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日々の雑事の哲学的解釈

日常の出来事や社会問題、霊的なことや精神的なこと、心理学や医学的なこと、オカルト科学的なことで気づいたことや勉強したことを書き残すためのブログです。誰かの参考にでもなれば幸いです

「幸色のワンルーム」という漫画、ドラマをご存じだろうか?

 

生きることに絶望し、死を選ぼうとした少女「幸」が、ストーカーである「お兄さん」に自殺を止められ、そのまま「お兄さん」の家に転がり込み「誘拐」される。親から虐待を受け、学校ではクラスメイトから悪質ないじめを受け、担任に卑劣な暴行を受けていた「幸」は、「お兄さん」との暮らしの中で初めて人間らしい「幸せ」を知ることになる。

 

このドラマ、誘拐犯を美化するような内容に問題があるとして、関東では放送が休止になった。確かに、現実に同じようなことが起これば、双方の同意があったとしても、「誘拐」と見なされ、「お兄さん」は逮捕されてしまうことになるだろう。二人の「愛」だって、世間的な見方をすれば、「偽り」のものであるかも知れない。

 

ところで、世の中には「偽り」の愛が沢山存在する…気がする。キャバ嬢と客の「愛」、二次元の美少女とオタクの「愛」、初音ミクとそのファンの「愛」、アイドルとオタクの「愛」、多分もうしばらく先には、人間と「AI」の「愛」も存在するだろう。

 

それら「偽り」の「愛」に対して、世間は必ずと言っていいほど、似たような決まり文句で非難する。「現実から逃げてるだけだ」「実際に体を重ねないと愛じゃない」「身近に大切な人がいる」などなど…。

 

でも僕は思う。そんな風に世間から叩かれ、嘲笑され、非難される「愛」のほうが余程、真実の愛に近いのではないか、と。

 

ここで、ロボットと人間(AIと人間)の愛をテーマに、漫画とドラマを、一づつ考察してみようと思う。一つは「ドラえもん」。もう一つは、2010年に放送された「Q10」というドラマだ。

 

のび太とドラえもんの友情については、疑う余地はないだろう。しかし、この漫画の中にも、二人の友情にケチをつける不届きな輩が存在する。しばしば「ドラえもんに依存するダメなやつ」としてのび太が非難される。確かに、ドラえもんの道具を、下らないいたずらや欲望のために利用し、宿題が出来ていないとドラえもんの道具に頼ろうとするダメなやつだ。でも二人はそれにも拘わらず親友なのである。それは何故か?その答えは、映画「ひみつ道具博物館(ミュージアム)」で端的に表現されている。それはのび太が「いいやつ」だからだ。だからドラえもんは、のび太が好きなのである。そして、勉強もだめ、スポーツもダメ、何も取り柄がないのび太のそんな人間らしい長所を見抜いたのは、身近な人間ではなく、ロボットであるドラえもんだったのである。

 

そして、ドラマ「Q10」に登場する前田敦子さん演じる可愛らしい女の子のロボット「Q10」がこれまた、人間以上に人間らしい優しさを沢山見せてくれる。学費が払えず退学になりそうな男の子を庇ったり、自分にあこがれるオタクみたいな男子に優しくしたり、「どうでもいい」と投げやりな気持ちになる主人公のために泣いたり(ロボットなのに)、人間にはない優しさを持っているのだ。

 

以上二人のロボットによる「アンリアル」な愛について述べたが、これらは間違いなく「愛」なのである。人間同士や生き物同士、法律、世間体、そんな「ルール」に縛られていない、本物の「愛」ではないだろうか。「アンリアル」が、愛を本物に近づけているのではないだろうか。

 

「幸色のワンルーム」では、互いの寂しさを埋めるように、「幸」と「お兄さん」は惹かれあう。そして、二人の間には、法律という壁が立ちはだかる。法律とは、世間の壁であり、常識である。しかし、常識は常に、人間に制約と思考の停止を促す。昨日の常識は今日の非常識。諸行無常。しかし、愛は普遍的なもので、決して常識には縛られない。そして、愛には常識を打ち破る力がある。これは決して、非道徳になることではない。そもそも、愛と道徳は、共存しうるものなのだ。

 

以上、長々と、「幸色のワンルーム」にみる愛の形について語った。ここでいう形とは表面的な見え方のことで、その本質は変わらない。いやむしろ、形に拘らないことが、常に本当の愛なのかも知れない。「アンリアル」な愛を、これからも追及していこうと思う。

 

 

 

 

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