
チベットというと、死ぬことに非常に重きをおいて、生の終わりに死があるというよりは、生とともに死があり、死者の弔いもとても意識的にていねいにおこなわれていたようです。
とはいえ、土がかたくて、ほぼ岩でできているので、埋めることができず、鳥葬が一般的です。
肉体よりも魂を重んじるチベット人らしいと言えると思いますが、ここでは、「高僧」と呼ばれ、特別にミイラとして死後も保存される死者について語られています。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
*****
(引用ここから)
“化身”と呼ばれるような最高のラマ僧以外、チベットで死ぬすべての者は空葬によって葬される。
高僧たちは、お寺でよくみられるように、香油を塗られ、ガラス張りの箱に入れられるか、またはミイラにしてメッキされる。
この最後のやり方はひじょうに面白い。
わたしは何度もこの制作に立ち会った。
ある夕方、わたしは僧院長の前に呼ばれた。
「“化身”がまもなくその肉体を去られることになっている。
彼は今“野ばらの垣根”におられる。
君はそこへ行って,聖者をどのように保存するかを見たらよい」と、彼は言った。
そこでわたしは僧院に戻り、老僧院長の部屋に到着した。
彼の金色の霊気はまさに消滅せんとしており、そして約一時間後、彼は肉体から霊魂へとうつりかわった。
僧院長でありまた博学な人であったから、彼はバルド(死者が死後に通る道筋)を通る道案内をしてもらう必要はなかった。
さらに、私たちは〝通例の三日間"(死後のさまよいの3日間)を待つ必要もなかった。
その夜のうちに死体は蓮華座の姿勢に座らされ、一方ラマ僧たちはお通夜を続けた。
朝、最初の日の光とともに、私たちは儀式の行列をつくり、僧院の本堂をぬけおりた。
そして寺に入り、まれにしか使わぬ扉を通って秘密の地下へと降りていった。
先頭には二人のラマ僧が、遺体を籠に乗せて運んでいた。
それは蓮華座の姿勢のままだった。
僧たちの背後からは低い読経が響き、一同は赤い法衣を着、その上から黄色い袈裟をかけていた。
壁にはこれらの影が揺らめき踊り、バターランプと燃え盛るたいまつの光で異様に大きくなったり、ゆがんだりしていた。
私たちは、下に降りていった。下の秘密の場所へと。
最後に、地下20メートルほどで、封印された石の扉のところに着いた。

みんなは中に入った。
部屋は氷のように冷たかった。
僧たちは注意深く遺体を下ろし、それから2、3人のラマ僧とわたしを除いて、すべてが出ていっ
た。
数百のバターランプが輝き、どぎついぎらぎらする黄光を放っていた。
いよいよ遺体は衣服をはぎ取られ、そして注意深く洗われた。
体中の自然の穴から内臓は引き出され、大きなツボの中に入れられ、ツボは慎重に封印された。
体内はくまなく洗われた後乾かされ、そして特別なうるしがその中に流しこまれた。
これが体内で固いからを形作ることになるので、外見はまるで生きているようになるのだった。
漆で乾かし、そして固め、うつろな胴内には、形をこわさないように細心の注意を払って詰め物がされた。
腹部をしっかりさせるために、もっと多量のうるしを詰めものに浸み込ませ、堅くさせるよう中に流しこまれた。
体の外側の表面にもうるしが塗られ、乾かされた。
固くなった表面の上には、膜のように薄い絹の布地が何枚も糊付けされた。
まる一昼夜、それはそのまま動かされぬようにしておかれ、こうして最後に完全な乾燥がおこなわれ
た。
この期間が終わって、もう一度この部屋に戻ってみると、遺体はすっかり堅く、まっすぐに蓮華座を組んで座っていた。
私たちはそれを行列して下の別の部屋に運んだが、床は特殊な粉で厚く覆われていて、遺体はここ
の真ん中に置かれた。
下では僧たちがすでに火をつける用意をしていた。
注意深くこの部屋全体を、チベットの一地方から取れる特殊な塩とそれから薬草と薬石との混合物で隙間なく密閉した。
床から天井まで、部屋中に埋めものをしてから、みんな廊下の外に出て、部屋の扉を閉め、僧院のお札で封印した。
炉に点火するようにとの命令が与えられた。
まる一週間、火は下で燃え続けた。
七日目のおわりには、徐々に火は下火となり、燃え尽きていった。
おもい石の壁が、冷却するにつれて、きしりうねった。
封印をした日から11日目に、お札は破られ、扉が開かれ、彼ら僧たちは2日にわたってもろい塩の
混合物を、手で砕きながら掻き出し続けた。
ついに部屋は空になった。
真ん中の、いぜん蓮華座を組んだまま、屍衣に包まれた遺体をのぞいては。
私たちはそれを用心深くもちあげ、バターランプの光でもっとはっきり見えるようにと、別の部屋に
運んだ。
(引用ここまで・写真(下)は、著者が出版社に送ってきた近影))
*****
食料品店に行くと、「チベット産岩塩」を売っています。
海のないチベットに、どうして岩塩があるのか、これも興味深い問題です。
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「チベットの死者の書」のご紹介をしようと思っていたのですが、最初からポアのことがでてきてしまいので、良くないと思い、いろいろと見ていたのですが、この本もとても面白い本です。
出版年が、昭和32年とあり、古書ですが、わたしはいつごろ、どのようにしてこの本を手にいれたのか、ぜんぜん記憶にないのです。
気が付いたら、手元にあった、という気持ちがします。
それほど、この本にあることは、わたしにとっては、自分ときりはなせないことであるようにおもわれます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
*****
(引用ここから)
「死をみちびくために」
ある日、死をつかさどる高僧がわたしを呼びにきた。
「たましいの解放を、どういうふうにやるか、実地に教えてあげよう、ロブサン。今日、わしといっしょに来なさい。」
私たちは長い廊下を通って、すべりやすい階段をおり、トラバの部屋に入った。
「病室」であるここには、一人の年配の僧がいて、彼は私たちすべてがいつかは通らねばならぬ、あの道の戸口にいた。
彼はかすかに動いていたが、それは非常に弱々しかった。
彼の力はおとろえ、わたしが注意して見ると、その生命の金色は色あせつつあった。
どんなことをしてでも、臨終の間際までこうした状態の彼はその意識を保たねばならなかった。
わたしと同行したラマは、老僧の両手をとり、やさしくそれを握った。
「おまえは肉の苦役からの解放に近づきつつあるのだ。
老人よ、安楽の道が通れるように、わしの言葉をようく聞くのだ。
お前の両足が冷たくなってくる。
お前の生命はまさに尽きなんとし、一刻一刻その終末へと去っていく。
心静かであれ。
老人よ。おそろしいことはなにもないのだ。
生命は両足から次第に離れ、そして目の前はだんだん暗くなっていく。
死の冷たさは、細りゆくお前の生命のあとを追って、上へ上へと這い上がっていく。
心静かであれ。
老人よ。
なぜなら偉大なる実在世界へと生命が去ってゆくことは、すこしもおそろしいことでないからだ。
永久の夜のかげは、お前の目の前にしのびより、呼吸はもう、喉のところでごろごろいっている。
来世の歓喜にあふれる楽しい解放の時はもうそこに近づいた。
心静めよ、老人よ。
救いの時は近付いたのだ。
そう言いながら、ラマは、死にゆく男の胸から頭のてっぺんにかけてさすり続けた。
これはいつも、魂を楽に解放させてきた良い方法だった。
行く手の落とし穴と、それらをいかに避けるべきかについて、くりかえし語られた。
彼の道は克明に描き出されたが、この道はかつてそこを通り、来世とテレパシーによって話を続けて
いる、これらのラマたちによってすっかり地図にされていた。

もう目が見えなくなった、老人よ。
そして、息は絶え絶えになっている。
体は冷たくなり、そしてこの世の音は、もうお前の耳には聞こえない。
心安らかであれ、老人よ。
死はいまやお前をおおっているのだから。
話した通りの道を歩むのだ。
そして平和と喜びはお前のものになるだろう。
老人の霊気がなおいっそう暗くなりはじめ、ついに消え去ったときにも、さすり続けられた。
古式にのっとって、もがく魂を完全に解放するため、突然のつんざくようなひと声がラマによって叫
ばれた。
動かないからだの上には、生気が雲のような塊となって集まり、狼狽したようにうずまいていたが、
やがてまだ銀のコードによって結ばれている肉体そっくりの煙状の型に固まった。
このコードは次第に細くなって、へその緒を切られて赤ん坊が生まれ出るように、この老人が次の生
命の中に生まれ変わるのであった。コードは細くなって、ほんの髪の毛ほどになり、そして離れた。
徐々に空に浮かぶ雲のように、型はひそやかに去っていった。
ラマはテレパシーによって、霊魂の門出の案内を指示しつづけた。
「お前は死んだ。
ここにはもうお前のなにものもないのだ。
肉の絆は放たれた。お前はバルド(死後の中間世界)にいるのだ。お前はお前の道を行くのだ。
われわれはわれわれの道を行く。
命ぜられた道を続けるのだ。
このまぼろしの世界を捨て、偉大なる実在の世界へ入るのだ。
お前は死んだのだ。
お前の道を進みつづけるのだ」。
香煙は渦巻いて登り、重苦しい空気をその平和なゆらめきでしずめた。
ラマのテレパシーによるさしずの言葉だけが部屋の静寂の水面にさざなみをたてていた。
死んだ老人は長い輪廻の道へと旅立った。
おそらくこの世で彼がまなんだことは役に立つだろうが、しかも仏の世界に達するまでには、長い長
い精進をつづけるべく定められているのだ。
死体は正しく蓮華座の姿勢に座らされ、死体を処理する人間を呼びにやる一方、旅立った霊魂にテレ
パシーの指導を続ける人々が招かれた。
これは3日にわたって続けられ、その3日の間はラマ僧たち
がおうたいで勤行をおこなった。
(引用ここまで・写真(下)は、著者が出版社に送ってきた近影)
*****
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ごぶさたいたしました。
なんとか退院して、自宅に戻ってまいりました。
半年前の新聞切り抜きですが、ご紹介したくなりました。
入院して、ゆっくりした時間をすごしたせいか、こういう記事が読みたくなりました。
日本からは遠い国ですが、人間、無理をしないで、がめついことをしないで、人にやさしくすることが、やっぱり一番大切ではないかと思いました。

「おもてなし、無理しない幸せ フィジー「ケレケレ精神」」
朝日新聞 2018年11月12日
•
緑の芝生に大きな木、視界の先には海が見える。
南太平洋の島国フィジー第2の都市、ラウトカ中心部の公園で、平日の昼下がりに家族連れがくつろいでいた。
スリアシ・ブニバカルアさん、ルイサさん夫妻と4人の子どもたち。
夫婦の周りで子どもたちが遊んでいる。
長女のサロメさんが「妹は足が速い。スプリンターよ」と次女のビネさんを指すと、スリアシさんが「早食いの、な」とちゃかし、笑いがはじけた。
フィジーはスイスに本部がある調査機関「WINギャラップ・インターナショナル」の幸福度調査で、2014年と16年、17年に1位になった。
「あなたの人生は幸せですか?」という質問に、17年は94%が「幸せ」と答えた。
世界銀行によると、1人あたり国民所得(16年)は4840ドル(約55万円)で173カ国・地域中88位。
豊かさでは世界の真ん中くらいだが、ルイサさんは「私も幸せ」と言う。
暮らしを覗けば秘訣がわかるかも。
翌朝、教えてもらった携帯番号に電話して訪問したいと頼むと、「もちろん」。小さな平屋の家で迎えてくれた。
隣に住む妹一家に、あいさつがてら話をして、戻ってみると、夫妻は昼寝をしていた。
ただ、時間が過ぎていった。
「フィジー人の幸せの神髄を見ましたね。」
この国に住んで10年、フィジー人の「幸福論」の著書がある永崎裕麻さんは、解説する。
「誰でもウェルカム。でも自らのペースを変えることは無い。」のがフィジー流だという。
「日本人は来客前に掃除したり、特別にお菓子を用意したりする。でも、それはもてなしでしはな
く、自分をよく見せるためかも。
負担だから、人をよぶ回数が減る。
交流することは、幸せになることのはずなのに。」
市内で軒先に座って話していた家族も、「幸せ」と言う。
「日本では仕事がなかったら暮らしいていける?フィジーでは大丈夫」。
と2児の母。
「食べ物をあげたりして、助け合うから。一緒に楽しく暮らすんです」。
他人に何かを頼むことを、フィジーでは「ケレケレ」という。
食品や日用品がきれて、ご近所と融通し合うのは当たり前。
誰でも受け入れて助け合うから、将来を心配する必要はあまりない。
肩肘張らない「みんな歓迎」の姿勢は、そのベースにあるようだ。
職場でも、助け合いの精神は生きている。
フィジーの玄関口・国際空港の税関職員は、昨年11月に飛行機に乗り遅れた日本人の男子学生を仕事中にみつけ、自宅に泊めた。
家族もみな歓迎。
学生は2日間過ごす間に、別のフライトを手配できたようだった。
こんな人助けは、7,8人目だという。
「助けることで自分の気持ちも前向きになる。だからハッピーになる」。
元陸軍兵士は、笑いの効用を説く。
1989年、国連平和維持活動でレバノンに派遣された時、フィジーの兵士は「銃を持っても笑顔が絶えない」と評判だったという。
フィジーは敵と戦っていても、笑顔さ。これは冗談だけど。」
笑顔とジョークは人を幸せにする。
「カバ」も欠かせない。
胡椒科の木の根の粉を水に溶かし、盃で回し飲みする風習だ。
鎮静効果があるといい、リラックスする。
昔は歓迎の儀式だった。
だが今はさまざまな場で楽しむ。
「酒は人を騒々しくして、けんかも生むけれど、「カバ」はみんなをひとつにし、平和にする。
取材の後、翌日の夕食に誘われた。
当日午後6時半開始のはずが、妻たちが料理をはじめたのは午後7時。
ご近所持ちよりディナーが始まったのは、午後8時だった。
「これがフィジータイム。」とエティカさん。
夜はゆったりとふけた。
・・・・・
吉岡政徳・石森大知・編書の「南太平洋をしるための58章」という本を読んでみました。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
*****
(引用ここから)
フィジーの首都スヴァ。この町を歩いていると、はてさて自分は今いったいなんという国にいるのだろうと心地よい戸惑いをおぼえることがある。
南太平洋大学はこのような環境にメインのキャンバスを置いている。
この多文化的環境こそ、大学の理念をあらわすものだといえるだろう。
わたしがキャンパスへ出入りしはじめてすぐのころ、あるメラネシア系フィジー人の女の子と親しくなった。
フィジーの観光都市ナンディ近郊出身である彼女は、5年間を教育学の専門学部で過ごし、いまはある政府機関で働く前途有望な若者だ。
あるとき彼女は大学での経験を次のように話してくれた。
「わたしは南太平洋大学で、とても大きなものを得ました。
それはわたしのアイデンティティにかかわってくる話です。
ナンディで育ったということもあるだろうけど、私はそれまで、フィジー人というのは耳に花をさして、「ブラ!」と観光客に笑うことだと思っていた。
あるいはフィジーの儀礼をちゃんと覚えて、フィジー料理をきちんとつくれることだと。
しかしフィジーの歴史は、この小さな島にとどまるものではないと今は思っています。
先祖たちはこの大きな海を渡ってトンガへ行き、サモアへ行き、クック諸島へ行き、私たちはこの壮大な歴史の中で生きているのですよ。
知っていますか?わたしの親友はインド人とサモア人なんです。
(彼女は下宿先でインド系フィジー人、サモア人の女性らと同居していた)
南太平洋という大きな地図を想像できるようになったこと。
これがわたしの大学生活で得た最大のギフトとだと思っています。
(引用ここまで)
*****
同じく同書より。
新聞記事にも紹介されていたカバという飲料についての記載がありましたので、ご紹介します。
これはしかし、今の日本では、脱法ハーブになり、試すことはできないようですが。
*****
(引用ここから)
「アフター・ファイブの楽しみ・都市部におけるカバ・バー」
首都のポートヴィラは、人口が45000人あまりと小規模ではあるが、地元のメラネシア系の人々をはじめとして、ヨーロッパ系、アジア系の人々が行き交う国際色豊かな町である。
しかしメインストリートを中心とした繁華街は、店が閉まり、日が落ちてくると急速に閑散とした状態になる。
この閑散とした繁華街を尻目に、山の手へと歩いていると、そこには住宅地が広がっている。
帰宅した人々が夕食を食べ、談笑している様子をうかがい知ることができるが、同時にどこかに向かうために、連れだって歩いている人々が意外にいることに気が付く。
彼らは暗い夜道を歩きながら、軒先に電球をともした家があると、そこへ入って行くのである。
よく見ると暗い住宅地の中にこうした電球の明かりがちらほらと点在している。
これがカバを飲ませるカバ・バーなのである。
バヌアツのカバは、ポリネシアで一般的なカバとは製法が異なり、水をあまり混ぜず、カバの根をつぶして、少し水を混ぜた後、樹液を絞り出すという作り方をとる。
冠婚葬祭などの折にカバを飲むことが一般的だった。
ヤシの殻の器に入ったカバを顔に近づけると、目がチカチカする。
匂いを嗅ぐと、吐き気がする。
だから目を閉じて、息を詰めて一気に飲む。
体が宙に浮くような、ふわふわとした酔いの状態になる。
しかしアルコールとは違って騒ぐ雰囲気にはならず、とてもおだやかな心境になり、静かに酔いにひたる。
しばらくしたら、酔いが冷めてくる。
その頃には、再び飲む番が回ってくるのである。
都市部でのカバは、村落のそれより混ぜる水が少し多い。
その分薄くなる。
村落のカバはそれぞれの島によって味も製法も異なる。
都市部では平均化した味が好まれるようになり、その結果、のど越しが水のようなカバが一番好まれることになる。
一杯大体100円程度だが、4,5杯と飲み進んでいく。
しかし次の日までおいておけないので、その日売れるであろう量だけ作るので、それがなくなったら店じまいということになる。
バーの内部はいたってシンプルだ。
奥にカウンターがあり、両側の壁を背にしてベンチがしつらえてある。
それ以外は椅子もテーブルもない。
カバを受け取ったら一気に飲み干す。
店内は薄暗い。
というのは、カウンターにアルコールランプと一つ置いてあるだけだからである。
屋内では電灯をつけないのが、カバの原則である。
アルコールランプの光は柔らかいが暗い。
それがおいてあるカウンターでは様々な作業をすることができる程度に明るいが、それ以外の店内では人の顔がはっきりと分からないくらい暗い。
こうした雰囲気は村落のそれと同じである。
(引用ここまで)
*****
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おもてなし、無理しない幸せ フィジー「ケレケレ精神」
朝日新聞2018・01・12
・・・・・
緑の芝生に大きな木、視界の先には海が見える。
南太平洋の島国フィジー第2の都市、ラウトカ中心部の公園で、平日の昼下がりに家族連れがくつろいでいた。
スリアシ・ブニバカルアさん、ルイサさん夫妻と4人の子どもたち。
夫婦の周りで子どもたちが遊んでいる。
長女のサロメさん(13)が「妹は足が速い。スプリンターよ」と次女のビネさん(11)を指すと、スリアシさんが「早食いの、な」とちゃかし、笑いがはじけた。
フィジーはスイスに本部がある調査機関「WINギャラップ・インターナショナル」の幸福度調査で、2014年と16年、17年に1位になった。
「あなたの人生は幸せですか?」という質問に、17年は94%が「幸せ」と答えた。
世界銀行によると、1人あたり国民所得(16年)は4840ドル(約55万円)で173カ国・地域中88位。
豊かさでは世界の真ん中くらいだが、ルイサさんは「私も幸せ」と言う。
暮らしを覗けば秘訣がわかるかも。
翌朝、教えてもらった携帯番号に電話して訪問したいと頼むと、「もちろん」。
小さな平屋の家で迎えてくれた。
隣に住む妹一家に、あいさつがてら話をして、戻ってみると、夫妻は昼寝をしていた。
ただ、時間が過ぎていった。
「フィジー人の幸せの神髄を見ましたね。」
この国に住んで10年、フィジー人の「幸福論」の著書がある永崎裕麻さんは、解説する。
「誰でもウェルカム。でも自らのペースを変えることは無い。」のがフィジー流だという。
「日本人は来客前に掃除したり、特別にお菓子を用意したりする。でも、それはもてなしでしはなく、自分をよく見せるためかも。
負担だから、人をよぶ回数が減る。
交流することは、幸せになることのはずなのに。」
市内で軒先に座って話していた家族も、「幸せ」と言う。
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と2児の母。
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他人に何かを頼むことを、フィジーでは「ケレケレ」という。
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職場でも、助け合いの精神は生きている。
フィジーの玄関口・国際空港の税関職員は、昨年11月に飛行機に乗り遅れた日本人の男子学生を仕事中にみつけ、自宅に泊めた。
家族もみな歓迎。
学生は2日間過ごす間に、別のフライトを手配できたようだった。
こんな人助けは、7,8人目だという。
「助けることで自分の気持ちも前向きになる。だからハッピーになる」。
元陸軍兵士は、笑いの効用を説く。
1989年、国連平和維持活動でレバノンに派遣された時、フィジーの兵士は「銃を持っても笑顔が絶えない」と評判だったという。
フィジーは敵と戦っていても、笑顔さ。これは冗談だけど。」
笑顔とジョークは人を幸せにする。
「カバ」も欠かせない。
胡椒科の木の根の粉を水に溶かし、盃で回し飲みする風習だ。
鎮静効果があるといい、リラックスする。
昔は歓迎の儀式だった。
だが今はさまざまな場で楽しむ。
「酒は人を騒々しくして、けんかも生むけれど、「カバ」はみんなをひとつにし平和にする。
取材の後、翌日の夕食に誘われた。
当日午後6時半開始のはずが、妻たちが料理をはじめたのは午後7時。
ご近所持ちよりディナーが始まったのは、午後8時だった。
「これがフィジータイム。」とエティカさん。
夜はゆったりとふけた。
(引用ここまで)
・・・・・

理性というものは、ほんとうは犯罪的なのではないかと思う。
いわく政治。
いわく経済。
いわく倫理。
たぶんそれらは皆、違う。
隣にいる人が、最高の人なのだ。
たとえそれが殺人犯でも狂人でも売春婦でもだ。
ソクラテスがくしゃみをしているかもしれないが、人類は道を間違えた。
人類も蝶のように、いのししのように生きるべきなのだ。
理性というのはおそらく犯罪的だ。
犯罪と呼ばれているものよりも犯罪的なのだ。
こどもが幼稚園の時、二人ずつ並んで手をつないでいた。
先生は「ペアさん」、と呼んでいた。
それは偶然の組み合わせなのだけれど、なにか神秘的だった。
ペアさんがどこかに行ってしまうと、先生はすぐに気が付いて、「どこにいるのかなあ?」
とみんなで探した。そういう、
そういう、共同体としての、一人一人が感じる"みんな”、というものが、ほんとうにほんとうに大切なのだと思う。
上の写真は、イスラム教徒のお守り。
悪意のある「邪視」から身を防ぐという。
ムハンマドの娘・ファティマの手をかたどったものといわれ、「ファティマの手」と呼ばれる。
イスラエルからの直送品。
わたしはまだ、入院中で、今日は久しぶりに自宅に数時間いる許可をもらいました。
有難いことに、ログイン状態が続いていた。
まる1月ぶりになってしまったけれど、なんとか、記事の更新をさせていただきます。
言葉が足りなくて、誤解をうみそうだけれど、わたしがいつも思い、考えていること自体です。
中沢新一なんかがいつもいっていることと近い。
今月末までには退院します。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
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4月末に母を亡くしました。
18年に及ぶ介護、というか、母への心尽くしが、わたしにとってあまりにも重かったためかと思いますが、
その後どうしても食事がとれず、食べても消化できなくなり、医師により、入院を勧められました。
しばらく入院してまいります。
今は、呼吸すらも、変な感じで、声が出なくなるのではないかという気もします。
このブログは、わたしにとってとても大切なものなので、退院したら、すぐに続けたいと思っておりますが、
機械音痴のわたしは、このブログのパスワードを忘れてしまいまして、現在はログイン状態なので、継続できているのですが、一度、一定時間がたつ、などの理由で、ログアウトの状態になってしまうと、ブログに投稿できなくなります。
その理屈までは分かるのですが、どうしたら良いのかわからないまま、なんとかやってきましたが、この度入院すると、もしかして、ログアウト状態になったら、復旧までに、さらに時間がかかることが予想されます。
たいへん申し訳ありませんが、なんの更新もされていない場合にも、わたしは継続の意志を持って対処している、と、どうぞ思っていてください。
それでは、再びお目にかかれます日を楽しみにいたしております。
ブログの更新作業ができない場合には、更新ができるようになるまで、「コメント」欄を利用して、発信を続けようかと思います。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
写真は、モンゴル草原です。

10代、永遠に続くかと思われた人生。
59才の今、静かな時が訪れた。
未来を心配する気持ちがなくなった。
わたしのメールアドレスの一つは英語でミイラなのだけれど、幾世も、死への同化にかけた記憶がある。
今世は家族を持ち、親族の身元引受もやっていて、晩節を汚さないようにしてあげたいなど思い、世間に介入しているが、それだけだな。
世間さまを悪しざまに言うのは好まない。
世間さまあっての自分だ。
人は互いに照らしあって生きている。
星が見えるのは空だけではない。
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「右肩が下がってゆく時の生きる道・・鷲田清一氏著「しんがりの思想」(1)」(3)まであり
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人の生き方と、人の生き死にについて、語られたもろもろが、文化だ。
わたしが看板にあげているのは、「「インディアン」その他先住民族の文化の叡智を分かち合う」ということなのだけれど、
時に、いやになる。
わたしが若いころからそうであったように、インディアン文化は、商業主義化されすぎているように思う。
それは、たとえば、アイヌ文化にたずさわっている人には、「アイヌ文化の商業主義化」が耐えきれないであろうことと同じだ。
他の経済からすれば、何千万分の一ほどの、わずかなことであろうけれど。。
それでも、誇りある人々にとっては、おどろかざるをえない屈辱、であると言える。
むかし、10才くらい離れた恋人がいて、その人との生活は静かだった。
朝、紅茶をいれて、パンをトーストして、、、窓辺で、静かに迎える一日。。
わたしは、その人のからだも顔も愛していて、手をすべらせては、全身をなぜた。
窓の外からの音以外、何の音もしない。
何の不足も、なかった。。
インディアンの問題というのは、どういう問題なのだろうか?
北米の先住民の文化と人権。
語り継がれるべき、すぐれた文明。
先史時代にもつながる文明である。
アトランティス時代からの関連を語る人もいる。
わたしは、これからも、わたしにできるかぎりのことをするつもりだけれど、わたしの日常とつながる先史文明、ということを心の柱としたいと、改めて思う。
そして、それは、今までと、たいして変わらないであろう、という確信がある。
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「青木やよひ著・「ホピ族と兵役拒否の思想」を読む」
「青木やよひ著・「ホピ族と兵役拒否の思想」を読む」再掲
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「爆笑問題vs中沢「憲法9条を世界遺産に」(1)・・言葉は世界を変えるためにある」(3)まであり
「身の丈に合った世界と、身の程を知った生活を作れるか?・・「熱い社会」と「冷たい社会」(3)」(1)~(2)あり
「アイヌの作法・・藤村久和「神々と生きる人々」(1)」(3)まであり
「小さな声を聞いていたい・・むつまじく在るためには。。」
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「チベットの死者の書」の資料は集めているのですが、実母の危篤にあり、分析・記述することができません。
実母の死にあたっては、自然死を選択しました。
今まで、何回も入院しては、老人ホームに戻るために、わたしは命をけずって努力してきました。
なぜなら、介助あり・無しありますが、口から食事をとれないと、老人ホームは受け入れてくれないからです。
胃ろうという選択もありますが。
娘が母に、なんとか、自分で食事をとれるよう、食べさせてあげ、自分で食べられるよう、心をくだいて協力する、ということは、人生のフィルムを逆回転させて見るようなものです。
かつて(前世)、わたしは、、おそらく、父母に、歓喜を持って誕生を受け入れいられ、この世に生を受けました。
そして、母の乳をふくみ、寝息をたてるわたしは、、おそらく、父母の間で、たいせつに見守られたのだとおもいます。
それ以上のことは、もう、人生で、いらない、とすら思います。
ただ、感謝ですし、無力なわたしをゆるしてほしいです。
もう10数年お世話になっている老人ホームでは、「看取り」を希望したら、「〇〇さんの最期なら喜んで看取らせていただきます」と、二つ返事でご了解をいただきました。
担当ドクターの了解も得ています。
ですから、わたしが、母ののどをしめて、殺そう、というわけではありません。
もう、水も飲めなくなって、8日になります。
夜が明けたら、9日目です。
救急搬送していただいて、息を吹き返した10日前に、母とは、ちゃんとお別れのご挨拶を、互いにしあいましたから、あとは、苦しまないで、その時をむかえてほしい、と思うだけです。
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「チベットの死者の書」という本を初めて知ったのは、うんと若い頃でした。
わたしが持っているのは、初版1974年とありますが、わたしが手にしたのはもう数年、後のことでした。
この本は、非常に手ごわいので、なかなか上手に説明はできないのですが、「精神世界」というジャンルが日本の文化に登場した最初の時には、この本は中心的な位置を占めていた、と言うことはできるのではないかと思います。
そしてもちろん今も、仏教書のコーナーにも、スピリチュアル系のコーナーにも、心理学のコーナーにも、大学の先生が訳し直したものや、解説をしたものや、仏教研究家の方が書いたものなどが、並んでいます。
わかりやすい説明としては、「心理学者のユングが、大絶賛した思想書だ」と言うと端的だと思いますが、
歴史的にどのような経緯で、この本が書かれ、英語に翻訳され、ドイツ語に翻訳されたり、日本語に翻訳たりしてされてきたのか、
を辿ることは、もう人類史全体を旅するようなものであると言える、とすら言いたいと思うほど、わたしにとっては、思い入れが深い本です。
この「チベットの死者の書」によると、人間は、死ぬ時に、意図と知識を持っていれば、自分の死を認識し、さらに、輪廻をするかどうかを選ぶこともできるということです。
その旅は、死後49日続き、新しい子宮に入る旅が続く。
しかし、新しい子宮に入らない、という選択をすることもできる。
そのように、強い意思を持って選択すれば、輪廻の輪から抜けることができる。
本には、死ぬ時、死んだ直後、死んで数日、人の意識がどのような旅を行うかが、チベットの文化の言葉で力強く書かれています。
そして、目指すのは、二度と再受肉してこの世に生まれない、ということを、しっかりと考えながら、死出の旅路を歩むべきであり、歩むことができる、と書かれ、そのための細かい技法が述べられています。
エジプトの「死者の書」は、死後には、現世とよく似た世界があり、そこに到達するために、まわりの人々は、死体をミイラとして、いかに保存するかを研究しましたが、
「チベットの死者の書」は、現世、および、現世に似た来世、輪廻、どれも否定するべきであると考えられています。
この本は、チベットでは、広く知られており、家族が死ぬ時には、枕元で、この本を死者の耳元で大きな声で読んできかせるという風習があるそうです。
日本にもある、「まくら経 」というものが、いかに由緒ある伝統であるか、チベットの仏教が、日本にも深く浸透しているのだ、と思うこともできます。
日本の、49日という儀式そのものをかえりみる機会を与えてもらえます。
今日は、ここまでで終わりにします。
続きは、追って、投稿したいと思います。
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