集会や奉仕に参加しなくなって早数年。
もうJWとは関係ない生活を送っているはずなのに、JWが染みついていることをほぼ毎日のように感じさせられる。

 

子どものいろいろな行事のたびに、「私の時は…」と子どもの時のことを思い出す。

何かあるたびにJW的思考が頭をよぎってしまう。

もちろん、子どもを見ていて自分の子どもの頃を思い出すこと自体は自然なことだと思う。

 

親子でJWを離れた友達が、同じように離れたあとで感じる”親と自分の根本的な違い”について話してくれた。

親(一世)は元々一般的な生活を送っていたからか、いわゆる”普通の”生活に馴染んでいるのだと。

季節ごとの行事のたびに苦い思い出が浮かぶ二世と違って、「私が子どもの頃はこんな風にしたわ~」と、”楽しい”思い出が出てくるのだと。

「ひな人形の時期はいつもおじいちゃんが~」

「クリスマスの時はいつもここのケーキを買ってもらってた。」

「お正月はみんなでお着物を着て挨拶まわりをして、初詣は○○に行ったのよ。」

「誕生日の時はね~」

「七夕の時はね~」

「幼稚園でね~」

などなど。

 

幼稚園なんて行かせてもらえなかった。

ひな人形?クリスマスケーキ?初詣?

学校のお誕生会には証言をさせられ、もらった誕生日プレゼントは返してこいと言われ・・・。

枚挙に暇がないほど苦々しい思い出ばかり出てくるのに、それを強要してきた親は嬉しそうに子ども時代を語る。

 

「それ。JW的にはアウト。」笑いながらだけど、何かあるたびに思わず口から出てくる言葉。

親からは「あ。そっか。考えもしなかった。」と返ってくるそうだ。

JW的思考が出てくる時、物心つく前からJWとして育てられたために細胞にまでJWが入りこんでいるのかと感じる。

大人になってからJWになった親には決して分からない感覚。

 

親と一緒に離れられたこと自体は嬉しいし、「変な育て方をしてしまってごめん。」と一度しっかり謝られたし、もう蒸し返す気はないそうだけど…。

それでも、楽しそうに嬉しそうに子ども時代を語っている親を見ると時折黒い感情が出てくるって。

孫に「ばあばの時は~」と話せることが羨ましく妬ましく思うことがあるって。


雀百まで踊り忘れず・・・。

本当の意味でJWから解放される時なんてこないのか。

「一緒にリハビリだね。」そう寂しく笑いあった。