永田よしのりの映画と唄と言霊と  映画批評と紹介記事など  -4ページ目

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの その4」再掲載

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの/その4」


 テレビアニメーション版は1968年に第一期が放送されたわけだが、オリジナルコミックで初めに描かれていたような、シニカルな鬼太郎ではなく、悪い妖怪を懲らしめる、人間の味方というスタンスでそのキャラクターは位置付けられていた。
 そんなテレビアニメーションの放送に合わせるように、放送開始2カ月ほど前から少年マガジン誌で「墓場の鬼太郎」として連載されていたタイトルもテレビアニメーションに合わせるように「ゲゲゲの鬼太郎」と改題された。
 これは「墓場」という言葉が、子供向け作品としてあまりふさわしくない、という製作サイドからの判断があったようだ。
 そもそも鬼太郎は、当初はかなりグロテスク色が混在した怪奇マンガだった。鬼太郎が誕生するのは幽霊族の母親が埋葬された墓の土の中からだし、後に目玉のおやじとなる父親も身体が腐り、溶けて、ひとつの目玉だけが床にポトリ、と落ちて手足が生えていくといったもの。
 そこには水木しげるが愛した不思議な世界がプンプンと匂っていた。両親のいない鬼太郎は水木という人間に育てられるが、やはり人間の生活に馴染めずに目玉のおやじと共に旅に出ることに。そこから鬼太郎の放浪の旅が始まったのだ。
 その出生からけして人間社会で受け入れられなかった鬼太郎は、性格もテレビアニメーションのように最初から正義を愛する幽霊族の末裔というキャラクターではなかった。
 どこかシニカルで、人間に対して全面的に友好的ではなく、むしろ人間社会を斜めに見ているような、そんなキャラクターだった。
 それが週刊少年マガジン2回目の掲載作品「夜叉」から、「とうふ屋の又八にたのまれまして…」と、夜叉に魂を抜かれた正太の家にやって来る。鬼太郎は真夜中に川で洗濯をしている時にとうふ屋の又八に相談されたのだそう。
 まだ鬼太郎の重要なサブキャラクターとなるねずみ男は登場しておらず(本格的な登場は掲載2年目の『妖怪大戦争』から、『おばけナイター』にもねずみ男らしきキャラクターは描かれている)、鬼太郎定番にもなる、ねずみ男が人間社会で悪事を働き、そこのからんでくる妖怪たちと一戦を交えるというパターンもまだ生まれてはいない。
 水木しげるが掲載当初の頃から鬼太郎を正義のヒーロー的キャラクターに仕立てようと考えていたかは分からないが、「夜叉」のラストで「ぼくは人々がすこしでも幸福になるように妖怪と戦って入るだけです。お礼なんて……」という言葉を残して立ち去っている。現在放送されているアニメーション「ゲゲゲの鬼太郎」では、けして快活で、人間とは友達のようなスタンスでは描かれていない鬼太郎。あくまで人間と妖怪との中立というスタンスであり、種別関係なく「悪いものは悪い」というスタンス。
 自分から積極的に人間社会に歩み寄るということはなく、子供からみたら暗いキャラクター。
 だが、中立であるがゆえに、異文化であっても、間違っていないと思えば、人間でも妖怪でも分け隔てなく接している。
 それが令和という時代における鬼太郎というキャラクターのスタンス。異文化交流である。
 印象的なのは「襲来! バックベアード軍団」のエピソード放送回で、海外からの妖怪が日本にやって来て、日本の妖怪たちとうまく交流できない姿が描かれたりしており、まさに現代社会における問題に触れているものと考えられる。
 こうした現代社会の問題に焦点を当てつつ、子供たちに妖怪という人間とは違ったまさに「見えない世界の扉が開く」という、水木しげるが愛した不思議な世界が構築されているのだ。(その5に続く)



 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの その3」再掲載

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの/その3」

 

 そのキャラクターが1954年頃に誕生してから、実に70年近くも経ている鬼太郎。
 鬼太郎というキャラクターのアニメ化が、何度も行われているわけだが、そこに他の息の長いキャラクターたちとは少し違うところを見ることが出来る。
 例えば他の息の長いキャラクターたち「ウルトラマン」「仮面ライダー」「ガンダム」らも何度も映像化されているわけだが、それぞれに時代の変化を取り入れつつ映像化されている点は似ているのだが、「ウルトラマン」「仮面ライダー」「ガンダム」らは、「鬼太郎」のようにずっと同じキャラクターを使い続けているわけではないことに気づくだろう。
 「鬼太郎」は、そのアニメーション化において、常に同じキャラクターたちを使い、同じ原作を使って少しづつ変化をつけていることに対して、「ウルトラマン」や「仮面ライダー」「ガンダム」は、最初の、俗にいうところの初代のキャラクターがずっと使われているわけではないのが大きな違い。
 時代が連綿と変わっていくにつれ、ウルトラマンは兄弟という概念が出来、キャラクターもM78星雲出身ではないものもたくさん存在する。仮面ライダーも1号がずっと使われ続けているわけではなく、極端に言えば1年毎に違う仮面ライダーが誕生してくる。ガンダムも最初のガンダムから全く違う方向付けされているモビルスーツ、モビルアーマーといった具合に、変化し続けて違うキャラクターを産みだし続けている。
 ところが、鬼太郎だけは最初に映像化されてからキャラクターにほとんど変化はない(アニメーションの声優は交替していくのだが)のだ。
 これは鬼太郎というキャラクターに変化を付けるのではなく、製作される時代というものに変化をつけることで、よりその時代の空気感を味付けすることにも繋がっていく。
 現在放送されているアニメーションでも、それは顕著だ。
 以前ならばなかった題材が、オリジナルのエピソードにうまく加味されて実にたくさん登場してくる。例えばSNSや、働き方改革、移民問題、土地問題、老齢化、などの現代社会においての実情的問題もうまくミックスされて妖怪という、人間とは違う〃人種〃と共に地球で共存、共栄するための問題として処理されている。
 そこには〃異文化交流〃という現代文化では避けては通れない問題が多分に描かれていく。
 大人たちは毎日の報道などで、そうした現実社会でのニュースとして普通に知識や情報として理解しているが、子供たちはどうだろうか? 最近は子供新聞や子供ニュースなどでもそうした話題は頻繁に取り上げられているが、大人ほど考える機会が得られているのだろうか? そこを子供が見るアニメーションの中に問題提起のひとつとして混入させていく製作陣の心意気や方向性は、実に評価すべき部分なのではないだろうか。
 ひと昔前は、子供向け番組とされていたものでも、子供がトラウマを抱えるような題材のものが多かった。「スペクトルマン」や「レインボーマン」といった特撮番組では公害や人種差別問題、交通事故、環境破壊などが頻繁に取上げられていたし、「ウルトラマン」にも怪獣は抹殺するべき存在なのか? というヒーロー番組に矛盾した問題提起を何度もしていた。そこで子供たちは色々なことを考え、学んだものだ。
 現在放送されている「ゲゲゲの鬼太郎」も、かつての特撮番組と同じように、子供たちに何らかを考えさせる引っ掻き傷を与えているような気がしてならない。(その4に続く)

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの その2」再掲載

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの/その2」

 

 さて、最近はテレビアニメーションは、ひと昔前のように最低2クールの放送をする、という時代ではなくなった(1クールとは3カ月の期間で13回放送が基本、2クールとは26回のこと)。
 今や1クール放送が基本(作品によっては13~26回放送してから半年~1年の期間を空けて、続きを放送するというやり方も定着してきているようだ)、それでいて3カ月ごとに2~30本の新作アニメーションが製作・放送されている現状。それも以前のように夕方や夜7時台の放送はほとんどなくなり、夜中か早朝に放送されることが多くなっている。
 それはアニメーションというものを支持する層が、子供か夜中まで起きている青年以上の層に明確に分かれてきているからだろう。
 現在ではほとんどのアニメーションは、子供のために大人が様々なメッセージを込めて製作する時代ではなくなったようだ。
 現在放送中の「ゲゲゲの鬼太郎」の放送は日曜日の朝、これはしっかりと子供向けに作られていることを意味する。
 それでも大人が観ても、どこか心にひっかかるエピソード作りをしているところが心憎い。
 放送されているエピソードは、もちろんコミック版の「ゲゲゲの鬼太郎」(昭和40年代に『少年マガジン』に掲載されたオリジナル)をなぞっているものも多いが、平成から令和の時代を映したエピソードも独自に盛り込まれている。
 子供心に名作、快作、怪作として記憶しているエピソードも、多々あるので、それらは現代風にアレンジして使用されている。
 第57話放送作品の『鮮血の貴公子ラ・セーヌ』には、原作マンガの『少年マガジン』(昭和40年8月1日号)第1回掲載のエピソード『手』に登場するラ・セーヌとその子分マンモスが同名で登場する。『手』ではフランスから日本で吸血事件を起こすラ・セーヌが邪魔物の鬼太郎を抹殺するために策を弄するのだが、鬼太郎の遠隔操作の手首に返り討ちに遭ってしまう物語。アニメーションでは手首だけが戦う画面には現代的にしづらかったのか、チャンチャンコが手首と同じ戦法でラ・セーヌたちを倒すように変更されていた。
 このように昭和の時代と令和の時代では、その描写に様々な変更が成されるのは致し方がないところなのだろう。それもコンプライアンスと呼ばれるものの弊害だと考えるのだが、そうした障害があるゆえに、原作をよりブラッシュアップ出来ることにも繋がることが想像できる。
 現在放送中のアニメーションでは、最近のアニメーションでは珍しく、2年間の放送が決まっているらしい。
 原作から取り上げられたエピソードも多く、『見上げ入道』『電気妖怪』『幽霊電車』『妖怪獣』『牛鬼』『妖怪大戦争』『白山坊』『さら小僧』『おどろおどろ』『泥田坊』『吸血鬼エリート』などなど。原作とは全く違った構成で見せるものもあるが、基本的なラインは生かされて新エピソードが作られているのが分かる。
 まだまだ原作で描かれていない作品は多く、今後の1年間でどのエピソードが取り上げられるかが楽しみなところ。
 個人的には『笠地蔵』『おばけナイター』『人食い島』『雪ん子』『陰摩羅鬼』『血戦小笠原』『朧車』『妖怪大統領』『ひでりがみ』『妖怪反物』『大海獣』あたりのエピソードを映像化してもらいたいと願うところ。
(その3に続く)
 

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代」に発信するもの その1」再掲載

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの/その1」

 

 現在、日曜日の朝に放送されている(2018年4月より放送開始~継続中)アニメーション「ゲゲゲの鬼太郎」は、最初のシリーズ放送が昭和43年/1968年のこと。今回で実にテレビアニメとしては第6期目となる(SP版は数えず)。
 そもそも「ゲゲゲの鬼太郎」が初めて表舞台に登場したのは、あの「ゴジラ」公開と同じ1954年。最初は民話の「子育て幽霊」を脚色した紙芝居「ハカバキタロー」(原作・伊藤正美)が基であった。それを作者に承諾を得たうえで水木しげるが紙芝居物語として描いたもの、それが「墓場の鬼太郎」なのだ。
 その後、貸本時代で何本もの「鬼太郎」がシリーズとして描かれたが、メジャーとなったきっかけは1965年に『少年マガジン』紙上に「墓場の鬼太郎 手」が読み切りとして掲載されてからだろう。『少年マガジン』に不定期読み切りとして掲載されてはいたものの人気は出ず、陽の目を見るのは東映で「悪魔くん」が製作・放送され人気を得てからのこと。実は「鬼太郎」よりも「悪魔くん」の方が先に人気作品となっていたのだ。
 「墓場の鬼太郎」が正式連載となったのは1967年のこと。そして「ゲゲゲの鬼太郎」と改題されたのはの11月、大人気となった「ゲゲゲの鬼太郎」は、1968年からテレビアニメ化され65話が放送された。そこからの人気は50年を経た現在まで連綿と続く永遠不滅のコンテンツとなった。
 ちなみに第2期は1971年~72年全45話、第3期1985年~88年全108話、第4期1996年~98年全114話、第5期2007年~2009年全100話となっている。
 原作者の水木しげるは2016年に逝去。原作マンガが最後に描かれたのは2013年の「妖怪小学校」。つまり今後も「ゲゲゲの鬼太郎」にアニメーション新たなシリーズが作られても、そこに水木しげる原作の作品は増えてはいかないことになる。つまり現在放送されている第6期テレビアニメーション「ゲゲゲの鬼太郎」では、水木原作の物語を使いつつ、2000年代の現在だからこそ描けるテーマを内包しつつの展開が見られているのだ。次回からはそんな「ゲゲゲの鬼太郎」に描かれる妖怪と人間との共存、共栄、種族としての戦い、作品に内包される様々なテーマと放送時期の時代とのリンク性などを掘り下げていくことにしよう(その2に続く)。
 
 

 

東京スカイツリー


ひさしぶりに東京スカイツリーを間近に。

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの その6」

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの/その6」


 鬼太郎は幽霊族の末裔であり、ねずみ男は人間と妖怪の間に生まれた半妖怪、という設定だ。
 そのために、鬼太郎よりもねずみ男の方が、生の人間の嫌らしさや滑稽さを体言するキャラクターとして描かれることが多い。
 ねずみ男が巻き起こす、あるいは係わる事件を、幽霊族の鬼太郎が、ねずみ男(妖怪と人間の両方)を見捨てることが出来ずに事件解決に赴くのが、マンガの世界観のひとつとして絶対的に存在している。
 そこには作者の水木しげるが、地球上に存在する全ての生命体に共通して愛情を捧げ、そして慈しむゆえの答えのひとつとしてあるはずなのだ。
 水木自身もニューギニア戦線に出兵し、片腕を失くす、という経験があり、その戦場での経験が、後の作家活動に多大なる影響を与えていることは想像に難くはない。
 戦場では、普段の我々が想像も行動もしないようなことが普通に起こり得る。究極の飢餓状態に陥り、精神的にも混乱し、自身の周りに銃弾などによって倒れている、半分腐乱した人間の死体を食して生き延びる、という事態も伝えられている。
 あくまで少年少女向け怪奇マンガとして描かれ始めた「墓場鬼太郎」でも、さすがにカニバリズム的表現はされてはいないが、時として他者を追い詰める人間を、冷徹に地獄へ送ってしまう鬼太郎の行動には、人間をこの世に存在しないものへと置換させてしまう究極的な断罪に通じるものがあるのではないだろうか(死刑執行のようなものとして捉えることも出来よう)。
 そうした生々しい描写をある意味避けるためにも、ねずみ男という半妖怪の存在は絶対的に必要だと考えたのだろう。それゆえ、最初は脇役に等しかったねずみ男が次第に主役のように活躍し始める。そこには人間と妖怪の間で苦悩する、というねずみ男の姿も原作マンガでは描かれることもあった。
 アニメーションでは、そこまで苦悩する姿は描写されることはないが、妖怪側にでも、人間側にでも、自分が得をする、と思われる方にくっついていくねずみ男の姿と、それでも最終的には仲間として自分を迎えてくれる鬼太郎たち妖怪側の手助けをする姿は、人間は(妖怪も)けしてたった一人では世界を生きてはいけない、ということや、自分を迎え入れてくれる仲間こそが、必要なものだということも子供たちには教えてくれていたはずだ。
 それとは逆に、鬼太郎は他者と自分との比較をしないで存在している。あくまで自分の考えることを基準として、人間を助けたり、妖怪を懲らしめたりしている。
 それは現在放送中のアニメーションでも同じスタンスが取られている。鬼太郎は常に人間の味方ではなく、それでいて率先して人間の間違いを正すこともない。あくまで人間自身が間違いに気づくことを望むというスタンスだ。
 それは他人に興味がない、ということではなく、他者への否定を安易に行使しない、という大きな意味での博愛のスタンスでもあろう。
 ただ、人間というものは時に厳しく冷徹に指示されなければ、その方向性を矯正することが出来ない生き物でもある。
 その人間や妖怪の修正役としての存在も鬼太郎は任しているわけだ。             
 あくまで中立として、全ての生き物が幸福な生活を送れるための道しるべとして存在しているのだ。
 それが鬼太郎が「少年マガジン」誌上で語った『人々がすこしでも幸福になるように~』という言葉に繋がっているように感じられるのだ。(その7に続く)
 
 
 

 

東京オリンピックのチケット


本日発表の2020東京オリンピックのチケット抽選発表。
………………………………………………………………残念ながら全部落選。知り合いで当選した者はいるだろうか。

常総線に


何十年かぶりに常総線に乗る。

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの その5」

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの/その5」
 

 鬼太郎が妖怪たちと戦う時に使用するアイテムは先祖たちの霊毛で編まれたチャンチャンコとリモコン下駄。
 他には己の肉体を串した髪の毛バリや指鉄砲、体内電気などが代表的なものだろう(水木しげる原作版ではアニメーションでは使われないコブ落とし、歯の機関銃、鼻毛ミサイル、髪の毛や舌を伸ばして相手を蹂躙、などもある)。
 他にも幽霊族の末裔である鬼太郎は、まさに殺しても死なない不滅の肉体と魂を持っている。
 そのため、鬼太郎を消滅させるのはおよそ不可能なのではないか、と思われるほど無敵の幽霊族だ(なにしろ溶かされても、食われても、樹木になっても復活するのだから)。それでも牛鬼に変化した時だけはかなり危機的状況に陥ったが。
 時代の変化によって鬼太郎の戦闘シーンの表現は変化していきている。現在の鬼太郎の最強最終兵器ともいえる指鉄砲は、60年代で描かれていたように指先だけの弾丸ではなく、まさに強力なエネルギー弾として表現されている。 
 そこは現代のアニメーション表現としての派手さが優先されているのだろう。
 60年代~70年代のアニメーション版・鬼太郎では、大体の場合髪の毛バリで敵を倒す場合が多かったが、現在では髪の毛バリが絶対的な武器ではなくなってきている。
 それはある意味威嚇的武器であり、けしてむやみに相手を倒さない、という方向性でもあろう。
 水木しげる原作版では、鬼太郎の髪の毛バリは、使用すれば抜け落ちてしまうために、次に使うまでは髪の毛が伸びるまでしばらく使うことが出来ない、という設定があったが、いつの頃からかそれはなくなってしまったようだ。
 昭和~平成〃令和と、その特殊能力を駆使して妖怪と戦ってきた鬼太郎。
 基本的な能力は同じだが、多少のアレンジが施されるのは、時代としての描かれ方の違いでもあるだろう。 
 その気になれば鬼太郎はその能力を駆使して、どんな相手でも戦うことが出来るのだろうが、現在の鬼太郎は〃戦う〃ということを目的とはしていない。
 平和的解決、というか相手との対話をまず求める姿勢が顕著だ。
 そこには先にも書いたことだが、異文化との交流がある。自分にとって有益であるか有害であるか、だけで判断せずに、なぜそうなったのか? そうした行動をしなければならない理由とは? を考えてから鬼太郎自身の判断であるか最終的行動を起こす。
 その理由は実に様々ではあるが。けして個人的欲望理由から行動することはない。それを体言してみせるのは、人間の欲望的姿を如実に表現するねずみ男の役割だ。
 鬼太郎とねずみ男という一対は、実は水木しげるが〃人間という生物〃を具現化するために施した舞台設定装置のようなもので、どちらか一方だけでは「ゲゲゲの鬼太郎」が描く世界観は成り立たないもの。
 鬼太郎とねずみ男の立ち位置も、実は異文化交流のひとつの形でもあるのだろう。
 そうした部分も踏まえて、現在の「ゲゲゲの鬼太郎」を製作しているスタッフは、この妖怪という世界を描いているような気がしてならないのだ。(その6に続く)
  

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの その4」

 

「ゲゲゲの鬼太郎が令和の時代に発信するもの/その4」


 テレビアニメーション版は1968年に第一期が放送されたわけだが、オリジナルコミックで初めに描かれていたような、シニカルな鬼太郎ではなく、悪い妖怪を懲らしめる、人間の味方というスタンスでそのキャラクターは位置付けられていた。
 そんなテレビアニメーションの放送に合わせるように、放送開始2カ月ほど前から少年マガジン誌で「墓場の鬼太郎」として連載されていたタイトルもテレビアニメーションに合わせるように「ゲゲゲの鬼太郎」と改題された。
 これは「墓場」という言葉が、子供向け作品としてあまりふさわしくない、という製作サイドからの判断があったようだ。
 そもそも鬼太郎は、当初はかなりグロテスク色が混在した怪奇マンガだった。鬼太郎が誕生するのは幽霊族の母親が埋葬された墓の土の中からだし、後に目玉のおやじとなる父親も身体が腐り、溶けて、ひとつの目玉だけが床にポトリ、と落ちて手足が生えていくといったもの。
 そこには水木しげるが愛した不思議な世界がプンプンと匂っていた。両親のいない鬼太郎は水木という人間に育てられるが、やはり人間の生活に馴染めずに目玉のおやじと共に旅に出ることに。そこから鬼太郎の放浪の旅が始まったのだ。
 その出生からけして人間社会で受け入れられなかった鬼太郎は、性格もテレビアニメーションのように最初から正義を愛する幽霊族の末裔というキャラクターではなかった。
 どこかシニカルで、人間に対して全面的に友好的ではなく、むしろ人間社会を斜めに見ているような、そんなキャラクターだった。
 それが週刊少年マガジン2回目の掲載作品「夜叉」から、「とうふ屋の又八にたのまれまして…」と、夜叉に魂を抜かれた正太の家にやって来る。鬼太郎は真夜中に川で洗濯をしている時にとうふ屋の又八に相談されたのだそう。
 まだ鬼太郎の重要なサブキャラクターとなるねずみ男は登場しておらず(本格的な登場は掲載2年目の『妖怪大戦争』から、『おばけナイター』にもねずみ男らしきキャラクターは描かれている)、鬼太郎定番にもなる、ねずみ男が人間社会で悪事を働き、そこのからんでくる妖怪たちと一戦を交えるというパターンもまだ生まれてはいない。
 水木しげるが掲載当初の頃から鬼太郎を正義のヒーロー的キャラクターに仕立てようと考えていたかは分からないが、「夜叉」のラストで「ぼくは人々がすこしでも幸福になるように妖怪と戦って入るだけです。お礼なんて……」という言葉を残して立ち去っている。現在放送されているアニメーション「ゲゲゲの鬼太郎」では、けして快活で、人間とは友達のようなスタンスでは描かれていない鬼太郎。あくまで人間と妖怪との中立というスタンスであり、種別関係なく「悪いものは悪い」というスタンス。
 自分から積極的に人間社会に歩み寄るということはなく、子供からみたら暗いキャラクター。
 だが、中立であるがゆえに、異文化であっても、間違っていないと思えば、人間でも妖怪でも分け隔てなく接している。
 それが令和という時代における鬼太郎というキャラクターのスタンス。異文化交流である。
 印象的なのは「襲来! バックベアード軍団」のエピソード放送回で、海外からの妖怪が日本にやって来て、日本の妖怪たちとうまく交流できない姿が描かれたりしており、まさに現代社会における問題に触れているものと考えられる。
 こうした現代社会の問題に焦点を当てつつ、子供たちに妖怪という人間とは違ったまさに「見えない世界の扉が開く」という、水木しげるが愛した不思議な世界が構築されているのだ。(その5に続く)