すみません。

全くのわたくしごとなのですが、実母が危篤のため、ブログの更新が滞っております。


とは言え、数年前のわたくしでしたら、なにがどうして、どうなろうとも、文章の一つや二つ、なんとかなりましたことを思いますと、母ではなくて、わたくしの、老化現象なのであろうとも思います。


昨年紹介させていただいたことで、一番心に残っていますのは、「ラスコー洞窟展」の研究でした。

なんと、クロマニヨン人(現生人類)は、ものを描写するという行為の最初から、幻覚を描いていたのだ、ということは、とても言葉では言い表せないほどの衝撃でした。

表現ということのパラドックスを思い、心から震撼いたしました。

そして、もし、わたくしのこんなブログが、多少なりとも価値があるとすれば、そのような、本当に人間の文化において価値があることの資料を集積したもの、である以外、なにものでもありません。

これからも、一生懸命に努力いたしますので、どうぞご愛読いただければ、幸いです。


今は、心の余裕がある時には、アボリジニ文化の本を読んでいます。


それは、ドリームタイムというものの上になりたつ文明であり、今の我々の文明とは、全く異なった文明と言えると思います。


ドリーム。。

タイム。。


どちらも、わたくし個人的に申し上げれば、吐き気がしそうな言葉ですが、翻訳の問題もあるかもしれませんし、言わんとすることは、分かると思っております。


わたくしのカテゴリーでいうところの「先住民族」の文明は、どう考えても、本物です。


なぜ、そのような、本物の文明が消えてしまい、今のような、吐き気をもよおすような、あるいは、精神を病んでしまうような文明が、代わりに存在するのか?ということが、当ブログの命題でございます。


当ブログも、10年続けさせていただけました。

いろいろなテーマを経巡るために、あきれておしまいになる方々もたくさんいらっしゃると思いますし、とある特定のテーマのブログとして、好んでいただけることもあるかもしれません。


ほんとうに、至らないことばかりで、泣きたいような気持になることもございますが、どうか今後とも、お読みいただけますよう、尽力いたす所存です。

更新が遅れておりますことを、重ねて、お詫び申し上げます。








 



 
「豪エアーズロック 登れなくなります 19年秋から」朝日新聞 2017・01・02

               ・・・・・

オーストラリア中部の世界遺産地区にある巨岩ウルル(エアーズロック)に登ることを禁止します—ー。

豪州の先住民の人たちなどで作る「ウルル・カタジュタ国立公園」の運営協議会が1日、こんな決定をし
た。

一帯が、先住民の聖地であることが理由で、「ウルルはディズニーランドのようなテーマパークではありません」としている。

禁止の開始は、観光業者らへの影響も考慮して、2年後の2019年10月26日からとした。

10月26日は、豪政府が1985年にこの地帯一体の所有者が先住民たちであることを認め、返還した記念日。

その後一帯を、先住民たちが国立公園にリースして、訪問者を受け入れている。

ウルルは高さ348メートル、周囲が9・4キロにもなる巨石。

以前から先住民たちが、登らないよう、求めてきたこともあり、近年は年間約25万人の訪問者のうち、実施に登るのは2割程度にとどまっていた。


            ・・・・・




「豪州の日、入植は侵略か? 国民の休日、続く論争」     朝日新聞2018・02・01


            ・・・・・

「「先住民の土地」各地でデモ」

英国の入植が始まった日を祝うべきか――。

オーストラリアでこんな論争が起きている。

先住民にとっては、「侵略」が始まった日とも言えるためだ。

その日から230年たった今年1月26日、恒例の記念行事を中止する自治体が出た他、大規模な反対デモもあった。


1788年1月26日、流刑者らを乗せた11そうの船団を率いた英海軍のフィリップ船長が、現在のシドニーに上陸し、英国旗を掲げた。

それを記念し、1月26日は「オーストラリアデー(豪州の日)」として休日となった。

政府は「大地や公正の精神、自由など、私たちが豪州を愛する理由のすべてを祝う」とし、自治体の式典では、新たに国籍を得た移民たちを祝う。


だが、メルボルン都市圏にあるヤラ市やダレビン市は、今年から式典を開かなかった。

ヤラのアマンダ・ストーン市議(前市長)は、「お祝いに相応しくない日だから」と説明した。


6万年~5万年前から独自の文化や信仰を受け継いできた先住民には、土地を奪われ、入植者との衝突や、持ち込まれた病気で多くの命を失う歴史が始まった日。

入植当時30万人~100万人いた先住民は、1920年には推計6万人まで激減したとされる。

ヤラでは、60年代に先住民の権利運動が起きた背景があり、ストーンさんは「ここは我々の歴史について、国民的な議論をはじめるのにふさわしい場所」と語った。


一方メルボルン中心部では、26日を「侵略の日」と名付けたデモがあった。

目抜き通りを200メートル以上に亘って埋めた参加者約3万人が、「過去も未来もここは先住民の土地だ」などと行進した。

デモはメルボルンの他、シドニーなど6つの州都すべてであった。

デモに協力した野党・緑の党のディナタレ党首は同日、「自分たちの歴史を認めなければ国民は団結して前に進めない」と述べた。

同党は、「豪州の日」を別の日に変える運動を進める方針を示している。

この祝日に疑問を投げかける動きは、他にも広がる。

FMラジオ局「トリプルJ」は今年、26日の恒例だった「年間ベスト100曲」を発表する人気番組「ホット100」の放送を27,28日の両日に変えた。

リスナーに意見をつのった結果、6割が放送日の変更に賛成だったと説明する。


賛成派「西洋文明 得られた」

1月26日は、19世紀には「創立の日」や「記念日」と呼ばれていた。

マッコーリー大学(シドニー)のブローウィン・カールソン教授によると、20世紀前半には「豪州の日」を7月や8月に設けたこともあった。

1月26日が国民の休日になったのは、1994年から。

1988年に「200年」を記念して祝った経緯から、政府が制定した。


シドニーの先住民グループのリーダー、ケン・カニング氏は「多くの政治家たちの考え方は入植時とたいして変わらない」と批判する。

「建国の日」という意味では、豪連邦が成立した1月1日(1901年)があるが、元日はすでに休日。
それ以外に、適当な日をみつけるのは難しい。


日程の変更を求める「緑の党」の動きに、他の主要政党は軒並み否定的だ。

与党保守連合には、「1月26日に欧州に西洋文明がもたらされた。先住民を含む誰にとっても良いことだった」(アボット前首相)といった意見も根強い。

シンクタンクの「オーストラリア研究所」が、昨年12月に行った世論調査では、84%が「豪州の日」のような国民の休日は大切だ」と回答。

一方で「1月26日は何があった日か?」との質問に、11の選択肢から正しい答えを選んだのは38%にとどまった。

1月26日は南半球の夏休みも終盤戦に近く、海水浴やバーベキューなどを楽しむ休日として定着している現実もある。

歴史を巡っては昨年、1770年に豪東岸に到達したクック船長の銅像も議論をよんだ。

公共放送ABCのジャーナリストで先住民の血を引くスタン・グラント氏が、「クック船長の「到達」を「発見」と記している銅像の説明を変えるべきだ」と問題提起した。

2年後には、「到達」から250年を迎える。

歴史論争は今後も続きそうだ。


先住民従来の呼称「アボリジニー」使わず


一方、先住民の呼称として、従来の「アボリジニー」は、近年豪州ではほとんど使われなくなっている。

代わりに使われるのは、「アボリジナルピープル」や、先住民を意味する「インディジーナスピープル」などだ。

その理由を、国立大学では教員向けの用語法の文書で、「「アボリジニー」という語は、先住民たちを「すべて同じ」とステレオタイプにとらえている」と説明。

「多くの言語集団に分かれて暮らしてきた先住民たちの、多様性への配慮を欠く」とする。

各州が出している指針も、「「アボリジニー」の表記は否定的な意味を含む」と明記する。

白人に同化させようと、政府が先住民の子供たちを親元から強制的に引き離すといった抑圧的な政策を長年続けてきた記憶を思い起させるためだ。

                  ・・・・・

オーストラリアの先住民「アボリジナルピープル」は、人間の本来的な在り方を教えてくれる大切な方達だと思います。

ちょうど北米インディアンがそうであるのと同じように、西洋の支配と迫害の憂き目に会い、壊滅的な被害をこうむってしまいました。

これから、少しずつでも人々の理解が進み、地球上の人間が本来の人間の姿に立ち返る選択をするために、彼らは大切な役目をおっているのだと思います。


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半年前の記事になりますが、気になって切り抜いていたものをご紹介します。

リンゴたちの写真は、「一人はみんなのために みんなは一人のために」と言っているように見えたので。。

            *****

  「少子高齢化社会の民主主義って?」    
             読売新聞2017・10・11「論点スペシャル」


          (引用ここから)



「厳しいけど支え合おう・・評論家 樋口恵子」

「日本の社会保障が高齢者に偏っている、というのはそのとおりで、高齢者の一人としては、認めざるをえない。

ただそれは、時代の流れだった、ということも知ってほしい。

戦後、長寿化が進み、日本に初めて大量の高齢者が誕生した。

そのため福祉政策が必要になるのは当然だ。

年金、医療保険、介護保険といった制度があったから世の中がうまく回ってきた。

子どもは、親の扶養から解放された。

自分の子に十分な教育を授けられるようになり、経済的理由で親世代との同居を強いられなくなった。

恩恵は多くの世代に及んでいる。

家計の健全さを支えたのが、社会保障制度だった。

私は70年代後半に大病をした。

治療費はかなりの額に上ったが、実際支払ったお金は驚くほど安かった。

患者の負担を軽減する「高額療養費制度」のおかげだ。

高度な医療を、誰もが受けられる。

なんと良い国に暮しているのかと、涙が出るほどだった。

しかし次の瞬間、背筋がぞっとした。

これでは、いくら国にお金があっても、持つわけがない。

高齢者はますます増えていく。

優遇されすぎではないか?

高額療養費は、今年高齢者の自己負担分が引き上げられた。

国の「審議会」で議論に加わったが、低所得世帯への配慮を要望しつつ、引き上げに賛成した。

辛かったが、介護などの負担も増えている高齢者という立場に、あぐらをかくのは間違っている。

支払い能力に応じた負担を拒みはしない。

経済的余裕がある人も多く、負担する力はあるだろう。

ただ労働する力、健康の力は落ちてくる。

応能負担を経済力だけで論じるのは、いかがなものか?

生物的にだんだんと弱っていく人を、みんなで支えるという基本は忘れないでほしい。

世代間の対立をあおったり、ある世代を攻撃したりするような言い方は不毛だ。

人はかならず年を取る。

今の90才が幸せでなかったら、あなたの未来も幸せではない。

私たちの世代は、平和の恩恵を受けて、長生きもできた。

私たちは、次の世代がいることで暮らしていける。

わたしは、「食い逃げは年寄りの恥」という考えで、子育て支援の活動も続けている。

元気なうちは、なるべく働いて、稼ぐことも重要だ。

異世代を理解するには、「見える化」が大切ではないか?

たとえば若者は介護現場を知らない。

施設を継続的、組織的に訪問し、働く仕組みを作ってはどうか?

地域に文化活動で異世代が交流できる場が増えており、高齢者が参加してみるのもいい。

当事者の意見を聞かずに、物事を進めるのは良くない。

各世代の主張を聞き、粘り強く一致点を見つけていくことが求められる。



「社会保障格差 説明して・・相和女子大特命教授 八代尚宏氏」

衆院選では、消費税を今の8%から10%に引き上げるかどうかが争点になっている。

増税はもちろん必要だが、高齢化で急増する社会保障支出の増加分を抑えない限り、将来の税率を際限無く引き上げなければならない。

税率10%では、焼け石に水なのに、もっぱらその是非を巡って与野党が論争していることに、強い違和感がある。

日本の社会保障費は、大部分が高齢者の年金・医療・介護に使われ、子育てなどへの支出が極端に少ない。

安倍首相の「全世代型社会保障への転換」という考え方自体は正しいが、それならば、子育て支援を増やすだけではなく、高齢者への給付を減らして財源とする必要があるにも関わらず、与野党ともに、たとえば「年金課税の強化」や「医療介護サービスの合理化」などの給付抑制政策をあまり主張していない。

この背景として、政治家が当面の選挙に勝つために、ふえる一方の高齢者の既得権を守ろとする「シルバー民主主義」の影響が指摘できる。

有権者に占める65才以上の割合は、現在すでに約3割となっており、2040年には4割程度に増えると予想されている。

しかも昨年の参院選では70才代の投票率は、20才代の2倍以上だった。

「シルバー民主主義」の傾向は、今後さらに強まっていくのではないか?

日本の社会保障制度は、年金も医療も、まだ少子高齢化が本格化していなかった頃に作られた。

平均寿命が延びるなど、社会環境が大きく変化したのに、特に年金は支給開始年齢の引き上げなどの対応がおくれ、後に生まれた世代ほど不利になる「世代間格差」が大きい。

しかも、国の借金は1000兆円を突破している。

増え続ける社会保障費が、安易に赤字国債で賄われ、後の世代にツケが先送りされ続けたからだ。

欧米では、「社会保障費削減か?それとも増税か?」が主要な政治対立となる。

ところが日本では、「いずれにも反対」という声が大きく、結果として、政府の借金が際限なく増えている。

これはいわば孫名義のクレジットカードを祖父母が使いまくっているような状態だが、そのことがほとんど認識されていない。

今のように、将来に大きなツケを先送りする社会保障制度は、いずれ行き詰まり、維持できなくなる。
年金や医療の給付額がカットされるリスクが大きい。

それなのに政治家と官僚が、高齢者を目先の利益ばかり考えているとみくびり、正確な情報を提供しない。

そこに大きな問題がある。

膨大な借金に依存した年金・医療・介護の厳しい現実を、高齢者が正しく認識すれば、社会保障制度の改革に理解を得ることは可能だ。政治家は、社会保障の「不都合な真実」について、客観的なデータを示して説明すべきだ。



「国の借金 若者と議論を・・NPO法人「ユースクリエイト代表理事 原田健介氏」

大学時代に政治家の事務所で研修し、このままでは社会保障費が際限無く拡大して、将来世代にツケが回されるのに、若年層への配分は少ない、という危機感を持った。

若者と政治をつなぐ活動を始めたきっかけだ。

最近では「18歳選挙権」が実現し、主権者教育が重視されるようになった。

けれども、子どもから、僕らの世代くらいの生の声が、特に国政に届かない状況はあまり変わっていない。

政治家は高齢者に接触する機会が多く、実情も知っている一方で、地域のスポーツクラブで子どもの声を
聞いたり、保育園の送迎に顔を出して保護者と少しでも話をしたり、といった活動をしている人はごく少ない。

政策が高齢者向けに偏ってきたとしたら、こうしたコミュニケーション格差が背景にある。

政党や政治家が、高齢者側にだけ向いているわけではない。

昨年の参院選くらいから、「待機児童問題の解決」や「奨学金の拡充」など、若者向け政策が盛んに取り上げられるようになった。

でも若者との対話が少ない中で、政党・政治家はどこまで本気で将来を考えているのだろうか?

財政の健全化や、莫大な国の借金に関して、とことん議論をしない状況で、「全世代型の社会保障」・「消費増税の凍結」などと言われても、するべき話をとばしているように感じる。

2015年度以降、中学・高校・大学・公民館への出前授業などで、延べ12000人と接し、政治の話をしてきたが、「高齢者の負担を重くすればいい、給付を減らせばいい」という意見は少なかった。

高校では、「高齢者の年金を減らすのはかわいそう。介護も大変」と言う声をよく聞く。

将来負担のことより、親や高齢者が直面する困難を耳にすることが多いからだろう。

生徒同士の話し合いでは、医療や福祉の制度に無駄があるなら、削ろうよ、という方向になる。

若者は、高齢者を対立相手とは思っていない。

ただ「超少子高齢化時代」を担う次世代の意見を政治に反映させる仕組みをいっしょに考えてほしい。

たとえば、選挙で若者がみな投票したとしても、そもそも数が少ないから影響力が限られる。

選挙権年齢・非選挙権年齢の大胆な引き下げも含め、「次世代志向の民主主義」が必要ではないか?

今回の衆院選への若者の反応で目立つのは、「一体政治の世界で何が起きているのか?」という疑問だ。

目につくのが政党の離合集散では、当然だ。

各政党は、公約を下に論争し、「どんな国にするのか?したいのか?」という本質的な選択肢を示してほしい。

  
          (引用ここまで)

            *****

しごくまっとうな意見ばかりで、この記事は半年前のものですが、国会はこの1年、モリカケ論争などに湯水のように時間とお金を注ぎ、国政としてはほんとうに憂うべき事態でした。

このような国の状態を静かに描いたエッセーを、以前ご紹介したので、再掲します。

「しんがりの思想」鷲田清一氏著です。

          *****

         (引用ここから)

未来世代のことを、まずは案じる。

そういう心もほとんど失っているのが、現代である。

私たちは今まだ見ぬ未来の世代に対して、この石工のように「恥ずかしい仕事、みっともない仕事はできない」と、胸をはって言えるだろうか?

かえり見て、懐疑のかけらもなく謳われる空疎なリーダーシップ論ではなく、この石工の、他人にわざわざ訴えることもなく、自らにしみじみ言い聞かせる、このような矜持こそが、激変期に最も必要な眼であろうと思う。

とりわけ私たちは、未来をいくつもの限界の方から考える他なくなった時代にいる。

私たちは今、放射能で自然を修復不能なまでに壊したまま、それを次世代に手渡そうとしている。

また、法外な国の債務を未来世代につけ回して、平気でいる。

さらに次の世代が経済を回すための需要を、「経済成長」の名で先食いしようとしている。

毎年1兆数千億円の社会保障費の「自然増」・・本当はこれは断じて自然のことではなく人為の無策である・・に伴う増税や年金の削減という、過重な負担も、次の世代に強いようとしている。

これが、今のこの国の姿である。


わたしたちは、いつからなぜ、あの石工の矜持を失ってしまったのか?

この国には、今「人口の減少」つまりは「社会の縮小」に伴うさまざまな課題が、今すぐに対応を考えておかなければ取り返しがつかなくなる課題として、立っている。

この事実を前にすれば「経済成長」の掛け声など、どう考えても空言のようにしか響かない。


日本はこれから、先進国の中でいち早く、巨大規模での人口減少という事態に向き合ってゆくことになる。


「右肩下がり」の時代は、社会がまともになってゆくためには悪いことではない。

「右肩上がり」の時代には、次は何を手に入れようかと考えていたわけだが、「右に下がってゆく時代」には、何を最初にあきらめるべきかを考えざるをえない。

絶対に手放してはならないものと、あればよいけれど無くても良いものと、端的に無くてもよいものと、絶対にあってはならないもの。

これら4段階の価値の遠近法にもとづいて、優先順位というものをいやでも常に頭に入れつつ、社会運営にあたらねばらないのである。

そういう社会的な判断を下し、またそれに基づいて行動する力量を、私たち市民は今どれほど持っているか?

社会が嫌でも縮小してゆく時代、「廃炉」とか「ダウンサイジング」などが課題として立ってくるところでは、先頭で道を切り開いてゆく人よりも、むしろ最後尾で皆の安否を確認しつつ、登山グループの「しんがり」のような存在が重要である。

「退却戦」で、敵の一番近くにいて味方の安全を確認してから最後に引き上げるような「しんがり」の判断がもっとも重要になってくる。

こういう「全体の気遣い」こそ、本当のプロフェッショナルが備えていなければならないものなのである。

また、良き「フォロワーシップ」の心得というべきものである。

私はこうした心を「しんがりの思想」と呼んでみたい。

             (引用ここまで)
   
               *****

今、すべての人に関わりがある、とても大切な問題だと思います。


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「右肩が下がってゆく時の生きる道・「しんがりの思想」 鷲田清一氏著」

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上の像は、わたしが買った、12世紀からスペインの「モンセラ」という町で祀られている「黒い聖母子像」の写しです。

毎日見ていると、お地蔵様みたいな気もしてきますが、いわゆる「西洋的マリア」とはずいぶん異なったものだと、つくづく思ってしまいます。

引き続き、「黒い聖母と悪魔の謎」馬杉宗夫氏著のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



            *****

          (引用ここから)


「ル・ピュイ」の「黒い聖母」は、伝説によれば、1254年に、聖ルイ王(ルイ9世)がエジプトから持ち帰り、「ル・ピュイ」に寄進したものとされている。

この像はもともと古代エジプト時代の「イシス神」であり、それを「聖母像」に作り替えたものと記されている。


しかし、この像の制作場所や年代は定かではない。

確かなのは、1096年以前に、「ル・ピュイ」の地にすでに「聖像」があったことである。

と言うのは、十字軍に出かける前に「自分が生きている限り、祭壇の尊敬すべき聖母像の前に、絶えることなくろうそくの火をともしておくこと」を要求した人の記録が残されているからである。


「ル・ピュイ大聖堂」の祭室外壁には、「ドルイド教」時代の浮き彫りと、それに面して「聖なる泉(井戸)」が置かれている。

この地が、いかに「巨石崇拝」や、「聖なる水の崇拝」の伝統の強い所であったのかが分かるのである。

「巨石(聖石)崇拝」と結びついた他の地は、ロカマドール、スペインのカタルーニャ地方のモンセラ、サンジェルヴァジィの台地などで、「巨石」が今なお存在している。


ボーズ平原に奇跡のごとく建つ「シャルトル大聖堂」にも、古くから崇拝されていた「黒い聖母」があった。

それは「地下祭室」に安置され、「地下の聖母」と呼ばれている像である。

像の下に「出産を前にした聖母」と記されている。

すなわち、伝説によれば、この像はキリストが生まれる以前に制作され、「ドルイド教徒」達が崇拝していたと言われている。


いわゆる「地下の聖母」は、「ドルイド教」時代に遡る最も古いもので、彼らの「大地の女神崇拝」と結びついていたものと思われている。

「シャルトル大聖堂」の「地下の祭室」には、4世紀頃の「井戸」があるように、そこは「ドルイド教徒」たちの「聖なる水」の信仰と結びついていたのである。

この「地下の聖母」の制作年代は定かでない。

「黒い聖母像」がある所は、古いドルイド教の伝統と、新しいキリスト教が同化した場所であることがわかるのである。


しかし、これらの「聖母」はなぜ「黒い」のであろうか?

その象徴的意味は何だったのであろうか?

この奇異に思える「黒い色」の意味を、あえて「聖書」の中に探してみるならば、「旧約聖書」の中に、それらしきものが見られる。


エルサレムの娘たちよ

わたしは黒いけれども 美しい

ケダルの天幕のように

ソロモンのとばりのように

「旧約聖書・雅歌 1章5節」


異教的とも思えるこの「雅歌」の文句については、中世以来、多くの解釈がなされている。

しかし「黒い聖母」がこの文章を典拠にしているという証拠は何もない。


キリスト教以外の宗教を見れば、“死の象徴”とも言うべき「黒」は、必ずしも悪い色としてとらえられていない。

古代神話における「大地の女神」は、しばしば「黒く」表現されている。

たとえば古代エジプト神話における「地母神イシス(死者の守護神であり、豊穣神でもあり、太陽神ホルスの母)」は、「黒く」表現された。


「幼児ホルス神」を抱いて座るこの「イシス像」の中に、キリスト教の「聖母子像」の原型を見る論者もいる。

「イシス信仰」は、地中海世界に広く伝播していったと考えられている。


ギリシャ神話の「大地の豊穣神・デメテール」と、「イシス神」を同一視する人もいる。

また「世界7不思議」の一つと言われた小アジアの「エフェソスのアルテミス(ダイアナ)の神殿」には、「太陽神アポロンの双子の妹にあたるアルテミス(古くは先住民族の「地母神」)の、「黒い像」が描かれていたと伝えられている。


「シャルトル大聖堂」の「地下祭室」にあった「黒い聖母」も、「ドルイド教の大地の女神、豊穣なる大地、その母なる女神・デメテール」の信仰を受け継いだものでなかったか?


「黒い色」は、すべて「大地の女神」に結び付いているのである。

大地は、「暗黒の闇」から「生命」を生み出す根源なのである。


また、各地に存在する「黒い石崇拝」も、これと無縁ではない。

イスラム教の聖都・「メッカ」のモスクにも、「黒い石」が「聖石」として飾られている。

興味深い現象である。


「黒い石」は、錬金術的な意味も持っていた。

錬金術師たちの最初の重要な仕事は、万有還元能力があるとされた「仙石」を作りだすことであった。

そのためには、まずその第一の原料を集める必要があった。

この原料は重く、割れやすく、その上砕けやすい、石に似た「黒い物質」であり、簡単に手に入るものとされていた。

錬金術師たちは、この最初の原料を探すためには「地下に」、「金属を含有する鉱床」に行かねばならない。

ゴール地方の錬金術師たちは、「ドルイド教」の神官を兼ねていた。

彼らは、「見者」「識者」「魔法を使う博士」であった。

彼らの儀式や仕事のためには、しばしば「地下」や「洞窟」が選ばれた。

このことも、「黒い聖母」がシャルトル、クレルモン、ロカマドール、モンセラなどのように、「地下」
や「洞窟」がある場所に見出されるという事実と一致して面白い。


「黒い聖母」は、「物質界」から「精神界」へと、我々を導く役割が担わされていた。

「黒い聖母」は大地からあらゆるエネルギーを吸収し、それを「天上界」の力と結びつける。


「緑色」は、大地から生まれてくる植物の色であり、物質と精神という異なった両者に調和をもたらす色である。

その緑色が、「聖母」の衣の色として与えられる。(後に青となったという)

他方「赤」は、太陽の色であり、愛やエネルギーを生み出す。

それは救世主キリストの衣の色となる。

すなわち「黒い聖母」は、物質界の「黒」=「現世」と、精神界の「赤」=救世主キリストとを結びつける仲介者としての役割をもっていた、とされる。


アルルの公会議(452年)、ナントの公会議(658年)、トレドの公会議(681年)、さらにカール大帝によって公布された法令(789年)などは、繰り返し、「樹木・石・泉・井戸を崇拝すること」を禁じている。

この事実は、ゴール(フランス)の地がキリスト教化された以降も、根強く「ドルイド教」の信仰が残っていたことを物語っている。

これら土着の民間信仰との衝突をさけるため、これらの地の「聖母マリア」は、「土着の地母神」との一致が求められ、あえて黒く塗られたのではなかろうか?


12世紀ロマネスク美術において、なぜこのように多くの「聖母像」が表現されるようになったのか?

そしてそれは、すでに存在していた「聖母表現」のどのタイプに従ったのか?
という問題が残っている。

「神の母」としての「聖母マリア」の「神性」が認められたのは、431年、「エフェソスの宗教会議」においてであった。

それ以来、東ヨーロッパのビザンチン世界では、「聖母マリア」表現が増えていったが、その大部分は「幼児キリストを抱いた聖母子像」としてであった。


西欧における最初の「聖母子像」は、800年頃、「アイルランド写本」の中に現れている。

その後、12世紀ロマネスク美術と共に、独立した「木製聖母子像」が現れ、またたく間に西欧中に伝播していくのである。

12世紀に西欧に現れた「聖母像」のタイプは、「玉座のマドンナ」であった。

「黒い聖母像」も、このタイプに従っている。

それはまさにヨーロッパに「聖母マリア崇拝」が高まり、「聖母マリア(ノートルダム=フランス語で「我らの貴婦人」)」に捧げられた大聖堂が建てられ始めた時と対応しているのである。

そして「聖母の衣」を保持するシャルトル大聖堂自身も、ヨーロッパにおける「マリア崇拝」の中心地になっていったのである。

            (引用ここまで)

             *****

わたしは、このテーマの本を何冊も読んだのですが、ここにも書かれているように、あのカトリックのシンボルともされる「シャルトル大聖堂」においても、「黒い聖母子像」が崇拝の対象となっているということに、非常に驚き、間違いではないかと、何度も確かめました。

wikipedia「シャルトル大聖堂」


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「クリスマスの、異神たちの影・・葛野浩昭氏「サンタクロースの大旅行」(2)

「サンタクロースが配っているのはあの世からのプレゼント・・葛野浩昭氏・・「サンタクロースの大旅行」(3)

「ゲルマンvsローマ、そして、、多様性が文化である・・植田重雄氏「ヨーロッパの祭りと伝承」」

「エハン・デラヴィの、十字架の研究(1)」

「バスク十字」と「カギ十字(卍)」・ヨーロッパ先住民族の十字マーク」

「1世紀前半のユダヤ教会堂跡、日本の調査団発見・・イスラエル・テル・ヘレシュ遺跡・「聖書考古学」」

「キリストはなにを食べていたのか?(1)・・ユダヤ教徒としてのイエス」(5)まであり

「「ユングは知っていた・UFO・宇宙人・シンクロニシティの真相」コンノケンイチ氏(1)・・無意識と宇宙」


「洗礼者ヨハネとグノーシス主義・・「ユングは知っていた・UFO・宇宙人・シンクロニシティの真相」コンノケンイチ氏(2)」

「ユダの福音書(1)・・ユダから見たキリスト」(2)あり

「クリスマス・イエスのお祝いに訪れた〝東方の三博士″は、誰だったのか?・・マギ・星の証言(1)」(4)まであり

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「生きなければならないとすれば、それは重すぎる・・ユング派療法家 樋口和彦氏のことば」

「古代キリスト教」カテゴリー全般



 




キリスト教の世界に何人も登場する「マリア」についての考えの続きです。

なんと、聖母マリアの像の中には、「黒いマリア像」というものがたくさんあるということです。

上の写真は、わたしが購入した「黒い聖母像」です。

スペインの「モンセラ」という町で、12世紀に造られた「黒い聖母像」の写しです。

「黒い聖母」について書かれた本を何冊も読みましたが、非常に複雑で難解でした。

その中で、「黒い聖母と悪魔の謎」馬杉宗夫氏著をご紹介しようと思います。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



             *****

            (引用ここから)

フランス中央高原に、ロカマドールという町がある。

ロカマドールは、変わった洞窟や荒々しい岩肌を露出する絶壁など、驚くべき自然現象を示している所である。

突出した岩や断崖に囲まれ、そこに中世の街が、なお存続している。

それがロカマドールの町である。

岩山を背にした道幅は狭い。

その岩山から張り出して重なり合う家並みや、左右の土産物商店に興をそそられながら進むと、やがて高地に至る石段が続いている。

石段を登りつめた所に、7つの聖堂が建つ広場があり、まさに宗教都市という面影がある。


これらの聖堂の中で、人々の信仰を集めているのが、「奇跡の礼拝堂」と呼ばれている「ノートルダム聖堂」である。

岩山をうがって造られたこの小さな礼拝堂こそが、この地に住み着いた聖者・アマドールが聖所にした場所と言われている。

この聖堂の前の岩肌には、ロマネスク時代の壁画がなお残されている。

この礼拝堂の祭壇に「奇跡の聖母」と呼ばれている木造彫刻がある。

これがなんと「黒い聖母」像なのである。


薄暗い聖堂の中で、ろうそくの光に照らし出されている1メートル足らずの聖母像。

それが我々の注目を引くのは、その怪異な外観である。

やせ細った胴体や腕。

それと対比をなすかのような、ふくよかな腹部と胸部。

こうした外観に、一層の異様さを与えているのは、体全体を覆う「黒い色彩」である。

聖母は、頭から足に至るまで、全身が「黒い色彩」で覆われているのである。

「聖母マリア」には「不吉な黒色」は似つかわしくない、と思いながらも、その異教的な、謎に満ちた姿は、我々を捉えて放さない。

逆に「黒色」だからこそ、神秘的な力を持って迫って来るのかもしれない。

小さな「聖母像」に迫力を与えているのは、確かに全身を覆う「黒色」である。

「黒」は不思議な力を持っているのである。


「奇跡の黒い聖母」を祀るロカマドールの地は、スペインの聖地サンチャゴ・デス・コンポステラに向かう巡礼路の一つに当たり、12世紀以来、多くの信者を集めてきた。

英国王ヘンリー2世やフランス王ルイ9世を始め、フランスの歴代の王は、この「聖母」に贈り物を捧げるためにやって来た。

「黒い聖母像」は、水夫や囚人の守護神として、また多産や幼児の「守護神」として崇拝され、キリスト教国で最も崇拝を集めた「聖母像」の一つになっていたのである。



我々は、特にフランスの中央高地を車で回る時、あちこちでこのように黒く塗られた「聖母像」に遭遇する。

1メートル足らずの「聖母マリア」は、座像として幼児キリストを膝の上に抱いている。

通常、「聖母マリア」は「黒く」表現されることはない。

しかし、「黒く」塗られたいわゆる「黒い聖母」は、特に中央高地を中心に多く存在しており、1972年「アトランティス」という考古学雑誌に掲載されたリストによると、フランスだけでも200体以上に及んでいたことが明らかにされている。

これらの像の多くは12世紀、いわゆるロマネスク時代に制作された。

12世紀を中心に、同時的に出現している「黒い聖母」は、それらが偶然の要因で「黒く」なったのではなく、なんらかの理由で、当初からにしろ、または後の時代にしろ、意図的に「黒く」塗られたことは確かなのである。


キリスト教がゴール(現在のフランス)の地に浸透するまで、ゴールの地は、ケルトの国々を支配していた「ドルイド教」で覆われていた。

この宗教はある種のアニミズム(霊魂崇拝)であり、「聖なるものは自然の中に宿る」とされた。

彼らが崇拝していたのは、自然の中に存在する聖なる樹・・樫、ぶな、宿り木。

聖水・・泉、源泉、川。

聖石・・メンヒル・ドルメンなどであった。

そして注目すべき点は「黒い聖母像」が在り、またその崇拝のあった地は、「ドルイド教」時代にそれらの崇拝が行われていた場所と一致していることである。

ロカマドールでは、岩山を穿って作られた聖堂の内に「黒い聖母像」が祀られている。

このように「黒い聖母像」は、「巨石」と結びついた場所にしばしば見出される。

中央高地の中でも、小高い丘の並ぶ「ル・ピュイ」の地は、キリスト教化される以前から「ドルイド教徒」達の間では、最も重要な場所の一つであった。

「ル・ピュイ」の街はフランスでは珍しい火山地帯で、鋭い角度を持つ巨大な丘が3つもそびえ、一種異様な景観を誇っている。

「ノートルダム大聖堂」が君臨する丘も、その岩山の一つである。

「大聖堂」の西正面はイスラム風の装飾やアーチで飾られているが、この西正面の入口を入ったところに「熱病の石」と呼ばれる「平らな巨石」が置かれている。

この「巨石」は「奇跡を呼ぶ石」として、古くから崇拝されていた。

伝説によれば、「聖母マリア」が、熱病にかかった女性を憐れみ、この「石」の上に寝るよう、指示したという。

そして「黒い聖母」が置かれていたのは、この「巨石」の前だったのである。

「ル・ピュイ」の「黒い聖母」は、伝説によれば、1254年に、聖ルイ王(ルイ9世)がエジプトから持ち帰り、「ル・ピュイ」に寄進したものとされている。

この像はもともと古代エジプト時代の「イシス神」であり、それを「聖母像」に作り替えたものと記されている。

しかし、この像の制作場所や年代は定かではない。

確かなのは、1096年以前に、「ル・ピュイ」の地にすでに「聖像」があったことである。

と言うのは、十字軍に出かける前に「自分が生きている限り、祭壇の尊敬すべき聖母像の前に、絶えることなくろうそくの火をともしておくこと」を要求した人の記録が残されているからである。

「ル・ピュイ大聖堂」の祭室外壁には、「ドルイド教」時代の浮き彫りと、それに面して「聖なる泉(井戸)」が置かれている。

この地が、いかに「巨石崇拝」や、「聖なる水の崇拝」の伝統の強い所であったのかが分かるのである。

「巨石(聖石)崇拝」と結びついた他の地は、ロカマドール、スペインのカタルーニャ地方のモンセラ、サンジェルヴァジィの台地などで、「巨石」が今なお存在している。

             (引用ここまで)

               *****

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「古代キリスト教」カテゴリー全般

世界最古の洞窟壁画は、ネアンデルタール人によって作られていたことが判明しました。

彼らが抽象的思考ができないために、私たち現生人類(ホモサピエンス)に淘汰されたという通説を覆す研究です。

昨年はラスコー絵画展のことを長く調べましたが、このラバシエガ洞窟もラスコー洞窟やアルタミラ洞窟のすぐそばにあります。

人類の精神の発生に関する重大な問題をはらんでいると思われますが、まずは掲載記事を載せます。

ネアンデルタール人その他ホモサピエンス以前の人類については、大変興味深く思います。


「世界最古 洞窟壁画 65000年以上前 ・・ネアンデルタール人が制作」
                              朝日新聞2018・02・22

スペイン北部の世界遺産のラパシエガ洞窟の壁画が、世界最古の洞窟壁画であることが、国際研究チームの調査でわかった。

現生人類は当時欧州におらず、絶滅した旧人類ネアンデルタール人が描いたものとみられる。

22日付の米科学誌サイエンス電子版に発表された。

研究チームはラパシエガ洞窟など3カ所で動物や手形などの線描の部分に含まれる天然の放射性物質を高精度な年代測定法で調べた。

三つとも6万4800年以上前に描かれたものだとわかった。

 
現生人類がアフリカから欧州にやってきたのは4万~4万5千年前とされる。

1万数千年前のアルタミラ洞窟(スペイン)や約2万年前のラスコーの洞窟(フランス)など、これまでの洞窟壁画はすべて現生人類が描いたと考えられてきた。

4万年前に描かれたスペイン北部のエルカスティーヨ洞窟の壁画がこれまで最古とされてきたが、さらに2万年さかのぼる古い洞窟壁画と確認されたことで、研究チームは「すでにいたネアンデルタール人が描いた洞窟壁画だ」としている。


ネアンデルタール人は現生人類に近い種で、約40万年前に出現し、4万年~2万数千年前に絶滅した。

ラパシエガ洞窟の壁画には線を組み合わせた「はしご」のような図形もあった。

抽象的な考えを具体的な形で表す「象徴表現」の可能性がある。

人類の進化に詳しい佐野勝宏・早稲田大准教授は、

「〝象徴表現は現生人類のみが生まれつき持つ固有の認知能力”という考えが多数派だった。今回の年代が正しければ、ネアンデルタール人にもこの能力があったことになる」と指摘している。




この左端の方に、はしごのような図形が描かれているそうです。


以前の関連の新聞記事です。




ネアンデルタール人、1歳2か月で乳離れ・現代人より早い・・米研究チーム推定」

現代の人類とは別種のネアンデルタール人は1才2か月で乳離れしていた、とする研究成果を、米ハーバード公衆衛生大学院などの研究チームがまとめ、23日に発表する。

約2年半かかる現代人よりも乳離れの時期か早く、出産間隔が短かかった可能性がある。

研究チームは、母乳に「バリウム」という物質がわずかに含まれていることに着目した。

歯のエナメル質には成長の過程が年輪のように記録されて残ることを利用し、エナメル質のどの部分にバリウムが多く蓄積されているかを調べた。


ベルギーで発見された、8~13万年前に生きていたとみられるネアンデルタール人の子供の化石から奥歯を取って分析。

その結果、生後7か月は母乳だけで、続く7か月は母乳と離乳食の両方で育っていた可能性が高いことが分かった。

現代人の赤ちゃんが乳離れするまでにかかる期間は、社会環境によって異なるが、研究チームによると、産業化が進んでいない社会では平均して約2年半だという

近藤修・東京大学准教授(人類進化学)の話「新たな手法で、離乳の時期を推定した興味深い研究だ。ただ、分析が1例だけなので今後の検証が必要だろう」。

               ・・・



「ネアンデルタール人欧州絶滅、41000年~39000年前か・・英オックスフォード大など」
                            読売新聞2014・09・14

現代人とは別の人類とされるネアンデルタール人が欧州で絶滅したのは約41000年~39000年前とする研究結果を、英オックスフォード大学などの研究チームがまとめ、英科学誌ネイチャーに発表した。


チームは、ロシアからスペインにかけての約40か所の遺跡の年代を、約200の骨や炭などに残る放射性炭素を使って推定した。

従来は約35000年前など諸説あった。

今回の研究成果によると、欧州で現代人とネアンデルタール人が共存していた時期は2600年~5400年間となるという。

ネアンデルタール人の絶滅の原因は分かっていないが、気候変動に適応できなかった可能性と、現代人との競合が原因とする説が出されているという。

今回の発表について、国立科学博物館人類研究部の海部陽介グループ長は「高い精度で、絶滅の年代を絞り込んだ成果だ」と意義を話す。

                ・・・・・

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「アルタミラなど洞窟壁画、ネアンデルタール人の作品か?」


「「脳と墓(養老孟司氏著)」(2)・・脳は、文明という墓場で、なにをしているのか?」

「縄文時代の沖縄の「港川人」はアボリジニ似だったらしい」

ネアンデルタール人と共に生きていたら・・彼らはなぜほろんだのだろうか?

「デニソワ人のDNA・・人類は「今とは別な人類」としてあり得ただろうk?

「小型人類について・・別の人類が存在していた」

「最新科学 古代人像見えた DNA解析」 

「42000年の旅路・・ボルネオのニア洞窟」

「古代人の音楽会・・3万5千年前のフルートはどんな音色だったのだろうか?」

「35000年前のビーナス像発見・・人類最古の人形像か?」

「人類は何かを知っているのだ、だが何を?・・ナスカ・イカの線刻石の研究史(6)」

「クロマニヨン人はアトランティスからやってきたのだろうか?・・英文学者の海底探検」

「スカイピープルと古代人・・ホピ族のペテログラフ(岩絵)(2)」

「洞窟に描かれた絵は、異次元の刻印である・・グラハム・ハンコック・ダイジェスト(6)」

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「装飾古墳・多彩な絵柄に想像膨らむ・・広がる黄泉の世界」

「ホピの祭り・ヤヤ祭り(1)・・アニマルピールと人間」

「インカ帝国展」に行ってきた・・4000年の歴史をさかのぼれるか?」

「その他先史文明」カテゴリー全般




間が空いてしまいましたが、お相撲の話の続きを少し。

2011年に起きた「大相撲八百長事件」をめぐって、スポーツライター玉木正之氏が2011年に出された「対談集」を読んでみました。

「大相撲八百長批判を嗤(わら)う・・幼稚な正義が伝統を破壊する」。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

           *****
  
          (引用ここから)

元「相撲」記者・根岸敦生氏との対談

〇根岸氏

「大相撲」は、「神事」と「興行」と「スポーツ」という3つの要素、すなわち、3本の脚の上に成り立ってきたと思うんです。

「大相撲」は鼎(かなえ・中国古代につくられた3本足の青銅器)だと。

3本足のどれが伸びても傾くし、どれが短くなっても傾く。

その3本足のうち、横綱・貴乃花の誕生以来、「大相撲」は「スポーツ」の方にダーっと傾斜を強めていったわけです。

横綱・貴乃花時代は怪我人もいっぱい出ましたし、休場者もいっぱい出ましたね。

貴乃花は、「相撲」を「スポーツ」として追及した力士だと思うんです。

でもその結果、いわゆる「神事」と「興行」の面が欠けてしまった。

「スポーツ」としての勝敗を重視するあまり、「大相撲」が結局、「勝てばいい」という文化に変質してしまったのではないか?

ただ「勝てばいい」という部分だけが、朝青龍に伝わってしまった。

               ・・・

鵜飼克郎(週刊ポスト担当記者)氏との対談

〇玉木氏

「近代スポーツ」というより、「前近代的(封建的)エスニック・スポーツ(民族競技)」と言うべき「大相撲」の「八百長」をあげつらって批判するのは、野暮なことだと、私は以前から考えてきた。

大相撲の世界に常に存在し続けてきた「拵え相撲(こしらえずもう)」を、「八百長」と批判するのはいつでも簡単にできることだ。

ところが昨今、特に朝青龍の一人横綱時代以降、その「拵え相撲」があまりにも多く、力士たちが堕落しているという噂をさかんに耳にし、憂いていた。

一方で、「大相撲」が「スポーツ」化し、「年間最多勝」だの「幕内在位何場所」だのといった数字や記録ばかりが騒がれ、

力士たちは、五穀豊穣を願って四股を踏むことや、赤ん坊が丈夫に育つよう厄払いの意味を込めて抱き上げる、といった「相撲取り」の「力人(ちからびと)」としての宗教的な一面を忘れ去った。

そこへ、「八百長」の連絡の「携帯メール」という動かぬ証拠が出現し、「日本相撲協会」も「八百長など存在しない」と言い続けることができなくなった。

週刊誌で「八百長相撲」を追求し続けてきた記者は、現在の事態をどう考えているのだろうか?


率直に言って「八百長」というのは昔から存在したと思います。

要は、「ガチンコ」(八百長なしの真剣勝負)と「出来山」(談合済みの勝負)のバランスの問題です。

わたしは「八百長」という言葉を使うのは、あまり好きではないので、「出来山」という言葉を使わせていただきますが、

両者のバランスが上手く取れていれば、週刊誌の告発記事などが存在するのも悪いことではない、という程度に考えていました。

〇鵜飼氏

これまでにも、「八百長」の「物証」というものは、いくらでもあったというべきだと思うんです。

ですが、「相撲協会」は、そうした都合の悪いものを見て見ぬふりをしてきました。

新聞やテレビは、週刊誌の記事だからと、取り上げようとしなかった。

私は、こういうものは陰密にやるものだと思っていたんですが、堂々とメールでやっていたのかという驚きですね。


〇玉木氏

週刊誌が、証言や告発という形で「大相撲」の「八百長」を世に出すねらい、それをやらなければならない理由はどこにあるのですか?

「相撲」は、面白いか、面白くないか、それだけで判断しても問題はないのでは?

千代の富士が八百長してまでも優勝するのはおかしいというのは、確かに筋が通っています。

が、別にそれすらかまわないではないかという言い方もできます。

一人のヒーローが誕生したわけですから。

それを喜ぶか否か?

また、彼の土俵が面白いか、面白くないか。

それだけで判断すればいいのではないか?

そういう意見については、どう反論されますか?


〇鵜飼氏

元々、五穀豊穣を願った神事からスタートした、と言われる「相撲」は、西欧的な「勝敗」という概念を上手く取り入れて今日に至ったと言えると思います。

積極的に「大相撲」の「近代スポーツ」化を図ってきたのは「相撲協会」自身だと、わたしは理解しています。

たとえば「相撲を指導・普及する」という大義名分のもと、「財団法人」の資格を取得したわけです。

指導・普及を通じて、「相撲」の裾野を広げるには、「スポーツ」の要素を強く打ち出さなければならない、というのが彼らのやってきたことだと思います。

〇玉木氏

「相撲」の家元と言える「吉田司家」との関係を断ち切ったりしたのも、事情はあったにせよ、「スポーツ」化の一環と言える面はありますね。

要するに「神事」の面を、角界が自ら、そぎ落としてきた。

意義を無くしてきたというか、自分達でもそういう「相撲」の文化的研究をしなくなった。

そして「スポーツ仕立て」にして人気を獲得してきた、という流れは確かにあります。


ただしそのような方針の割には、「スポーツ」としての「相撲」を発展させる努力があまり見られない。

わたしは基本的にはもちろん「八百長」はいけないという立場なんです。

その代わり、「出来山」はあるだろうと。。

要するに非難されるべき「八百長」というのは、競馬や競輪のように見ている人に実質的な損害が発生するものだ、という考えです。

第三者に実害がないものを「八百長」と非難しても意味ないだろう、というのが私のスタンスです。

面白くなければ、見なければいいわけですから。

それに少々出来過ぎたストリーで勝負が決しても、それが国民の大半のニーズであって皆が歓迎すればそれでいいだろうと。

「人情相撲」という言葉は昔からありますが、「相撲」は純然たる「スポーツ」ではなく、「興行」という側面もあるわけですから、そうした「興行政策」が「相撲協会」内にあっても不思議ではない気もします。

それをきっかけにして、力士も育ってくれればいいわけでしょう。

それが今回、携帯メールという形で露呈してしまった。

「八百長メール事件」が明かになった今後、これを、昔の「相撲」、、「ガチンコ」(真剣勝負)と「出来山」(打ち合わせ済)が絶妙なバランスの上で成り立っていた昔の形に戻すのは大変でしょう?

〇鵜飼氏

もう戻れないと思います。

ただ、玉木さんが言う「神事・興行・スポーツ」の「三本柱」に「相撲協会」があぐらをかいてきた、という言い方もできると思いますよ。

〇玉木氏

私は「大相撲」は、宗教法人化でもしなければ、「神事」としての部分はこの先も、どんどん俗世間に侵されて、消失するのではないかという危惧を持っているんです。

アニミズムに基づく日本の神道は、教義も非常に鷹揚ですから、他宗教と軋轢を生むこともないとも思うのですが、実際に、「大相撲」が「神社本庁」の組織下に入るというのは難しいかな?

しかし、問題を投げかけるという意味では、悪くないと思っています。

それによって、関係者も含め、あらゆる日本人が「相撲とは何か?」を改めて考えてほしいですね。

               (引用ここまで)

                *****
わたしは貴乃花を応援しているのですが、こういう見方もまたありだろうとは思います。

しかし、この度の貴ノ岩事件については、さすがの玉木正之氏も、「これはいけない」と発言しておられました。

Wikipedia「大相撲八百長問題」より

2011年に発覚した、日本相撲協会の現役の大相撲力士による大相撲本場所での取組での八百長への関与に関する問題である。

大相撲の八百長とは、主に本場所での取組で力士同士が白星を金で売買する故意の敗退行為である。

携帯電話のメールでやり取りしていたとされ、勝ち負けのほかに取組での具体的な戦い方の内容についてもやり取りしていたとされるもので、数十万円の金銭がやり取りされたと報道されている。

実際の取組ではメールのやり取り通りの内容になったことが明らかになっている。

大相撲の八百長に関する疑惑は、週刊ポスト(小学館)が「角界浄化キャンペーン」と称して元力士の告発などの形態で1980年代から30年にわたって報じており、週刊現代(講談社)も後の2008年になってこれ
を取り上げるなどしてきたが、

相撲協会は一貫して八百長があることに関しては否定し、週刊現代に対しては複数の協会員が訴訟を起こし、勝訴した。

発覚当日の理事長による会見でも「過去には八百長は一切なく、新たに出た問題」と発言している。


              ・・・


「「両国回向院」 誰をも弔う寺 相撲に沸いた境内」  朝日新聞2018・02・22

JR両国駅西口から南へ向かうと、高層ビルの間に「回向院(えこういん)」(東京都墨田区)の山門が目に入る。

「江戸庶民の聖地」と言われるこの寺に、いまも数多くの参詣者が訪れる。
     
回向院は、明暦の大火(1657年)をきっかけに建立された。


大火で、江戸城の天守閣を含め、江戸の街は大半を焼失。

死者は10万人以上とされ、身元がわからなかったり身寄りがなかった多くの無縁者が、回向院で弔われた。

正式な名称は「諸宗山無縁寺(しょしゅうざんむえんじ)回向院」。

宗派を問わず無縁の人々の冥福を祈ったからだ。


その後、浅間山の噴火(1783年)や安政の大地震(1855年)などの自然災害による無縁仏も供養。

処刑されたり牢獄で亡くなったりした人も埋葬した。

幕府や江戸の民が無縁仏を葬ったことから、「江戸御府内総檀家(ごふないそうだんか)」とも呼ばれた。

それらの人々の供養塔も境内に立つ。

副住職は「無縁の死者を『広大無辺』に受け入れました。そのことから江戸庶民の聖地と認識され、参拝の人々を集めたのです」と話す。


回向院では1700年代後半から寺社の修復や道づくりの資金を集める「勧進相撲」がおこなわれた。

1833年からは春秋に定期開催され、明治時代に東隣に「旧国技館」が建てられるまで続いた。


歌川広重の「両国回向院境内全図」には、場所ごとにつくられた相撲小屋が描かれ、当時の様子を伝えている。

山門から本堂に向かう左手には、相撲好きとして知られた、徳川宗家16代当主の家達(いえさと)が字を書いた「力塚」が立つ。

その前で、秋には相撲部屋の親方たちが物故者の供養をするのが恒例だ。

歴史家の安藤優一郎さんは「両国は、今で言うとアミューズメントパーク。『聖』に『俗』が重なり、集まる人々で一大行楽地と化した」と解説する。


「庶民の様々な思いは、時を経て、いまも回向院に息づいています」。副住職の本多さんは、そう話した。

回向院は、JR総武線両国駅から徒歩で約5分、都営大江戸線両国駅からは約10分。

途中で、まげを結った着物姿の力士たちと遭遇することも、両国歩きの楽しみだ。
 
               ・・・

こういう事実も、日本の文化史の事実ではあります。

スポーツではない「相撲」の奥行の深さを味わいたい気持ちもあります。

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先日亡くなられた石牟礼道子さんへの追悼の気持ちを込めて、以前当ブログに掲載した文章を、再掲させていただきます。

これは10年前、わたしが夜、母の老人ホームに行った時のことを書いたものです。

娘によそに預けられる母の寂しさ、母をよそに預ける娘の切なさ。

どうしようもない選択だったと今でも思うのですが、それはやはり、〝漠とした悲しさ”、という言葉がよく似合う、生きることの悲しみであり、今も同じ老人ホームで暮らす母は、その父母、その父祖、その先のご先祖様方に、いつも囲まれているように感じられ、畏敬の念に打たれずにいられません。


            *****


         (引用ここから)2008・10・01当ブログ掲載


春分の夜は、母の老人ホームに行ってすごした。

いつもは遅くても夕食の準備までには帰宅するのだけれど、
母はいつも、「ここは夜になるとこわいのよ」と言って引き止めたがっていたので、
祝日のこの日は、夕食の準備をはやばやとすませて夕方老人ホームに向かった。

母はこのごろ少し幻覚が出るようで、
夜中に大きな蝶が飛んでくると言って、
おびえたりベッドから下りようとすると、寮母さんから聞いていた。

夜の闇のなかで、母がどんな気持ちでいるのだろうと思った。

蝶は古来、死者の魂の使いと言われているという。

母を訪れるその蝶は、どこから来て、なにを告げようとしているのだろう。

ずいぶん前に新聞で読んで、切り抜いていた石牟礼道子さんの随筆を読み返したくなった。



               *****



              (引用ここから)


   「自分と出会う 石牟礼道子 「ふたりのわたし」」 

                      朝日新聞 1994年12月27日 


いくつばかりだったろう。

母はサフラン畑の手入れをしていて、わたしはその脇に寝かされ、空ゆく雲に見とれていた。

黄金色の霧がときどき目の上を流れた。

蜜を含んだ椿の花粉だったかもしれない。

おおきな椿の木のある丘の上だった。

刻々と変わってゆく空の様相、
その光の彩と影の動きの壮大なこと。

一生を通して、
幾度この時の雲の記憶がわたしを呼び戻したことだろう。(略)


このような年齢のときは、言葉より思念の方が先に育つのであろうか。

というのもその時わたしは

“もう一人の自分”が雲の彩といっしょにやって来て、
地面の上のわたしと入れ替わるのを感じたのである。


それは漠とした悲しみを伴った、
長い旅への出発に似ていた。

母はそばにいたが、天涯孤独な小さな自分を脱け出して、
その魂のようなのがゆく後ろ姿。

どこへそれはゆくのだろう。

彼方の世界にはここらあたりとそっくりなおおきな椿や畑があり、
父母や近所の人たちがいるかもしれない。

けれどもなぜだか少しずつ違うひとみの色をして、

どきどきするような懐かしいことが、
そこにはあるのではないか。

向こうのわたしは、こちらのわたしとまるで似ていて、

心もそっくりで、

今も同じことを考えているのではないか。

わたしはもうひとりの自分とあいたくて切なかった。(略)


こういうわけで天の運行というものは、

人の心の深層をも呼び起こしてゆくものだと、
このごろまた思うことである。

以来わたしは15,6の頃までこの丘にゆき、
夕暮れの雲を見るのが大そう懐かしかった。


陽の落ちてゆくさきは天草島で、

わたしが幼時に眺めて天の神が来て座するのだと信じ込んでいた大岩は、
25年くらい前にダイナマイトを仕かけられて割られ、

そこらには市営住宅が建ち並んでいる。


隣の畑の境木だったあの大椿は切り倒されて、

まわりを囲んでいた椎の林や柏林も今はない。


そして興味深いことに、

わたしの中ではいまだに二人の自分が出たり入ったりしていて、
迷い子になりながらも住み分けをやっているのに気づかされる。


どうやらこれは、
近代的な自我の分裂などとは違うもののようである。

子供心に思っていた彼方とは、
たぶん前世のことではなかったか。

この世にやっては来たものの、
ちゃんと生まれていなかったのかもしれない。

ただそちらの方に、雲の光があるもので、
わたしの二人旅は終わらない。

   
               (引用ここまで)

 
                *****


死者たちのすむ彼岸のくには明るい世界で、
ひとびとがかつてやってきた処であり、また帰ってゆくふるさとだ、

という東洋に昔からある思いは
なんと安らかな、おだやかな思いであろうか。

闇のなかで母のまわりを飛び交うという、おおきな黒い蝶に、
わたしは親愛のきもちを感じた。

きっとその蝶は、いつだって飛んでいるにちがいないと思うのだ。

ただ、エンジン全開で運転している時には、うまく焦点があわない、
たましいの記憶ではないだろうか。

午後9時老人ホームを出るまで、その夜そこには蝶はやってこなかった。


          (引用ここまで)

          *****

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間が空いてしまいましたが、引き続き、先日亡くなられた石牟礼道子さんへの追悼の気持ちを込めて、2011年に当ブログにてご紹介させていただいた、石牟礼さんの講演「名残りの世」を、改めてご紹介させていただきます。

             *****


          (引用ここから)


親鸞をめぐって開かれた講演会の記録である「親鸞・不知火からのことづて」のご紹介を続けます。

吉本隆明・石牟礼道子・桶谷秀昭氏が話しておられますが、ここでは石牟礼道子さんのお話を取り上げたいと思います。


わたしには、この方のものの感じ方は非常に納得がいくように思います。

生きるためには、生きることのモラルが必要であるに違いなく、まさに“義を言わない”という、古い人々の智恵に則った彼女の言葉には、人の心の底まで沁み渡る性質があるように感じます。

唐突な物言いかもしれませんが、もし“日本の大転換”が目指されることがあるとしたら、それはきっとこのような感性が命を吹き返すことではなかろうか、とも思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****
 
  
            (引用ここから)


(水俣病患者の話になり)

よく水俣の患者さんが

「もう人間はいやじゃ、人間に生まれてきとうない」とおっしゃいます。


と申しますのは、現代社会はもう、自らを浄める力がなくなってしまったのではないかという、深い嘆きから出る言葉かと思います。


仏教の歴史は長いわけですが、その中には深い厭世観、末法思想が否みようもなくまつわりついております。

末世の世の中、もう世の中の終わりが来るというふうに、すぐれた宗教思想家たちは考えておりました。

仏教だけでなく、外国の宗教も同様、そう思っていました。

それでも人間の歴史というのは続いてきたわけで、なぜ続いてきたかと思うのですが、やはり私たちの生命は限られております。

命が限られていることも、歴史を保たせてきたのではないか。


(水俣病の)患者さんが死んでゆかれるのに立ち会うことになってしまいまして、こういう人たちが、チッソの社長たちと向き合う場所にたびたび居合わせたのですけれど、

自分たちは、あるいは死んだ者たちは、生きてあたりまえの人生を送りたかったのだ、ということをおっしゃりたいのですが、なかなか相手にも世間にもそれが伝わりません。


あたりまえに生きるとはどういうことか。


この世と心を通い合わせて生きてゆきたい、ということなのです。

先ほど、私どもの地方では心が深いことを「煩悩が深い」と言うのだと申しましたけれど、そのような生身の「煩悩」を、水俣病になってしまって、途中で断ち切られる。。

人様にも、畑にも、魚にもキツネやなんかにも、猫たちにも、生きているものことごとくと交わしたい「煩悩」に、本来自分らは満ち溢れている。。

その尽きせぬ思いをぶったぎられるのが辛い、、

そういう気持ちが大前提にあるのではないでしょうか。


わたしが見た限りでは、患者さんたちは、チッソの人たちに非常に深いまなざしで、一種の哀憐を、深い心を持って向き合っておりまして、それは大悲とか、大慈と言うのに近い姿だとわたしは感じております。


仏教では繰り返し、末世の到来を説きながら来たわけですが、わたしたちは「煩悩」・・非常にもどかしくて、言い得ないのですが、狩野芳崖が描きました「悲母観音」の図、、神秘的な、東洋の魂のもっとも深い世界を、日本人の宗教の意識のもっとも奥のところを描ききった名作だと思いますけれど、

わたしが申します時の「煩悩」の世界とは、あの絵のような世界を思い浮かべております。


わたしどもの命を無明の中で促しているエネルギーが、「煩悩」だと思うのです。

お互いにご先祖様の血をもらっていて、私どもは生まれ変わっていると思うのですが、実際に生きている実感を持てるのは一代限り。

今現在でしかありません。

そう思えば、この世というのはまことに名残り惜しい、
草木も風も雲も。

ほんとうに空ゆく雲の影も、見おさめかも知れません。

そう毎日は思わないですけれども、心づけば名残りが深いですよね。


いまは幸いこういうお寺さまがあって、自分の心の内側を深く差し覗ける日があって、遠い山の声、海の声、ご先祖様方の声を聞くことが出来ます。

「後生を拝みに行こうや」と誘い合わせていらっしゃるわけですが、「後生」とおっしゃる時は、未来に重ねておっしゃっていると思うんです。

わたしどもはみな、多かれ少なかれ、この世に尽きせぬ名残りを残してゆきますので、その自分への名残りが未来の方へ、鐘の余韻さながら、こうも生きたかった、ああも生きたかった、という気持ちが自分の内側へ響いてきます。

その自分の身から鳴る鐘の音のようなものに導かれて、仏様を拝む時は、そういう自分をも拝んでいるのではないでしょうか。


拝むことしか知らぬ衆生というものこそ、実はこの世界の一番奥をなす存在だと、わたしは思います。

衆生というものは、そのように生き代わり死に代わりしてきました。



(島原の乱で、島の人々を救うために切腹した代官の話をして)


先ほど来申しましたような意味での、深い情愛をもった人たち、全き「煩悩」をもって万物と共に在る人たちが、彼の身の回りにいたことでしょう。


その人たちの思いの残っている、あの「煩悩のかかっている土地」に来て、残された人々の声を聴き、顔つきを見て、その人たちと多分、魂も心も通うようになって、すうっと代官の心が変わっていったことでしょう。

深くなっていったろうと、わたしは思います。

この者たちのために死のうと。

そんな特別な人たちがおったわけは無くて、水俣の、先ほど申しましたような、「煩悩」をこの世にかけ足りなく思って、深い名残りを残して死んでゆかなければならなかった者たち、

それからここに今日お出でくださいましたような、ごく普通のお顔の人たちとどこが違っただろうと思います。


お互いに名残深い世を、今はまだ生きているな、と思うばかりでございます。

皆様方のようなお顔を、いつも思い浮かべていることでございます。

今日はお目にかからせていただいてありがとうございました。


        (引用ここまで)


         *****

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などあります。(重複しています)

           (引用ここまで)

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引き続き、先日亡くなられた石牟礼道子さんを悼み、2011年に当ブログに掲載した講演会「親鸞・不知火からのことづて」のご紹介をさせていただきます。

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         (引用ここから)



親鸞をめぐって開かれた講演会の記録である「親鸞・不知火からのことづて」のご紹介を続けます。

吉本隆明・石牟礼道子・桶谷秀昭氏が話しておられますが、ここでは石牟礼道子さんのお話を取り上げたいと思います。

驚くほどに心打つ言葉が現れます。

これが書き言葉ではなく、話し言葉で語られた言葉であるということに、今更ながら陶然としてしまいます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


          *****


         (引用ここから)



このあたり(熊本・不知火)では、「煩悩」を、当然あるものとして把握して言う言い方がございます。

たとえば
「わたしゃ、あの子に煩悩でならん。」
とか申します。

情愛の濃さを一方的に注いでいる状態、全身的に包んでいて、相手に負担をかけさせない慈愛のようなもの、それを注ぐ心の核になっていて、その人自身を生かしているものを「煩悩」というのです。

情愛をほとんど無意識なほどに深く一人の人間にかけて、相手が三つ四つの子どもに対して注ぐのも「煩悩じゃ」と。

人間だけでなく、木や花や犬や猫にも、「煩悩の深い人じゃ」と肯定的に言うのです。


これはどういう世界なのかと常々わたしは思います。

大衆ーー仏教では「衆生」と申しますがーーわたしは、生きてゆくのに時代の論調などを必要とせぬ人々のことをいっておりますがーー宗教というものは、ついには教理化することのできぬ「玄義」というものを、その奥に包んでいるのではないでしょうか。


そして「玄義」とは、そのような「衆生という存在」だとわたしは思います。


衆生というものは生々累劫、担っている悲愁を、みずから体系化することをいたしません。

教理教学を含んでいる経を、「荘厳な有り難い声明」とだけとらえているのは、そういう人々の直感というか把握力でございましょうし、

究極の虚無、たとえば「往生」(死)というものとだけ向き合っているのではないでしょうか。


しろうとで考えてみましても、だいたいお釈迦様という方は世の中を捨ててしまって、世の中を好かない、というところからまず仏教というものは始まったように思います。

極端に言えば、世の中にもういたくないから子孫を残さずに消えてしまおうと、そういう所を仏教は含んできたと思うのです。



(ご近所の働き者のおばさんと会話して)

「わたしゃもう、足の痛うして。行こうごとあるばってん、行かれんが。草によろしゅう言うてくれなあ。」

と伯母さんが言いなさる。

実際、人間だけじゃなくて、草によろしゅう言うたり、魚によろしゅう言うたり、草からや魚からやら、ことづてがあったり、皆さんもよくそういうこと、おっしゃってますよね。


お寺というのは「荘厳」を形にしてあるわけですが、よいお経をお坊さんがあげられるのを聞きまして、ああ、よかお経じゃった、と村の女の人たちがよく言われますが、浄められ、「荘厳」されますわけでしょう。


「草がことづてる」というのも、それにつながるような風の音でして。

自分のまわりの誰か、誰か自分でないものから、自分の中のいちばん深い寂しい気持ちを、ひそやかに「荘厳」してくれるような声が聴きたいと、人は悲しみの底で思っています。


そういう時、山の声、風の声などを、わたしどもは魂の奥で聞いているのではないでしょうか。

なぜならわたしどもは、今人間といいましても、草であったかもしれず魚であったかもしれないのですから。



        (引用ここまで)


            *****



>人間だけでなく、木や花や犬や猫にも、「煩悩の深い人じゃ」、と肯定的に言うのです。

>これはどういう世界なのかと、常々わたしは思います。

>大衆ーー仏教では「衆生」と申しますが、わたしは、生きてゆくのに時代の論調などを必要とせぬ人々のことを言っておりますがーー宗教というものは、ついには教理化することのできぬ「玄義」というものを、その奥に包んでいるのではないでしょうか。

>そして「玄義」とは、そのような「衆生という存在」だとわたしは思います。



なんと深い言葉でしょうか。

この講演会のもう一人の論者吉本隆明氏が追及しておられるドストエフスキーの苦悩の境地を、石牟礼道子さんは石牟礼さんの道筋で、一人で究明していらっしゃるのであると思います。

言葉というものの可能性を、とても感じる一文ではないかと思います。

そして、わたしたちは、今は人間の姿をしているけれど、ある時代には草として生き、ある時代には魚として生き、天地をめぐっているに違いありません。



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などあります。(重複しています)

(引用ここまで)


               *****

なお、写真は不知火とは関係ありません。

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