以下、駄文と散文です。僕の思いのたけをその時の節度を持ってつづりました。

 

「世界と僕のあいだに」タナハシ・コーツを読んだ。

本書は息子サモリに宛てた手紙という形式をとっているが、読んでみると詩的に黒人であることを論じており、その言葉一つ一つが美しい。

タナハシ・コーツは黒人の差別を的確に分析している。白人が根拠のない優生学から白人でいるために黒人を差別対象とする。白人であろうとすることを彼は「ドリーム」というのだが、まさに夢見ている状況である。彼は黒人ばかりが考え行動してばかりではなく白人が意識的にならない限り人種問題はなくならないのだという。そしてその時白人は自分の弱さが露呈されてしまうのだ(だから人種問題はなくならない)。この差別はいま現在なくなるどころか、トランプ大統領を支持するアメリカにみられる通り加速している(日本でも然り)。

 

差別問題にはかなり意識しなければならない。自分だって過去を振り返れば差別に加担しているし、今現在だってついさっき発した言葉が差別的だったななんて後悔したりする。差別について考えることは偽善的でも何でもない。なぜか僕らは弱いものに寄り添うことを揶揄したりする傾向がある。いい人どまり、優しいだけの男、それってただの偽善でしょ?といった類の言葉だ。もう一度言う差別について考えることは偽善的でも何でもない、僕ら人間に与えられた使命である。人間の発展の足かせになる?私たちが発展と思い込んでいるそのドリームは何をもたらしたのであろうか?どんなに技術が発展しようとも、グローバリゼーションが進もうとも、歴史を蓄積しても、寿命が定まっている我々人間は発展しない。その矛盾が差別を生んできた。アメリカだけの話ではない、日本で、いや世界で差別は起こるのだ。自分の立場を明確にするため、自分をもてはやすために、差別を行うことで自分を崇高に見せたがるのだ。

 

「差別」と「資本主義」

 

これまでの自分(学生までの自分)は社会的なことに何ら興味が無く、自分が自分であることに注力していた。これこそまさにモラトリアムなのだが、社会に出てからから多くの矛盾と向き合うことになる。

なぜこんなガキみたいな大人が会社のポストにいるのか?なぜ自分で自分を評価することで会社が評価するのか?物は言いよう口達者な奴が評価されるなんてザラである。そういう社会だといえばそれまでなのだが、なぜこんな状態が普通とされていることに気味の悪さしか感じない。資本主義の空気に覆われて生きてきた私たちは社会のことを考えない。自分のことばかりで社会全体を意識した行動ができなくなってしまう。コスパや損得勘定に踊らされ、勝手に脱落するやつには目もくれない。自分が幸運にもよい環境で生まれたことを鼻にかけ、その「ドリーム」を追い続ける。もはや「ドリーム」に最初からいない人間なんて自業自得。お前の遺伝子が悪いなんて言い出すんじゃなかろうか?科学的に証明されているからってなんでもまかり通るなんて思うのは甚だしい。科学は宗教だよ。

 

分断を生むインターネットの繁栄が私たちに何をもたらすのだろうか?果たして僕の大切な人たちを守ることができるのか?

分断や差別の行きつく先は我々の先祖が何度も証明している。

140字の情報を5秒で取得し複眼的思考がおざなりになっている大衆が豊富な想像力を育まれるはずがない。

優しさは想像力から生まれる。優しさは豊かな思考から生まれる。

優しくあるために、そして自分が生きている間にだけでも豊かな世界にするために我々は何をするべきであろうか?