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日々の雑事の哲学的解釈

日常の出来事や社会問題、霊的なことや精神的なこと、心理学や医学的なこと、オカルト科学的なことで気づいたことや勉強したことを書き残すためのブログです。誰かの参考にでもなれば幸いです

有名大学の教授とか物理学者とか医者とかいわゆる「社会的地位の高い人」がスピリチュアリズムに言及することが多くなった気がする。

以前からその風潮に違和感を感じており、これは嫉妬心に由来するものと思っていたがどうもそうではないと最近理解してきた。シュタイナーは悪とは場所を間違えた善だと言った。ピアニストはピアノの演奏が、調律師はピアノの調律が仕事だ。ピアニストが調律をしたがったり、調律師が演奏をしたがったりするのは悪なのだ。

では、大学教授や臨床医師はピアニストか調律師かでいうと、ピアニストと言える。人前で活躍するのが好きで、じっくり何かを組み立てていくタイプではない。演技をするのが好きなタイプだ。

スピリチュアリズム関係の優れた本は、それ自体が芸術作品のように、じっくり丁寧に作られているのが分かる。優れた霊的真理を書籍や講演の形で伝達するのは、調律師の仕事だ。つまり、脚本を書くのが好きなタイプだ。

大学教授や医師というのは、ピアノを演奏するのは上手い。しかし、調律はどうしようもなく下手だ。著名人がスピリチュアリズムを語ることに違和感を感じるのは、そんな所が原因だと思う。彼らの日常の演技くさい仕事は、演技だと割り切ってるから社会から受け入れられるのだ。それを本や霊学の中に持ち込むのは悪と言える。

逆に調律師が目立ちたくてピアノの演奏をしても、やはりそれは悪になる。だから人間は、自分がピアニストか調律師かを見極める必要がある。

江原啓之さんは調律師だと言えるだろう。書籍の彼からは、テレビに出てる時よりもずっと切実さや使命感、真剣さといったものを感じる。テレビに出てる時の彼は胡散臭いが、書籍の彼は若々しく、生き生きとしている。

著名な大学教授や医師や晩年になって霊学に傾倒する社会的地位の高かった人たちに言いたいが、自分がピアノの調律師だとはゆめゆめ勘違いしない方がいい。自分のテリトリーを超えて活躍したがるのは自己顕示欲や利己主義の現れで、ルシファーの暴走と言えるのだ。

シルバーバーチは自分の人格を崇めるのはやめるようにとよく注意してたが、彼は自分が調律師タイプだとよく知ってたのだろう。崇められて、現実でみんなを活動に導くのはピアニストの仕事だ。

ピアニストと調律師は、営業マンと技術者、文系と理系、俳優と脚本家なんかと思って貰えればいい。

いずれにせよ、片方がもう片方の代替にはなり得ない。なるとしてもそれは趣味の範囲で、社会に影響を与える形で書籍にしたり講演したりすべきではない。

これはとても重要なことだ。