永田よしのりの映画と唄と言霊と  映画批評と紹介記事など 
(立ち寄ってくれた人へ)
映画とバンドと本があれば、とりあえず精神的には生きていけそうな。そんな生活を送りはじめてはや三〇年。言いたいことや書きたいことだけを綴る私的論。もちろん意見には個人差があるから100%の人に好かれようとは思っていないので、気に入った人だけお付き合いくださいな。
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日曜日の選挙

21日は午前中に選挙投票へ。僕は山本太郎に投票する!

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの その9」

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの その9」


 1968年にその第1期テレビアニメーションの放送開始から、すでに50年以上。
 「ゲゲゲの鬼太郎」は、昭和から平成、令和の時代と三時代にまたがって、製作・放送されてきている。
 人気作品というのは言うまでもない。
 そして何よりも「ゲゲゲの鬼太郎」という作品自体が持つ、普遍的テーマが、どの時代にも通用するものであるから、製作・放送されるのである。
 求められなければ、それはエンタテインメントの世界では製作されないし、人気を得ることはない。
 それはシビアでありながら、リアル(現実)でもある。
 だが、これだけ長い間、時代をまたぎながら公の場所に存在し続けることは容易ではないだろう。
 1968年の第一期アニメーションをリアルタイムで視聴していた子供たちは、現在ならば50代から60代の世代。
 もちろん、その時々により視聴してきた世代は、当然のように子供たちが中心であり、そこで好きになった人たちが、自分の子供や孫の世代に「ゲゲゲの鬼太郎」という作品を語り継いでいくことになる。
 昔の口伝えでおとぎ話を子供たちに寝物語に話して聞かせた世界が、最近ではこうした代表的アニメーションで、その役割を担っていると言ってもいいだろう。
 そして、そこには間違いなく放送されていた時代性というものが寄り添っている。
 鬼太郎が子供たちの友達として描かれていた時代もあれば、親子の物語として描かれた時代もあり、それはその時代により変化していく。
 現在放送中の今作品では、社会的問題が、人間と妖怪を会して取上げられ、時にペーソスも踏まえて物語が構築されている。
 もちろん、「ゲゲゲの鬼太郎」のエピソード中で、ファンに人気の高いものは基本的に取上げられていくことになるのだが、そこにはリメイクとして、過去作品では触れることのなかった諸問題も絡んで描かれることになるのは、その時代の変化からだ。
 すでにスマートフォンなどが登場しない、現代劇が在り得ないように、ユーチューブ、PC、インターネット、最新機器は当たり前のように存在する世界観。
 鬼太郎はそれらを積極的には活用していないようだが、それはそうした現代機器などの利便性とは鬼太郎が密着せずに存在できるものだからだ。
 だが、サブキャラクターたちは、スマートフォンなども活用し、積極的に人間との接触に活用したりする。
 そうした現状から鬼太郎は、現在の人間の生活環境を知ったりしているのだろう。
 現代では小学校などでもPCの扱い方を教え、GPS付きのスマートフォンを親が子供に与える時代。
 そこにはどうしても〃管理社会〃というワードが密接に忍び寄ることもあるが、それだけではなく、現代社会で生きるために必要なモノとしてうまく活用すればいい、という思考も存在する。
 「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌はその曲調こそ変化すれど、その歌詞はずっと変わらないで使用されている。
 それは妖怪の世界そのものを表現してはいるが、我々人間ももっと気楽に今生きている世界を楽しんでいこう、という作詞した原作者・水木しげるの永遠不変の意図があるからに他ならないはずなのだ。   

(その10につづく)

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの その8」

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの その8」
                                             

 テレビアニメーションの「ゲゲゲの鬼太郎」に登場するレギュラー・キャラクターの大多数は、基本的にこれまでほとんど変わりがなく創造されている。
 だが、新作ではねこ娘が、これまでのキャラクターとはかなりスタイルを一変させて登場していることに注目したい。
 そこには製作サイドの明確な意図があるに違いない。そうでなければ原作では本当にゲストキャラ、これまでのアニメーションでのレギュラー・キャラクターとしての在り方を一変させる必要性がないからだ。
 現在の放送を観ている視聴者には、分かりきっていることだが、これまでの「ゲゲゲの鬼太郎」では、鬼太郎の仲間の一人としてねこ娘は登場し(それは今作品でも同様、レギュラーとなったのは1971年放送開始の第2期より)、鬼太郎と同年代、同世代の身長で描かれてきた。
 それが今作では他の仲間キャラクターたち(ねずみ男、砂かけ婆、子泣き爺、一反木綿、ぬり壁ら)とは、明かにそのたたずまいが違う。
 それは鬼太郎のキャラクター設定に潤いを与えるためだと考えている。
 今作品の鬼太郎は、人間との距離感が近作とは明かに違い、自らは積極的に接触を望まないような、醒めているが、時に冷徹で、時に断罪者ともなる、傍観者的キャラクターの立ち位置が示されている。
 最近のヒーローものでは珍しくなくなったが、アメコミキャラのような、例えればアイアンマンのようなスタイル。
 アイアンマンも、孤高の人ではあるが、その本質には他者を優先させて自己犠牲を厭わないヒーロー。
 大人が映画館で楽しむには、大人向け映画のキャラクターとして、その複雑な内面性を描くことが映画の質を向上させる効果を与えるが、テレビアニメーションとなると、それは深夜枠で放送するような、アニメマニアが喜ぶようなダーク・ヒーローとなってしまう。
 そこで最低限の冷徹さを残しつつ、鬼太郎の片腕的存在として今作品のようなねこ娘を創造したのではないだろうか。
 そこには淡い恋愛的要素ももちろん不可欠。
 常に軸のぶれない言動で中心にいる鬼太郎に恋心を抱きつつ、それでいて素直に表現できないねこ娘という、ラブコメの要素も加えつつ、自立している女性としてのねこ娘。
 それゆえに彼女だけが人間の主人公的存在の真名と、携帯電話で連絡を取り合える。つまり彼女も自分たちの種族以外のものとの異文化交流に頑なな拘りがない存在。
 背の高いキャラクターに設定したことは、そこに鬼太郎とは同等の仲間としての存在以上に、物語中の恋人、母性、妖怪と人間との仲立ちも出来る存在としての明確さを求めたのだろう。
 これまでの「ゲゲゲの鬼太郎」アニメーションを知る者からすれば、一見して「ねこ娘のキャラクターがこれまでの描き方と違う」ということに気づくし、初見の子供たちからすれば「頼りがいのあるお姉さん」という愛着も沸くことだろう。
 製作サイドはその両方を満たすために、今作品のようなねこ娘を創造したのではないだろうか。
 物語のサイドキャラクターたちは、その役割として、主人公をより際立たせるために存在する。もちろん、時に主人公を食ってしまう活躍をすることもあるが、それはそのキャラクターの存在の意味をより深くすることで、主人公がさらに際立つ、という効果を生むためにある。
 サイドキャラクターたちが目立ち続けてしまうとそれは物語として本末転倒になり、何が描きたいのか、が不明瞭になってしまう。
 しかしながら魅力的なサイド・キャラクターなくして、主人公は光輝くことはない。
 物語に登場するキャラクターたちは、誰もが主人公でありながら、その物語の本質をより明確するため、誰もが必要なもの。
 それは今作の「ゲゲゲの鬼太郎」でもしっかりと提示されているのだ。その顕著な立ち位置がねこ娘なのであろう。
(その9につづく)

 

 


 

ホリデーオート 休刊に


1971年の創刊から、車雑誌の一翼を担ってきた「ホリデーオート」が、今月号で休刊に。
私の最後の映画記事は「トイ・ストーリー4」となった。
約10年ありがとうございました。

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの その7」

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの/その7」

 

 現在放送されているテレビアニメーション「ゲゲゲの鬼太郎」の第59話では、『女妖怪 後神との約束』というエピソードが放送された。
 これまでのアニメーションでも放送されているキャラクターだが、今回は原作の『後神』のエピソードを生かしつつ、令和の時代に放送する際の味付けが成されている。
 原作版では、後神が人間の家に入り込み、人間を全て排除してから住居と食べ物を確保して、その家で生活するという目的で人間をサボテンに食わせていたが、今回放送されたアニメーション版では、後神を人間との結婚詐欺に遭っているために、その失踪した男性を探すために人間社会で事件を起こす、という設定に味付けされている。
 原作版ではあくまで後神が自分の欲望のために人間に害を成す存在として鬼太郎に退治されるのだが、今回のアニメーション版では『悪いのは結婚詐欺で後神をだまして、金銭を奪った人間』というスタンス。
 そこには、人間の男性に恋してだまされてしまう、女妖怪・後神のピュアさと、他者をだまして生活する人間の狡猾さが対比して描かれている。
 結局は、人間は反省をせずに同じ結婚詐欺を繰り返し、後神と鬼太郎との『二度としない』という約束を破ったために、後神に復讐されることになるのだが、そのラストには、鬼太郎の前に青く広がる青空が広がっていた。
 現実社会では、結婚詐欺はニュースでよく取り上げられる。最近では海外から日本女性をターゲットにするものもある。半在は国内だけではなく、海外からもその触手が届くようになってきている。それもある意味ネット社会の弊害のひとつであろう。
 人間という生き物は楽をして生きたい、と考える生き物。そこに悪知恵を加味して他者を騙して生きる、という選択をする者がいるのも確かだ。
 だが、他者を害すれば、いつかは自分にその害が巡り巡ってくるのは世の習わし。因果応報というもの。
 それを今回は表しながら、妖怪ホラー的味付けと、人間の狡猾さ、妖怪の純粋さを視聴者に見せていた。
 妖怪というものは地球の自然の中に存在するもの。
 人間のように、世界環境を破壊しながら生きている術はほとんどない。  
 常にそこにあるものをあるがままに受け入れ、存在している、と考えていいもの。
 それゆえに純粋なのであろう。
 つまり、妖怪を騙すことは、地球の自然を騙すことにも繋がる。今回のエピソードは、悪意を持って接するものには、しっぺ返しが下される、という教訓でもあり、それは地球の環境破壊を続けながら生きるしかない人間の存在にも比喩されている。
 だが、心を持って接するならば、その限りではない、ということも描かれており、そこをどう選択するかは、結局は人間のやり方次第なのだ。
 ここにも共存共栄の姿勢を表す「ゲゲゲの鬼太郎」の方向性が示されている。
 全ての妖怪が最初から人間に害を成すために存在しているわけではない。それは地球で生きる人間にとっては〃どう生きるべきか〃の警鐘でもあろう。
 現在の子供たちは恐怖怪奇マンガとしてあった、白黒放送時代の「ゲゲゲの鬼太郎」のことはほとんど知らないであろうが、人間の敵として妖怪を倒していたヒーロー・マンガとしての鬼太郎とはまた違う存在の令和の時代に描かれる鬼太郎をリアルに感じ、何を考えているだろうか。 
 考えさせること。
 考えることに導くこと。
 それは大人が子供に対してするべき責任のひとつだと思う。
 現在のテレビアニメーション「ゲゲゲの鬼太郎」製作陣は、そこを目指して努力されていることを強く感じるのだ。(その8に続く) 


 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの その6」

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの/その6」


 鬼太郎は幽霊族の末裔であり、ねずみ男は人間と妖怪の間に生まれた半妖怪、という設定だ。
 そのために、鬼太郎よりもねずみ男の方が、生の人間の嫌らしさや滑稽さを体言するキャラクターとして描かれることが多い。
 ねずみ男が巻き起こす、あるいは係わる事件を、幽霊族の鬼太郎が、ねずみ男(妖怪と人間の両方)を見捨てることが出来ずに事件解決に赴くのが、マンガの世界観のひとつとして絶対的に存在している。
 そこには作者の水木しげるが、地球上に存在する全ての生命体に共通して愛情を捧げ、そして慈しむゆえの答えのひとつとしてあるはずなのだ。
 水木自身もニューギニア戦線に出兵し、片腕を失くす、という経験があり、その戦場での経験が、後の作家活動に多大なる影響を与えていることは想像に難くはない。
 戦場では、普段の我々が想像も行動もしないようなことが普通に起こり得る。究極の飢餓状態に陥り、精神的にも混乱し、自身の周りに銃弾などによって倒れている、半分腐乱した人間の死体を食して生き延びる、という事態も伝えられている。
 あくまで少年少女向け怪奇マンガとして描かれ始めた「墓場鬼太郎」でも、さすがにカニバリズム的表現はされてはいないが、時として他者を追い詰める人間を、冷徹に地獄へ送ってしまう鬼太郎の行動には、人間をこの世に存在しないものへと置換させてしまう究極的な断罪に通じるものがあるのではないだろうか(死刑執行のようなものとして捉えることも出来よう)。
 そうした生々しい描写をある意味避けるためにも、ねずみ男という半妖怪の存在は絶対的に必要だと考えたのだろう。それゆえ、最初は脇役に等しかったねずみ男が次第に主役のように活躍し始める。そこには人間と妖怪の間で苦悩する、というねずみ男の姿も原作マンガでは描かれることもあった。
 アニメーションでは、そこまで苦悩する姿は描写されることはないが、妖怪側にでも、人間側にでも、自分が得をする、と思われる方にくっついていくねずみ男の姿と、それでも最終的には仲間として自分を迎えてくれる鬼太郎たち妖怪側の手助けをする姿は、人間は(妖怪も)けしてたった一人では世界を生きてはいけない、ということや、自分を迎え入れてくれる仲間こそが、必要なものだということも子供たちには教えてくれていたはずだ。
 それとは逆に、鬼太郎は他者と自分との比較をしないで存在している。あくまで自分の考えることを基準として、人間を助けたり、妖怪を懲らしめたりしている。
 それは現在放送中のアニメーションでも同じスタンスが取られている。鬼太郎は常に人間の味方ではなく、それでいて率先して人間の間違いを正すこともない。あくまで人間自身が間違いに気づくことを望むというスタンスだ。
 それは他人に興味がない、ということではなく、他者への否定を安易に行使しない、という大きな意味での博愛のスタンスでもあろう。
 ただ、人間というものは時に厳しく冷徹に指示されなければ、その方向性を矯正することが出来ない生き物でもある。
 その人間や妖怪の修正役としての存在も鬼太郎は任しているわけだ。             
 あくまで中立として、全ての生き物が幸福な生活を送れるための道しるべとして存在しているのだ。
 それが鬼太郎が「少年マガジン」誌上で語った『人々がすこしでも幸福になるように~』という言葉に繋がっているように感じられるのだ。(その7に続く)
 
 
 

 

水槽立ち上げ中


ミクロソリウム、ウィローモス、を流木に活着させながら、新たな水槽を立ち上げ中。

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの その5」再掲載

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの/その5」
 

 鬼太郎が妖怪たちと戦う時に使用するアイテムは先祖たちの霊毛で編まれたチャンチャンコとリモコン下駄。
 他には己の肉体を串した髪の毛バリや指鉄砲、体内電気などが代表的なものだろう(水木しげる原作版ではアニメーションでは使われないコブ落とし、歯の機関銃、鼻毛ミサイル、髪の毛や舌を伸ばして相手を蹂躙、などもある)。
 他にも幽霊族の末裔である鬼太郎は、まさに殺しても死なない不滅の肉体と魂を持っている。
 そのため、鬼太郎を消滅させるのはおよそ不可能なのではないか、と思われるほど無敵の幽霊族だ(なにしろ溶かされても、食われても、樹木になっても復活するのだから)。それでも牛鬼に変化した時だけはかなり危機的状況に陥ったが。
 時代の変化によって鬼太郎の戦闘シーンの表現は変化していきている。現在の鬼太郎の最強最終兵器ともいえる指鉄砲は、60年代で描かれていたように指先だけの弾丸ではなく、まさに強力なエネルギー弾として表現されている。 
 そこは現代のアニメーション表現としての派手さが優先されているのだろう。
 60年代~70年代のアニメーション版・鬼太郎では、大体の場合髪の毛バリで敵を倒す場合が多かったが、現在では髪の毛バリが絶対的な武器ではなくなってきている。
 それはある意味威嚇的武器であり、けしてむやみに相手を倒さない、という方向性でもあろう。
 水木しげる原作版では、鬼太郎の髪の毛バリは、使用すれば抜け落ちてしまうために、次に使うまでは髪の毛が伸びるまでしばらく使うことが出来ない、という設定があったが、いつの頃からかそれはなくなってしまったようだ。
 昭和~平成〃令和と、その特殊能力を駆使して妖怪と戦ってきた鬼太郎。
 基本的な能力は同じだが、多少のアレンジが施されるのは、時代としての描かれ方の違いでもあるだろう。 
 その気になれば鬼太郎はその能力を駆使して、どんな相手でも戦うことが出来るのだろうが、現在の鬼太郎は〃戦う〃ということを目的とはしていない。
 平和的解決、というか相手との対話をまず求める姿勢が顕著だ。
 そこには先にも書いたことだが、異文化との交流がある。自分にとって有益であるか有害であるか、だけで判断せずに、なぜそうなったのか? そうした行動をしなければならない理由とは? を考えてから鬼太郎自身の判断であるか最終的行動を起こす。
 その理由は実に様々ではあるが。けして個人的欲望理由から行動することはない。それを体言してみせるのは、人間の欲望的姿を如実に表現するねずみ男の役割だ。
 鬼太郎とねずみ男という一対は、実は水木しげるが〃人間という生物〃を具現化するために施した舞台設定装置のようなもので、どちらか一方だけでは「ゲゲゲの鬼太郎」が描く世界観は成り立たないもの。
 鬼太郎とねずみ男の立ち位置も、実は異文化交流のひとつの形でもあるのだろう。
 そうした部分も踏まえて、現在の「ゲゲゲの鬼太郎」を製作しているスタッフは、この妖怪という世界を描いているような気がしてならないのだ。(その6に続く)
  

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの その4」再掲載

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの/その4」


 テレビアニメーション版は1968年に第一期が放送されたわけだが、オリジナルコミックで初めに描かれていたような、シニカルな鬼太郎ではなく、悪い妖怪を懲らしめる、人間の味方というスタンスでそのキャラクターは位置付けられていた。
 そんなテレビアニメーションの放送に合わせるように、放送開始2カ月ほど前から少年マガジン誌で「墓場の鬼太郎」として連載されていたタイトルもテレビアニメーションに合わせるように「ゲゲゲの鬼太郎」と改題された。
 これは「墓場」という言葉が、子供向け作品としてあまりふさわしくない、という製作サイドからの判断があったようだ。
 そもそも鬼太郎は、当初はかなりグロテスク色が混在した怪奇マンガだった。鬼太郎が誕生するのは幽霊族の母親が埋葬された墓の土の中からだし、後に目玉のおやじとなる父親も身体が腐り、溶けて、ひとつの目玉だけが床にポトリ、と落ちて手足が生えていくといったもの。
 そこには水木しげるが愛した不思議な世界がプンプンと匂っていた。両親のいない鬼太郎は水木という人間に育てられるが、やはり人間の生活に馴染めずに目玉のおやじと共に旅に出ることに。そこから鬼太郎の放浪の旅が始まったのだ。
 その出生からけして人間社会で受け入れられなかった鬼太郎は、性格もテレビアニメーションのように最初から正義を愛する幽霊族の末裔というキャラクターではなかった。
 どこかシニカルで、人間に対して全面的に友好的ではなく、むしろ人間社会を斜めに見ているような、そんなキャラクターだった。
 それが週刊少年マガジン2回目の掲載作品「夜叉」から、「とうふ屋の又八にたのまれまして…」と、夜叉に魂を抜かれた正太の家にやって来る。鬼太郎は真夜中に川で洗濯をしている時にとうふ屋の又八に相談されたのだそう。
 まだ鬼太郎の重要なサブキャラクターとなるねずみ男は登場しておらず(本格的な登場は掲載2年目の『妖怪大戦争』から、『おばけナイター』にもねずみ男らしきキャラクターは描かれている)、鬼太郎定番にもなる、ねずみ男が人間社会で悪事を働き、そこのからんでくる妖怪たちと一戦を交えるというパターンもまだ生まれてはいない。
 水木しげるが掲載当初の頃から鬼太郎を正義のヒーロー的キャラクターに仕立てようと考えていたかは分からないが、「夜叉」のラストで「ぼくは人々がすこしでも幸福になるように妖怪と戦って入るだけです。お礼なんて……」という言葉を残して立ち去っている。現在放送されているアニメーション「ゲゲゲの鬼太郎」では、けして快活で、人間とは友達のようなスタンスでは描かれていない鬼太郎。あくまで人間と妖怪との中立というスタンスであり、種別関係なく「悪いものは悪い」というスタンス。
 自分から積極的に人間社会に歩み寄るということはなく、子供からみたら暗いキャラクター。
 だが、中立であるがゆえに、異文化であっても、間違っていないと思えば、人間でも妖怪でも分け隔てなく接している。
 それが令和という時代における鬼太郎というキャラクターのスタンス。異文化交流である。
 印象的なのは「襲来! バックベアード軍団」のエピソード放送回で、海外からの妖怪が日本にやって来て、日本の妖怪たちとうまく交流できない姿が描かれたりしており、まさに現代社会における問題に触れているものと考えられる。
 こうした現代社会の問題に焦点を当てつつ、子供たちに妖怪という人間とは違ったまさに「見えない世界の扉が開く」という、水木しげるが愛した不思議な世界が構築されているのだ。(その5に続く)



 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの その3」再掲載

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの/その3」

 

 そのキャラクターが1954年頃に誕生してから、実に70年近くも経ている鬼太郎。
 鬼太郎というキャラクターのアニメ化が、何度も行われているわけだが、そこに他の息の長いキャラクターたちとは少し違うところを見ることが出来る。
 例えば他の息の長いキャラクターたち「ウルトラマン」「仮面ライダー」「ガンダム」らも何度も映像化されているわけだが、それぞれに時代の変化を取り入れつつ映像化されている点は似ているのだが、「ウルトラマン」「仮面ライダー」「ガンダム」らは、「鬼太郎」のようにずっと同じキャラクターを使い続けているわけではないことに気づくだろう。
 「鬼太郎」は、そのアニメーション化において、常に同じキャラクターたちを使い、同じ原作を使って少しづつ変化をつけていることに対して、「ウルトラマン」や「仮面ライダー」「ガンダム」は、最初の、俗にいうところの初代のキャラクターがずっと使われているわけではないのが大きな違い。
 時代が連綿と変わっていくにつれ、ウルトラマンは兄弟という概念が出来、キャラクターもM78星雲出身ではないものもたくさん存在する。仮面ライダーも1号がずっと使われ続けているわけではなく、極端に言えば1年毎に違う仮面ライダーが誕生してくる。ガンダムも最初のガンダムから全く違う方向付けされているモビルスーツ、モビルアーマーといった具合に、変化し続けて違うキャラクターを産みだし続けている。
 ところが、鬼太郎だけは最初に映像化されてからキャラクターにほとんど変化はない(アニメーションの声優は交替していくのだが)のだ。
 これは鬼太郎というキャラクターに変化を付けるのではなく、製作される時代というものに変化をつけることで、よりその時代の空気感を味付けすることにも繋がっていく。
 現在放送されているアニメーションでも、それは顕著だ。
 以前ならばなかった題材が、オリジナルのエピソードにうまく加味されて実にたくさん登場してくる。例えばSNSや、働き方改革、移民問題、土地問題、老齢化、などの現代社会においての実情的問題もうまくミックスされて妖怪という、人間とは違う〃人種〃と共に地球で共存、共栄するための問題として処理されている。
 そこには〃異文化交流〃という現代文化では避けては通れない問題が多分に描かれていく。
 大人たちは毎日の報道などで、そうした現実社会でのニュースとして普通に知識や情報として理解しているが、子供たちはどうだろうか? 最近は子供新聞や子供ニュースなどでもそうした話題は頻繁に取り上げられているが、大人ほど考える機会が得られているのだろうか? そこを子供が見るアニメーションの中に問題提起のひとつとして混入させていく製作陣の心意気や方向性は、実に評価すべき部分なのではないだろうか。
 ひと昔前は、子供向け番組とされていたものでも、子供がトラウマを抱えるような題材のものが多かった。「スペクトルマン」や「レインボーマン」といった特撮番組では公害や人種差別問題、交通事故、環境破壊などが頻繁に取上げられていたし、「ウルトラマン」にも怪獣は抹殺するべき存在なのか? というヒーロー番組に矛盾した問題提起を何度もしていた。そこで子供たちは色々なことを考え、学んだものだ。
 現在放送されている「ゲゲゲの鬼太郎」も、かつての特撮番組と同じように、子供たちに何らかを考えさせる引っ掻き傷を与えているような気がしてならない。(その4に続く)

 

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