日経新聞の“私の履歴書”を読み始めて、かれこれ40年近く経つのだが


やった、やったの人(自慢の羅列が多いひと)が書く回は、読んでると気持ちが白けてしまう。


もちろん、内容的に著名人の社会的成功を書くしかないコーナーなわけだから、そこはある程度仕方ないことだとは思うのだけど


白けるのは、幼少時や学生時代の俺すごかった話がやたら多い人。

勉強しないでも合格したとか、うまれもっての運動神経抜群とか、そういった類いの。

しかもその人があまり有名でない人だと、なおさら読む気がうせてくる。


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自分も含め多くの人々が、“わたしにだって、ほかの人にはない突出した才能があるのではないか?“

と、身の程知らずに悶々とすることが多いのではないか。


でも、悲しいことにほとんど大多数の人々には、突出した才能はない。


自分がやりたいことを仕事にして、キラキラ輝ける人は、世の中のほんの一握りでしかない。


それが厳しい現実だ。


与えられた場所で、しかも望んではいない場所で、自分の生きがいや、やり甲斐をなんとか見つけて、人生を過ごす人の方が、ずっとずっと多い、というか、自分も含めほとんど大半の人がそうではなかろうか。


だから、“私の履歴書”を読んで、自分が共感できるのは、自ら望んだ境遇ではないところに置かれても、じっと頑張って困難を打開した人だ。


そういう意味で最近始まった、第一三共常勤顧問中山譲治さんの第一回目の文章にはとても惹かれた。


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学生時代に米国に留学し経営学修士を取得したものの、この道に進みたいと思えるものに出会わなかった。


厳しい就職難の時期だったが、食べることができればよいくらいの気持ちで入社試験と面接を受けたサントリーになんとか入社できた。


社風は素晴らしく、優れた先輩、同僚、後輩、そして与えられた仕事から多くの大切な学びを得た。


経験のまったくない医薬事業部への異動にはひどく驚き人事の間違いではないかと感じたが、いま思えば最も価値ある異動だった。


医薬事業が第一製薬に売却された際には自分の責任を全うしなければと考え、大好きだったサントリーから第一製薬へ移った。


その後、すぐに第一製薬は三共と統合した。

発足した第一三共で定年を迎えたら、ゆったりとした第二の人生に移ろうなどと考えていた。


ところが、予期せず第一三共の社長内示があり実感のないまま簡単に受けてしまった。

じわじわと責任の重さを感じ、自分のすべてをつぎ込むしからないと腹を決めた。

 

必死に取り組んだが、経営状況はどんどん悪くなった。株価の低迷もひどく、投資家からさじを投げられたように思えた。


もう株価を気にせずに正しいと思ったことをやるしかないと割り切り、大きな事業売却をして研究開発の方向を大転換した。”


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すごいなぁ、と思う。

この文章を読むだけで、どれだけ大変な会社員生活だったのか、と考えさせられる。

嵐に揉まれる難破船のようだ。


社長になった人と凡人の自分を比較してみても意味もないが、もし自分だったら、とっくにどっかでヤケになって、違う方向に向かっていっただろう。


最後にはこうある。


“振り返るとわたしは自分が選んだというよりも自分の置かれた場所で生きてきたが、それは素晴らしい場所であった。


非才であっても活躍する場があり与えられた仕事でも天職と思える職がある。


最悪と思える状況が続いた後に思いがけなくうれしい展開がありうる。


そんな経験を、新薬開発企業とはどんなところかという話とともに皆さんと分かち合えれば幸いだ。”


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自分自身の思いでもあるが、


どんな仕事も突きつめれば、根底に流れているものはどれも一緒ではないのだろうか。


そして、ひたむきに努力していくうちに、その種類や領域を問わず、“仕事”というものの中にある、“本質的な楽しさや喜び”を得ることができるのではないか。

そう思っている。


その喜びを得たとき、仕事の種類や領域など、ちっぽけなモノに見えてくるのではないか、とも。


中山さんの言う、“非才であっても活躍する場があり、与えられた仕事でも天職と思える職がある。”

自分は、その言葉の可能性を信じるし、そうであってほしいと強く願う。


ひとりひとりが自分の場所で輝ける世の中になりますように。


おしまい。