中観派の歴史概観 | 徒然草子

徒然草子

様々なテーマに関する雑感を気ままに綴ったブログです。

中観思想に関して、私自身、現時点で十分に咀嚼できているとか言い難いが、取りあえず、その歴史についてある程度は簡明に見通しができる様に纏めてみることにする。

1.大乗仏教の誕生
大乗仏教の誕生に関してはまだまだ謎が多い。嘗ては僧院主義の部派仏教に対する在家信者、又は仏塔信仰者によるアンチテーゼとして大乗仏教の運動が起こったという説明が一般的であったが、しかしながら、その後、部派仏教系の文献(経、律、論)などの緻密な文献学的精査やそれらと初期大乗仏教系文献との比較考察、考古学的資料の検討等の作業を経て、近年では寧ろ部派仏教と大乗仏教との連続性を認める説が大勢を占めつつある。とは言え、大乗仏教の誕生の謎の解明に関しては、まだまだ残されている課題は多い。
さて、初期の大乗仏教の経典として八千頌系の般若経典群があり、これらが1世紀頃に成立したと見られている。これらの般若経典群において空、無自性、無分別などといった思想が称えられているが、これらが後述する中観思想の基礎となっている。

2.初期中観思想
2世紀頃から3世紀頃にかけて、後世、中観派の祖と目されるナーガルジュナ(龍樹)が登場した。彼によって般若経典群において称えられていた空、無自性などの思想に哲学的基礎が与えられた。
ところで、ナーガルジュナ(龍樹)の著書とされる文献が数多く残っているが、中観派の祖としてのナーガルジュナ(龍樹)の真作として確実に認められるのは、『中論』であり、『中論』は、その後、中観派の根本テクストとして研究され続けた。『中論』にはサンスクリット本、チベット訳本、漢訳本が残っているが、漢訳本の場合、青目(ピンガラ)という人の註釈が附されている為、青目(ピンガラ)註は中国、日本における『中論』理解に多大な影響を与えることになった。
又、ナーガルジュナ(龍樹)の著書として帰せられているものの中に『十二門論』、『大智度論』がある。『十二門論』は十二の項目の許で空の思想を論じたものだが、こちらは漢訳本しかない。しかしながら、中国仏教では『中論』やアーリヤデーヴァの『百論』と並ぶ三論宗の基本テクストを構成して重要視された。又、『大智度論』も漢訳本しか存在しないテクストで、『大品般若経』の註釈ではあるが、仏教に関するほぼ全てのトピックを扱っている為、漢訳仏教圏では仏教の百科全書の様に重要視された。
さて、ナーガルジュナ(龍樹)にはアーリヤデーヴァという弟子がいたと言われている。彼は2世紀後半頃から3世紀後半頃の人と見られている。彼の著書に『百論』、『四百論』などが残っているが、『百論』の方は漢訳本のみ現存し、『四百論』についてはチベット訳の完本の他に部分漢訳、サンスクリット本の断片が残っている。
続いて、アーリヤデーヴァには弟子としてラーフラバドラがいたと言われている。三論宗の大成者である吉蔵によると、ラーフラバドラに『中論』の註釈書があったと言われているが、現存しない。彼の著書としては『讃般若波羅蜜多偈』、『法華讃』のサンスクリット断片が残っている。
4世紀頃になると、後に中観派と並んでインド大乗仏教を二分する唯識派が登場するが、先に挙げたピンガラ(青目)が活躍したのもこの頃だと見られている。しかしながら、ピンガラ(青目)の伝記については殆ど分かっていない。
中国、日本における伝統的な中観思想理解に関して決定的な影響を及ぼしたのはこの頃までのものであり、隋代の吉蔵はこの頃までの中観思想に如来蔵思想などを摂取することにより三論宗を大成したのである。

3.中期中観思想
5世紀頃になると、ブッダパーリタが登場し、『中論』の註釈を行ったが(『ブッダパーリタ註』)、彼は帰謬論証によって『中論』の思想を基礎づけようした点で画期的であり、彼の立場は帰謬論証派と呼ばれている。
6世紀になると、ディクナーガらによって仏教論理学や認識論が確立されたが、かかるディクナーガらの成果を受け入れてバーヴィヴェーカが定言的推論によって中観派の思想を論証しようとするとともに、先のブッダパーリタによる帰謬論証による中観思想の基礎づけを厳しく批判した。かかるバーヴィヴェーカの立場を自立論証派と言う。バーヴィヴェーカに関しては、『中論』の註釈である『般若灯論』、『中観心論』、『大乗掌珍論』、『異部分派解説』などがある。
7世紀になると、チャンドラキールティが登場し、バーヴィヴェーカらによる定言的推論による中観思想の論証は中観思想にそぐわないと厳しく批判してブッダパーリタの帰謬論証を擁護し、中観思想を論証し得るのは帰謬論証のみであると主張した。彼には『明句』、『入中論』などの著書がある。尚、チャンドラキールティの帰謬論証は後のチベット仏教ゲルク派の祖ツォンカパが顕教中最高のものとして高く評価した。
同時代の中観派の学匠としてアヴァロータヴラタがいるが、彼は自立論証派に属し、バーヴィヴェーカの『般若灯論』の優れた註釈を書いているが、その中でその当時の仏教内外のインド諸思想にも触れている。

4.後期中観思想
先に触れた中期中観派においてはその論証方法をめぐって帰謬論証派と自立論証派に分裂し、又、その当時、盛んになってきた唯識派に対して強烈な対抗意識を有していたが、8世紀以降の後期中観派になると、中観派は唯識派に接近し、かつ中観派に統合しようする動きが見られる様になる。それ故、この時期の中観派は瑜伽行中観派とも呼ばれることがある。
8世紀に活躍したシャーンタラクシタはナーランダー寺院の学僧である。彼は『真実綱要』の中で仏教以外のインドの諸思想、説一切有部のアビダルマなどを概説批判するとともに、唯識派の外界実在論批判に同調し、又、『中観荘厳論』においても仏教内外の諸思想を同じく概説批判して唯識派を称揚しつつも、中観派の教法を最高のものとして位置づけた。又、彼は中観派の中でも自立論証派の立場に立っていた。
シャーンタラクシタの高弟のカマラシーラは師の『真実綱要』や『中観荘厳論』などを註釈するとともに、チベットに赴いた際に仏教入門書である『修習次第』を著し、その中でその当時のチベットで流行していた中国禅宗の頓悟説を批判して修行と教学の階梯の重視を主張した。
ほぼ同時代のヴィムクティセーナも自立論証派の人で、彼は唯識派の伝説的始祖であるマイトレーヤ(弥勒)の著とされる『現観荘厳論』の註釈を著している。
9世紀のハリバドラはヴィムクティセーナの弟子と言われ、彼も『現観荘厳論』の註釈を行っているが、その中で説一切有部、経量部、唯識派を批判して無自性を論証し、中観派を最高の教法としている。
10世紀頃になると、ヴィクラマシーラ寺院の学僧にジターリが登場し、彼はその著『善逝宗義分別』の中で説一切有部、経量部、唯識派、中観派といったインド仏教の四大学派を紹介解説し、その中で中観派を最高と位置づけている。
同時期のアドヴァヤヴァジュラは密教にも精通していた学僧で、『タットヴァナーヴァリー』において仏教を声聞乗、独覚乗、大乗、密教に四分して解説しているが、その中で経量部を大乗仏教に加え、又、中観派に関しては幻喩不二派と一切諸法無住派に二分できるとした。
インド仏教の最末期に当たる10世紀から11世紀にかけてラトナーカラシャーンティが登場した。彼は論理学にも精通していて論理学関係の著書を著した他、『般若波羅蜜多論』を著して形象虚偽論系唯識論を完成させるとともに唯識派と中観派の一致を称えた。