清水健太郎の“失恋レストラン”、じゃなくて“思い出レストラン”
今日は“思い出のレストラン”をくだらなくダラダラと語ります。(若い世代には清水健太郎さんなんてわからないだろーな・・)
ご興味ない方、スルーしてくださいね。
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思い返せば1990年代は激しいイタリアンブームでした。
第一次の60年代、第二次の80年代に続くものだったわけですが
それまでのものと違ったのは、“日本のイタリア料理をよりイタリア本場のものに近づかせたい”
“日本人が作るイタリア料理を世界基準(もっというとイタリア人)で評価してもらいたい”
そのあたりの熱量が過去のブームとは一線を画していたと思うのです。
イタリアンも、トスカーナだフィレンツェだベネチアだ、各地域の特色ある料理を現地で学んだ料理人の方々がたくさん帰国されて、素晴らしいお店を出し始めていました。
とにかく90年代中頃からの日本人のイタリア料理に対する貪欲さは、赤ワインブームとあいまってハンパないものがありました。少なくとも食べ物に限っていえば80年代以上だったような気もします。
ちなみにサッカーの中田選手がセリエAにいって衝撃のデビューを飾ったのが1998年。
時代的に90年代後半から2000年にかけては、ファッション、グルメ、サッカー・・
イタリアに対しての興味がそーとーに盛り上がっていたような気もします。
(マガジンハウス社刊)
平成7年ですね。
特集“イタリア料理はこれからだ”
イタリアのレストランの紹介がメイン記事で、日本のイタリアンレストランについてはほんのちょっと。
で、そこから二年ちょっと経ったものがこちら・・
イタリアンの真実を教えます。
特集“日本のパスタは本物なのか”笑
伝統的なポモドーロパスタの作り方も載ってます。
まー、例えて言えばヨーロッパの人気蕎麦屋さんに日本の蕎麦屋さんが行ってダメ出しするような。
でも、この企画、当時凄く斬新だなぁと思いましたね。
“日本でパスタが流行ってるけど、実際イタリア人から見たらどうなんだ?
じゃぁ、食通に来てもらって、レストランを食べ歩いてもらおう!”
いや、凄いですよ。
シンプルなアイデアだけど、それ実行しちゃうんだから。お金相当かかったんだろうなー。
でも本当に日本人って真面目。
“正統なもの”を追究する気持ちが強いんですよね。良くも悪くも。
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1965年にJALパックがスタートして、日本人がガンガンヨーロッパに行き始めたのが1970年代。
80年代には大学生の海外旅行なんかも流行り始め、海外のレストランで修行する料理人の方も増え、90年代には海外を旅するバックパッカーもたくさん現れましたから
日本人向けにカスタマイズされていない外国料理に日本人が慣れてきて、知らない料理がどんどん街中にあふれてきてる。
世の中の流れ的にそういった印象がありました。
で、それらの動きに歩調を合わせるように、日本人が作るイタリアンやフレンチにも本場のテイストをより一層強く求めるようになった感じがありました。
ちなみにヴオナッシージさんがイタリア人の目線で日本人シェフに指摘していたのは
“アルデンテ”や“ソース”よりも、“具材とパスタのバランス”でした。
具材が多過ぎたり、大きすぎてソースとパスタの絡み具合がイマイチな店が半分近くあったそうです。
これは自分も強く感じてるとこなんですが・・
もっとパスタ自体の量が多めの方がバランスが良いと思うんだけどな。
懐石料理を彷彿とさせるようなちょこっとしたボリュームのお店が多いような。
糖質過多が避けられてるのかな??
とにかく二口、三口で食べ終わっちゃうようなチマチマしたパスタは好きになれません。ガッツリいってくれと。
えー、そしてこの雑誌から一年ほど経ったのがこちら
1999年1月10号
平成10年12月発売。
このころは、まだカーサが季刊でした。これが創刊号です。たしか。
相当に読み込んでボロボロでございます。
で、この号の特集は
パスタだけでなく、料理全体として。
イタリアのグルメガイド編集長による日本レストランの点数付け。
当時は食べログなんかなかったし、ましてやスマホもなかったし。
でも、いまこうやって20年近く前の雑誌をめくると、その当時の読者が“雑誌”という情報媒体に求めていたものがわかりますね。
逆に言うと・・
SNSやネット全盛の今、雑誌発行数が激減してしまった理由もわかります。
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なんか際限なくなりそうなんで、今日はここまで。
続きはまた明日。
あ、“ラ・ゴーラ”まで辿りつけなかった。笑
“高レベルの美味しいイタリアンが日本で普通に食べられるようになったのは、生産者、作り手、食べ手、多くの先人たちの苦労のおかげです”
by bruegreenbooks