前の記事でも書いた中村先生の講座での旧前川邸の隣の土地に7階建てマンション建設反対運動の経過説明の件
いくつかの新聞で記事になっている模様です。
さて、中村先生の講座。
文久3年2月23日に起こった足利将軍木像梟首事件の正にその日に、浪士組が京に到着したという部分の史料を読みました。
浪士組の宿舎としてあてがわれた八木邸や旧前川邸のある壬生の地。
中村先生は御土居の研究もされています。
御土居は豊臣秀吉が作った京を守る防壁として作った土塁とその外堀のこと。
この御土居に囲まれた地域を洛中、外を洛外と区別します。
壬生の地は端っこの方ではありますが洛中であります。
ここで、中村先生が、「壬生のあたりにもかつては大名屋敷もたくさんあったが、もっと東側の方に徐々に移転していった」というおっしゃったのですが、なんでやろう?と疑問に思いました。
壬生のあたりって二条城に近いのになあと。
知識がないので家に帰って調べました。(笑ってください、その程度に知識がありません)
二条城は幕末の第14代将軍徳川家茂上洛のために改修されるまで使われずに放置状態?だった?
京都所司代のお屋敷が二条城の北側にあったみたいですけれども。
そんなのを調べていてふと、1年くらい前に見た「ブラタモリ」を思い出した。
#142 京都御所「天皇の住まいはなぜこの場所だった?」編
元々、平安京が作られたときの禁裏は今の場所ではない。
平安京は元々今の千本通をど真ん中にした都だった。
碑を見た記憶があるのだけど、正確な地点が思い出せないダメな私。
ブラタモリでは、天皇の御所がある時期から転々と移動し、最終的に現在残っている場所で固定したのは何故かという内容だった。
御土居で囲まれた部分というのは、ざっくり言うと平安京の東側、いわゆる左京部分だけを囲んだようなそんな感じ。
何故、元々の右京側が除かれたのかというと、そこに流れる川の性質の関係で水害が多い土地だったからとブラタモリで言っていた。
それで徐々に人々は東側に移り住み西側が廃れてしまって田畑ばかりになり、御土居の範囲から外されてしまった。
私たちが京の都だと思っているのは、かつての平安京の約半分の大きさでしかない。
家にある幕末の地図を改めて確認する。
定価は1600円(税別)。
文久二年の地図の上に半透明の紙で現代地図を重ねてあるなかなか面白い地図です。
これで見ても壬生の八木邸や壬生寺あたりはギリギリ洛中ではあるものの、周りは田畑ばかりだったことが分かります。
そして壬生の真南の方には、田畑の中に花街で有名な島原がありました。
壬生のことをもう少し調べたいなと思いググったら、「壬生」という地名は日本中にわりとあるということを知り、ということは「壬生」という言葉は何か土地の特性を表す言葉じゃないのかなと思って調べたら、簡単に分かりました。
「壬生」は、元々は「水辺」、低湿地を現わす言葉だったんですね。
知りませんでした。
壬生菜という水菜によく似た京野菜がありますが、低湿地である壬生でたくさん作られていた野菜なので「壬生菜」と呼ばれているのですよね。
ということで、洛中とはいえその端っこの畑に囲まれた場所にある郷士の家を、浪士組は最初の滞在場所としてあてがわれたのですね。
洛中なのに周りのほとんどが田畑であり、土地の名も「壬生」。
基本的にあまり地盤のよろしくない地域の可能性がありますね。
やっぱ、そんなところで、家の隣に七階建てのマンション工事なんてされたら大変だろうな。
地盤を固める工事もありそうだし、その振動で旧前川邸を始めとする周りの家がだいぶ傷むだろうと心配です。
しかし、最初マンション建設の話を聞いたとき、せいぜい三階建てくらいだろうと思っていたので、七階建てと聞いてめーっちゃくちゃ驚いてしまいましたよ。
そもそも旧前川邸のあたり、どうやって工事車両が入るのでしょうか?
あの道から七階建てのマンションの建設資材を積んだトラックとか入れるのだろうか……。
中村先生も「消防車が入れない」とおっしゃっていましたし。
引越し屋さんでも引越し先の前面道路の巾は絶対確認しはるじゃないですか?
大きいトラックが入れるか入れないかで値段変わりますよね。
地盤がそう強くはないであろう場所。
緊急車両が入れない場所。
そんなところにそんな大きなマンション建てるのは、やっぱあかんよねえ……。