現代最高のスケーターといわれる。
「羽生ヒストリー」では、幼少期から世界を代表する選手になるまでの成長をたどる。
4歳の結弦は氷に恐怖感がなかった、すぐに1回転半
99年、4歳の春。
羽生は、仙台市泉区の自宅から歩いてすぐの
「泉DOSCアイスアリーナ(現アイスリンク仙台)」で、
初めて氷の上に立った。
おかっぱ頭にヘルメット。細い体に肘当てと膝当てをつけ、
リンクサイドから大きく助走をつけて、リンクへと突っ込んでいった。
地元で指導に当たっていた山田真実元コーチが「ちょっと待って!」と言う間もなく、
そのまま氷の上へ。走って数歩で、頭から豪快に転んだ。
フィギュアスケートを始める子どもには、氷への恐怖感を持たせないため、
最初は四つんばいでリンクに入れ、ゆっくり立ち上がらせる。
それでも、転べば「怖い」という感覚が生まれるのが普通だ。
山田コーチは「結弦には、それが最初からなかった」と振り返る。
羽生は頭から転んだ後もすぐに立ち上がり、何もなかったように、
約10分間、よちよち走り続けた。
先に4歳上の姉が競技を始め、母に連れられリンクに来ていたのが、きっかけだった。
黙って見ていられず、リンク脇で走り回っていた。
植木鉢を倒したり、他の子にちょっかいを出したり…。
最初は、試しで遊びのように滑っていたが、すぐに非凡な才能を見せる。
ある日、1回転アクセル(1回転半)のやり方を教わると、
その場ですぐに回ってみせた。
技術を即座に理解し、
再現できる頭と体が既に備わっていた。
初めて宮城県大会に出場したのは5歳の時。
試合で1分間のプログラム「草競馬」を滑り始めると、
ロックミュージシャンのように、
頭を上下に振り続け、
自分の世界に没頭した。
スピンなどの振り付けはすっぽり抜けたが、
最後の決めポーズだけは、ばっちり。
「見せる」意識も自然と身についていた。
8歳の時、地元北海道に戻った山田コーチと
入れ替わりに教わることとなったのが、
日本男子初の世界選手権メダリスト佐野稔を育てた
名コーチ、都築章一郎(79)。
羽生に世界の扉が、開き始めた。 【高場泉穂】(つづく)