私、特にこの10年間はかなり麻雀に没頭してきた。
MFC、リアル、ゲーム等、ともかく麻雀をやらない期間が
1週間続いたことはこの10年間1度もナイ。
私の人生でこんなに長く続いた趣味・興味は初めてダ。
次に、年ごとに麻雀歴を追っていく。
以前に書いた分とも被るが、既視感があってもご容赦頂きたい。
1998年
私が麻雀のルールを知ったのは、1998年の冬、ちょうど13年前である。
高校の帰りに最寄の書店でルールブックを立ち読みした時だ。
ただ、そこから本格的に麻雀を打つ機会はなく
一度ゲーセンの脱衣麻雀をやってみたくらいだ。
(いきなり相手が国士を出し、あっという間にゲームオーバーにナッタ。)
2001年
麻雀に本格的に取り組むようになったのは、この年の9月だ。
大学生となった私は夏休みに稼いただバイト代で、
ゲームボーイと「プロ麻雀・極」というソフトを買った。
半年間、暇がある時はよく遊んだ。
このゲームはやはりゲームボーイであったせいか、
対戦相手のプロ達のCPUルーチンが非常に弱く
私がリーチをしようがしまいが、とにかく全ツッパという無茶苦茶な思考で
当時の入門レベルの私の腕でも勝率5割を取れた。
ただ、このゲームのおかげで麻雀の基本ルールと
得点計算を身につけることができた。
時々、CPUの小島武夫が何の脈絡もなく四暗刻をあがってくることを除けば
当時の私には最適なゲームであった。
(入門者はいきなり対人で打つより、ゲームで覚えることをお勧めする。)
2002年
私が、初めてリアルで打ったのは大学1年の春休みであった。
春休み中、住んでいた寮の隣の部屋の4年生が寮生を適当に集めては
テツマンを実施していた。
寮生のほとんどはルールも曖昧で得点計算もできない人達なので
それらがわかる私は重宝された。
そのことで私は天狗の鼻が伸びることになるのだが、
この年の後半に見事にバッキリと折られることになる。
 
2002年の10月のある土曜日、大学でUNIXの講習を受けるため
登校してきた私だったが、時間がまだ余裕だったので
駅前のゲーセンで少し時間を潰すことにした。
久しぶりにゲーセンに入り、今どんなゲームが出ているのだろうと
店内を巡っていると、赤い色のオンライン麻雀と名を打ったゲームを発見した。
これが私とMFCの出会いでアル。
一度、打ってみてその面白さにハマってしまった私は
以降、毎週土曜日になると、当時行っていた早朝のバイトの後に
ゲーセンで2時間ほどMFCを打つようになった。
あかの他人と麻雀を打つ初めての機会であった。
そして、ルールを知らない身内では重宝されていた私も
それは完全に井の中の蛙であったことを思い知らされた。
ちなみに、当時は、価格が高く東風戦でも最高300円コンテであったため
2時間でも2000円ほどがあっという間に飲まれた。
学生にはきつい値段であった。
2003年
MFC料金のきつさに音をあげ始めた私は、
電車の定期券で行ける範囲で値段の安いゲーセンを探し始めた。
そして、03年の冬頃に長らくお世話になるGC川口を発見する。
この頃の私の腕はかなり弱く、当時のCPU参戦が通常であった状態ですら
勝率は20%台と散々であった。
(ちなみに当時のMFCはcpu2人同卓は当たり前で、
 時間内に対戦者が見つからないこともしばしばあった。
 CPUのいとさんが強過ぎ、CPUの一発ツモ多すぎと
 ネットで噂されていた頃でもあった。
 マッチングが改善されるのはMFC4になってからである。)
他の対戦プレイヤーの勝率と比べて、自分が弱いことは明らかだった。
自分の腕を向上させるため、ここで初めて麻雀本を読むことになる。
よく読んだ本は「麻雀で喰え」「バカヅキタイフーン」などである。
どちらも今は書店では見かけない。
他の本は流れだ、運だでろくなことが書いていなかった。
また、インターネットを見ている内にに"牌効率"という概念を知り
基本的なサイトを検索して勉強した。
遊びとはいえ、真剣に強くなることを模索していた。
 
4月頃、MFCは1から2に移行する。
4月末頃、約1000戦でようやく白虎マスターとなり
そして黄龍召喚を迎える。
しかし、6月頃に不調が私を襲い、たった一日で金珠12個の状態から
あっという間に白虎七段まで落とされた。
その日の帰りの夜道で、ムカついた私は
MFC2の入場カードをグチャグチャにした。
こうして私の1枚目のIDは消え去ることになった。
東風、半荘併せて1500ゲームほど、こなしたと思う。
 
7月に入ってもう一度IDを作ることにした。
理由は最初よりはマシになった実力を戦績に反映させたかったからだ。
最初のIDでは勝率24%台だったが、
これは当時のMFCで明らかに最下位レベルであった。
この"恥ずかしい"戦績で打ち続けるよりは、
新しい真の実力の方がマシだと思ったのだ。
何だかんだで半荘中心400ゲームほどでマスター召喚することができた。
8月の黄龍王位決定戦は、黄龍召喚とマスター落ちを繰り返しながら
参加していた。我ながら迷惑な奴だ。
9月前半は不調に襲われるが、後半に持ち直し
初めて岐阜県100位以内に入った。
当時は、競争率の激しい都道府県でなければ
新参でも地域ランカーになれた時代であった。
なにせ県によっては、まだ段位やマスターの地域ランカーがいたのだ。
以降、岐阜県ランカーの地位は今日まで基本的に保ち続ける。
私、大学の3年生となり、前期までに必要単位は取っていたので
この年の後半は学校には週2日しか行っていなかった。
そのおかげで、学校へ行っていない日はMFCをやっていることが多く
かなりゲーセンに入り浸りであった。
テスト前ですら教科書を読みながら、席待ちをしていた。
また、よくゲーセン近くのミニストップで
昼飯代わりにキットカットを食べたのを思い出す。
この時期は、MFCというか、麻雀自体にどっぷりハマりこんでいた時期で
家で独り麻雀をしていたこともよくあるし、麻雀を打つ夢を2度見たことがある。
近代麻雀も当時は、毎号買っていた。