。


その人が「〇〇さんは歳幾つ?」と言うのでその時は40歳だったから歳を言ったら。「あんた純情だねえ。あの子は、準看護師なんだよ。実際の仕事内容では正看護師と大きな違いは無いけどね。何が違うのかと言うと、資格の要件が違う。准看護師の場合は、中学校を卒業し、准看護師養成所に2年通うのが最短ルートでさ。正看護師は、高校を卒業し、看護短期大学か看護専門学校に3年通う事になるから。准看護師は、資格を取得するまでの期間が短い事と、中学さえ卒業して居れば、そこから准看護師養成所に通えばよい処が利点なんだよ。看護の仕事に就きたいと思って居る人で、中学卒の人、あるいは高校を中退して居て、高校の卒業資格が無い人でも、なれる看護師だから....。」と言いました。要するに差別されて居たのですよ。私は、なるほどねぇと思って居たけど。何だか可哀想だなと思ったが....。その人に「やけに詳しいんですね?」と聞いたら。「自分の娘が看護師だ」と言って居た。私は差別は嫌いだ。訪問看護師の女の子たちも大変なんだろうになとは思うが、、ただ患者に対して誠実で無ければ行けないはずだ。それは録でも無い患者を見て居るから。そう思っても仕方が無いかとは思うけどね。

 

 

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だから私はもう友達は作らない様にして居る。人に迷惑を掛けたく無いからだ。でもね、本音を言えば優しい女性の愛に飢えても居る。もう私の歳では結婚は出来ないし。大体が障害持ちを真面に相手にする様な女性は居ない筈だ。私は一体・・・・。何の為に生まれて来たのだろう・・・。私が生きた証は残せないのか。世の中の何の役に立ったと言うのだろうか。私が前に付き合って居た彼女は私の「優しさが好きだ」と言ってくれては居た。男鰥にウジが湧くとよく言われるが。確かに私は体調が悪すぎて風呂も1週間にほぼ1回しか入れない。頭は毎日洗うけど。今は。本当に心が寒い。でもそれも障害者なぞに成ったから仕方が無いのですよ。

 

私は此れでも民主主義者で平和主義者です。だからこのblogで知り合った皆さんとは上手くやって行きたい。皆、いい人たちだから。でもね、私にお気に入りでマークして居てもね、こう言う事を書くと「何だ障害者か?」と離れて行く人も居ます。私は、人からよく言われた「笑った事なぞ無いでしょ、、」と・・・・・。確かに私は滅多に笑わない。愛想笑いで偶に微笑む事は有るが笑う事は無い。だから訪問看護で来て呉れて居る子たちにも笑顔は見せた事が無い筈です。彼女らは此間。私が調子が悪くなって、また入院になりそうに成った時に直ぐに来てくれた。そしてドアを叩いて私が出たら「ああ良かった無事だった。」と言った。そして主治医も「ようやく穏やかな顔になったね」と言って居た。どうやら私は調子が悪く顔色が悪かった様だ。私は看護師、主治医への恩は忘れない。私は残りの人生。人の役に、困って居る人の役に成りたいと常日頃から思って居ます。だから、よく人のblogに書き込みをする。それしか、困って居る人たちを慰めてあげる事しか出来ないから。私が書き込む事で、その人に元気が出て貰うと嬉しいのですよ。そしてハーモニカを吹くのと映画を観たり。音楽を聴いたり、アニメを観たり。本を読んだりするのが唯一の楽しみだ。同い年ぐらいの中年の男性からは「こいつバカじゃねえか?」と言われて居るのは知って居る。現に美容院でこの間言われた。「なんだ、あいつ女か?髪を長く伸ばしやがって」と。自分より5歳は若いと思う太鼓腹のハゲがかったオヤジにね。

 

 

 

 

私がハマって居る声優で舞台女優の女性。青木志貴ちゃん。美しくて可愛いでしょう。フランス人と日本人のクォーターです。この子。これで31歳ですよ。どう見ても24歳ぐらいにしか見えないですよね。。。(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾

 

 

青木志貴さん

#アクティ部 ご視聴ありがとうございました! 代打でお邪魔させていただきましたが、楽しくてあっという間でした! 制服も着れてたのしい嬉しいだった こういう便所サンダルのまま教室戻ってくるヤンキーいるよね…いなかった…? 来週のハロウィン回も居ます!

 

 

 

 

 

 

此処の処、ラジオを良く聴いて居るが。昨日も昨年がジョンレノンの生誕80周年だったので。番組の中で彼の歌が流れて居た。彼の曲で「Mother」と言う曲があるのですが歌詞は悲しい歌ですよね。

 

 

 

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ジョンレノンは父・アルフレッドと母・ジュリアの間に生を受けました。

船員であった父親は仕事で家に帰る機会も少なく、母親は他の男と同棲中。

 

ジョンは母の姉である、ミミに育てられます。

 

その後、父親は行方不明、叔母夫婦に育てられたジョンは思春期になると孤独感を感じて居た。ジョンが16歳の時、母が近くに住んでいる事を知ると、彼は頻繁に遊びに行きました。

 

彼は母のもとで音楽を好きになりました。

 

しかし・・・その母も、1958年に交通事故で亡くなって居ます。

この歌はそんな母の事を歌って居るのでは無いんですね。父と母への別れの歌なんです....。

 

「Mother」

お母さん 僕はあなたのものだったけど
あなたは僕のものではなかった
僕はあなたを求めたけれど
あなたは僕を求めなかった
お母さん さようなら

お父さん あなたは僕をすてたけれど
僕はあなたをすてられなかった
僕はあなたが必要だったけれど
あなたは僕を必要としなかった
お父さん さようなら

こどもたちよ
僕の失敗を繰り返さないで
僕は歩けないのに
走ろうとしたんだ
君たちに言うよ さようなら

お母さんいかないで
お父さん帰ってきて 

 

Mother - John Lennon/Plastic Ono Band (official music video HD) 



ブルースですね。ある意味.....。。

 

アメリカでは放送禁止になって居る曲です。

でも、ジョンは苦しんで居たんでしょうね。

 

きっと成功の影でずぅーと・・・。

 

 

そしてオノ・ヨーコと出会った。彼女の芸術家の

才能に惚れたんですよ、そして愛した。

 

「love」
 

愛は目の前
目の前にあるものこそ愛
愛は感じるもの
感じる愛
愛は欲している
愛される事を

 

愛は触れる事
触れ合いが愛
愛は手を差し伸べる
愛に手を差し伸べる
愛は求めている
愛される事を

 

愛とは君
君と僕
愛は知る事
皆が愛になれると知る事

 

愛は自由
自由は愛
愛は生きる事
生きる愛
愛は必要としている
愛される事を

 

LOVE. (Ultimate Mix, 2020) - John Lennon/Plastic Ono Band (official music video HD) 

 

 

そして、その愛は世界の人々に向けられた....。

 

ジョン・レノン / イマジン (日本語訳付き) 

 

 

「レット・イット・ビー 」

 

ずっと悩んで苦しみ抜いたときに

僕のもとに女神がやってきたんだ

そしてこんな言葉を呟いた 素直に生きなさい

すべてが暗闇に包まれたとき

彼女は僕のすぐそばに立っていた

そしてこう呟いたんだ 素直に生きればいいと

自分らしく

素直に生きればいい

そんな素敵な言葉が聞こえたんだ 素直なままに、って

心が打ちのめされてしまっても

自分の認められる世界の中にいるかぎり

答えは見つかる だからそのまま突き進め

離ればなれになってしまっても

再び出会うチャンスはまだ残されている

答えはきっと見つかるよ そのまま突き進め

自分らしく

素直に生きればいい

そう 答えは見つかるから 迷うことなんてないんだ

自分らしく

素直に生きればいい

そんな素敵な言葉を聞いたんだ 迷わず突き進め、って

素直なままで

思うようにいけばいい

彼女はそう呟いた 迷うことはないよ、って

夜の空がどんよりと曇ってしまっても

僕らを照らす明かりはまだあって

明日が来るまで照らし出してくれるから 大丈夫

目が覚めると音楽が聞こえて

女神がやってきて、こう言うんだ

あなたの思うように生きればいいんだ、って

素直なままで

思うようにいけばいい

答えはきっと見つかるから

Let it be, let it be

素直なままで

Let it be, yeah, let it be

思うようにいけばいい

こんな素敵な言葉を聞いたんだ 素直に生きればいいんだ、って

 

The Beatles - Let it be

 

 

 

 

今回は此処までです。ジョンレノンの曲が癒しになれば幸いです.....。ではまた。。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

此処の処。髪が爆発して居る。寝て起きるとそうなのだ。だからお湯で洗うのです。そうすると整うが。それでもなんか纏りが悪い。今日は4日ぶりに風呂に入った。だから美容室から購入したシャンプーとリンスで髪を洗った。結果爆発(笑)は収まった。私は程2日おきに髪は洗って居る。シャンプーは付けないでお湯で濯ぐだけだが。要するに今流行りの湯シャンでしょうか?そうしないとパーマが取れて仕舞うのですよ。復活しない。若い頃、20代は洗えば復活する事を知らなかった。私がパーマを掛けて貰って居た美容室は。若い25歳ぐらいのお姉さんが一人で経営して居て、なぜか私はその人に惹かれた、そんなに美人と言う訳では無かったが。可愛く清楚な立ち振る舞いと、物腰が柔らかく丁寧な対応には、私は好感を持って見て居た。しかし私はトロかった。当時はパーマは髪を洗えば蘇ると言う事を知らなかった。だからパーマを掛けて貰うとスプレーでガチガチに固めた。

 

まあ、それで、パーマは1ヶ月は持ったのかな?だから、私は1ヶ月毎にその美容室のお姉さんにパーマを掛けて貰って居た。そこは安かった。パーマとカットで当時で6千円だった。私の身内は私のパーマに付いて、何も聞いては来ない代わりに何も教えてもくれなかった。私はある日、そのお姉さんに聞いて見た。「パーマを長持ちさせるコツはなんですか」?そう言うと彼女は「ムースを使うといいですよ」と言った。私はムースなるものを買って来て付けたがベトベトして良く無い。そしてまたそのお姉さんに聞いた。「ムースを付けたらベトベトしてどうしようもないのですけど?」お姉さんは暫く間を開けてから私に言った。「髪はどのくらいの頻度で洗って居ますか?」

 

私は1週間に2回ぐらいと答えた。すると彼女は微笑んで私に「2日に一度は洗っていいのよ」と言ってくれた。それ以来そうして居る。その美容室のお姉さんの美容師は何時も「風と共に去りぬ」の文庫本を客が来る前に読んで居た。私が行くと「いらっしゃい」と笑顔で声を掛けて、しおりを挟んでパタンと閉じて棚に置いて居た。私は何かそのお姉さんと共通の認識が持てた様で嬉しく思って居た。処が悲劇はやって来た。そのお姉さんの親父はアル中でやくざ者の金融から多額の借金をして。ついにはやくざ者が店に来て店の権利書を渡せと言って来たのだ。私が行く時には何時も人は居ない。だから、私はヤクザが何で此処に来るのかと初めは判らなかった。

 

それから暫くして行って見るとお姉さんは泣いて居た。床には「風と共に去りぬ」の単行本が引きちぎられて散らばって居た。しかし私が「お姉さん。どうしたの?」と声を掛けると涙を拭って、私に精一杯の愛想を振りまえて、「今日はパーマだけでは無く少しカットしようね」と言って。ちょうどウルフ・カットみたいな髪型にしてくれた。私は初めての髪型だ。嬉しく思った。それから、10日位して、そこの美容室は火を出して燃えて仕舞った。聞く処に寄るとアル中の親父が娘のお姉さんと無理心中をした見たいだった。親は選べない。前世でこの子はこの親と決まって居るかの如くだ。私は焼け跡に非常線が貼ってある火事現場に行って。消防団の人たちと警官に許可を取って、線香を焚いた。そんな私の涙ぐんだ顔を見て。近所のバカな藤堂が来て言った。「お前。あの子に気でもあったのかよ。(笑)」私は何も言いはしなかった「お姉さんと俺の思い出は俺の心の中で何時までも生きつずけるから...。」そう思った......。

 

 

 

 

 

 

#アクティ部 ご視聴ありがとうございました! 代打でお邪魔させていただきましたが、楽しくてあっという間でした! 制服も着れてたのしい嬉しいだった こういう便所サンダルのまま教室戻ってくるヤンキーいるよね…いなかった…? 来週のハロウィン回も居ます!

 


 

 

 

青木志貴ちゃん。。。私は彼女は自分の性認識が男と言っては居るが。美しすぎるのですよね。例えばGACKTくんなども美形だが。彼は純粋に男そのものだ。しかしこの子は女性です。声だって可愛いし。顔だって可愛い。しかも今年で31歳になると言うのにこの美貌だ。私は最近はヴァイオレット・エヴァーガーデンの主人公の女の子が2次元では好きだった。しかし。この子は実物の生きて居る女の子だ。ただ心が男なのですよね。なんでもパンシェクシャルと言うそうだ。女でもあり。男でもある存在.....。彼女はフランス人と日本人のクォーターなのですよ。だから肌が物凄く白い。勝手居た。映画監督のルキノ・ビスコンティーの映画で「ベニスに死す」と言う映画があった。ビスコンティーはホモだったから17歳ぐらいの美少年を見て、その子の事を気に掛けて、夏の海岸で体が衰えた老人が髪を真っ黒に染めて、その子を見て居ながら息を引き取ると言う映画だったが。私はホモでは無いし男色でも無いけど。今、その男の気持ちがよく解る。「美」に男も女も関係ないのですよね。美しい女性も美しい男性も、皆さんは、やっ噛みでこの女の子は綺麗だと写真を見せられても言わない、女性は僻んで絶対に綺麗だとは言わないものだ。女心の浅ましさ醜さですね。よく美人と可愛くない女の子の写真を両方見せると大抵の場合が可愛く無い子を可愛いと褒めて、美人の子の事は何も居わないものだ。男の場合はイケメンだと女の子からは言われるが、矢張り同じ男は認めない。いや認めたくないのだ。私は違う「美人」を見れば男女限らず。美しいと評価する、私は感情論で見て居るのでは無い。藝術的に見て居るのですよね。

 

 

 

 

 

どうしても人と比べちゃうよね。 

 

入荷待ちしていたPRADAのアレを手に入れた! 

 

2021年春のズボラ毎日メイク。 

 

 

 

 

 

 

「美とは一体何なのだろう?」と言うテーマが私の脳裏をかすめて居ます。「美」を求める人間の欲求が、生まれつき備わって居るものなのか、どうかはとても興味のある処です。「美は人を沈黙させる」とある作家は言って居ます。つまり、「美」を形容する言葉など見つけられないのであって、人はただ、その美しさに感動させられ沈黙するだけなのだと彼は言います。確かにそれが自然の摂理による「存在美」であるならば私も理解出来ます。しかし、藝術的に見て居てと言う人間の身体的、哲学的作業を通して創作表現された「藝術作品」における「美」と言うものについて言えば、少し見方を変えて考えて見る必要があるのではないかと私は思います。

 

ある藝術家により創作された「美」と言うものが、もし大多数の人の感性(精神)に響くもので無いとするならば、単にその作品とそこに「美」を感ずる個人が、まさに運命的に出会ったと言う事であり、それはそれで幸運な事なのでしょう。しかし、「美」が「藝術と言う領域」に存在しうる重要な点を考えて見るならば、表現されたその作品の内に、民族や宗教を越えた人類の誰もが持って居る人間としての感性(精神)と言うものに対し、その藝術家の追求した普遍的な「真実」と言う哲学が、人々が共鳴しうる形や方法で、意識的に表現されて居ると言う点なのでは無いかと私は思います。

 

つまり、藝術作品における「美」とは、藝術家本人が追求して居る普遍的な哲学や人間観を、私たちの感覚や感情を媒介にして、私たちの感性(精神)の奥深くに訴えかけ、結果として私たちが自分では気づかない侭で居た感性の内に眠って居る普遍的な「真実」なるものと出会う手助けを、その役割として果たして居るのではないでしょうか。皆さんがある作品に出会い、それを「美しい」と感じたとするなら、その美しさは自分の感性の何に共鳴して居るのだろうかと考えて見る事は、とても重要な事だと私は思います。

 

 

41. ハーモニカ の 機種 をまとめて紹介します♫/ハーモニカ バラエティー HAMONICAFE(ハモニカフェ) 

 

私の吹くブルース。

 

バラード。  

 

 

 

 

処で、今を生きて居るアナタに取って「美」とは何なのでしょうか。誰でも、日常的に自己表現をして生きている中で、美しくありたいとか、カッコイイ自分で居たいと思うのは当然な欲求なのかも知れません。しかし、その表現が余りにも表面的な事に偏りすぎては居ませんか。私は、その人の哲学やその実践、またその人の生き方などもトータルに判断して、美しいと言うのでなければ、「美」が差別的な意識の領域でしか住めなくなって仕舞うと思います。その意味でも私たちはもっと芸術と身近に意識的に接する必要があると思います。「美」が私たち一人一人の感性(精神)の内に確実に居る事を忘れない様にして、自分が生きて居る事の意味を深めたいと思います。この機会に、アナタの内に確実に棲んで居る「美」とは何かを考えて見る事は、未知なる自分を発見する良いチャンスかも知れませんね。

 

私たちが日常の中でごく当たり前の事と思い込んで居る「見る」と言う行為について一緒に考えて見ましょう。生活の中で私たちはいろいろな「見る」と言う行為や経験をします。「花を見る」「絵画を観る」「映画を観る」「○○を視る」etc。言葉に発音してみればすべて「ミル」と言う事になります。「ミル」と言う言葉を漢字に当て嵌めて見ると「見る」「観る」「視る」です。又、その「ミル」と言う言葉の意味や体験の仕方、その視覚的な構造や意識のあり方について考えて見ると、「ミル」にもいろんな意味のある事が解って来ます。

 

例えば、展覧会に出かけ、一枚のリンゴの描いてある絵画を「ミル」としましょう。「あ~リンゴが描いてある」と、記憶と言う知識で持ってそれを再認識した途端、私たちは「ミル」事を止めて仕舞って居るのでは無いでしょうか。そして、好き嫌いで判断し、数秒間でその絵画の前を通り過ぎるのです。その作者が色彩や線や材質などを駆使して、「リンゴ」と言うモチーフ(主題)を使い、藝術家としてのどんな価値観や哲学、そして感性に訴えるものを私たちに表現し提案して居るのかと言う事を感じとり、読み取ろうとしない侭に。果たしてそれで本当に「絵画をミタ」と言う事になるのでしょうか?

 

少し私たちの眼の構造について考えて見ましょう。眼にモノが映って居る状態は構造的には水晶体と言うレンズに光りが映って居る状態だと言う事が解ります。それは意識とは関係なしに「見えて居る」と言う状態なのです。しかし、果たしてそれが「ミルと言う行為」なのかどうかは考え直して見る価値があると思います。何故なら「ミルと言う行為」には、「見えてる」そのモノの存在の意味を読み取ろうとする意識が不可欠だと思うからです。ましてや藝術作品を「ミル」と言う事は、作品を通してその作者自身が表現して居る普遍的な哲学や価値観の提案や、また私たちの感性(精神)に訴え掛け様として居るものが一体何なのかを、「見る」「視る」「観る」と言う総合的な「ミル」によって読み取ろうとする事なのではないかと私は思います。

 

自分の事を「イイオトコ」「イイオンナ」「綺麗な人」だと観て貰いたい、そんな漠然とした願いは誰しも持って居るものです。しかし、今一度、その願いの中身を冷静に考え直して、居る事はとても重要な事では無いでしょうか。「一体全体イイって事は何なのだろう?」と。私はその様に哲学する事が「イイオトコ」「イイオンナ」へと発展して行く一番の近道だと思います。そして藝術作品に向き合うと同様に、「感情」「感覚」「感性」を磨きつつ「自分自身を総合的にミル」と言う意識を持ち続ける事が大切だと思います。そんな事を青木志貴ちゃんを見て居て思いました。彼女(彼)にはその事がよく解って居る。 さて、アナタに取って自分の中にある色々な「ミル」とは何でしょうか。この機会に、「ミル」をもう一度漢字に当てはめ直して考えて見る事も、新しい自分に出会う、とてもよい切っ掛けになるかも知れませんね。美しいものやら人を見たら素直に美しいと言える様でなければ行けませんよね。美しい人とは神が創造したものなのですから......。                              

 

 

二宮飛鳥のステージ衣装を着た青木志貴さん

 

 

芸術は発見ではないでしょうか。発見とは自分と世界の関係についての新たな情報を得る事です。世界に関する情報を得る為には、「運動器官によって世界に働きかけ、感覚器官を通じて情報を受け取る」と言う世界との関係を持続する事が必要です。その「働きかけ」の積み重ねが生み出すものが芸術作品だと思われます。つまり、自分と世界との関係についての情報を探すのが芸術と言う行為であり、その結果として生まれるものが作品である訳です。

芸術は人間と外界の情報交換であり、情報媒体が作品であるとも言えます。情報媒体としての芸術作品の価値は、その作品から引き出す事の出来る情報量で決まるでしょう。作品が単に量的に膨大なものであれば、そこに込められる情報量は多くてあたりまえです。また量的な情報量は一目でわかります。そこで、「一目でわかる情報量の割に、多くの情報が引き出せるもの」が情報媒体としての価値が高い、と考える事が出来ます。つまり芸術の価値を美とすると、

 

美 = 暗黙的情報量 / 明示的情報量

 

と表せる事になります。暗黙の情報とは「明確に表現されては居ないが深く吟味すれば解る様な」情報の事で、意識される情報とは「明確に現われて居る」情報の事です。つまり、「ひとつひとつの形、音、動き、などの要素にどれだけ多くのの意味が込められて居るか」が問題な訳です。

この式から、美しいものを言葉で表現しにくい理由が解ります。美しいものは暗黙の情報量の比率が高く、暗黙とは言葉で表現出来ない事だからです。また、美を感じ取るのは直観あるいは無意識であると言う事解ります。さらに、美しいものは飽きないと言う事も説明できます。飽きると言うのは「もう発見がない」と言う事ですが、美しいものは暗黙の情報が多いので発見が尽きないのです。

 

この定義は美術や音楽などの芸術ばかりでなく、スポーツや学問から日常生活に至る我々の全ての活動に当て嵌める事が出来ます。何故なら、我々の活動とは要するに脳の情報処理だからです。我々が世界に対して情報を探求するつもりで働きかければ、どんなものごとでも芸術と同じ様な行為になると考えられます。

 

美と言うものが暗黙的情報によってもたらされるのだとすると、美しさを意識的にとらえるのは、面白い事ではあっても、美を直接認識するのとは違うと言う事になります。意識化して仕舞ったものは美そのものでは無いからです。しかし、美を直接認識する事は精神的な危険を犯す事でもあります。何故なら、暗黙的=無意識的情報は身体性に基くものであり、意識的には制御しきれなものだからです。

 

無意識的情報には、意識(社会)が否定的に捉える情報、つまり悪も含まれます。したがって、美を求めて無意識的情報を探る事は悪に触れる事でもあります。また、美を追求する事は、身体を通じて無意識的情報を掘り起こすと言う事なので、個人的な行為であり社会性とは相反する様にも見えます。

 

美は無意識的情報によって持たらされると言っても、無意識的情報そのものではなく、「少ない意識的情報によって表現された多くの無意識的情報」が美であろうと思われます。その様にして表現される事によって、我々は意識的情報の部分を受け入れる事が出来、同時に無意識的情報による感動が持たらされるのだと考えられます。美の追求は、意識的な情報のみによって安定した社会にとっては一種の不安定要因です。しかし、それは意識が無意識的情報を扱う方法を探す試みでもあり、実は静的に安定した社会を動的安定に移行させる為に必要なのだと思われます。

 

人間の持つ創造性は直接的に何かの役に立つ場合とそうでない場合があります。役に立つと言うのは何らかの秩序の維持に貢献する事なので、役に立つ創造とは予め存在する秩序を前提とした活動です。しかし、秩序を維持する事よりも新たな秩序を生み出す事の方がより創造的です。芸術やスポーツから経済的な活動まで、どんな分野に於いても、ある形式の中での表現や課題の解決よりも、新たな形式や課題を発見する事の方が創造的であると考えられます。

 

新たな秩序の発見と言うのは既存の秩序に捉われ無い活動なので、既存の秩序から見れば無秩序な活動でもあります。既存の秩序に基かない活動を自発的行動と呼ぶとすれば、自発的行動は既存の秩序から見ると制御する事の出来ない活動であり無秩序に見える事になります。その無秩序の中から新たな秩序を発見するのが創造の過程です。つまり、自発的行動に於ける無秩序とは「まだ知られて居ない秩序」を含むのだと考えられます。

 

創造性には自発的行動に伴う無秩序が必要です。個人としての満足の為にはそれで十分ですが、ある人の創造性が社会的に価値のあるものとなる為には無秩序の中から新たな秩序を発見しなくてはなりません。しかし、最初から秩序を求めて居たのでは自発性が失われて仕舞い創造に必要な無秩序が得られません。そこには逆説がありますが、「無秩序を含む自発的行動」と「表現のための秩序の追求」を分けて行う事が創造性につながると考えられます。

 

何かの秩序を意識して行動するのが意識的行動ですが、自発的行動は既存の秩序に基かないのだから意識的行動では無い事になります。自発的行動は無意識的行動であり、そこに含まれる「まだ知られて居ない秩序」は小脳のシミュレーションによって得られる無意識的情報の事だと思われます。無秩序に見える無意識的情報の中から新たな秩序を生み出す事は一種の技能を要するので、意識にとっては魔術的にも見えます。したがって、芸術やスポーツなどの分野で特に創造的な表現に成功した人は神格化されたりもします。それは現代における宗教性の現れとも言えるでしょう。

         

                   参考文献「モンマルトル芸術論」

 

 

 

 

最近購入した書籍の平積みです。。。

 

 

 

 

 

 

処で念願のマカロニ・ウエスタンの傑作。2作品が1作品860円で売って居たので購入しました。特別な割引セールだった見たいですね・・・・・・。2枚購入しても1,720円でした。安かったですよ。こう言ったマイナーな。マカロニ・ウエスタンのDVDは、最近になって売り始めたんですよね。今から30年前。20年前には殆んど、商品化されて居なかった。ビデオ時代とかレーザーディスク時代とかでも。全部で10作品位しか。商品化されて居なかったのですよね。此処、10年位で。まずエスピーオーと言うメーカーがマカロニ・ウエスタンの3枚組のBOXを、全部で10個売り出してから。ソニー・ピクチャーズ・エンターティメントと言うメーカーが数BOX 売って居て。最近では低価格の単品で売り始めました。

 

マカロニ・オタクに取っては嬉しい限りですよ。勿論、私はすべての作品を所有して居る訳ではありませんが。すでにもう67作品は所有して居ます。私たちの世代は、団塊の世代は大学生の頃。私は小学生の頃から中学に掛けて、流行って居た。イタリア製西部劇の事です。こう書くとイタリアの中世の話かと思う方が居られるかと思いますが。そうでは無くて、イタリア人の監督は1963年頃までは史劇を撮って居ました。あのマカロニの巨匠セルジオ・レオーネですら1961年の「ロードス島の要塞」と言う史劇を撮って居ます。イタリア映画はローマ帝国の映画などを撮って居たのですよね。1960年代半ばまで。そしてセルジオ・レオーネは当時スタントマンとして雇って居たアメリカ人の俳優が居たので。彼らを使って何か作れないかと考えた訳です。

 

その時に、丁度。黒澤明の「用心棒」と言うアクション時代劇を観て。此れだと閃いたそうで。黒澤に連絡せずに翻訳して舞台をメキシコ付近にして(ロケ地がスペインのアルメニアだったから)西部劇を作り上げたんですよ。主人公にはアメリカ人を使おうと。当時ローハイドと言うテレビ西部劇でその二枚目で人気があったクリント・イーストウッドにニヒルな演技をさせて賞金稼ぎの名無しの風来坊を演じさせて「たった一握りのドルのために」(日本公開名/荒野の用心棒)と言う、イタリア製西部劇(欧米ではスパゲッティ・ウエスタン。日本では、あの映画解説者の淀川長治さんがスパゲティなんて細っこいものではダメだ。これは図太いだからマカロニだと言って。日本だけはマカロニ・ウエスタンと呼ぶ様になりました。)しかし、セルジオ・レオーネは黒澤明に文句を言われて黒澤に東洋での「荒野の用心棒」の配給権を譲渡しました。

 

当時、香港やら台湾。シンガポールやらインドネシアなどで公開された「荒野の用心棒」は何故か監督名が黒澤明になっており。セルジオ・レオーネの名前は出て居なかったのですよね。1980年代に「荒野の用心棒」がビデオ化されましたが販売元は黒澤プロダクションでした。そして、イタリアではその後、イタリア製西部劇が続々と作られて行きました。なんでも1千本は作られたそうです。そしてセルジオ・レオーネは脚本家のダリオ・アルジェンドと共に脚本を書き。マカロニの秀作「もっと多くのドルのために」(日本公開名/夕陽のガンマン)そして名作の誉高い「いいヤツ。悪いヤツ。醜いヤツ」(日本公開名/続夕陽のガンマン・地獄の決闘)で大ヒットを飛ばしますが。主役のクリント・イーストウッドは制作資金がアメリカから送られて居た事もあり。

 

もう、イタリア映画では無く、本国に帰って映画を撮ろうと思い。アメリカに帰国しローハイドの監督だった。テッド・ポストを監督に起用して凱旋映画「ハング・イン・ハイ」(日本公開名/奴らを高く吊るせ)で牛泥棒に間違われて縛り首にされた男が、通りがかった保安官に助けられて、汚名を晴らす為に自分を縛り首に掛けた男たちを保安官になって、追跡して一人一人殺して行くと言う。ある意味シェークスピア的なマカロニ風西部劇を作りました。その後。ジョン・スタージェスと組んだ「ジョー・キッド」(日本公開名/シノーラ)ドン・シーゲルと組んだ「シスターサラと2頭のラバ」(日本公開名/真昼の死闘)そして。初の自身の監督作品「ハイ・プレインス・ドリフター」(日本公開名/荒野のストレンジャー)を撮り。

 

最後の自作の西部劇「アンフォー・ア・ギブン」(日本公開名/許さえざる者)でアカデミー賞を獲りました。一方、マカロニ・ウエスタンの方は色々な多彩な作品が生まれており。もう一人のセルジオであるセルジオ・コルブッチ監督作品の「ジャンゴ/続・荒野の用心棒」「殺しが静かにやって来る」「ガンマン大連合」「豹/ジャガー」アンソニー・アスコット監督の「ルパン三世」の元ネタになった「荒野の無頼漢」。同じくセルジオ・ソリーマ監督のアメリカの名優ユル・ブリンナーを主役に据えた「大西部無頼列伝」。ルチオ・フルチ監督の「真昼の用心棒」フランコ・ロゼッティと「ダビデとゴライアス」の監督フェルディナンド・バルディの共同脚本を、バルデイ自身が監督した。イタリア製西部劇「ガンマン無頼」など多彩な作品があります。

 

俳優たちも甘い2枚目なジュリアーノ・ジェンマ。渋いアンソニー・ステファン。彼はイタリアのクリント・イーストウッドと呼ばれて居ました。また男臭いフランコ・ネロなどが居ます。一歩、イタリア製西部劇の巨匠。セルジオ・レオーネは念願だった「風と共に去りぬ」のリメイク映画を作ろうとしますが。この映画の世界的評価は高すぎて、手が出ずに代わりにアメリカ・ロケを敢行して「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト(昔、昔、西部で・・・)」「日本公開名/ウエスタン」を撮りました。その後メキシコ革命を描いた「夕陽のギャングたち」そして弟子のトリーノ・バレリ監督作品のイタリア製西部劇「ミスターノーボディ」で決闘シーンをレオーネが撮ってやり。また、フランスの映画俳優。ロベール・オッセンが監督したフランスとイタリア合作の西部劇「傷だらけ用心棒」でも銃撃シーンなどを演出してやったそうです。そして1980年代に「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」でユダヤ系のギャングの手記を映画化しました。1930年代の禁酒法の時代から1970年代までの話です。この手記を書いたハリー・グレイなる人物は、自分の人生が映画になると、公開を待ち望んで居たそうですが。最終的には観られませんでした。寿命が尽きたのです。

 

 

 

荒野の用心棒(さすらいの口笛)/ A Fistful of Dollars (Per un Pugno Di Dollari) 
 
「続・荒野の用心棒」予告編 
 
映画「豹/ジャガー」 Il mercenario 
 
"texas addio" 「ガンマン無頼」
 
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト」予告編_new 
 

 

 


 

 

 

 

昨日の夕食です、最近はすき家によく行きますね........。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「映画評論本の紹介。」

 

私がよく使うDVDの輸入盤専門店「DVDFantasium」です。アドレスを載せて於きますね。。。

 

https://www.fantasium.com

 

 

 

 

 

 

 

昨今の映画を見て、失望感と呆れ果てている人達には。是非、今こそジャン・ピエール・メルヴィル監督の作品を見て頂きたい!メルヴィル作品で自分のお薦め映画は『サムライ』って映画なんですけど 何とこの映画!日本の武士道精神で生きる孤高の殺し屋の話なんですよね?

この映画が醸し出す雰囲気と主演のアラン・ドロンの存在感がこの映画の核になって居ます。

アニメ作品を実写化して居る映画とか、最近のCG映像のド派手なアクション映画は。私はもはや面白くないですよ。皆さんにもメルヴィル監督作品のBlu-rayもしくはDVDを買う事をお勧め致します。皆さん、フイルムノワールと言う、映画のジャンルがある事を知らないでしょう? 損しないと思いますよ。たまには流行の映画以外の映画に。金払って鑑賞して観たら如何でしょうか。

モノクロ映画に拒否反応を示す人がおられるかなと思うのですが。名作映画好きならモノクロだろうがカラーだろうがいい作品、面白い作品は時を経てもいいのですよ。モノクロ映画でも観て頂きたいですね。

本の内容なんですけど。冒頭部分はメルヴィル監督の生い立ちとその背景にある世界観は結構詳しく語ってましたね フレンチノワールの名匠の彼と。フレンチノワールに付いての研究本でしたよ......。

 

 

 

 

 

 

 

はじめてムービーカメラを手にしたのは6歳のときだ。少年時代、一日は朝9時に映画館ではじまり、午前3時にそこで終わった。戦争から帰って映画を撮る前から、ある人物と一体化したいと言う欲望からメルヴィルと名のった。そう、『白鯨』のハーマン・メルヴィルだ。―忘れがたい名作『海の沈黙』『いぬ』『サムライ』『影の軍隊』『仁義』など、生涯に遺した13本の作品と自らの人生について縦横に語った貴重な記録。

 

フィルム・ノワール(暗黒映画)の巨匠・メルヴィル監督が、自らの作品について語った貴重なインタヴューです。メルヴィル自身の生の姿、考えが生々しく現れ、「この映画(シーン)はそう言う意図があったのか」と、彼の映画が大好きな私にはとても刺激的な発言の連続でした。日本未公開を含めた全映画のあらすじ、キャストを記したフィルモグラフィー、スチール写真、丁寧な注釈が附録されて居るのも嬉しい。刊行直後にメルヴィルが急死した為、遺作の『リスボン特急』についてのインタヴューはありませんが、巻末での矢作俊彦氏と押井守氏の対談で語られて居ます。とにかく、メルヴィルと言う人はとことん映画を愛した人だったと言う事が解る、非常に読み応えのある本です。それから彼はジョン・ヒューストンの事を可也評価しており。彼は13もの手法を1本の映画の中で使って居るが?私は3つぐらいしかまだ使えては居ないと。監督は数箇所でジョン・ヒューストンを大絶賛してます。此の本を読むと『アスファルト・ジャングル』を観たくなります。皆さんもメルヴィル作品と一緒にジョン・ヒューストンの『アスファルト・ジャングル』も観て下さい。なんとマリリン・モンローがまだ19歳位の初々しい可愛い女の子の役で出て居ますよ・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし何時も代わり映えのしない部屋ですねぇ、、相変わらず汚いし、散らかって要るしね。

まあ、62歳の貧乏人の男寡の一人暮らしではこんなものかなと・・・・・・・・。

 

 

 

 

今回は此処までです。今日は青木志貴ちゃんのことから急遽藝術論となりました。彼女はキュートで非常に美人で可愛いですね。まあ、女の子であれ男であれ「美」に変わりはないんですよ。世の女性たちよ。後に続いて下さい。美しく可愛いくて性格がよく素直な女性が。世の中に沢山産まれる事をじじいの私は心から願って居ますよ。それでは、また更新出来たら逢いましょうね.....。それではまた。。。。