4日前のご逝去を悼み、2011年に、当ブログにご紹介した石牟礼道子さんの文章を、あらためてご紹介させていただきます。3回連続です。


          *****


「石牟礼道子「名残りの世(1)・・いとしく思いあう風景」
                            2011年12月20日

前にお盆のことを調べていたら、親鸞の話をする本を多くみかけました。

この石牟礼道子氏のお話も、親鸞的世界を語るものでした。

熊本・不知火のお寺で縁あって開かれた「親鸞をめぐる講演会」に、話手の一人として参加なさったものです。


煩悩と知性と宗教をめぐる、親鸞のパラドックスに満ちた世界が、無名の人々の生き様の中に、みごとに存在している、ということ、

また、苦しみにみちた人生には、それをいやす、濃い情がなければならないのが人の世だ、ということ、

それから、苦しみは、浄化されなければならない、ということ、

人の苦しみ、悲しみを浄化するのが、人の世の努めだと思う、ということを言っておられるのだと思いました。

長いお話を、はしょりながら、まとめたので、意味がわかりにくいと思いますが。。


吉本隆明・石牟礼道子・桶谷秀昭氏の講演記録「親鸞・・不知火よりのことづて」をご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



                 *****

             (引用ここから)


(子どもの頃、母におぶわれて行ったお寺の思い出、大人たちがお寺に集まってきている時のことを思い出しながら)


つつましい晴れ着をまとってきた人々が、全身的に心をかたむけてお坊様の話をきいている。

そういう場所でしばしば出てくる「煩悩」という言葉を考えてみます。

幼いなりに思い当たっていたことがいろいろございます。

朝晩自分の家で起きていること、隣近所や親類の家で起きていること、たいがい小さな争いごとや悲喜劇のさまざまで、

人々が背負っている苦悩のさまざま、そういう表情のさまが「煩悩」というものを表わしているということだろうと、子ども心にいちいち思い当たります。



人間の生身と傷心の世界、人間存在よりも深い作品というものはなく、すべての宗教や文学は人間存在への解説の試みなのだろうとわたしは思うのですが、

この度し難い世界を読み解こうとしてきた長い苦闘の歴史を見ましても、行きつかねばならない到達点など、ないのではないかと思われます。

そうは申しましても、阿弥陀如来というものを人格化せずにはやまなかった先人たちの欲求というものはやはり一つの到達点でして、後世はこの到達点を、後追いするばかりでも大変だという気がいたします。

そのことも仏教は予言しておりまして、後追いをせねばならぬ後の世の時の流れを、天文学的な言い方で「百千万億劫(ごう)」などと言っております。


わたしどもは、あるいはそれを、「業」とも言い換えております。


最初に、そういう意味を含めた仏教の予言がありました。

長い時の流れから言えば、一瞬にして人類史の基底部を見通すほどな最初の人間の叡智が、予言の形をとって語られ、書かれてきました。

仏教の古典に触れて思うのは、自己の運命を予知してしまった人間の「業」、その知性の「業」の深さです。


ところで、そういうものと、宗教書など一度も読まないただの普通の人々が、生きてゆく過程の中でおのずから弁えてくる「業」というものとは、一つになると思います。

そのような意味で、人間というものは何らかの意味で、一人一人が人類史の体験を、己の中に蓄えていると言えませんでしょうか。


薩摩には、「義を言うな」と言う言葉がありますけれど、浄土真宗に言う「義なきを義とす」、、と申す、あの義なのでしょうか。

知というものは、存在の一番底を見通せた時に、その頂をも仰ぐことができるのではないかとわたしは思うのですが、

人間世界と申しますのは、このように生々しいゆえに、「荘厳」ということがより必要になってくるのだと思います。


            (引用ここまで)
        
  
              *****


ここで言う「荘厳」というのは、仏教の形であったり、そのほかの形であったりして、人の思いを浄める作用をもつものではないかと思います。

石牟礼道子さんの言葉はほんとうに味わいがあり、私はこの文章を読みながら、思わず何度も声に出して読んでしまいました。

そうしている自分の声を聞きながら、私は何をしているのだろう?と思うと、それは祈りをしているのにちがいない、と思いました。

度し難い人の世、傷心の世界。

そうした人の世を生きなければならない人間を愛しく慈しむ思いが、石牟礼道子さんの言葉には染みわたっているように思います。

著者が描くお寺のお坊さんのお話を“全身的に心を傾けて”聞きあう人々の世界は、ひとつのつつましい人の世の理想の姿として描かれています。

理想というものが空理空論ではなく、誰もが自分の手で触れ、心から納得できる世界として在るとしたら、それはどんなに貧しくとも、何ものにも代えがたい至宝であることでしょう。




wikipedia「荘厳」より

荘厳(しょうごん)とは、仏語で仏像や仏堂を美しくおごそかに飾ること。また、その物。お飾りともいう。宗派により異なる。

智慧・福徳・相好で仏などの身を飾る(包む)ことも意味する。

サンスクリット語のvyuha(分配、配列)が語源とされ、「みごとに配置されていること」「美しく飾ること」の意。

漢字の「荘」「厳」はいずれも「おごそかにきちんと整える」 という意味。

「立派で厳かな」という意味の荘厳(そうごん)は荘厳から派生した言葉。

荘厳は一般には「そうごん」であるが仏教では「しょうごん」と読む。呉音。

信は荘厳なり

寺堂の立派な装飾を見て信心が啓発されるという意で、内容は形式によって導かれるというたとえ。

「信は荘厳から起こる」「信は荘厳より」ともいう。

香光荘厳

念仏三昧をたたえた言葉。香に染まると香気が漂うように、仏を念じて仏の智慧や功徳に包まれること。

染香人(ぜんこうにん)のその身には 香気(こうけ)あるがごとくなり
これをすなわち なづけてぞ 
香光荘厳(こうこうしょうごん)と ま(も)うすなる 
                     『浄土和讃 勢至讃』

「ブログ内検索」で

親鸞    3件
念仏    9件
お盆   10件
仏教   15件

などあります。(重複しています)

             
             (引用ここまで)

               *****

ブログ内関連記事

「名残りの世」石牟礼道子(2)・・草であり、魚であった私たち」

「名残りの世」石牟礼道子(3)・・生きる悲しみ、死ぬ悲しみ」

「春分の夜の蝶」 (石牟礼道子「ふたりのわたし」を納めています)

「お盆・施餓鬼・七夕(1)・・地獄と母性」(5)まであり

「弥勒とアジア(1)・・偽経としての「弥勒下生経」、という視点」(7)まであり

「弥勒」カテゴリー全般
「メディテーション」カテゴリー全般
「心身障がい」カテゴリー全般


               


 




「〈石牟礼さん死去〉水俣病の受難に感応・絶対的な孤独描く」

「石牟礼道子さん死去・水俣病を描いた小説「苦海浄土」」朝日新聞デジタル 2018・02・10

大好きな作家の石牟礼道子さんが亡くなりました。

つい先日、昔とまったく変わらない石牟礼道子さんの文章を、朝日新聞の連載「魂の秘境から」で読んだばかりでした。

猫の話を書いておられ、全文が詩であるような散文の間に、猫にまつわる詩をはさんで、極上の美味な文でした。

90才にして、むかしと全く変わらない文章を書かれる、この方に、なんという力をお持ちなのかと感嘆し、変わらぬ語り口に安堵したばかりでした。

ご冥福をお祈りいたします。

以下、1月31日の朝日新聞「石牟礼道子・「魂の秘境から」7「明け方の夢」を、追悼の心を込めて、ご紹介させていただきます。


                *****

                (引用ここから)

先日、年若い友人が熊本市の療養先を訪ねてみえた。

新聞社の水俣支局にいるうちに働き盛りで早期退職をして、そのまま水俣に居着いてしまった人である。

「最近、一緒に住むようになって」。

かざして見せられた携帯電話から、「にゃあ」と声がした。

赤茶色の虎猫の仔であった。

もの心ついたころから、いつも近くに四、五匹はいたものだったが、足腰の自由が利かなくなり、飼うのをあきらめてもう数年になる。

時折、こうして猫のお福分けにあずかって気を紛らわせている。

水俣川の川口近くに住んだ家は、近代化の波がそこだけ遠慮して通り過ぎたような百姓家であった。

猫たちは飼うともなく、床や壁の破れ目から、するりと入り込んで来るのである。

父や母と追い出し役を押しつけ合ううち、十数匹も居着いてしまって、しまいには猫一家に人間一家が同居させてもらっている風にもなってくるのだった。

白も黒も赤も三毛もいて、みなミイと呼ばれていた。

あれは黒白ぶちのミイだったろうか。

ほとんど納屋のような貧家であったから、水俣川を下ってきた流木を使った梁はむき出し。

ボラやアラカブ、海のものを囲炉裏であぶった煙が染みついてもいる梁の上で、ねずみが台所からくすねたダシジャコをこれ見よがしにカリカリやる。

その顎の動きまで目に入ってしまう。

「お前や、好物の盗らるっぞ」と、ミイの太ったお尻を押してみると、後足で蹴り返して抗議する。

母のはるのは「ほんにほんに、ねずみもろくろく捕りきらん」とあきれた声を出しながら、魚を料る(こしらえる)時はいつも、わたをまず煮てやって、人間より先に食べさせてしまうのだった。

この前、明け方の夢を書き留めるようにしるいた「虹」という短い詩にも、やっぱり猫が貌(かお)をのぞかせた。

どうやら、黒白ぶちの面影があるようにも思える。



不知火海の海の上が、むらさき色の夕焼け空になったのは

一色足りない虹の橋が かかったせいではなかろうか

漕ぎ渡る舟は持たないし なんとしよう

媛(ひめ)よ そういうときのためお前には 神猫の仔をつけておいたのではなかったか

その猫の仔は あそびほうけるばかり 

いまは媛(ひめ)の袖の中で むらさき色の魚の仔と 戯れる夢を見ている真っ最中


かつては不知火海の沖に浮かんだ舟同志で、魚や猫のやり取りをする付き合いがあった。

ねずみがかじらぬよう漁網の番をする猫は、漁村の欠かさぬ一員。

釣りが好きだった祖父の松太郎も仔猫を舟に乗せ、水俣の漁村からやってくる漁師さんたちに、舟縁越しに手渡ししていたのだった。

ところが、昭和三十年代の初めごろから、海辺の猫たちが「狂い死にする」という噂が聞こえてきた。

地面に鼻で逆立ちしてきりきり回り、最後は海に飛び込んでしまうのだという。

死期を悟った猫が人に知られず姿を消すことを、土地では「猫嶽(だけ)に登る」と言い慣わしてきた。

そんな恥じらいを知る生きものにとって、「狂い死に」とはあまりにむごい最期である。

さし上げた仔猫たちが気がかりで、わたしは家の仕事の都合をつけては漁村を訪ね歩くようになった。

猫に誘われるまま、のちに水俣病と呼ばれる事件の水端(みずはな)に立ち合っていたのだった。

             (引用ここまで)

               *****

わたしが石牟礼道子さんを、深く好きなのは、上の文章にも「変わらぬ語り口に安堵した」と、気づかないで書いたように、まさに「語り」として、読み手の心に触れてくるからだと思っています。

口承文化というのは、文字の無い世界の文化のように思われがちですが、石牟礼さんの文章は、書き言葉が、語りの言葉として、ひとびとの心の非常に深いところに届くように思われます。

信じられないほどの、魂のこもった言葉が、ひとびとの心を、知らないうちに、浄化し、癒すのだと思います。

これがシャーマニックでなくて、なにがシャーマニックであろうと、わたしは密かに思っています。

下にリンクを張った、過去のご紹介記事でも、そのことに触れています。

また、元タイトルは、「名残りの世・石牟礼道子の語り」でした。

こころ急いてアップしたもので、「の語り」の文字を落としてしまいました。

「石牟礼道子全集」というものは、もうすでに出来上がっていて、折々に、追加をしていくばかりの体制なのだそうですが、1月31日に掲載されたこの文章が、「絶筆」になるのかもしれませんね。

石牟礼道子さんの言葉でいうところの、「ことづて(言伝て)」を、たしかに受け取れましたことを、幸せに思います。


ブログ内関連記事 次に順次「再掲」します。

「名残りの世」石牟礼道子(1)・・いとしく思いあう風景」

「名残りの世」石牟礼道子(2)・・草であり、魚であった私たち」

「名残りの世」石牟礼道子(3)・・生きる悲しみ、死ぬ悲しみ」

「春分の夜の蝶」石牟礼道子随筆「ふたりのわたし」を納めています。
 




引き続き、新田一郎氏の「相撲の歴史」のご紹介をさせていただきます。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

               *****

             (引用ここから)

「相撲節(すまいのせち)」の起源

8世紀に始まり、9世紀には平安朝廷の年中行事として定着した「相撲節(すまいのせち)」は、12世紀末に断絶するまで、およそ400年にわたり、雅楽・饗宴などを伴う絢爛たる催事として、宮廷の初秋を飾っていた。

その間に熟した様式(式次第・舞楽・伝承など)が、後世の「相撲」に決定的な影響を及ぼした。


さまざまな儀式・故実に彩られた現在の「大相撲」は、その由緒をしばしば平安朝廷の年中行事であったこの「相撲節(すまいのせち)」に求めている。

そうした由緒には、議論の余地のあるものもあるが、「相撲」を「相撲」たらしめる格闘競技としての統一された様式は、この「行事」を通じて形成されたのである。


朝廷行事としての「相撲節(すまいのせち)」の源流は、「農耕儀礼」と「服属儀礼」の2つの側面に求めるのが常である。

「農耕儀礼」、ことに「水の神」にまつわる祭事と「相撲」との関係についての民俗学的な解釈には、

「国譲り神話」の敗者である「タケミナカタ」の名に、「水」=「水の神」の投影を見出す見解があり、

また「相撲節(すまいのせち)」の起源説話とされる「スクネ」と「クエハヤ」の「力比べ」が垂仁天皇7年7月7日に設定されていることは、

「相撲節(すまいのせち)」を「七夕」の「水の神の神事」に結びつける意図から出たものと推察される。


「七夕」と「相撲」の結びつきは、年の後半の農事を前にしての「年占(としうら)」の神事に求められるが、

「相撲節」でも、「相撲人」の取組に先立って、四尺以下の小童による「占手相撲」が行われた。


また、「諺にいわく、左方を帝王方となす」として、貞観年間(859年~877年)以前には、正規の取組の第一番には、右側の「相撲人」が、わざと負けるならいであった。


「相撲節(すまいのせち)」の起源のもう一つの側面=「服属儀礼」については、「スクネ」と「クエハヤ」の力比べ、タケミカヅチとタケミナカタの「国譲り」の2つの神話から、

「遠来の強者=マレビト」が土地の悪しき精霊を圧伏し、その力をもって天皇に奉仕する」というモチーフが共通して読み取れる。

天皇は国家的規模の「年占(としうら)」の主催者として、自らを位置づけ、自らの下に国土を統合する論理を提示してみせたのであった。


「相撲節」の起源を「服属儀礼」の側面から見る場合、注目するべきは、「隼人(はやと)族」による「相撲奉仕」、いわゆる「隼人相撲」である。

「隼人族」とは、南九州およびその南方の島々に出自をもつ人々であり、5世紀ごろから畿内国家に服属し、彼らの一部は畿内に来住して「隼人司」の支配に服し、天皇への奉仕の任にあたった。


「記・紀神話」では、天王家の祖先と、「隼人族」の祖先は兄弟であったとされている。

「日本書紀」によれば、「国譲り」の結果、「葦原の中つ国」の支配者となった天孫ニニギノミコトの子、「ホスセリ」(兄)と「ヒホホデノミコト」(弟)はそれぞれ、「海」と「山」を生業場としていた。

ある時、それぞれの漁具・猟具を交換し、生業の場を変えてみたところ、兄・ホスセリは、弟・ヒホホデノミコトに借りた釣り針を紛失してしまった。

このことから兄弟間の闘争となり、兄を呪詛する言葉と、潮の干満をあやつる珠を海神から授けられた弟・ヒホホデノミコトが、それらを用いて、兄・ホスセリに勝利をおさめた。

「海幸(ホスセリ)・山彦(ヒホホデノミコト)の神話」として知られるこの闘争を、海神の助力を得て制した「ヒホホデノミコト」は、海神の娘「トヨタマヒメ(豊玉姫)」を娶り、父ニニギノミコトの跡を継いで支配者となり、

この国土支配権がその子「ウガヤフキアエズ」を経て、孫・「カムヤマトイワレヒト=神武天皇」を祖とする天皇家に受け継がれる。


一方、敗者となった兄・ホスセリは「ヒホホデノミコト」に臣従を誓い、

その子孫は「阿田君」(阿多隼人)を名乗って、ホスセリが珠によって招き出した海に溺れ、苦しみ、助けを乞う様を歌舞として演ずるなど、種々の芸能をもって仕えるとともに、

都の警護者として昼夜天皇家に奉仕することとなった、という。


この説話は、「隼人族」の天皇家への奉仕の「起源説話」であり、畿内国家への服属の物語であることは言うまでもない。

服属した氏族の祖先を、天皇家の系譜に連なる者として物語に組み込むのは、「記・紀神話」のいわば常套の手法である。


さて、律令体制下、京にあって「隼人司」に属した「隼人」は、宮門の警護に当たる他、歌舞の教習と竹笠の制作とを日常の任とした。

ことに、「裸身にふんどし」を着し、顔面や体にペインティングをほどこした異相をもって演じられる歌舞は、「隼人楽」と称され、

犬の吠え声をまねて邪悪の気を祓う「狗吠え」と共に、「隼人」の技芸を代表するものであった。

これらの歌舞・技芸は、もとは「隼人族」の祖先神の「神おろし」の儀礼であったものを、天皇の前で演ずることによって、天皇=「隼人」の祖先神と重ね合わせ、従属の意をあらわしたのであろう。


この「隼人族」はまた、宮廷で「相撲」をも演じている。

「日本書記」には、天武天皇11年(682年)7月に、貢物を携えて上京した「大隅隼人」と「阿多隼人」が「相撲」をとり、「大隅隼人」が勝ったとする記事がある。

また、持統天皇9年に「隼人相撲」が行われた「西の槻の下」とは、飛鳥寺の西の広場であり、この場所は当時、辺境諸族の朝貢・服属儀礼のときに饗宴の場として用いられていた。

この点からも、「隼人相撲」が「服属儀礼」としての意味を帯びていたことは察せられる。


服属した民として、他によく知られた例として、「大嘗会」や「節会」などに奉仕される「国栖奏(くずのそう)」がある。

「国栖(くず)」は、「国主」と表記されることもあり、地方の土着勢力を指す普通名詞であったらしいが、

一般には、大和・吉野地方に盤踞した「吉野国栖」に代表され、彼らによって奉仕される国栖奏は、地方族長の服属にともなって、芸能が国家に集中され、管理されてゆく典型的な姿として理解される。

村松武雄の説くところによれば、畿内国家にとって、関心の対象は、異俗異能を持つ非征服者に期待された呪術的な異能であり、

異族による芸能を取り込むことによって、その呪術的異能をも自らの内に取り込もうとしたのではないかという。

「国栖」・「隼人」などの異族による芸能奉仕は、そうした呪術的異能の奏上の儀式として考えられていたのであろう。

そうしたモチーフのもとに、諸侯の「相撲」の原型を統合し、諸国の強者の持つ力を集中して、天皇に奉仕させることが「相撲節(すまいのせち)」の根幹をなす構造であった。

カイラーは、このことについて、

中国の漢朝に始まり隋・唐朝で定着した武芸大会が、遠国から優れた武芸者を招集して催される国土統一の象徴的な儀式であったとし、これと比較することによって、

地方の強者の服属の儀式としての「相撲節(すまいのせち)」の原型は、中国から移入されたものではなかったか、と推測している。

法廷の儀式に中国文化の影響が見られるのは「相撲節」のみならず、年中行事全体を通して言えることであり、カイラーの推測も注目に値しよう。


こうした構造が軍制と深く関わるものであったことは、容易に推察される。

後の「相撲人」がしばしば近衛府の番長に採用されることなども、諸国から招集されて天皇へ服属・奉仕することになる強者を、より即物的な軍事力の問題として意識していたことを示している。

諸国から「相撲人」を招集し、「相撲節」を運営するシステムは、「続日本記」養老3年(719年)7月には、「初めて抜出司を置く」とあるのがその萌芽であろう。

734年7月には「聖武天皇が「相撲儀」を見た」とあり、これが「相撲節」が確実に行われた記録上最初の例とされている。

いずれにせよ8世紀初頭には「相撲節」の制度が整っていたものと思われる。


                (引用ここまで)

                 *****

NHKで昼下がりに延々と中継される、あの「お相撲」の起源は、「記・紀神話」にさかのぼり、その行事は平安時代を通じて行われ続け、様式化され、洗練されてきた、ということを初めて知りました。

人々の、季節の祭礼であり、また、天皇制が中央集権化するにあたって、敗者となった者が演じる儀礼でもあった、ということです。

桃太郎が、キジやサルやイヌを従えて段々強くなっていった様子を、彷彿とさせます。


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引き続き、新田一郎氏の「相撲の歴史」のご紹介をさせていただきます。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

             *****

           (引用ここから)


「相撲」が社会の中で、より特定された共通の意味を獲得してゆく過程で、重要な役割を果たしたのが、「農耕儀礼」だった。

「相撲」に限らず、「綱引き」や「競馬」など、競技的性格を持った多くの技芸の神事的な意味付けについて、民俗学者はしばしば「年占」という道具立てを用いて説明している。

「年占」は、「としうら」と読む。

農事の節目にあたる時期に、先祖を祀ると共に、豊穣への祈願をこめて、その首尾・不首尾を「占う」行事であり、競技的性格を持った技芸の結果によって、豊凶を「占う」ことも重要な類型の一つであった。


「年占」の神事には、大別して2つの類型がある。

第1は、2つの集団の間で戦い、勝った側に「豊穣の予祝」が与えられるというものである。

第2は、豊凶を司る精霊との間での競技を疑製することによって、「豊穣の予祝」を求めるというものであった。


後者の場合、実際にはあらかじめ定められた結果を演じる場合が少なくない。

「豊穣」を司る精霊は、多くの場合、「田の神」・「水の精霊」として考えられており、

精霊を圧伏し、または一勝一負で勝敗を分け、または精霊に勝たせて花を持たせることによって、精霊の力を自分の側に呼び込み、「豊かな収穫への予祝」を得るというのが、彼らの「年占(としうら)」の神事の基本的な構造である。


もちろんそこには、様々なバリエーションがある。

田の中で「相撲」をとり、勝敗を争うのではなく、体に泥が多くつくほど「吉」であるとする「どろんこ相撲」や、

乳児を抱いて、乳児が早く泣いた側を「吉」とする「泣き相撲」などのように、「相撲」の名を冠してはいても、格闘競技としての「相撲」は関心対象でない場合もある。

これら現行の神事の歴史的な起源は明らかではなく、どれほど原形を残しているのか疑問はある。


しかし、こうした「占い」の場面に、子供が登場するケースがかなり多いことは、注意すべきである。

一般に、神意の「占い」に際して子供が重要な役割を果たすことは珍しいことではない。

幼い童は、人として完成された存在ではなく、「人ならぬ世界」から「人の世界」へと転位する途上にあり、それゆえ「人ならぬ世界」の精霊たちと近い距離にあると考えられ、神意を伺うに相応しい媒介と見なされていた。


「相撲節(すまいのせち)」でも、初期には、「相撲人」による「相撲」の前に、「占手(うらて)」と称する4尺以下の小童の「相撲」が行われていた。

小童の「相撲」と「占い」との密接な関係、さらには国家的規模での「相撲行事」である「相撲節(すまいのせち)」と「年占(としうら)」、

とりわけ「相撲節」の起源に密接なかかわりがあると思われる。


「相撲」の神事的意味付けの基本的なモチーフを、「神意の占問い」に求めることは、形態的・技術的に様々なバリエーションがある挌闘を、「相撲」と同定するための、一つの有力な指標であろう。


人知・人力の容易には及ばぬ自然との調和の中で、農耕を営み、収穫をあげようとする農耕民の、自然に対する視線と姿勢が、こうしたモチーフに表現されている。

自然を司る不可知の力の所在を、「田の神」・「水の精霊」として表象し、格闘という表現形式を通じて、神・精霊とコミュニケートし、神意を占い、「豊穣の予祝」を求める。

具体的な形態は様々であれ、そうした意味付けを負った格闘競技が、日本において「相撲」の原型の一つとなったのであろう。


「河童」が、水に対して不浄の行為を働いた者や、水辺を通りかかった人に、「相撲」の勝負を挑み、負けた相手を水中に引き込むという類の民話伝承は、全国各地にある。

「河童」には、地方により多様な呼称があるが、要は、「山童(やまわらわ)」と対になって観念される「水の精霊」であり、「水の神」の零落したイメージと解釈されている。

「河童」と人との「相撲」の民話伝承は、「水の神」・「田の神」の神事の、民話的バリエーションであり、現代に残る「相撲神事」にも、そうした原型を偲ばせるものがある。


「日本書紀」に記された「スクネ」と「クエハヤ」の「力比べ」を、「相撲節(すまいのせち)」の起源神話として位置付ける場合、重要な意味を持たされているのが、「垂仁天皇7年7月7日」という7並びの日付である。

この日付の記録から、「相撲節」は当初は7月7日を定例の節日としており、この日付が、各地の「相撲」を統合するものとして機能したと考えてよい。

「7月7日」といえば、言うまでもなく「七夕」である。

「七夕」といえば、現代では、牽牛と織女の両星が逢う中国起源の伝説を中核とした「星まつり」としての印象が強いが、

それとは別に、「7月7日」は、日本では古くから精霊を迎える「盆」の一部として、「七日盆」と呼ばれる祭の習俗としてあり、

更にその前提には、本来独立した「水神の祭り」があったと言われている。

現在、普通に言う「七夕」は、これらの諸要素が融合して出来上がったものなのである。


「盆」と「正月」はしばしば一組をなして意識され、一年の後半部の始まりに位置する「盆」には、正月と対になる行事が多く見られる。

民俗学の分野では、一年を周期とする通常の暦と並行して、一年の「前半部」を終えた6月末で折り返す、もう一つの暦があり、

7月から始まる1年の「後半部」には、「前半部」と対になる年中行事が散りばめられていたと考えられている。

たとえば、正月を迎える直前の大晦日に、一年の厄を祓って新年を迎える「大祓え」が行われ、6月末にも、これに対応する形で、年の前半の厄を払う「6月祓」、または「夏越(なごし)の祓」が行われてい
たことはその顕著な例である。


つまり田畑の整備と種まきに始まる年の「前半」の農事を終え、収穫へと向かう「後半」の農事を開始するにあたって、

年の「前半」の厄を祓って、改めて土地の精霊を祀り、豊かな収穫を祈ることが、6・7月の年中行事の多くに通底しているのではないか。

その根底には、豊穣を祈る精霊の祭りがあり、それが現在の祖先祭祀の「盆」の前提となっているのであろう。


豊穣を祈る、土地の精霊の祭りと、水の祭祀との結びつき、ことに、「年占(としうら)」の形態をとったものについては、すでに触れた。

しかし、この解釈には、畑作農耕への視点が欠けているという批判もあり、畑作農耕儀礼に類したものも、「相撲」の原型にはあったかもしれない。

「隼人族」を始めとする非征服民族の習俗に注意を払うことも、「相撲」の源流を探る上では重要だろう。

「大三島・一人相撲中継」FNNsline


「水の神」(土地の精霊)をめぐる農耕儀礼と「相撲」の間の密接な関係を示す例として、

伊予大三島(おおみしま)(現・愛媛県今治市の大山ずみ神社)の神事、旧暦5月5日の「お田植え祭り」と9月9日の「抜き穂祭」に際して行われていた「一人相撲」には、その古い形態が残されている。

現在は技芸の継承者が絶えてしまって、行われていないというが、県の無形文化財に指定されていたこの神事は、精霊を相手に「相撲」をとる。

したがって、実際には一人で「相撲」の所作を演じるという、有名な神事として全国的に知られている。

精霊と人間との「相撲」は、三番勝負で、一勝一負から、精霊が勝つ。

精霊に勝たせて、敬意を表することによって、豊作を祈願するのが、この神事の中心的なモチーフであった。

また、奈良県桜井市にある「スサノオ神社」と、同市の「御綱神社」で合同で行われる2月11日(もとは旧暦・正月10日)の「お綱祭り」は、両社の祭神である「スサノオノミコト」と「イナダヒメノミコト」の、夫婦の契りをモチーフにした祭礼である。

男綱と女綱の交合の儀式をもって豊作を祈る祭礼は、全国に広く分布している。

また、ここではそれに付随して、「泥の相撲」が行われている。

田の中で2人の男が「相撲」をとるのだが、勝敗ではなく、泥が体にたくさん付くほど豊穣に恵まれるという「年占(としうら)」の一形態であり、年頭の「予祝の神事」である。

おそらく「スサノオノミコト」と「イナダヒメノミコト」という「記・紀神話」の神の名は後から付けられたものであり、元は土地の神の交合によって豊かな実りを象徴する、「予祝の祭り」が原型であったと思われる。


「神事の起源が垂仁天皇の頃にまでさかのぼる」と主張されている「相撲行事」に、「能登羽咋(はくい)神社」の「唐戸山相撲会」がある。

この神社は、垂仁天皇の皇子を祭神としている。

生前「相撲」を好んだ皇子の霊を慰めるために、北陸七州の「相撲人」を集め、命日である8月25日に、神社に近い「唐戸山」で、「相撲会」が催されていたという。

「相撲節」の起源説とされる「スクネ」と「クエハヤ」の力比べの年代が、垂仁天皇の代に設定されていることを考えると、それが伝承の背景なのかもしれない。


寺社への「相撲奉納」は、かなり古くから各地で行われていた可能性はあるが、朝廷を中心とする国家儀礼的な「相撲奉納」の早い例としては、

聖武天皇の神亀2年(725年)、諸国が干ばつにより凶作に見舞われた際、天皇が伊勢神宮をはじめ諸国21の神社に勅使を派遣し、神明の加護を祈らせた。

その甲斐あってか、翌・4年は豊作に恵まれ、天皇は各地の神社に奉礼のための幣帛を奉り、また神前で「相撲」を奉納させたという。

          (引用ここまで)

            *****

大三島(おおみしま)の「一人相撲」の映像は、圧巻だと思いました。

貴重なビデオなので、リンクを張らせていただきました。

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             *****

           (引用ここから)


次に、考古・歴史資料の中に、「相撲」の古い姿を求めてみよう。

「相撲」に関連する考古出土物としてよく知られたものに、和歌山市八幡山古墳から発掘された「男子力士像埴輪」がある。

6世紀初頭のものとされる古墳から出土したこの埴輪は、裸身の腰回りにふんどし状の布を巻き、やや腰を落とし気味にして、両手を前へ伸べている。

岡山県から出土した、二人の男が組み討ちをしている姿を模した人形土器も、これと類似している。

その他、5世紀末から6世紀にかけての作と見られる装飾須恵器小像、力士埴輪の類が、日本各地から出土されている。


この「裸身にふんどし」という格闘の姿は、4世紀から6世紀にかけての高句麗の古墳壁画に描かれた格闘技図像にも共通して見られる特色でもある。

それは中国の「史書」に描かれている東北アジアの民俗に時々見出される風俗にも共通する。


また「日本書紀」によれば、「皇極天皇元年7月、百済より来朝した使者を迎えた際に、宮廷の健児らに「相撲」をとらせた」という。

これについては、ともすれば、百済の使者の饗応のための宮廷での催し、と理解されがちであったが、この記事には、「百済使人を宮廷に饗応す」とある一方、

「使人、宴終わりて退き、君の門を拝す」、とあることに留意すべきである。

「君」は当時在日して、小川内に居た百済の王族であり、「相撲」はその前で行われ、一方宮廷で行われた饗宴の後に、君の門前に赴いて礼拝・拝礼した」というのであるから、この「相撲」は朝廷における饗宴とは別のものであり、

使者の饗応のためでなく、在日する百済の王族の「君」のために行われたものと考えた方がよいだろう。

実は「君」は5月下旬に子を亡くしており、門前における礼拝がこのことに関わるものであるとすれば、

この「相撲」は、葬送に関わる百済の習俗に関連するのかもしれない。


この点について、考古学者の森浩一などは、「高句麗の古墳壁画に見られる「相撲」図像や、日本における「力士埴輪」の広範な分布とも合わせて、「相撲」と葬送儀礼との間には密接な関係があり、

それは東北アジアから朝鮮半島を経て、日本に至る文化の流れに沿うものだったのではないか」と推測している。


「相撲」の祖である「スクネ(野見宿禰)」がまた、埴輪制作に携わる「土師(はじ)氏」の祖とされていることを、この点と結びつける論者もある。

もっとも「相撲節」と葬送儀礼との間には、直接の関連を見出すことは出来ず、「スクネ」と埴輪制作との関係も、「日本書紀」では「クエハヤ」との力比べとは別の個所で書かれており、「相撲」との関連で考えるべきではないとする指摘もあるのだが。


さて、このように、「相撲」にまつわる習俗を、東北アジアから朝鮮半島という、いわば北方の文化からの連なりの中で説明しようとする見方がある一方で、

「裸身にふんどし」という「相撲」の姿態を、南方の習俗と結びつける見解もある。


中国・江南地方の習俗として、古くから、5月5日に「戦力の戯」とよばれる格闘競技の行事が行われていたことが、「随書」などの記述によって知られる。

この地域でもやはり「裸体にふんどし」の姿の格闘技図像が発見されている。

そしてその地域の習俗には、琉球弧状列島を経て、古くは「隼人(はやと)」と呼ばれた人々の居住した

南九州に至る、東シナ海南・東縁地域のそれと多くの共通点を持っていたとされている。


後に触れる「隼人相撲」もまた、「裸体にふんどし」の姿態で行われたと推測されている。

これらの格闘競技の、実際の形態的・技術的な様相については、知られていない。


しかし、このように「裸津にふんどし」といういでたちを鍵として、「相撲」の文化的な系統を論じようとすると、東シナ海をめぐって中国大陸から朝鮮半島、琉球弧状列島を含み、さらに日本列島へと延びる

「「裸身にふんどし」の格闘競技を共有する文化」が想定されることになる。

「相撲」を生み出した土壌をこのあたりに求めるのは、確かに有望な可能性であるようにも思われる。


こうした可能性を的確に認識することは、「日本」を「東アジア世界」の中で相対化して考え、

「相撲」についても「日本の国技」などという固有論にとどまるのではなく、文化交流のダイナミズムの中でその源流を考えるための貴重なきっかけとなるだろう。

              (引用ここまで)

                *****

テレビの相撲中継を、見るともなく見て、というか、聞いていると、すごく眠くなってきます。

ああ、平和だなあ、という安心感で、心が落ち着くのだろうと思います。

スポーツ競技としては、とてもシンプルですし、体操競技などのように、高い所から落ちるのではないか、とハラハラする心配もなく、勝った力士が負けた力士に手を貸して、助け起こしたりする情景は、わたしは好きです。

おそらく世界中にあるであろうというシンプルさも、安心感の一つだろうと思います。

小さな男の子が数人いれば、じゃれあう姿が見られますが、そういう自然さが、好ましく感じられます。


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年末から、お相撲の世界では、次々と生々しい事件が露わになって、いやがおうでも人々の耳目を引いています。

わたしも、毎日、テレビやネットで進展を追っていました。

わたしは東京・両国の「国技館」に行ったことはなく、ただ漠然と、夕方になるとテレビから聞こえてくる、のどかなNHKの相撲の中継放送を見るともなく見ていると、子どものころの思い出がよみがえってくるようです。

その記憶を辿ろうとしても、記憶はいつも同じで、「国技」と言われる催しが、変わりなく一年に何度も行われていて、髷を結って、四股を踏んだり、塩を撒いたりする、巨大な力士たち、行司の声、鳴り物の音、観客の声援、古めかしい四股名、独特の書き文字、、なんとなく懐かしいような気持ちになるばかりでした。

わたしの若い頃には、若貴ブームがあり、一気に世間に身近になったような印象はあります。

その貴=貴乃花が、今回はだんだんと焦点となってきて、まだ事件はこれからも解明が続けられるのではないかと思われます。

外国人力士たち、相撲協会の体質、貴乃花はなにを言いたいのだろう?

相撲っていつから国技になったのだろう、なぜ今相撲の世界が批判されているのだろう、と、改めて自分がなにも知らないことに気づきました。

新田一郎氏の「相撲の歴史」という本を読んでみました。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

                *****

              (引用ここから)

日本のあちこちの地域に行われていたであろう「相撲」の原型としての挌闘は、どのような過程を経て、現在見られる「相撲」のような形態に成形されていったのだろうか?

その過程は自然発生的なものであったのか、それとも何者かの意思がそこに働いていたのだろうか?


日本神話に題材をとって昭和30年代に制作された「日本誕生」という映画の一場面に、アマテラスが弟スサノオの乱暴狼藉に怒り、絶望して、天岩戸にこもり、世の中が暗闇におおわれた時、

アメノウズメの歌舞に誘われたアマテラスがかすかに開けた岩戸を、こじ開け、光を世に取り戻す役割を担った「タジカラヲ」を演じたのは、誰あろう、時の「大相撲」の人気力士・朝汐太郎(後の朝潮)であった。

「タジカラヲ(手力男)」という名称に示されているように、彼の役所は、「力持ちの神」であり、筋骨隆々の朝汐にはまことに似合いの役柄であった。


「相撲」の原義・原型が、「力比べ」にあるのであれば、「タジカラヲ(手力男)」こそは「相撲」の祖神にふさわしい存在であるようにも思われる。

ところが実際には、「記・紀神話」において、「タジカラヲ」はまことに影の薄い存在であって、活躍の場面といえば、この天岩戸の一件くらいのものであり、この神話の中にも、「相撲」との関連を見出すことはできない。


それでは、「記・紀神話」の中に表れる「相撲」ないし「力比べ」の話としてよく知られているものの一つに、いわゆる「国譲り神話」がある。

高天原の主宰神であるアマテラスは、自らの孫であるニニギノミコトに、「葦原の中つ国」を支配させようとし、

そこを現に支配している勢力である「大国主」に帰服を勧告しようと、タケミカヅチを使節として派遣した。


大国主は、従う意向を示したのだが、その子タケミナカタは納得せず、決着をつけるために、使い神・タケミカヅチに「力比べ」を挑んだのである。

出雲の国のいなさの浜(現・島根県出雲市)において立ち会った二神は、互いの手を取り合って「力比べ」をする。

しかし、タケミカヅチはいとも容易くタケミナカタの手をつかみ、投げ飛ばし、敗れたタケミナカタは遁走する。

タケミカヅチは、タケミナカタを信濃の国・諏訪の地(現・長野県諏訪市)に追い立てた。

タケミナカタはついに降伏し、服従と隠遁を約して、諏訪に祀られた。


この結果、「葦原中つ国」はアマテラスの天孫・ニニギノミコトの支配下に入ることとなったのである。

これが「古事記」が描くところの「国譲り神話」の大筋である。


もちろんこれは、今に言うところの「相撲」ではない。

「「力比べ」に勝利をおさめた側が、国の支配権を手中にする」という、いわば、国の命運をかけた決闘であり、手を取り合っての「力比べ」というその内容も、現代の「相撲」とはかなり異なっている。


しかし、この闘争の敗者・タケミナカタが祀られた諏訪社は、古くは畿内勢力の及ぶ領域の東端であり、東方の〝化外の地″に接した外縁部であった。

そのことから、「タケミナカタが追われて、諏訪に至った」という一節に、「征服者による抵抗勢力の、‶化外の地"への追放」という隠喩を読み取ろうとする見方がある。

勝者・タケミカヅチは、畿内勢力の東国進出経営の象徴的な位置づけを与えられた鹿島神宮に、「武神」として祀られているように、「外来の征服者である天孫勢力」の拡大過程を象徴する地位を与えられている。

この、「外来者による土着勢力の征服」の過程が、二神の「力比べ」という神話的表現を与えられたことの意味について、注意しておく必要がある。

この神話が形成された時代の「力比べ」(=広義の「相撲」)の形態を、なんらかの形で反映したものである可能性が考えられる。


また、この神話の、「外来の強者が土地の強者を圧伏する」という構造自体について、「遠方の「マレビト」が土地の悪しき精霊を鎮める」という民間信仰のモチーフを、「相撲」・「力比べ」を媒介に、いわば換骨奪胎し、「外来者による政府=天皇支配の由緒を語る説話」として再構成したもの、と解釈することが可能である。


もう一つ、「日本書紀」に描かれている「相撲」起源説である「スクネ(野見宿禰)」と「クエハヤ(当麻蹴速)」の「力比べ」の逸話を参照しよう。

この逸話はおよそ次のような内容からなる。


第11代垂仁天皇7年のこと、大和国当麻村に「クエハヤ」と名乗る比類なき強力な男がいた。

「クエハヤ」は、自らの力を誇り、不遜無頼の行いが多く、四方に敵とすべき強者無し、と言上げして憚(はばか)らなかった。

7月7日、このことが天皇の耳に入り、天皇は

「「クエハヤ」は天下無類の力士であると聞く。これに比すべき者はあるか?」と群臣に問うた。

すると、ある臣が進み出て、

「出雲に「スクネ」という勇士がおります。これを召して、「クエハヤ」と対戦させてはいかがでしょうか?」と言った。

そこで天皇は直ちに「スクネ」を召し、「クエハヤ」と対戦させることとした。


召しに応じて対峙した二人は、それぞれ足を上げて蹴りあったが、「スクネ」は「クエハヤ」の脇骨を蹴り、次いで腰を踏み砕いて殺してしまった。

天皇は、「クエハヤ」の領地をことごとく「スクネ」に与えた。

その後、その地は「腰折田」の名で呼ばれるようになったという。


「スクネ」は、天皇に仕えて土師臣(はじのおみ)の祖となり、天皇王族の死に際しての殉死の風を改めて、埴輪をもって代えることを建議するなど、多くの功績を残した。

学問の神として知られる道真を出した藤原氏は、その子孫であるとされている。


長谷川明氏は、説話の最後で、「スクネ」が「クエハヤ」の所領を獲得した、という点を重視して、

この説話の本質は、「ヤマト」土着の当麻氏と、「外来」の「土師氏」の間の、土地をめぐる抗争の記憶を反映した「入植説話」であるとしている。

そしてそれが「日本書記」の編纂過程で、「相撲」説の起源説話として利用されたのではないかとして、「国譲り神話」との構造的な類似性を指摘している。


ここで展開されている「力比べ」の形態は、互いに足で蹴りあうというもので、現代の「相撲」とはかなり異なり、「日本書紀」には「相撲」の文字は用いられず、「捔力」と表記されている。

しかし「類聚国史」はこれを「相撲」項の冒頭に置いて、「相撲」の起源説話として扱っている。


また二人の「力比べ」を示す「日本書紀」の原文の表現「令捔力」は、普通、「すまひとらしむ」と訓読されているように、これが古くから「相撲」の起源を語る逸話として扱われていたことは間違いない。

この部分は、本来は「力を比べしむ」、あるいは「力比べせしむ」と読んだのではないかとする説もあり、本来の読みとしてはこちらをとるべきかと思われる。

しかし、平安期にはすでに、「すまひとらしむ」と訓読され、これが「相撲」の起源として意識されていたことは重要である。


この大一番に勝利を治めた「スクネ」は、今でも「相撲」の祖、「相撲」の神様として遇され、東京都墨田区にある「野見宿禰神社」では、年に三回の「東京場所」ごとに、日本相撲協会の関係者らが出席して、例祭が営まれている。

             (引用ここまで)

              *****

そういえば、タケミカヅチとタケミナカタは争ったけれど、あれが「相撲」の始まりの形だった、と言われて、はじめて「相撲」のイメージがつかめたような気がしました。

著者は非常に慎重に筆を進めておられ、断定的なことは極力言わないようにしておられるのですが。


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          *****

        (引用ここから)

この種の「イニシエーション」は、すべての魂がその成長過程で通過しなくてはならないものである。

すべての実体(すべての魂)は、イニシエートとして、自己を解放し、神の随伴者となるという目標を達成するために、同じような墓、つまりピラミッドを通過しなければならないということである。

この教えは、イエスが弟子に語られた言葉、

「自分の十字架を負って私にしたがいなさい」、

「命を見出すために、命をすてなさい」、

という言葉に一致するのである。


しかしながら、ケイシーのリーディングは、イエスのこの「イニシエーション」には、預言の成就という意味合いがあったことを強調している。

つまりイエスの「イニシエーション」は、イエスが磔刑の後、三日三晩、墓の中にいるようになることを予示したものであり、

このイニシエーションによって、イエスは墓の力、すなわち死をも打ち破ることができるようになったのである。


多くのリーディングが、イエスを偉大な奥義体得者であると述べている。

イエスは、さきがけのヨハネと共に、今日、ギザと呼ばれているピラミッドの中で、同胞団の最終階位を授かったのである。

イエスは偉大な奥義体得者、人の子、天父に受け入れられし者だった。

リーディングは、キリスト教発祥以前の、いわゆる全盛期の神秘宗教と、イエスキリストの生涯が、次の点において連続したものであると述べている。


その点とは、

イエス自身が神秘宗教の伝統的儀式に参加したということ、

それと同時に、イエスが神秘宗教の最終目標を体現し、

それによって神秘宗教は少数の者に留まらず、全人類に対して深淵な意義を有するようになった、という点である。


ある意味で、イエスの公生涯は、いとこのヨハネの手によってヨルダン川で洗礼を受けたことと、

その後に続く悪魔の誘惑をもって始まったと言える。


ケイシーのリーディングは、ヨハネについて多くを語っている。

人々から恐れをもって語られていた親戚。

母親は、エッセネ派の祭祀たちに選ばれた。

ヨハネは、ユダヤ人の位の高い祭祀の直系であった。

更に、神殿で仕えるという祭祀の地位を捨て去り、流浪者となり、荒野の教師となったというリーディングは、ヨハネの父・ザカリアを聖所と祭壇の間で殺されたあのザカリアと同一人物であるとした。

そえゆえ、ヨハネが祭司の職を放棄したのもきわめて当然のことであったと思われる。


イエスにとって、このヨハネの手による洗礼によって、公生涯を始めたということは、イエスの目指す方向を象徴的に示した事象として、特に重要である。

その場所柄と時代背景を考えれば、イエスの行為は、既存の宗教組織から見れば、分派、さらには異端宗教を意図しているとしか解釈のしようがなかったであろう。


しかしながら、リーディングは、イエスの教えは、生活様式が完全にヨハネのそれに一致していたと主張しているわけではない。

体を浄化する方法として、ヨハネが教え、かつ実践していた極端な禁欲とは対照的に、イエスは疑念を抱かれるほど、それらのことがらに寛容であった。

またヨハネは、イエスよりもエッセネ派的であった。

というのも、イエスは律法の精神をくんだが、ヨハネは律法を字義通りに取ったからである。


リーディングの描写する洗礼は、明らかに「浸礼」であった。

というのも、イエスは川の中に立ったのでも、水を注がれたのでもないと分かるからだ。


これは、教会の教義と関係なく、一つの興味深い情報である。

しかし、その形式より、その出来事の意義が重要である。


洗礼は、イエスの「イニシエーション」の成就であった。

イエスはそこから荒野におもむき、いわゆる「荒野の試練」を通過するのである。

この「荒野の試練」の目的は、イエスが最初にしたことを再修正するためであったとされている。


つまり〝最初のアダム″としての誘惑を、今度は、〝第二のアダム″として、完全なる勝利をもって反復する必要のあったことを述べているのだ。

リーディングの述べるところによると、イエスは「荒野の試練」の後、ヨハネと会った後に、戻って来ることになる。


戻ってきた場所は、カぺナウムといわれる。

イエスのユダヤ会堂(シナゴーグ)での説教は、イザヤやエレミヤの預言と小預言者らの教えについて、そして彼らが当時の生活にどのようにそれを適応したかについて、であった。

ケイシーは、「イエスの教えと実践の中心的要素は、真理を人生に適用することにあった」と,一貫して強調している。

イエスの最初の説教に関する前述の言葉は、それに完全に一致している。


ケイシーのリーディングによると、イエスがはじめて奇跡を示したのは、ペテロの義理の母を癒した時であるが、記録に残る最初の奇跡は、エルサレムの近くと言われるガリラヤのカナで見せた、「水を葡萄酒に変えた奇跡」であるという。

このことは、ケイシー資料が、「福音書」の中でも「ヨハネの福音書」に記録されている歴史的事象を評価している例の一つである。

リーディングは、この出来事にしてもまた、他の病気治癒にしても、これらを奇跡と呼ぶことにいささかの躊躇もない。


カナでのこの奇跡は、主がヨルダン川から戻られてまもなく、ガリラヤ湖の近くに滞在しておられた頃のことである。

カナでは結婚式があった。

リーディングは、水を葡萄酒に変えたこの奇跡を、遠地より戻って来て、伝道を始めた息子に戸惑うイエスの母親の目を通して語っている。


マリアは、イエスが誕生したときの出来事、

天使・ガブリエルの告知、

いとこのエリザベツを訪れた時の不思議な体験、

更にエジプトでのことや、パレスチナ帰還途上での、尋常ならざる出来事などについて、思い巡らせていた。


「これは最初の試練かもしれない。

だってあの子はたった10日前にサタンを退け、天使から使命をいただいたばかりですもの」。

マリアはイエスがサタンを退けたことについては、既に人から聞いていたのだが、イエスにはまだ会っていなかった。

イエスのカナ行きの目的も、母と話すことであった。

なぜならマリアは、母親としての愛情から、

「この子はいろんな点で人とは違っているけれど、今度は40日間荒野で修行し、そうして、卑しい漁師の所に戻ることで、神の召命を成就することにしたのかしら。

わたしにはまだ分からないわ」と思っていたからである。


この結婚式の花嫁は、リーディングによると、エリザベツの妹の娘であった。

したがって、マリアにとってはいとこの娘である。

彼女の名前もマリアであった。


そして後日、彼女は「もう一人のマリア」と呼ばれるようになる。

彼女はイエスと弟子たちが説教を続けられるよう、物資を提供した人たちの一人であったとされる。

事実、イエスがパレスチナで伝道を行っている時に、聖なる婦人たちがそれに随行したことを示す記述が多数ある。


ともあれイエスの母マリアは、この結婚式の宴を準備するため、大切な役を受け持っていた。

そしてイエスが従者らと共にそこに現れると、イエスと弟子たちはその祝宴に招かれることになった。

花婿は、「後にイエスの従者となるヤコブとヨハネ」の兄で、ゼベダイの息子の一人であったと言われる。


リーディングによると、「ヨハネの福音書」も「ヨハネの手紙」も、正真正銘ヨハネが著したものである。

ケイシーのリーディングは、ゼベダイの息子たちは今日の言葉で言えば、上流階級の人々であって、貧しい人々ではなかった。

ヤコブとヨハネの二人が後日、イエスの伝道に加わったことに関して、別のリーディングは次のように述べている。

ゼベダイの息子たちは、マタイを除く他の使徒たちがそうであったように、今日的に表現すれば、経済的に裕福であり、そのために仕事を捨て、家を出ることができたのであるという。


またゼベタイの家では、イエスをたびたびもてなした。

またイエスが十字架につけられた後、イエスの母親の世話はゼベタイの息子ヨハネに委ねられたという。


葡萄酒が底をついたために、イエスが水を葡萄酒に変える前の様子を、リーディングは次のように描写している。

           ・・・

宴が催されるのがしきたりであった。

モーゼの律法、モーゼの慣習、モーゼの規則を守ってきた人々の習慣と伝統に従って、

特別な方法で準備されたパン。

香料をつけ、丸焼きにされた子羊などが出された。

葡萄酒をたくさん出すことも、しきたりであった。

その日は、汝らの言うところの6月3日である。

そこには野の草花がたくさんあった。

その日は日中もよく晴れていた。

夕方になっても空は晴れていた。

満月が出ていた。

かくして、葡萄酒の飲料は、いや増しに増えていった。

人々ははしゃぎ、輪を作ってダンスにうちこうじた。

これもまた、当時の慣習であった。

           ・・・

別のリーディングは、この出来事を次のように叙述している。

           ・・・

水が、主を認めた瞬間、水は赤く染まり、葡萄酒になったのだ。

覚えておくがよい。

水は、注がれることによって、葡萄酒になったのだ。

水がじっとしていたなら、いかなる葡萄酒も、この「実体(=人物)」の友人に訪れようとしていた困惑を解消することはできなかっただろう。

             ・・・

ここに登場する「実体」とは、ヤコブとヨハネの妹で、花嫁の知り合いであった。

しかし、カナでの出来事の本当の意義は、「結婚式のうたげに主の来臨を賜るという祝福」であった、と別のリーディングは述べている。

このリーディングは、心と精神と肉体との合一であるとされる人間の結婚がどれほど神聖にして意義深いものであるかについて論じている。

心と体が互いに引き合うとき、これは無目的なものではなく、目的にあふれるもの。さよう、神の栄光があらわれんがためのものである。そのことを肝に銘じよ。」と。

             (引用ここまで)

               *****

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「ゲルマンvsローマ、そして、、多様性が文化である・・植田重雄氏「ヨーロッパの祭りと伝承」」

「エハン・デラヴィの、十字架の研究(1)」

「バスク十字」と「カギ十字(卍)」・ヨーロッパ先住民族の十字マーク」

「1世紀前半のユダヤ教会堂跡、日本の調査団発見・・イスラエル・テル・ヘレシュ遺跡・「聖書考古学」」

「キリストはなにを食べていたのか?(1)・・ユダヤ教徒としてのイエス」(5)まであり

「「ユングは知っていた・UFO・宇宙人・シンクロニシティの真相」コンノケンイチ氏(1)・・無意識と宇宙」


「洗礼者ヨハネとグノーシス主義・・「ユングは知っていた・UFO・宇宙人・シンクロニシティの真相」コンノケンイチ氏(2)」

「ユダの福音書(1)・・ユダから見たキリスト」(2)あり

「クリスマス・イエスのお祝いに訪れた〝東方の三博士″は、誰だったのか?・・マギ・星の証言(1)」(4)まであり

「クリスマスはミトラ教の祭りの日・誰が誰を祝うのか?・・「マギ・星の証言」(2)」(4)まであり


「マグダラのマリアによる福音書(1)・・マリアはイエスの高弟だったのか?」(2)あり

「2012年(1)・・時を数えているのは誰なのか?」(6)まであり

「隠れキリシタンの世界(1)・・聖水サン・ジュアン様で清め、魂を込める」(5)まであり


「古代キリスト教」カテゴリー全般
「マニ・ゾロアスター」カテゴリー全般
「エジプト・イスラム・オリエント」カテゴリー全般
「アセンション」カテゴリー全般


 




引き続き、リチャード・ヘンリー・ドラモンド著「エドガー・ケイシーの、キリストの秘密」という本のご紹介をさせていただきます。

ケイシーがリーディングしたイエスの生活が描かれています。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

            *****

          (引用ここから)

リーディングによると、イエスは12才になるまで両親と共に暮らしたといわれるが、エジプトから帰ってからはカぺナウムに滞在したようだ。

しかし12才以降は、カルメル山で母親・夫と一緒に暮らしていたジュディの家で学んだと言われる。

この時の勉強は12才から15~16才の間に、時折行われた。


ケイシーのリーディングは、この傑出したジュディという女性についてかなりの情報を与えている。

彼女がエッセネ派の一グループで指導者の地位についていたということからも、エッセネ派内で女性がどのような役割を果たしていたかが推察される。

彼女の指導したエッセネ派のグループは、霊聴や夢、前兆といった霊界通信的な宗教体験を尊重したという点で、他のエッセネ派グループとは異なっていた。

リーディングは、エッセネ派の両親と聖霊によるジュディの訓練は、単に書物によるものだけでなく、エッセネ派が古来より最大の目的としてきたものと一致していたという。

「不可視の領域、未知の領域からの訪問を受けた者、すなわち人間の諸活動の中に現れる神の霊として崇拝されるものの訪問を受けた者たちの伝承された体験記録を研究すること」も含まれていた。

ここにおいて我々は、ユダヤ教に一貫して流れる深い霊性を見る。


エッセネ派の人々は、はっきりと言葉として話されたものを大切にするだけでなく、夢や幻、霊聴などの、通常の体験を超えた超自然的なものの訪問を人が受けていた時代の記録をも保管していたのだ。

またエッセネ派の慣例にしたがって、ジュディ自身、エジプトの行法、インドの行法、ペルシャおよびペルシャ周辺諸国の戒律・行法を勉強させられた。

成人してからも、彼女はこれらの研究を続けた。

というのもエッセネ派共同体での彼女の重要な役割が、共同体のために記録をつけ、それらを保管することであったからだ。


その仕事を遂行する中で、彼女はメディア人、ペルシャ人、インド人の権威者らと接触するようになる。

そして彼女自身がこれらの国の行法の優劣を見定めた結果、彼女は新しい理解に達したのである。

ケイシーのリーディングは、彼女こそ12才から16才の間のイエスに影響を与えた人物であると述べている。


彼女はヘブライ語聖書と、エッセネ派聖典の両方にあった、あらゆる預言を教えることを主眼としたが、とりわけ救世主の生涯に関する預言に焦点をあてていた。

そしてイエスの学習と修行を完成させるために、諸外国にイエスを送り出したのも、主にはジュディの働きである。

ジュディ自身、何度も天使の出現を経験したといわれるが、そのような高度な霊的体験を持つ一方で、彼女の日常生活は、物質的な事柄に対しては全く世俗的なものであった。

イエスはきちんとした教育を受けられなかったと、長い間信じられてきたが、これとは全く逆に、13才から16才の間、イエスはまずインドで、次にペルシャとエジプトで教育を受けたのである。


ペルシャでは、イエスはその国の伝統的主義に従って、肉体・精神・霊の「諸力の統一」に焦点をおいて修行を積んだということである。

イエスは、これらを教師によって試されたのだ。

これらの試験によって、志願者は神秘家たちに受け入れられるか否か、試されたのである。

これは、他国のさまざまなグループや学派でも同様であった。

このことから、イエスの教育体験はかなり広範なものであったことがうかがわれる。


それは「イニシエーション」とよばれる人格の変容過程において頂点に達したのである。

事実、この言葉は、イエスの教育課程のクライマックスに関係する用語として、ケイシーのリーディングで用いられている。


イエスは、エジプトに行く前にパレスチナに戻った。

イエスが帰郷した最大の理由は、父ヨセフの死である。

リーディングは、イエスはヨセフが死んだために、ペルシャから呼び戻され、そして「教師としての準備を完成するために、エジプトに向かった」と述べている。

この時点で、イエスの教育と、イエスのいとこである、後の洗礼者ヨハネの教育が係わるようになった。


エジプトでの訓練期間中、イエスは洗礼者ヨハネと共にいた。

ヨハネがエジプトに行き、イエスはヨハネとそこで一緒になった。

二人はエジプトの神殿、つまりピラミッドの中で、秘儀伝授者(イニシエート)となった。

ところで、リーディングによると、「聖なる婦人」の一人であったエッセネ派のソーファという女性は、彼女がヨハネを養育した一年間、幼いイエスに、ヨハネの生活ぶりや、訓練、人柄について教えることに、時間の大半を費やしたということである。

ここで言う「聖なる婦人」とは、エッセネ派内の様々な行事で会葬者として働いた者を指す。

これらの婦人の大半は結婚しなかったが、別に独身を誓ったわけではなかった。

イエスとヨハネが独身を貫いたのは、独身が高い霊性に必要であったためではなく、彼らの特殊な任務を遂行する上で、独身の方が活動しやすかったということが最大の理由であった。


このリーディングから、ヨハネはエッセネ派内においても、メシアの活動に対して、特別な役割を授かっていると見なされていたことがうかがわれるし、またイエスは幼少期より、このことを聞かされていたと考えられる。

この経路によってしばしば示されたように、エジプトにおいて多くの国々の教えが統合された。

というのも、エジプトは地球の放射活動の中心地であったからだ。

また、リーディングが、イエスがギリシャで、ギリシャ哲学者の下で勉強したという話や、あるいはユダ
ヤ人がイエスを追放した時にギリシャ人がイエスのもとにやって来て、イエスにギリシャに来てくれるように頼んだという話を否定していることも、興味深いことである。


リーディングは、エジプトでのイエスの秘儀体得(イニシエーション)は、ピラミッドの中にある墓、というか小室を、文字通り通過することが含まれていたと主張する。

この小室は、魂の墓を象徴し、翻ってこれは、「理想に対して自らを磔にし、それによって神によって成就すべきとされたものを遂行する能力を高めた」ことを示している。

つまり自己をむなしくし、父なる神とその御意志に対し、余すところなく自己を捧げること。

ケイシーによると、これこそイエスの父なる神に対する関係の本質であると同時に、イエスの全生涯と使
命の基礎であるという。

そのことが深い意味で、このイニシエーションに如実に現れているのだ。


しかしなら、このイニシエーションは、イエスのそれ以前の訓練から遊離したものではないし、またその後のイエスの修行と奉仕から分離したものでもない。

リーディングの示すところによると、ヨルダン川でイエスがヨハネの洗礼を受けたのは、「イニシエーションの通過」を成就させるものであったという。

ケイシーのリーディングと、イエスの教育・訓練や霊的修行は、父なる神に仕えるために自己を完成するためだけでなく、イエス自身が人間として必要なことを成就する上で、必要であったようだ。

つまりアダムとして下降した者が、イエスを通して上昇したことを現す最終的仕上げであったのだ。


今日のキリスト教会では、聖職にある者の間でも、また一般信徒の間でも、この「イニシエーション」という言葉に対して持つイメージにかなりの隔たりがある。

このような隔たりが生じた元々の原因はなにかというと、それは伝統的に「イニシエーション」というものを重視し、また「イニシエーション」に対し、壮大な儀式をつくりだしたフリーメーソン、薔薇十字会といったさまざまの非キリスト教を、キリスト教聖職者たちが否定してきたためであった。

敵対した一つの理由は、神学的なものであり、神人協力説、つまり救いという神の御業に、人間が協力するという説を意味する言葉を否定するためだった。

しかしもっと一般的には、これらの非キリスト教系の宗教の世俗化傾向を批判したのであり、

またイニシエーションの儀式を取り扱うことの意義を皮相的に理解したためか、あるいはその意義を疑ったために、そのような非難をしたものと思われる。

しかし堅信礼や成人の洗礼などのキリスト教の儀式の中にも、それとまったく同じ批判をまぬがれないものはかなりある、と言わざるを得ない。


いずれにしてもケイシーのリーディングは、生けるキリストの生涯と御業の中で、その「イニシエーション」がきわめて重大な出来事であったことを主張している。

この「イニシエーション」を得た時、イエスは16才であった。


         (引用ここまで)

          *****

ここでは、エッセネ派というユダヤ教の一派が、とても独立した思想団体として活動していたとされています。

また、イエスが青年時代に諸外国で古代宗教の奥義を学んでいたという話も、よく聞きます。

どちらも大変興味深い話で、もっと真相を知りたいと思わされます。

全体として、わたしはこのケイシーのリーディングに語られていることには信頼を寄せています。

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「エドガー・ケイシーの、キリストの秘密」というリチャード・ヘンリー・ドラモンド氏の本を読んでみました。

これは、エドガー・ケイシーの、キリストに関するリーディングをまとめたものです。

著者は日本の国際基督教大学、東京神学大学、明治学院大学などでも、長きにわたってキリスト教学と比較宗教学の教鞭をとっていたということです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

                     *****

                 (引用ここから)

最後の晩餐が見える。

ここに主がおられる。

晩餐に彼らが食しているのは、煮魚とライス、それにニラと葡萄酒とパンだ。

ここで使われている水差しの一つは壊れている。

取っ手のところが壊れている。

それに、口のところもそうだ。

主の衣は白ではない。

真珠の灰色で、一つに縫い上げられている。

12人の中で、一番の美男子は、やはりユダだ。

一番若いのはヨハネだ。

卵型の顔に黒い髪。

すべすべした顔だ。

ヨハネだけが髪を短くしている。

ペテロは荒っぽくて気が短い。

ごわごわした短いひげをたくわえている。

アンデレはそれと正反対だ。

やや薄いひげを、顔の両側とあごの下の方に長く伸ばしている。

唇の上のひげも、かなり長い。

着ている物は灰色か、黒っぽいものである。

腰布は、縞模様になっている。

ピリポとバルトロマイの腰布は、赤と茶だ。


主の髪はほとんど赤で、一部巻髪になっている。

しかし女性的な感じはない。

力強い目は、青色、もしくは銅のような灰色で、見通すようなまなざしである。

主の体重は、少なくとも77キロはあるだろう。

長く先細の指爪は、きれいに揃っている。

この試練の時にあっても、陽気でいらっしゃる。

裏切られようとしている瞬間にあっても、冗談を飛ばされる。


袋が空になったユダが、離れて行き、最後の葡萄酒とパンが配られる。

葡萄酒とパンを手に取って、主はすべての弟子にとって、大事な象徴をお与えになる。


主は一枚の布でできたご自分の衣を横に置かれ、腰布に青いタオルを巻かれ、畳んだものを丸めた。

まず、ヨハネの前に、その次にヤコブの前にひざまずかれた。

ペテロの前にひざまずかれたが、ペテロは、ペテロは、それを拒んでいる。

ここで主は、〝最も偉大なる者は、すべての者に仕える″ということについて話されたのだ。

その洗い桶は木製で、取っ手の無いものだった。

水はひょうたんから取ったもので、そのひょうたんの水は、広口の水差しに入れてある。

その水差しは、ヨハネの父のゼベタイの家の中に置いてあったものだ。

ついに、「すべて終わった」という、あの場面が来た。

一同は、「詩編91番」を歌っている。

          ・・・

いと高きものの隠れ家に住む者は、全能者の陰に宿る。

私は主に言う。

主はわが避け所。

わがとりで。

我が神。

私は主を信頼する。

          ・・・

主は、音楽家でもいらっしゃる。

ハープをお弾きになるのだから。

一同は、その後、あの園へと出発する。


1932年6月14日のこのリーディングは、後日、エドガー・ケイシーや彼の周囲の人々は、最も美しいリーディングの一つとして数えあげるようになりました。


ケイシーのリーディングによると、アダムとして、そして最後にイエスとして受肉した魂は、「聖書」に登場する人物以外としても受肉している。

そのイエスの過去世の名前がすべて語られたわけではないが、「聖書」以外の人物として特に重要なの
は、ペルシャの予言者ゾロアスターの父としての過去世である。

その時の名を、ゼンドといった。


またイエスとなった魂が最初に受肉したのは、アトランティス時代のことで、その時の名はアミリウスである。

リーディングによると、アミリウスとしての受肉は、アダムとしての受肉以前のことである。

しかし現代的な意味での、肉体を最初にまとったのは、アダムである。


あるリーディングは、イエスが全部で30回の受肉を経験したと述べている。

ちなみに「ヨブ記」は、イエスがメルキゼデクとして受肉している時に書いたものであると述べている。

イエスの業と影響力について、ケイシーのリーディングは、さらにもっと重要な点を指摘している。


「この実体(イエスを指す)は、「神は一つである」ということを教えるあらゆる哲学、宗教思想に、直接的、もしくは間接的に影響した。

〝天父はただ一人である″、ということを根本原理としていた時代、主は、人間と共に歩まれた。

つまりキリストの霊と合一して、主は人間と共に歩まれた」。


これはイエスの過去世における役割について問うた質問に対する答えとして与えられたものである。


ナザレのイエスとなる魂は、受肉と受肉の間、霊界にいる時でも影響力を及ぼし、特にキリストと合一を成就した後は、その力が一層強くなったということである。

霊界から直接働きかける場合、地上の歴史的活動や運動を指導する者の深層意識に働きかけたのである。


リーディングによると、このように地上の出来事にたいして、高次の霊界が働きかけるということは、ユダヤ・キリスト教に限ったことではない。

もともと、ユダヤ教にたくさんの要素が後から付け加えられたように、儒教、仏教、プラトン主義、イス
ラム教にも、イエスが与えたものと同じものが多く付け加えられたのである。

「それゆえ、これらの宗教にはすべて同じ精神が流れている」。


「聖書」に登場するヘブライの最後の予言者からイエスが誕生するまでの400年間、イスラエルにはこれといった大きな歴史的出来事はなかったと言われるが、リーディングはこのような意見に異議をとなえる。

リーディングの主張によると、イエスとして知られる、かの大いなる意識が地上に入る際に、エッセネ派というグループがあり、

その宗派の人々は、彼らに与えられた、いにしえの約束を探求することに、その約束のため、自らの人生を捧げ、身も心も捧げたのである。


彼らの目的は、メシアの誕生の経路となるにふさわしい人物を育てることであった。

かれらエッセネ派の人々は、エリアの設立した預言者の学校の直系の霊統を継ぐ者たちであったということである。

またこの学校は、ある意味でサムエルが始めたものであり、またサムエル自身はメルキゼデクの教えを継承するものであった。

おどろいたことに、リーディングによると、エッセネ派はユダヤ人であろうと非ユダヤ人であろうと、平等にメンバーとして受け入れたのである。

エッセネ派の人々は、大きな国際的団体を持っていたといわれ、その当時の律法学者たちからは、異端視された。


ケイシーのリーディングによれば、エッセネ派の集会は、すべて秘密裡に行われた。

またエッセネ派は、多くの人々、特にパリサイ派のグループからは、反逆者とか過激分子のようにみなされたという記述もある。


ケイシーのリーディングは、マリアもヨセフも、またマリアのいとこであるエリザベツも、エッセネ派であり、彼らの子供もエッセネ派として育てられたと述べている。

リーディングは、エリザベツの夫であるザカリア(エルサレムの神殿の正統派の祭祀であった)は、最初
は、エッセネ派ではなかったが、晩年には神殿で見た幻がきっかけとなり、エッセネ派の支持者になった
と述べている。

また洗礼者ヨハネの父であるザカリアと、神殿と祭壇の間で殺されたザカリアとは、同一人物であるとした。

また、ザカリアが殺された理由は、彼が神殿で見た幻を公言したためであり、またおそらくそのような公言がエッセネ派への傾倒を示したためであろうと思われる。


リーディングは、キリストの誕生がいかに準備されたかを克明に描写している。

そしてマリアが選ばれ、養育される様子と、イエス誕生の様子に至って、描写はクライマックスを迎える。

リーディングは、イエスの処女降誕を断言する。

のみならず、古代東方の伝承にすら無いことも、主張する。

すなわちマリア自身も処女降誕した。

つまりマリアの母、アンも、人間の男性を知らずして、マリアを産んだというリーディングは、終始一貫
してマリアを高く評価している。

マリアは処女懐胎によって母体に宿っただけでなく、非常に神秘的・不可思議な概念であるが、「地球に
関するかぎり、主が地上に入られた際に、マリアとイエスは双子の魂(ツインソウル)であった」と述べられている。

              (引用ここまで)

               *****

キリスト教を、秘教的に語るには、エドガー・ケイシーの言葉遣いは、まことにふさわしく、また、もはやキリスト教的であることをやめて、異教的であるということもできるかと思います。



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あけましておめでとうございます。

年末から、黒い女神・黒いマリアについて考えていたのですが、なかなか難しくて、難儀していました。

画像を張ろうと思いましたら、なにやらPCが、「動作を停止した」と申しており、画像も張れません。

これ以上、不具合が生じる前に、新年のご挨拶を投稿することにいたします。


今年も、牛歩のごとき歩みではありますが、あれこれと、考え続けてゆければ、と思っております。

どうか、引き続き、お読みいただければ、まことに幸いでございます。

皆様の、ご健康と、ご多幸を、お祈り申し上げます。


また、ブログ10年間の、うずもれている記事の見通しをよくするために、カテゴリー別に、年代順に、古い記事からリンクを張って並べて「資料集」の体裁をとってみようかとも思っております。

お探しの件に関する言葉を、「ブログ内検索」にて検索しても、それなりに出てくることが多々あるようです。


末筆になりましたが、命を与えられ、生きることを許されている、今という時を、自分にできる、力のかぎりを尽くして、生き抜いてまいりたいと、新年に、あらためて、お誓いを申し上げます。


veera拝