Light of Hope〜精神病院で出会ったふたりの奇跡
私は今、猛烈に眠たい。全て薬のせいだ。今から、2年前、私は意識が無くなった。この時は食欲が無くなり、ものを食べると吐いてしまう有様でした。だから主治医に、言ったら、薬を処方すると言われて、5錠も薬が出た。それを飲んだら、ある日意識が無くなって病院に担ぎ込まれたのです。結果。薬が悪かったと解り、すべて外された。そのお陰で、薬の離脱状態時に見る、幻覚を見た。生まれて初めての幻覚だった。幻覚は2度あった。一つは病院から抜け出して、繁華街に行き。彷徨いて居るのだ。私はその街で外国人の若い女の子に物凄く優しくされて、その子に熱々になった。しかしこれは幻覚の夢だった。私が目を開けると、看護師の女の子が私のベットの前に椅子を持って来て座って、私を見て居た。私はその子に言った。「カレンは?」すると微笑んで居る。「カレンはどこ?」するとこう言った。
「〇〇さんの幻覚の夢は良い夢だった見たいね。」そして。ベットに寝ながら尿道に管を通されて居るお小水が溜まる袋を取り替えて言った。「もう2日も魘されて居ましたよ。」私は現実に戻ったのだった。そしてもう一度。幻覚を見た。それは恐ろしい幻覚だった、私のベットはだだっ広い、草原に置いてあり。その周りでは全身白塗りのスキンヘッドに褌姿の男たちが何千人と居て、私のベットを囲む様にして踊り狂って居るのだ。そして手にはするどい刃物を持って居てお互いに斬り合いをして居る。白い身体から真っ赤な赤い血が迸って血塗れで踊って居た。まるで暗黒舞踏家の土方巽が躍る舞踏に似て居た。是等は坑精神薬の薬が体内から抜ける時に見た幻覚だった。まるで大麻やコカイン。SLDなどの麻薬と一緒だ抗精神薬は確かに精神がおかしい人には薬になるだろうけど、その分副作用は強く怖いものです。
私は3人姉弟に生まれた。私は長男だ。次男の弟と3歳違いの姉が居た。弟とは8歳違いだった。姉は死んだ父型の祖母に似て居て物凄く、きつい女だ。弟は勉強が出来て頭が良かった。良く弟が子供の頃、三輪車に弟を乗せて後ろから押してやったり。箱に車輪が付いたものに乗せて。紐を付けて引っ張って遊んでやった記憶がある。近所のおばさんが「あら、○ちゃん、良いわねぇ〜お兄ちゃんに遊んで貰って!!」と言って居た。その弟はもう居ない。私はこう見えても小学校では結構有名だった。何故なら、毎年必ず2枚かそこらの賞状を貰うからだった。私は小学校の頃は勉強が良く出来た。副学級委員にもなった。私は小学校低学年の頃からグループサウンズやら、ロックが好きだった。私の家は何遍も言うが下宿屋をして居た。小学校低学年の頃には北海道から来た大学生が下宿して居て、よくその学生の部屋に入り浸って。
14型の白黒テレビを観せて貰って居た。北海道から来たお兄ちゃんは、テレビが好きでよく私に乾物屋に行って、かっぱえびせんとポテトチップにコカコーラを買って来いと言って。二人して、「あしたのジョー」「ルパン三世」「ゲバゲバ90分」「キイハンター」「冬物語」「佐武と市捕物控」「忍風カムイ外伝」「天才バカボン」「気になる嫁さん」「雑居時代」などを見て居た。私の父は時代劇と西部劇が好きだった。だからお兄ちゃんとテレビが見られない時は、父とテレビを見て居た「子連れ狼」「木枯紋次郎」「唖侍・鬼一方眼」「新選組血風録」「燃えよ剣」「コンバット」「ローハイド」「ララミー牧場」「ライフルマン」「拳銃無宿」などをよく見て居た。母は優しい人で、私の誕生日には私の好物の唐揚げやら、母が作る特製のミートソースのスパゲティーとちらし寿司を作ってくれた。
URIAH HEEP JULY MORNING 1972
私は、小学校の3年生まではラジオを持って居なかった。だから、鉱石ラジオの三百八十円のものを玩具屋から購入して自分で組み立てて、聴いて居た、鉱石ラジオは長さ5センチくらいの物だ。アンテナシールドを電話機のコードに挟んで電波を受信した。スピーカーは無くイヤフォンを挿して聴く。私は、小学生の頃は、特に低学年の頃はラジオは鉱石ラジオしか持って居なかったので、それで、音楽を聴いて居た。勿論音は悪い。しかしある日の夜、鉱石ラジオから、爆音のエレキギターが聴こえて来たのだ。私は「何だ!この物凄いエレキは!!」と耳を疑った。ジミ・ヘンドリックスのブルース・ロックギターだったのだ。
ラジオを聴いて居ると、何でも「ウッドストック」と言う、音楽の祭典があって。その時のライブの音源だった。曲名は「Star,spangled,banner(星条旗よ永遠なれ/アメリカ国家)」だった。私は「この人は天才か?」と思った。翌日。大学生に聞いて見ると、最近のロックギタリストでは最高峰の男だと聞いた。私はそれ以来ロックを本格的に聴こうと思って、母に言った。「ラジカセ買ってくれない。」母は見て居たのだろうと思う。なぜか反対はしなかった。
そして3日後にデパートの家電売り場で懇意にして居た店員からサンヨーの普及型ラジカセを買って帰って来た。そして私に渡して行った。「勉強はしっかりやりなさい」。なんでもこのサンヨーのラジカセは高域がよく出て、低音もしっかりと伸びるワイドレンジな音と言う感じで、この当時、ナショナルやらソニーと比べても良い音だと言われて居たものだった。私はそのラジカセを何時もはな身放さず持って居た。小学校にも持って行った。当時、レコードは高くて買えなかったし、要約、小遣いを貯めて、「豪華、マカロニウエスタン・テーマ曲集・決定盤」と言う。2枚組のレコード3千8百円の物を持って居ただけだった。そのレコードは、近所の大学生のステレオで再生し、カセットテープに録音して居た。当時はラジカセがトレンドだった、
各々、手持ちのラジカセを持ち寄って、ラジカセ評論会などをして居た。友人たちも負けじ踊らずアイワだとか、ナショナル、ソニーまたは日立、シャープと色々とラジカセを持って居た。私はそのサンヨーのラジカセは中学3年まで使って居た。そして中学3年の時に壊れて仕舞った。何とか音は鳴るのだが、ラジオが入り難く成ったのだ。私は3年の学園祭で友人から、「そのラジカセを寄越せ」と言われた。バザーに出すと言う、壊れて居るし良いかと思い渡して。その後、幾らに成ったと聞いたら「けっ!百円だ!!」と言って居た。私はそれを聞いてその同級生の友達とは絶交した。
The Jimi Hendrix Experience - Hey Joe - LIVE (1967)
私は北海道のお兄ちやんが大学を卒業して実家に帰った後も、その次に来た、大学生に取り入った。色々な学生が居た。東大。明治大学。高千穂商科大学。慶應義塾大学。明星大学。色々な大学生が私の家に下宿に来て、そして卒業とともに実家に帰って行った。だから私は小学生から中学ぐらいまでの間、全共闘世代の学生と子供の時から話をして居た事になる。勿論影響は受けた。私は高校生になると家は下宿人を余り置か無くなって。私は次に自分の感性を磨く処。音楽喫茶と映画小屋に通う様になった。勿論誰もそんな処があるとは教えてくれない。だから当時の情報誌「ぴあ」が頼りだった。それと若者向けの男性週刊誌「平凡パンチ」だった。私は「ぴあ」で埋もれたイタリア映画。フランスのフィルム・ノワールと名作映画を良く観た。そしてテレビの映画劇場は全て観た。特にマカロニ・ウエスタンは、この頃はテレビでマカロニの未公開映画を多数放映してくれて居た。私はむしゃぶる様に観た。映画喫茶に行って、「ぴあ」でコンサートの予定を調べた。サントラ・レコードを結構聴いたし、ジャズ喫茶で通が好んで聞くレコードを知り。ブルース喫茶でバンドでの演奏の肥やしに成るブルースのレコードを可也聞いた。最新のサブ・カルチャーなどの動向は「平凡パンチ」で仕入れて居た。その代わり勉強はダメに成って行った。
勉強が分からなく成ったのは小学校3年生の時に扁桃腺の手術をして学校を半年休んでからだ。同級生は勉強が進んで行くが私は置いてきぼりにされて仕舞った。私は親に教えてくれと言ったが父は1日朝早く起きて教えてくれただけで次から教えてはくれなかった。母も塾の先生だとかは付けてくれなかった。私は孤立した。だから尚更、音楽と映画に没頭し猛進して行った。そして何とか大学に受かり、もう勉強をしようと思って、勉強を仕出した。処が当時の大学生の気風はしらけて居て大学でちゃんと勉強をする学生など居なかった。せっかく大学で専門的な勉強が出来るのだ。それなのに・・・。私は同学年の学生を軽蔑した。自分は勉強して優を貰った。私は大学生活と並行にバンド活動をして居た。当時のバンドはブルースバンドだった、ジャズも演奏した。そして二つのバンドを掛け持ちして居た。そんな時にある宗教団体のバカにストーカー行為をされて、そいつを振り払ったが、私は大学2年で統合失調症を発病して仕舞った。バンド活動は出来なくなった。私はバンドを解散した。
Sergio Leone Greatest Western Music of All Time (2018 Remastered 𝐇𝐃 Audio)
そして親父の会社に入社した。そこいら辺の事は今まで散々書いて来て居る。良く、成功する為やら、自分を高める為には環境を大切にしろと言います。そして自分より上の人たちの輪に入れとも言う。要するにバカな連中と一緒に居ると、その人までバカになるが。自分より出来る人たちやら、利口な人たちの輪に入ったり成功者の人と交流を続けると、その人まで利口に成り出来る人間に成ると言いますよ。私の周りには1970年代当時の最新の風俗やら社会性を持った大学生が居た。私の青春時代はだから20歳に成ってからでは無く。10代の頃にもう形成されて居たと思います。20代からの私の青春は惨めな事しか起こらなかったし、嫌な事しか無かった。そして全てが失われて仕舞ったが、最近に成って、自分らしさが戻って来て居る。もう年は62歳と老骨になって仕舞ったが、気分は30代だ。しかし後生きても10年程の命だと思う。
私は薬を飲み過ぎて居る。抗精神薬の強い薬をほぼ40年間飲んで居るのです。薬害は怖いが。もう身体に出て居ますよ。前に今の病院では無いが、別の病院の主治医に言われた。「こんなに強い薬を数十年と飲んで来て、身体めちゃくちゃでしょ・・・。」そして、たった一人に成ったのです。身内である姉はもう私の事は兄弟とは思っては居ない。精神病になった弟は、最早、血が繋がって居るとは思わないそうだ。だから向こうも縁を切ると言って居るのだから。私も縁を切る。もう此れで身内は誰も居なくなった。ああ、母が居るが姉が絶対に会わせない。私の母親はもう90歳になろうとして居ます。認知症で何も、最早、分からなく成って居ます。恐らく母が死んでも姉は知らせても来ないでしょう。母親は本来なら長男の私がちゃんと面倒を見るべきなのに、私たちに面倒を見させて居る。「ふざけるな!!。」だから。
私は従兄弟と姉を恨みます。私が何をした。障害者に成ったのですよ。それで嫌がらせをしたり縁を切るですか....。従兄弟は、私を目の敵にした。私が東久留米で車に乗って居た時にUFOを見た。その時は従兄弟にも教えたのだが、彼は運転をして居て、見えなかった見たいだった。次の日に彼は私を大嘘つきだと言い出した。「すぐ嘘をつく!!」と言う。そして次の日から私を見ると「嘘をつくな!!」と怒鳴り出した。彼は私より8歳年上だ。私を子供呼ばわりして居たが、自分は何も知らないバカだった。彼が私に言った事を思い出す。「ねえ、あの早稲田を出た井口さんが私を次期社長だと言ってくれたんだよ。凄いだろう。」ちなみに従兄弟は大学生の頃に「棒」と言う字が読めなくて書けなかった。「この字なんて読むの?」と小学校3年生の私に聞いたぐらいだ。
「ねえ、〇〇ちゃん、私はこんなにも難しい本を読んで居るのだよ。」そう言って見せた本は1千4百円の「すぐ解る、マーケッティング・リサーチ」だった。そして私が哲学書の類やらを、思想書/芸術書籍関係の本を倉庫番で暇だから為にも成るので、読んで居ると、「そんな本は読むのを辞めろ!!」と言うのですよ。だから私は呆れて「人の勝手だろ」。と言うと「だってその本をさっきお前がトイレに行った時に、少し読んで見たが、ちんぷんかんぷんで何も解らなかった....。」と言うのですよ。まあ、でもいいのでは無いかな。親父と親父の兄貴の会社の跡を取って念願の社長で今は暮らせて居るのだから・・・・・。
姉に付いてはもう何も言いたく無い。最後に電話で話した時に思った。この人は生涯虚勢を張って友達も無くして生きて行くのだろう。と、現に姉さんは「近所の連中は皆敵だ」と言って居た。友人は皆姉から離れて行ってしまった。「さよなら姉さん...。」、今は母が施設でコロナに移らない様に祈るばかりです。でも、返って何も解らなくなって生きて居るよりもコロナに掛かって亡くなった方がいいのかも知れない。私は母が元気なら最後まで面倒は見るつもりでした。私は発作を起こして、強制的に病院送りにされた時に、最後に一人になった認知症の母はどうなったのだったか心配した。私は親不孝者です。情けないけど。
弟も姉も私には母がどうなったのか一切教えなかった。私は弟と姉に日頃、母の事を自分一人では、面倒見るのが大変だからと相談しようと電話を掛けたが。二人とも「そんな話は聞きたくも無い」だった。私は思う。私は働いて居た時に給料もボーナスも全部母に渡して居た。私は月3万の小遣いしか、そこから貰っては居なかった。何故かって、何遍も言うが実家は学生を置いて面倒を見て、飲食費と部屋代を貰わなければ、やっては行けない状態だったのです。だから私は給料もボーナスも親に渡して居た。先の事は考えなかった。
彼女が出来た。生涯でただ一度愛した女だった。彼女の実家は旅館をして居て。父親は農園を栽培して居た。彼女の母親は旅館のおかみさんとして活躍して居た。そんな彼女は、私がジャズとかブルースが好きなのを知るとジャズマニアの父親から何時も、ジャズのニューヨークやらロサンジェルス。そしてパリのライブの模様のビデオを貰って私に持って来てくれて居た。小柄だが、素直で、しかし負けん気が強く。そして可愛く。私を良く思ってくれた彼女だった。しかし一緒には成れなかった。ある事情があったのだ。今でも覚えて居る。最後に会おうと、吉祥寺の「ジャズ喫茶」で待ち合わせをしたのだが、従兄弟の嫌がらせに会い。とうとう会えなかった。
最後に彼女がラジオ番組の伝言板に「あなたが好きでした。もう会える事はないでしょうけど。どうか身体に気をつけて....。」と伝言を残して・・・・。私は泣いた。それからこんな事もあった。新宿の「ICBM」と言う。中古輸入ビデオと国内レーザーディスクそして、輸入レーザーディスク、まあ、主にアメリカのクライテリオン盤だったが。月に3万の小遣いのうち、殆どを映画やらアニメのレーザーディスクやらビデオに費やして居たのだけども、まあ、それも親に食費を持って貰って。実家と言う住居があったからですが。服も母がデパートで買って来るモノを唯着て居た。しかし母は何と思ったか、その売り場の女の子にハンカチを手渡して居たのだった。その子は田舎から出て来て、一人暮らしをして居た子だった。
彼女は私のリクエストを全て受け付けてくれた。その当時はレンタルもして居たのだ。私は毎回映画を結構注文して居た。彼女は言った「出来る限り、お客様の要望にお応えします」そして、何時も同僚から、「無理をしなくてもいいのに」と言われて居るのに。私の為に商品を取り揃えてくれて居た。しかしある時に、私が店に行くとその子は居なかった。私が映画がよく分かって居ない店員に聞くと。白血病に掛かって辞めたのだと言う。その子は自分が病気に罹って大変なのに。私が無理をして注文した。「夕陽のギャングたち」のドイツ盤をドイツの輸入盤の会社と店を辞める直前まで交渉してくれて居たのだった。その子がどうなったかは知らない。おそらく亡くなっただろう。そして、ただ、私の為に奔走してくれたのだ。恩義は今でも感じて居る。
その子は苦労して輸入した。「夕陽のギャングたち」のレーザーディスクを同僚に渡して、私に渡す様に準備してくれて居たのだった。私が30代の頃だ。私は、その店で、彼女が最後に客用に取り寄せた「野獣暁に死す」と言う輸入ビデオを購入して持って居る。その子の記念の為にだ。そして私はその子が苦労して取り寄せてくれた「夕陽のギャングたち」で輸入盤は5分長いことを知って居たので、パソコン通信の掲示板で探して居た「海老原」さんに教えて挙げたのだった。その人はコンピューターのプログラマーで、IT企業の会社で働いて居た。会社が横浜にあるのだが、自分は家から自転車通勤をして居ると言って居た。何でも距離的に近かったそうだ。しかし彼女も程なくして、胃癌で亡くなって仕舞った。まだ20代だったのに・・・・。まあ、書きたい事は山ほどあるが此処までに仕手置こうと思う。
そんな事やら色々とあったのですよ。しかしその事は主治医は知らない。私は3流大学の途中で発病したバカで教養は無く何も知らないし。何もとち狂って居て解らない患者だと思って居る。私が昔を懐かしんでそう言う話をする相手は居ない。訪問看護師?彼女らは特殊な人間だ。私との付き合いはあくまで患者と看護師としての関係だろう。私は結構。音楽の事やら、思想書でいいものがあったり漫画でいいモノを彼女らに教えるが、反応は余り良くない。彼女らも自分は看護師で病気の患者である私を見て居ると言う考え方だ・・・・。最近はこのアパートの子供たちに、自分が待って居るDVDだとかケーブル TVで録画したDVDを挙げるのが、楽しみで挙げて居た。
私は子供が居ないから。そしてそれだけだとその子らの親御さんが詰まら無いだろうから。子供にはアニメのDVDを挙げて居たが、たまに親御さん向けに映画のDVDを挙げて居たのですよ。子供に手渡しをする時もあるが子供が外で遊んで居る時にとか。以前は親御さんに会ったら「何時もDVD有難う御座います〜〜。」と奥さんから笑顔でお礼を言われた。人が喜んでくれる事は、非常に私に取っても嬉しい事なのです。DVD一枚幾らもしませんよ。お陰で近所付き合いは上手く行って居ます。
最後に前回のblogで書いた様に。私は以前の美容室で陽気に話をして居たが、美容師はそれで私はバカだと踏んだらしい。大体が私の飲んで居る抗精神薬は飲むとやたら陽気になるのですよね。大体が飲まないと物凄く鬱になるのでして.....。今回書いて来て先ほども言ったが環境を変える必要があるなと思う。バカにされて居る美容院に行くより。色々と問題があった生まれた土地は離れて新境地の今の場所の美容院に通った方がいいと思い出して。今は地元の美容室に通って居ます。前の美容室のあの美容師は老骨すぎた。考え方が親父根性だ。私の様な客は居ないと思う。パーマと髪を染めるので幾ら金が舞い込む。美容師は客商売だ。客をバカにする様な処にはもう行かない。此間、前に美容室に行って居た時に、私は初めて自分の歳を言った。すると、その美容師はもの凄く驚いた顔をした。その男の美容師は56歳ぐらいなのだ。
そして私は気が付いたのだが、そこは美容院みたく装っては居るが。元は床屋なのですよ。彼は美容師では無い。理髪師です。現に私が最近美容界で有名な、スーパー美容師。高木琢也君の事を言っても「誰?、、知らない。」と言うのですから。美容師なら誰でも知って居るはずの名ですよ。だから男の長髪は許せないのですよ。床屋なのだから(笑)美容師の振りをして居ますが.....。自分でバカだから化けの皮を剥がして居るのですね。此れからも多少高くても。越して来た街の美容室に掛かろうと思います。今日も外に出た時に、近所の若い夫婦の美容師2人でやって居る。美容室の中を外から覗いて居たら。相手の美容師が、気が付いて「微笑んでくれた」。そこでイイなと思って居る。美容師は若いほうがいいです。話は今回は此処迄です。読んでくれて有難う御座いました。
【カット】高木琢也が作る2021年‼️次に流行る髪型に三科光平をカット
「フォロー・ミー」
輝く海を越えた地へ、私は行きます
そこは、私たちの知って居る世界を超え、
夢でしかなかった世界をも超えた先
私たちが味わって来た事の無い喜びが待ってる場所
愛だけが見い出せる道にそって、私を追って来て
喜びの歳月の夜を登り、私たちが無駄に流した涙も、
無駄に過ごした年月をも超えて、光の中へ
遠く離れた地へ、この山を超えて、私は行くんです
そこでは、私たちがずっと隠して来た音楽すべてが、空にひびきわたる
沈黙の中で歌えば、退屈な日常から離れ、こころは自由になる場所へ
この世界がまわり、まわりつづけ、
堕ちつづけているうちに
聴いて見て下さい.....。
Ghost In the Shell: Innocence
更新は控えようと思いますが、今日は調子が上向いて来たので、また書いて見ました。今回は、以前の記事から1970年代の高度成長から今迄までの事を書いて見ました。
コメント頂けると嬉しいです。気軽に何でも書いて下さいね。よろしく〜〜。
此間来た、30代の訪問看護師に1970年代の世相と当時何が流行って、世の中の状態がどうだったかを話した。例えば音楽に付いてだ。「1970年代、当時はブルースが流行って居たよ。丁度、今で言う処のヒップホップ見たいにね。」しかし声高く笑って話を聞いて居ない。人によっては、自分の生まれる前の事なんか、興味が無いと言う人も居る。しかしそう言って居る人たちに言いたい。若いうちはすぐに時が経つ。すぐに歳老いて行くのですよね。それに過去の事は知って居た方がいいのですよ。何かと後々為に成るのですよね。皆さんにも言って於くが。1970年代はエポック・メーキングだった、即ち、大量生産時代の到来である。
ニッポン高度成長物語
日本に於ける消費社会の成立は,1970年代初頭の高度経済成長の終焉に見いだす事が出来る。 日本の「初期近代」の到達点である高度経済成長期に於いては,消費者の欲望は,有限なものとして捉えられて居た。それに対し,高度経済成長の終焉後の「後期近代」においては, 消費者の欲望は操作可能なものと捉えられる様になった。 高度経済成長期は,「経済成長」と言う「大きな物語」が消費者の消費を動機づけて居た。 この「経済成長」と言う「大きな物語」は,多くの消費者にアメリカ的なライフスタイルへの憧憬を抱かせ,消費への欲望を喚起した。その象徴が,家電製品をはじめとする耐久消費財の消費である。 いわゆる三種の神器(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)の普及率は,当時の一般家庭の生活水準から考えれば高価な商品であったにもかかわらず,1950年代末から1960年代にかけて爆発的に普及して行った。1955年には洗濯機が約4%,テレビと冷蔵庫は1%にも満たない普及率だった。
しかし,1960年には洗濯機45%,テレビ54%,冷蔵庫15%に激増した。 特に,テレビの受信率の爆発的な増加によって,アメリカ的なライフスタイルへの憧憬と言う価値観が人びとに大量に供給される様になる。と言うのも,1960年代前半までのテレビ放送を支えて居たのは,アメリカから輸入された大量の番組であったからだ。アメリカ製の人気ホームドラマが映しだす豊かな生活のイメージ が,「経済成長」の理想像として,人々に供給されて居た。 その様なアメリカ的な豊かな生活と言うイメージは,洗濯機や掃除機,冷蔵庫などの様な家電製品によって,主婦の家事労働からの自由を達成し,「家庭の民主化」を実現出来ると言った価値観を供給した。その結果,多くの消費者は消費への自由の欲望を喚起された 。 この様に,「経済成長」と言う「大きな物語」は,人びとにアメリカ的なライススタイルへの憧憬に裏づけられた社会的な階層の上昇 と「上流階級」への欲望を抱かせる事によって,「消費への自由」へと動機づけを行って居た。
1966 昭和東京
そして人々は,「消費への自由」を通じて,生活水準向上への自由を追求して行ったのだった。 しかし,高度経済成長にも限界が訪れる。と言うのも「経済成長」と言う「大きな物語」は、そもそも消費者の欲望を急速に満たす事によって,アメリカ的なライフスタイルへの憧憬を希薄化すると共に,社会的な階層の差異を解消して行く事を最大の目標として居たからだ。 有限な素材たる消費者の欲望を源泉とする大量生産による価格の引き下げは,需要の拡大を進め,資本の蓄積を生み出す。そして,資本の蓄積は大量生産の合理化を推し進める。大量生産の合理化と,さらなる技術革新をおこなう事によって「生産への自由」を阻害するものを不在とする「消極的自由」の環境を確保しつつ, 「経済的欲望への自由」をさらに追求する。
その結果,生産力が成熟する事で,過剰生産に陥り,消費は飽和点に達して仕舞う 。現 に,耐久消費財の普及率を見ると,1970年までには冷蔵庫や洗濯機は90%を超えており,1975 年までには95%の世帯で冷蔵庫,掃除機,洗濯機,カラーテレビを所有して居た事が確認出来る。 人びとの生活水準の向上で社会的階級の差異等が縮小する事によって,消費者を動機づけて居た。アメリカ的なライフスタイルや「上流階級」への憧憬と言った「大きな物語」も機能不全に陥る事になる。そして,消費者を「消費への自由」へと動機づける「大きな物語」も 凋落すると共に,有限な消費者の欲望も枯渇して仕舞った。
80年代の日本
この様な消費者の欲望の枯渇と「大きな物語」の凋落を受けて,新たな差異の創造に基づいて,消費者の欲望を創出する消費社会が 出現する事となる。 高度経済成長期における単一の商品の大量生産から,差異化にもとづく多品種少量生産へと消費社会の変容と自由の所在転換を行なう事により,「機能性や合理性を基盤とするモノ作りの社会」から「消費者の欲望を創出する社会」へと転換された。 生産者は差異化された商品,記号化された商品を生産する事によって,消費者の欲望を創出する。それを通して,自らの「積極的自由」 を行使出来る「消極的自由」の環境を創出する事によって「経済的欲望への自由」を拡大して行く事になる。 消費社会に於いては,消費者の欲望は差異を生産する事によって操作可能なものとして捉えられる。それゆえ,消費社会に於いては限界効用よりも「限界差異」が追求される。
生産されるモノも,「使用価値」と言う視点からは捉えられない「超機能的なモノ」が大量に生産される様になる。そしてモノは,他の物との差異の体系のなかで,「記号」としての価値を獲得して行く事となる 消費社会における自由消費社会における消費者の最大のテーマは, 「消費への自由」を通じた自己アイデンティティの形成であると言える。「大きな物語」が凋落した後期近代の社会に於いては,個人が自らの物語を紡ぎだし,自己アイデンティティを形成し,維持する事になるからだ。 例えば,リースマンは『孤独な群衆』のな中で,差異の生産の軸になる「製品差」と似た様な考え方が,パーソナリティの生産に付いても当て嵌まると言って居る。
つまり差異化は生産の場のみならず 消費の場に於いても重要な要素となり,パーソナリティや自己アイデンティティの形成にも影響を与えると言う事だ。 また,1980年代のパルコや西武百貨店の広告に於ける,「女の時代」「じぶん新発見」「裸を見るな裸になれ」と言ったキャッチコピーに象徴される様に,消費社会では消費する事の意味と生きる意味(自分らしさ)とが密接に結びついて居る事が確認出来る。 80年代当時。吉本隆明が広告塔となり「コム・デ・ギャルソン」を颯爽と羽織り、埴谷雄高などから。「哲学者が時代と寝てどうする。」と強く批判を浴びせられる論争があった。。。
井上雅人「コム・デ・ギャルソン論争とアンアン革命――埴谷雄高と吉本隆明の論争にみる、プレタポルテへのまなざしの変化」
私は、時代の流れには「波」があると思って居ます。あくまでも「個人的な感覚」ですが、10年毎の時代のトレンドを以下の様に見て居ます。
1980年代 『金融』の時代
1990年代 『IT』の時代
2000年代 『環境/ECO(エコ)』の時代
2010年代 『ヘルスケア』の時代
2020年代 『AI・ロボット』の時代
此処でひとつ補足して於たいのは、上の記載は、それぞれの時代に於いて「何が重要であるか」ではありません。「ヘルスケア」や「環境」と書いてある事からも分かる通り、上に記載してあるものは、全て、「今も、これまでも、これからも」、時代に関係なく、重要なものです。では、上の年代毎の分類は何を意味して居るのでしょうか。これは、それぞれの時代の中で「ビジネスと言う切り口で見た際に、拡がりを見せる業界」を記載して居るものになります。
【4K】[東京散歩] 原宿 竹下通り キャットストリート 渋谷 2020/02/22 [Tokyo Walk] Harajuku Takeshita Street and Shibuya
今日の昼食です・・・・。
ーーー今回は、また、近所の喫茶店に行って見たーーー。
野菜カレーライスとドリンク(アイスコーヒー)セット。730円とミニサラダ140円で合計870円でした。

眠たい『私』です。。。

「オタクの視点から見たポストモダン」
「動物には精神がないから、単なる機械である」と定義したのはデカルトだ。さらに彼は「人間には精神があるから単なる機械ではない」と人間と動物の区別をその精神の有無に寄るものとした。では動物が単なる機械なら、人間は複雑な機械なのだろうか。
「動物と機械における制御と通信」という挑発的な副題がついた『サイバネテックス』の著者である数学者、故ノーバート・ウィーナーは、コンピュータ文化の生みの親のひとり。彼は第二次世界大戦中に米国防総省の要請を受けて、ナチス・ドイツを打ち破るため、まずはナチスの爆撃機を効率よく撃ち落とす対空砲火の開発のため、数学を軸に、脳科学、物理学、生物学の研究者を一堂に集めて領域を横断した新たな学問を生み出す。それが「サイバネティックス」だ。
そこでウィーナーは計算機、しかも自らが計算する機械を構想する。彼は『サイバネティックス』のなかでこう述べる。「演算の全過程を計算機の内部に置いて、データが計算機の中にはいり、計算の最終結果がとりだされるまでのあいだ、人間が介入しなくてもよい様にする事、またその為に必要な論理的判断は、計算機が自ら行うこと」
この本が世に出されたのが戦後すぐの1948年。ウィーナーのサイバネティックスと、イギリスでは数学者アラン・チューリングの自動計算機の発明から、コンピューターの歴史が始まったと言っていいだろう。だがウィーナーは次の著作『人間機械論ーー人間の人間的利用』に於いて、自動で判断する計算機がもたらす危険性への警鐘を鳴らす。
「現実に危険なのは、そのような機械が、それ自体では無力だが、一人の人間または一握りの人間によって、人類の他のすべてのメンバーを管理するのに利用されること。または政治の指導者たちが大衆を、機械そのものによって管理するのではなく、あたかも機械によって算出されたかの様な狭くて人間の可能性を無視した政治的技術によって管理しようとする事である」この様に、自ら計算する機械への信奉と恐怖も、この時点から始まって居るのだ。ウィーナーはなおも続ける。「ファシストや実業界や政界の実力者の支配のもとで、人間は、ある高級な神経系をもつ有機体といわれるものの行動器官のレベルに引き下げられて仕舞った。私は本書を、人間のこの様な非人間的な利用に対する抗議に捧げたいのである」。人間の機械性を先んじて研究し発表したウィーナーは、それがもたらす人間の動物的な利用への抗議に残りの半生を費やすことになる。
自ら計算する機械──それをAIとまとめて語っているが──の可能性とダークサイドを考える事は、人間の動物性ならびに機械性を考えることにほかならない。この連載タイトル「動物と機械からはなれて」を決める際に、もうひとつ参照したのが、思想家の東浩紀が『動物化するポストモダン』で提唱した「動物化」の概念だった。動物化とはなにか。フランスの思想家アレクサンドル・コジェーヴが『ヘーゲル読解入門』にて人間と動物の差異を「欲望」と「欲求」という言葉を用いて表現した。コジェーヴによれば人間は欲望をもつが、動物は欲求しかもたない。動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。「『動物になる』とは、そのような間主観的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏─満足の回路を閉じて仕舞う状態の到来を意味する」と、東は『動物化するポストモダン』で解説して居る。
また、2009年9月号の『文學界』に掲載されているエッセイ「動物化について」では、「動物化」を次の様に説明して居る。 「それは取り敢えずは、社会が複雑化し、その全体を見渡すことが誰にも出来なくなって仕舞い、結果として多くのひとが短期的な視野と局所的な利害だけに基づいて行動する様になる、そのような社会の変化を意味する言葉です。だからこそ、動物化の時代に如何にして公共性が成立するのか、問われなければならない」
『動物化するポストモダン』の刊行から18年が経つ。 「ポストモダン社会になり、消費者はさまざまな記号の波を軽やかに渡って行く事になりましたが、実際にそこに拡がったのは、消費のなかで与えられるファストフード化された消費財を動物みたいに食べる事になる、という現実でした。
ポストモダン化された社会で行き着く先の人間像は『動物化』と言う訳です。動物化に対抗すべきか、それとも人間は動物なのだから柔軟に管理すべきか、人間性を巡る議論はこの2つの道に分かれて居ます。現代社会に於いて『人間である為にはどうすればよいか』を改めて考えるべきだと思いますね」 人間は環境と調和し、「動物的」に生きて居れば幸福である エッセイ「動物化について」にて、東は「ぼくたちは人間をモノのように処理する社会に生きて居る。その極限がアウシュビッツですが、原理的には消費社会の日常についても同じことが言える」とも指摘している。消費社会においてそれは加速して居る様に思えるが、東はどの様に捉えて居るのか。
Amazonのレコメンデーションエンジンやグーグルによる検索カスタマイズを例に挙げながら、こう答えた。「わたしたちは最適な商品が与えられ、その事に対してお金を供給する機械のような存在になって居ます。それでも人間が幸せならば、それでいいと言う考え方もあります。フロイトが言う処の快楽原則では、幸福とはわたしたちの身体が要求して居る機械的なものなので、それを満たす環境が整う事自体はよい事です。飢えて居るよりも満腹がいいし、硬い床で寝るよりも柔らかいベッドで寝たいでしょう。空虚な日常よりも適度に耳障りな音楽を与えられ、適度に泣ける物語を与えられたほうがよいに決まって居ます」 「動物化とは、そんなに悪い事では無いんですよ」と東は意外にもそう語る。しかし「そこに飽き足らない人々の事も考えなければ行けないんです」と補足する。
「人間は動物的に生きても問題ない訳です。コジェーヴが動物化を定義するときに、人間は環境と調和して居ない、動物は環境と調和して居ると表現しましたが、周りの環境と調和して生きたっていい訳です。でも、どんな人でも環境と調和したく無くなるときはあるんですよ。親族の不幸かも知れないし、病気になった瞬間かも知れない。『なぜ人は生きて居るのか』や『なぜ世界は存在するのだろう』と超越論的な思考をして仕舞う時が人間にはあるんです」
「リアルな社会に息苦しさを感じるからこそ、さまざまな出会いや発見のあるヴァーチャルな世界が必要だと言われますよね。ぼくは逆だと思って居ます。リアルな世界のほうが偶然性が高く、さまざまなものに出合える可能性が存在して居ます。リアルな世界での思いがけないものや知らない事との出合いが、実は頭をリフレッシュしてくれるんです」
人間は支配に順応する生き物 巨大プラットフォーマーである米国のGAFAや中国のBATの成長に伴い、アリババのような企業が提供する「芝麻信用」などのサーヴィスを、ドイツの政治学者セバスチャン・ハイルマンは「デジタル・レーニン主義」と表現した。しかしながら「共産主義をAI社会のメタファーとしてもち出すのは間違いではないか」と東は指摘する。
「共産主義というのは、所有権を廃止するなどの人間の本性に反する事をやらせる体制です。一方で現代の巨大デジタルプラットフォーマーは、人間の本性に反する事をやらせて居ません。GAFA批判やBAT批判をしてもしょうがないんです。なぜなら彼らが提供するサーヴィスは人間の本性に基づいて居ますし、プラットフォーマーが交代し 巨大デジタルプラットフォーマーの発展の先に、AIによる人類の支配を恐れる様な考え方も登場して居る。東はその指摘に対して「いまの世界と本質的に何が変わるのだろう?」と疑問を呈する。
「いまぼくたちが生きている世界は、世界の超富裕層26人が資産150兆円をもち、それは世界の貧困層38億人と同額と言われて居ます。ごく少数の人々の意向によって世界はガラリと様相を変えてい居るとも言える訳です。それでもぼくたちは普通に生きて居る。『AIに富が集中していておかしくないかな? でもやむなし』と適度に対処するだけだと思うんです。ぼくらが考える以上に、人間は支配や権力に対して柔軟です。AIやロボットによってぼくらのアイデンティティや日常的な感覚、暮らし方も大きく変わらないと思っています」 そのような人間の動物的な側面を意識した上での社会設計が求められていると東は提唱している。
「10年ほど前までは、資金やイデオロギーがなくても、ソーシャルメディアで人を動員すれば政治的な力がつくれるという夢があった。でも、その果てがトランプです。ソーシャルメディアによる政治の実験は終わった、と認めるべきだと思います。これからは、いままで放置していた問題に立ち戻るべきです。単に人を動員すればいいと考えるのではなく、いまの時代において政治組織とはどうあるべきなのか、新しい時代のイデオロギーや社会を導く理念はどうあるべきなのか、それらの難しい問題に立ち向かうべきです」 それは政治運動に限らない。コミュニケーション・テクノロジーは、わたしたちのライフスタイルを大きく変えたと思われて居る。だからこそ東は「市民社会をどうつくるか」と言う古い問題に関心が移って居ると言う。
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「言いたい事」
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人は自分の考え方で人を見る。人には誰にも譲れない考え方がある。言って見れば其の人間の型(尺度)だ。その人は自分にある、いや、自分が考えた思想で生きて居る。この思想。この型(尺度)は何人にも侵し難きものだ。それは何時出来上がったものだろうか。何時形成されたのだろうか。思想は誰でも持って居る。型(尺度)は誰でも持って居る。しかし、この型(尺度)は、一丁一端で出来たものでは無い。生きて来る上で考えたものだ。人生経験から来て居るとも言える。「知・覚・考・動」この言葉の定義を知って居るか?世の中の大半普通の人の思考はこれだ。しかしこれでは何にも出来ない。「知・覚・動・考」こう変えて見る。この四つの言葉で一番大切な言葉は何か?答えはすでにある。「とも(知)・かく(覚)・うご(動)・こう(考)」だ。ミュージシャンのGACKTは言う....。「物事を知って居たら覚えたなら。とにかくすぐに動く事、行動する事。動きながら、知る事も覚える事さえも出来る。逆に行動しないと。知って居ても其の意味が解らなかったり覚えた事さえどんどん忘れて行く。だからこそ行動こそが結果を出す一番の近道。考えてから動くからスピードが遅くなる。。考えるのは行動をした後でいい。全ての人間の行動は思考が支配して居る。思考が結果を生み出す。」
私は、物事がうまくいく人に共通する要素は「素直さ」だと思って居ます。素直な人はビジネス書を読んで、面白い事が書かれて居たら「自分もやって見よう」と、すぐに行動に移す事が出来ます。柔軟性に富んで居るから、自分とは異なる意見を取り入れ、行動に移す事が出来るのです。一方、素直でない人は他者の意見をなかなか受け入れようとはしません。悪い意味でこだわりが強く、頑固です。他者の意見を取り入れないと、結局は自分の勘や経験、そしてわずかな知識に頼るしか無く、遠回りをして仕舞います。どんな物差しで自己の価値を測って居るのか、わざわざ意識した事は無いかも知れませんが、実は心の奥では気づいて居るかも知れません。結局の処、「自分は基準に達して居る」と感じれば、自分に対する感情が良くなりますが、「自分は基準に達して居ない」と感じると、自己評価は暴落します。相手を苦手に感じ、相手の事が嫌いになるとき、人は理由を相手に求めます。自分の意に沿わない言動によって、自分は苦しめられて居ると感じるのです。しかし、自分の意に沿わないと決めて居る基準はなんでしょうか。それは自分の価値観で作った自分の型であり、絶対的なものではありません。
それでは、そもそも人はどんなときに、相手を「苦手」「嫌い」と感じるのでしょうか。殆んどの場合、原因は相手の発言やふるまいにあるのだと思います。相手の発した言葉で傷ついた、無神経なもののいい方が癇に障った、だらしないふるまいを見て不愉快だった……。そうした自分の意に沿わない言動が、悪印象を持つ切っ掛けになるのです。勿論、型はあっていいのです。それは自分の発言や行動の規範になるものですし、型がある事によって、自分という人間が作られます。ただし、他人をはかるときには、型に“嵌めて考える”のは辞めましょう。自分の型と他人の型は違うのですよ。
此処で「禅」の求道者、枡野 俊明氏の言葉を抜粋して於きます。
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『「禅の庭」をつくるときに、私は時折、「山是山、水是水(やまはこれやま、みずはこれみず)」と言う禅語を思い出します。意味するのは、山は山として本分を真っ当し、水は水として本分を真っ当して居ると言う事です。山が水に対して「山になれ」と命令する事もなければ、水が山に向かって「水になれ」と指図する事もありません。
禅の教えは、人の社会全般に当て嵌ります。「山是山、水是水」を人間関係に当て嵌めるなら、自分が山なのであれば、水である相手が山になる様に求めては行け無いし、自分も水になろうと頑張る必要は無いと言う事になるのです。山は山として、水は水として本分を真っ当するのが美しいのであり、自然は当たり前の様にそうして居ます。
禅では、人と自分に付いて、「人は人で絶対、自分は自分で絶対」と考えます。絶対という意味は、今、此処に、命を頂いて、過不足なく生きて居ると言う事です。人も自分も、共にその様な存在なのです。過不足なく生きて居る誰かに、「此処が足りないじゃないか」などとは言え無いのです。人は人で絶対、自分は自分で絶対と言う事を意識して、誰に対しても、「水平の視線」で見る様にして見ましょう。
視線を高くして見下ろせば、人は小さく見えますし、視線を低くして見上げれば、人は大きく見えます。どちらも相手を正しく見る事になりません。』常に水平の視線で人を見ることを心がけ、その様に努めて行く。それを怠らない事で、人は人、自分は自分と言う事が身体で解って来る。つまり、実践出来る様になるのだと思います。
==「最後に」==
自分の思想。型には、程度があります。つまり型を使う為には己の意思と行動力が必要です。人を妬んで居る。口を開けば他人を憎んでばかり。他人のやり方考え方をただ不定したいだけ。他人の夢を馬鹿にする奴。あなたはどうですか?悔いを残したか。人を憎んだか。人を愛せたか。罪を刻んだか。何かを失ったか。自分を愛せたか。GACKTは言う。「今日と言う日は、昨日。今日を本気で行きたくて、それでも、この世を去らなければ成らなかった者たちが残して行った輝かしい未来だ。そんな一日だ。だから本気で生きろ!!」自分の思想。型(尺度)。然しながら、其の思想は常に更新し。そして磨いて居なければチンケなプライドと成って仕舞うのですよ。私は自分の思想(型)。を持っては居ますが。それで人ははかりません。あくまで、それは自分の型だからです。自分の思想。要するに旗ですね。それは大切です。然し他人が掲げて居る旗もまた大切なのですよ。下賤な考えで其の旗を汚すのは辞めましょう
GACKT「Last Song」
以上....。『私』が言いたかった事でした。
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「レット・イット・ビー制作秘話」
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1969年1月30日、ロンドンの高級住宅地サヴィル・ロウにあるアップル社のオフィスの屋上でザ・ビートルズ(The Beatles)が行ったゲリラ・ライヴを、彼らのフェアウェル・ライヴと考えてもおかしくは無いだろう。演奏後に、バンドは静かに階段を降りて通りに出て、集まった人たちは仕事に戻り、ザ・ビートルズのメンバーはそれぞれの道を進んで行き、そうしてバンドの物語は終わり。と言う事を想像するのは難しくない。しかしそこで物語は終わらなった。
The Beatles - Don't Let Me Down
その数週間後、ザ・ビートルズはスタジオに戻り、そのまま春の間もレコーディングを続け、その後、7月と8月のほぼこの全期間を『Let It Be』が発売される何か月も前るリリースされたアルバム『Abbey Road』の完成に費やした。映画『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズを手掛けた名監督ピーター・ジャクソンが新たに手掛けているドキュメンタリー映画『The Beatles: Get Back』は、1969年1月に撮影された何時間ものフィルムから、今までとは異なるバンドの物語を提示する事になるだろう。「現実は神話とは全く異なるものです」と監督は最近明らかにしている。映画についてリンゴ・スターはこのようにコメントしている。
「バンドが解散する18ヶ月前、マイケル・リンゼイ=ホッグによって撮影した映像と音声をすべて見直して見ましたが、驚くべき歴史の宝庫でした。確かにドラマチックな瞬間もありますが、このプロジェクトで長い間言われて来た僕らの不仲なものはありません。沢山の喜びがありましたし、ピーターはそれを見せてくれると思います。今回のバージョンは、私たちが本当にそうだった様に、もっと平和で愛に満ちたものになると思います」そしてポール・マッカートニーもリンゴの意見に同意してこう付け加えている。「明らかに僕らに一緒に居て楽しんで居ました。お互いに尊敬し合い、一緒に音楽を作って居るのが皆さんも見る事が出来ます、それが紐解かれて行くのがとても楽しみです」では、なぜ『Let It Be』のアルバムが彼らの解散と結びつけられる様になったのだろうか?
ゲット・バック・セッション
1969年は、ザ・ビートルズの名を冠した2枚組のアルバム、通称『White Album』がチャート1位にランクインした事で始まった。それだけでは十分ではないかの様に、アニメーション映画『イエロー・サブマリン』のサウンドトラックが、1月17日に発売されて居る。そんな中、彼らは元旦の翌日、次のプロジェクトの準備をして居る処を撮影される為に、トゥイッケナムのスタジオに向かう為に、夜明け前に起きて居たのだ。
トゥイッケナムには少なくともアルバムを録音するのに十分な機材は無かったが、この企画は当初、テレビ特番用にリハーサルやパフォーマンスを撮影する事だった。撮影したのは当時28歳の若くてダイナミックなマイケル・リンゼイ=ホッグだ。彼は、革命的なポップTV番組「Ready Steady Go!」を担当し、ザ・ビートルズの「Paperback Writer」「Rain」「Hey Jude」「Revolution」のプロモ・クリップを監督した経験があった。音楽プロデューサーのグリン・ジョンズもこの場におり、彼は、テレビ特番として収録される予定だったライヴ・コンサートの音響監修のために招かれて居た。グリンはリンゼイ=ホッグと共にザ・ローリング・ストーンズの『The Rolling Stones Rock and Roll Circus』のTVスペシャルで仕事をした事があった為だ。
The Beatles - Penny Lane
トゥイッケナムからアップルへ
ライヴ・パフォーマンスに適した曲が詰まったアルバム『The Beatles (White Album)』でチャート1位を獲得したにも関わらず、ザ・ビートルズはすぐに新曲の制作に取り掛かった。1月2日、ジョン・レノンがジョージ・ハリスンと共にギターをチューニングする間に「Don’t Let Me Down」を演奏。二人がこの曲に慣れ始めた頃、リンゴ・スターが到着し、すぐにドラムで参加した。ジョージはジョンに「いい曲だね。シンプルな曲が好きなんだ」と「Don’t Let Me Down」が気に入ったと伝えて居る。この最初の朝のセッションにポールは遅刻して来たが、到着したと同時にポールも演奏に参加した。
こうしてセッションは続き、「Don’t Let Me Down」の他にも「Two Of Us」「I’ve Got A Feeling」「All Things Must Pass」「Maxwell’s Silver Hammer」などの演奏が行われた。彼らは新曲に集中しただけでなく、リバプールやハンブルグでの名声を得る前の時代に遡って、多くのカバー曲をジャムしたりもして居た。しかし、前年の『The Beatles (White Album)』のセッションの途中で、リンゴが一時バンドを脱退した時と同じ緊張が再燃した。1月10日の金曜日の昼食前に、ジョージが脱退を宣言して、スタジオを離れて仕舞った。
残った3人のメンバーは、トゥイッケナムから場所を移すまでの数日間、ジョージ抜きで活動を続けた。そして1月20日、ロンドン中心部のサヴィル・ロウにあるアップルのビルの地下に新しく設置されたスタジオにジョージを含めた全員が集結した。しかし、ザ・ビートルズの仲間だったギリシャの電子技術者マジック・アレックスが設定したセットアップに不備がある事が判明し、翌日にアビーロードにあるEMIのスタジオからポータブル機器が運び込まれ、作業が再開された。
リンゴはこう振り返って居る。「アップルの設備は素晴らしかった。とても快適で、自分たちの家の様でもありました。私たちが働いてない時でも、居心地を良くする為に、暖炉の周りに座ってくつろぐ事も出来ました。ただ、自分たちの演奏をプレイバックで聴くときだけは火は使えませんでした、薪のはじける音がしたのでね」
プロジェクトを締めくくるライヴ・パフォーマンスの場所の候補として、北アフリカの古代円形劇場から孤児院まで、幾つかの会場が検討されて居たが、最終的にロンドンの賑やかなリージェント・ストリートの裏手にあるアップル社のビルの屋上で、ゲリラ・ライヴを行う事が土壇場で決定された。ポールはこう振り返る「『あと2週間でどうやってこれを終わらせるか?』って映画の終わり方を探して居たんです。そこで、屋上に上がってコンサートをして、それぞれが家に帰るって事になったんです」
ゲット・バック・セッションが終了してから1年以上経った1970年5月8日、ついに『Let It Be』がリリースされた。裏表紙には「新しいフェーズのザ・ビートルズのアルバム…」と書かれて居たが、アルバムがプレスされて居る間には、バンドはもう存在しなかった。このアルバムは実際には彼らの最後の音楽作品にはならなかったかも知れないが、これはビートルズがその侭にして於いた(Let It Be)サウンドだったのである。
The Beatles - Let It Be - Let It Be (STEREO REMASTERED)
今回は此処までです。体調が凄く悪い為に、しばらく更新まで時間が掛かると思いますが。皆さん宜しく。更新出来なくても。皆さんの処には見に行きますので。
宜しくお願い致しますね。最近挙げた物とか読んで居なかったら、過去記事も読んで見て下さいね。宜しくお願いします.....。でわでわ。。。。






















