御無沙汰しております。

あっという間に毎日が過ぎていっています。

ふと、感じたことがあったので書いておきたいと思います。

 

人生で恐らく初めて、”生きていたい”と思っている自分に最近気付きました。

 

子どもの頃から、何かあっても

「楽園が来るから」

「復活があるから」と教えられました。

 

受験を経験することはない。

成人することはない。

老化を経験することはない。

と教えられていたため、大人になった自分を想像することがほとんどありませんでした。


交通事故にあったり、大きな病気になって手術が必要になったりした時、

輸血が必要なほど大変な状況であれば、死を選ぶしかないと教えられ・・・。

 

自分の命を隣人のために差し出すことが最高の愛なんだと教えられ、

会衆の誰かのためにいつでも命を差し出す覚悟を持っていろと教えられ・・・。

 

迫害がある。殉教するかもしれない。そのための心構え。備え。

決して秘密を洩らさないように。

迫害、拷問に負けそうになって仲間の情報を話してしまいそうになった時は、

「舌を噛んで死ぬしかない」と。その覚悟を持っていろと。

もちろん「大丈夫。復活があるから。」とのお決まりの台詞がついてくる。

(実際は、舌を噛み切っただけではなかなか死ねないらしいですが…。)

 

どれくらい舌を噛んだら死ねるのか、けっこう本気で血が出るまで噛んでみて、

「あ、本番ならいけるかも」なんて思っていた子どもの頃の私。

今思えば、狂気の沙汰としか思えない。

 

そんな子ども時代を送っていた私にとって、

死はとても身近なもので、

自分の命はとても軽いものだったのだと最近になって気付きました。

 

決して”死にたがり”だった訳ではありません。

でも、今死んでも復活がある。

そう教え込まれていると”今の”命の重要性を感じなくなるのかもしれません。

生きることへの執着がなくなっていくのかもしれません。

 

主人と出会って、

本当に大切にしたい人が出来て、大切にされることを知って、

子どもを産んで、

本当に命がけで守りたいものが出来た時、

私は、ようやく自分の命を大切だと思うようになったようです。

今なら主人や子どものために死ぬことではなく、一緒に生きていく方法を探します。

 

守りたい人を守るために、

私がいなくなったら本気で悲しんでくれる人のために、私は生きていたいです。

一緒に笑い合って過ごしていきたいです。

 

きっと普通の人にとっては当たり前の感情だと思います。

でも、私にはその感情が抜け落ちていたようです。

 

”生きていたい”と思っていることに気付いた時、何故だか泣けてきました。

子どもの頃の自分を抱き締めてあげたいと思いました。
将来の希望に満ち溢れているはずの時期に、「死を身近に感じなくていいんだよ。」と。

「死を怖いものだと思っていいんだよ。」と。

声をかけたいと思いました。

 

今、少しずつ自分の中でJW時代のことが消化出来ていっているのかもしれません。

 

これは、私の感覚や親の育て方も関係していることなので、

JWとして育てられた人全てに当てはまるものではありませんし、

最近はJW内でも育て方が変わってきているようですが、

どうかJW内で育つ子どもたちが、

私のような思いをしないように心の底から願います。