はい。大好きです。舞台の中で一番好きです。
でも長くそういうのを楽しむ余裕がなかった。
お金とか時間の余裕というより
自分が楽しいと思うことをして
自分のメンタルに「栄養」を与えたいと思うようになれる
「心の余裕」が長らく全く湧かなくて。
いろいろとあって、気持ちが上向いて
またミュージカルを見に行く元気が出てきました。
最近はミュージカル刀剣乱舞にどっぷりはまっています。
特に年末のLIVEが毎年の楽しみになりつつあります。
去年の年末から今年の1月にかけての「歌合乱舞狂乱」も参戦しました。
今年の年末もあったらいいな。楽しみにしています。
それもそうなんだけど
春の刀ミュの新作のチケットが取れなくて泣いてます。
一回分だけでもチケット当たって欲しい。
祈っています。
さて、ブログネタに関することはここまで。
ここから先は「歌合乱舞狂乱」に関することです。
長い記事なので
めんどくさいと思われる方はここでさようなら。
そして思いっきりネタバレを含んでおりますので
ご注意ください。
また、単なる一人の観客の思ったこと、考えたこと、感想でしかありません。
その点をよくご理解の上、お進みください。
では。
もともと公式からネタバレ禁止令が出ていた今回の歌合乱舞狂乱。
そして先日大千秋楽を迎え、ネタバレ解禁となりました。
ライビュは、どこの場面の誰をどう切り取ってくるかドキドキしながら観ました。
福岡で初見、そして大阪全通しましたが、アリーナツアーは見え方が席の場所によってかなり差があるもの。
それ故、今回は初見ではいろいろと思うところもありましたが、結局最終的にはとても楽しかったなあと思えるようになったのでよかった。
11月24日長野からスタートして丸2か月、先日東京で終了。
大千秋楽まで怪我などでキャストが誰一人欠けることなく無事に終わりよかったと思う反面、本当に終わってしまったんだなあと思うと寂しい。
でもデイレイ配信が始まったからまだ完全には終わってはいないですね。
それよりも、内容に関して公式から緘口令が敷かれていたことで、公演内容や台詞の意味がよく分からなかったなあと思ってもネットでどなたかに教えを乞うことも出来ず、デイレイ配信を繰り返し見て聞きなおしてやっとわかったことが沢山あって、そういう意味ではデイレイ配信が始まって、これからまた新たに「歌合」が始まったような気もしています。
とりあえず、和歌はライビュで娘と二人でしっかりと確認しました。
万葉集と古今和歌集から交互に選ばれていました。
太古の昔を思わせる強いリズムを刻む踊りで幕が上がる「歌合乱舞狂乱」
古今和歌集、仮名序の内容に沿った鶴丸の言葉。
「生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」
「さあ、歌え。さあ、遊べ」
「神々の遊び」という言葉があるけれど、日本の神道では「神遊(かみあそび)」とは雅楽のこと。
神の前で音楽を奏で歌い踊ることを指す。
そして神楽歌の「昼目歌」の歌詞がまるまるそのまま入った歌が歌われる。
いかばかりよき業してか天照るや ひるめの神をしばし留めむ しばし留めむ
・どのように良いことをしたら、天照大神にしばし留まっていただけるでしょうか
昼目歌は新天皇が即位して初めての新嘗祭である大嘗祭のときのみに歌われるものだということですから、まさに一世一代の神楽。
すごいね、令和元年という年ならではの演出だったということですね。
忌火絶やすことなかれ。
・忌火とは神道では「清浄な火」のこと。最も重要な神事の際に捧げる神饌の煮炊きに使う。
神道の雰囲気満載ですね。
こころのままに神の前で歌い踊る「歌合乱舞狂乱」が始まります。
和歌①
「天地の神を祈りて我が恋ふる 君い必ず逢はざらめやも」 (万葉集 3287 よみ人知らず)
・私が天と地の神々を祈って恋焦がれるあなたに逢えないでしょうか、いえ、きっと逢えることでしょう。
碁石の音が過去の記憶にあるなつかしい何かの音に似ている、なんだっただろうかと気にかかる石切丸だが、やがてお百度参りをする人々が踏みしめる玉砂利の音だと気付く。
石切丸を所蔵する石切劔箭神社はお百度参りで有名な神社だからそれを持ってきたのはすぐわかったが、和歌自体が相聞歌つまり恋の歌なので???となってしまった。
調べたら元歌があって、引用されたのはその返歌である。
(元歌)
玉だすき かけぬ時なく 我(あ)が思へる 君によりては 倭文(しつ)幣(ぬさ)を 手に取り持ちて 竹玉(たかたま)を しじに貫き垂れ 天地(あめつち)の 神をぞ我が祈(の)む いたもすべなみ
こっちは、どうしようもない恋の辛さから神に祈ってるという、さらに強い恋の歌。
神に願うというお題だったんですね。
お話自体はほのぼのとしていて楽しかった。
安定が登場のときいろいろ日替わりでやってくれたのも楽しかったし、鶴丸と石切丸との碁石対局で、大阪のマチネだったかな?「フェイントと見せかけて攻撃」ってアドリブ入れたのが可愛くて好きでした。
お酒を飲むことが好き、お酒の味も好き、だけどあんまり強くないだけなんだという刀ミュ設定の兼さんは私はとてもとても好きだ。
「何度、何度祈れば叶うかな?叶うかな?」の歌も可愛くて好きだし、お百度を踏む兼さんもとてもとても可愛かったなあ。
そして石切丸さんは意外とホンワカかわいい歌が似合うなあ。
和歌②
世の中は 夢かうつつか うつつとも 夢ともしらず ありてなければ (古今和歌集 942 よみ人しらず)
・この世は夢なのか現実なのか、誰にもわからない。なぜならこの世は確かに存在しているようでしていない、あるようでないようなものなのだから。
金平糖?根兵糖?を題材にした蜻蛉切の夢の中でのコント的なお話。
よくあるタイプのコントではあるけど、蜻蛉切が芸達者すぎて、それがまためちゃくちゃ面白かった。
蜻蛉切は本公演では真面目で固いイメージのキャラで、だからカテコとかでもちょっと寂しくなるくらい真面目な姿を崩してくれない。
だけどspiさんは本当はすごく茶目っ気があってかわいい人で、サービス精神もめちゃくちゃ旺盛な人なんだというのは去年のらぶフェスですごく思った。
その彼の持ち味を前面に押し出したシナリオだなあと思った。
「confeito」というこんぺいとうの曲も、spi蜻蛉切をめいっぱい生かすように作ってあるよね、この曲。
この曲を真面目に圧倒的な歌唱力を誇るように歌いあげることから生まれる面白さも最高。
槍をスタンドマイクみたいに使って歌うのもまたよし。
ストーリーとしてはこのお話が私は一番好きかな。
和歌③
夏虫の 身をいたづらに なすことも ひとつおもいに よりてなりけり (古今和歌集 544 よみ人しらず)
・夏虫がその身を灯火に投じて焼き滅ぼすのも、(私と同じ)一つの思いの炎によるものなのですね。
にっかりさんの講談風のモノローグ。
内容は江戸時代後期の短編物語集「雨月物語」に納められている「菊花の約」というお話から。
「交わりは軽薄な人と結ぶなかれ」で始まる、いろんな意味で不思議なお話。
常に「人」ではなく「刀」というモノであることを意識してにっかり青江を演じているという荒木さんが話す。
「軽薄なものには価値はないことには同意するけれど、うらやましくもある」からの「君に握られ撫でられたりしても斬ることしかできない、交わるとはどういう感触なのかを知ることは出来ない」か……。
「交わること」そのものが「軽薄」と彼は言いたいのかなあ?
にっかり講談での序盤での人魂と幽霊の違いはとても興味深かった。
人魂はむしろ純粋だというのはなるほどなあと思いながら聞いていた。
確かにそうかもしれない。
そのかわり、欲望が単純で、幼く、愚か……。
現世にしがみつき執着があると魂の存在になっても人の形を保っていたがる……か……。
では、刀剣男士が人の形を得てそれを保ちたがると現世に対する執着が生まれたりするのかなあ?とかぼんやりと思った。
「菊花の約」はそもそもがよくわからない物語ですよね。
交わりは軽薄な人と結ぶなかれ。でもこの物語でいったい誰を軽薄だというのだろう?
素性も身分もわからない人を助け、意気投合したからと義兄弟の契りを結んでしまった左門?
自分の安心のために重陽の節句という日を限定して宗右衛門に戻ると約束させた左門?
主家が滅ぼされたのにその地に帰って様子を見てみたいと思った宗右衛門?
約束を守ることに囚われすぎて自害をして肉体を捨て魂になって左門の元に帰ってきてしまった、その本末転倒の真面目さの宗右衛門?
それとも、「交わること」そのもの?
そしてほんのりとBなLのかほり漂うお話でもあり。
このお話を「歌合」に使った真意は何なのだろう?
確かに、このお話は「夏虫の身のいたづらに~」の和歌には合っている気もする。
そして、この和歌が何を言いたかったのかな?と考えたとき、土方歳三の豊玉発句集にも「願ふことあるかも知らす火取虫」(火取虫とは夏虫と同義)という句があったことをふと思い出した。
「灯火に身を投じてしまう夏虫にも何か願うことがある故のことだったのかもしれない」という句。
なんとなく「そっか……」と腑に落ちた気がした。
人の形を得た男士たちには現世への執着が生まれてしまうのかな。
そして彼ら苦しい戦いに身を投じる男士たちにも何かその心に願うことがある、一つの思いがある……そういうこと?
だけど最後のにっかりさんの言葉の「触れられぬものを恐れるより、この身にさわる(触る?障る?)ものの毒をじっくり味わいながら惜別の悦びに身を任せるよ」とは?どういう意味だろう?
別れを惜しむ対象があるということは悦びなのだ、だから別れの辛さにあえて身を任せよう?ということかな?
うーん、難しいな。
ライブではびっくりするほど全力だけど、そのほかのところではクールでミステリアスな存在である荒木にっかりさん、こんな講談調なんていう無茶振りをこなせるのは彼くらいかも?
和歌④
梅の花 折りてかざせる 諸人は 今日のあいだは 楽しくあるべし (万葉集 832 神司荒氏稲布)
・梅の花を折って髪に飾ってる人たちはみんな今日一日は楽しさが尽きないにちがいない。
この和歌は、天平二年一月十三日に大伴旅人の邸宅で開かれた「梅花の宴」で読まれた三十二首のうちの一首。
この三十二首が書かれている「万葉集巻五」の序文が、新元号「令和」の出展となった部分。
だからこれもまた令和元年ならではのチョイスですね。
明石国行が落語っぽく話し始める。
出展あるのかなあ?
落語はこういうストーリーがありなのかな?
落語、あまりよく知らないのですが、教訓話みたいな感じで、もう少し罪のない話にしてくれたら楽しめたかもしれないなあ。
まあ、明石の空想話ということになっていましたけれども。
それに和歌とは全然合ってない気が。
だって、登場人物が誰も楽しそうじゃないもの。
万葉集巻五を使うことありきだとして、三十二首もあるなかでどうしてこの和歌を選んだのだろう?
宴の主人である大伴旅人の歌の中には結構趣のあるものがあるのになあと思ったり。
だけど流れ的に「言葉」を使った芸事の一つとして「落語」をやりたくて、それで選んだ?
うーん、でもあまり面白いとも思えなかったなあ。
てか、落語は難しすぎたと思うな。
そもそもめっちゃくちゃ変なブロークン関西弁を話す明石を何故わざわざ選んで話芸をさせたのかなあ?
お囃子が入っていたので江戸落語ではなく上方落語を模したつもりだったと思うのだけれど、上方落語ってあんな誰かを騙したり落して笑いを取ろうとするものなのだろうか。
関西のお笑いといえば吉本。だけど、今の吉本の「笑い」と上方落語の伝統的な「笑い」は違うのでは?
次の巴の豊穣の神事(?)のお話は、巴さんのキャラあってこそですね。
豊穣の神事といえば新嘗祭、令和元年は天皇の代替わりがあったから大嘗祭。
久々の「大嘗祭」に「とうするのだったかな?」とちょっと手順を思い出している巴さん?なのかな?
大阪公演では陸奥守の突き出したお尻を安定がパーンとたたき、その安定のお尻を巴さんがパーンと叩いたというアドリブシーンがあってかなりウケました。
抜いたサツマイモが馬みたいな形をしていたというオチ。
とうらぶ本丸の畑では大根が犬の形になったり、サツマイモが馬の形になったりするのですね~w
人間キャストさんたちによる鯛の天ぷらがらみのショートコント。
今回少し残念だったのは、人間キャストさんたちのシーンが歌合の本筋に全く関係なかったことかもしれない。
逸話ということで、タイの天ぷら死因説を使ったコントになったのかな?
熱演ですごく面白かったのですがね。
結城秀康役の彼の復活も嬉しいかった。本編で観た彼、かなりよかったですし。
和歌⑤
ぬばたまの我が黒髪に降りなづむ 天の露霜取れば消(け)につつ (万葉集 1116 よみ人知らず)
・天から落ちて私の黒髪に溜まった露を手に取ると、それはすぐに消えてゆく。
「ぬばたまの」とくれば「黒」「夜」「髪」
枕詞の代表的なものですよね。
そして「ぬばたまの我が黒髪」とくれば思い当たるのは兼さーーーん
兼さん出てくるよねと期待しましたよね、うん
軽装が見られるなんて思ってませんでしたよね、ね
福岡で刀ミュでの二大推しの兼さんとにっかりさんの軽装を見られてすごくうれしかった。
声出ましたよ、うんうん。
そして年が明けてしばらくして初期刀の軽装実装。
もしかしたら日程的に大阪公演からはっちの軽装が歌合にも実装されるんじゃないかなという期待。
そして期待通りでした。
大阪城ホール、はっちの軽装にものすーーーっごい反応してたよね!!!
私も思わず声が出たもの。
「髪に溜まった露」でお風呂上がり設定か~。
そしてお風呂上がりに牛乳一本一気飲みして盛大な反応をもらえる兼さんがwwwww
むすはじでお酒の一気飲みのシーン、苦労してたもんなあ……。
そんな兼さんが大好きだよ♪
フルーツ牛乳だったらもっとかわいい……とか一瞬思ったけど、いや、お風呂上がりに余計な添加物が入ってない牛乳を飲んで大きくなった兼さんはやっぱり我が息子だと思った私はやっぱりモンペか?!
真っ直ぐなのに毛先ふわふわの抜群に綺麗な黒髪の兼さんの髪の扱いの雑さもw
兼さん、軽装で脚開きすぎで心配だったよ(何が?)
スネ丸見え膝まで見えて。ツルツルだったね(←やっぱり見てる)
国広のアコースティックギターはびっくりしましたね。
そしてああいう感じの曲が有澤兼さんの声の良さが一番生きるのだよね~。惚れ惚れしたよ
歌の前後でメインステージの国広のほうに眼をやる兼さんの表情もまたすごくよくて。
大阪は「どうだ、あれが俺の自慢の相棒さ」という感じだったけど、大千秋楽は「うん、よしよし」って感じでしたね。どっちもいい。
国広に対して言葉に出さず表情でモノを言うあの兼さん、最高だな
にっかりさんの軽装の帯結びが「片ばさみ」だったのもまたすごくすごく良かったなあ。
兼さんは貝の口でOKだよ。
そして数年後、さらに素敵な大人になった兼さんの軽装がラフな「片ばさみ」になっているのを想像してニヤつく。
うつぶせ寝だというにっかりさん。うんうん、わかるわ、すっごいにっかりらしい気が
さて和歌と内容。
和歌はやっぱり恋の歌に思えて、そして私は哀しみやあわれを覚えてしまうのだけれど。
天から降ってきて自分の黒髪に溜まった露、それって、誰かからかけられた想いなのかなと。
それを手に取ったのにすぐに消えてしまった……みたいな。
寸劇の方は、椿油の瓶を見るとそれをくれた村正を思い出すにっかりはそれを使うことで村正の無事を願う、そのにっかりの気持ちに兼さんもはっちも共感を覚えるという話でOK?
最後に兼さんが冒頭の和歌を詠んだ。
兼さんが詠んだ和歌なら、そのまんま文字の通り「濡れた髪の露を手に取ったら消えちまったよ」の解釈でもいいかな?
でも、私は土方さん経由での兼さん推しだから、「元主の土方さんにかけてもらった想いを手に取ったのにすぐに儚く消えてしまった」と、この和歌を解釈したらホロリとしてしまうな。
和歌を詠んで「……てなっ」って最後に付けた兼さん。真面目に歌を詠んでちょっと照れた感じ?
私は勝手にホロリとしておこう。
個人的には、兼さんは最も現世に近い刀剣で、だからこそ感じる苦しみもあって。
達観しているじじい太刀たちとは少し違う青臭い感性を持っているという私本丸の独自設定。
そんな兼さんが好き。
そういう兼さんをいろいろと想像するのを楽しんでおこう。
短歌⑥
二つなき ものと思いしを 水底の 山の端ならで いづる月影 (古今和歌集 881 紀貫之)
・二つとはないものだと思っていたのに、山の端からではなく水底に美しい月が出ている。(こんなところに美しい月があったとは)
最後はさすがに随分と和歌らしい和歌を持ってきましたね。
小狐丸をばかす狐?
「刀がない」ことで本物の刀剣男士ではないと小狐丸は気付いた?
そして現れた「裏」の小狐丸。
「ひとなりや ものなりや」は、三日月宗近の台詞でしたよね、確か。
明石の落語と兼さんたちの等身大のお話で現世寄りに流れてきていた歌合の流れを、この小狐丸のお話やムードで元の不思議な方向に戻していく感じですかね?
小狐丸推しの審神者さんたちには本当にいろいろと感じることがある要素満載のストーリーではないでしょうか。
あの阿津賀志山巴里で代役を務めた「彼」の小狐丸の登場。
これ、すごく心に染みました。
「小狐丸」という刀剣、本当は二振りある。
機会があれば見ることが出来る石切劔箭神社の小狐丸。そして滅多に見ることができない石上神宮の小狐丸。
なんか、刀ミュの二振りの境遇に似てるなあ。
いや、お刀の境遇に刀ミュの二振りの小狐丸が似ているのか。
狐には表と裏がある。
月光に宿る影は二つ。心は一つにのみあらず。一つは私、一つも私。鏡合わせの心。
虚構も事実も表裏一体……か……。
そしてこのお話は「分け御魂」(分霊)のことを言ってるのだろうか?
天岩戸のお話には、洞窟の外の楽しそうな様子を訝しく思い少し顔を出した天照大神に「あなたよりすばらしい神がいらっしゃったのですよ」と言って鏡を見せるシーンがある。天照大神はそれが自分の顔とは気が付かず、その神様の姿をよく見ようと鏡を覗き込んだところを引っ張り出されてしまう。
神道では鏡は特別に意味があるものですものね。
鏡に映る自分は自分の中にいる「神の分霊」ともいいますし。
私たちは自分の目で見た世界に生きている。その「目に見えている世界」を現実だと信じている。
しかしその目に見えたもの、それは自分が造り出し、「見たいと思うように見ている」現世ではないのか?
自我が造り出した幻ではないのか。
そんな世界をもう一度鏡(神様)を通して見てみたら、そこには今まで自分に見えていなかった「本当の姿」が見える。
……そういう考え方も。
私は能の「小鍛冶」をまだ見たことがないのですが、小狐丸推しさんたちの間ではもっといろいろ思ったり気が付くことがあるのでしょうね。
私には面の種類を唄ってるなという程度しか分からなかった。
このお話は挙げられた和歌にほんとうにぴったりだったなあ。
さて、エンディング
祭壇?洞窟?を狙う時間遡行軍たち?を強い光が追い払うという演出は、プロローグでの神楽歌で歌われたように、光の神である天照大神が男士たちの歌舞のおかげでそこに留まっていらっしゃるという意味だろうか?
そして刀剣男士たちが「まれびと(霊的なもの、異形の神)まだか、言の葉よ、うたの音よ、依り代となれ」と歌う。
再び鶴丸による「やまとうたは、ひとのこころをたねとして~」の一節。
「人の思いで紡がれた物語をよすがとし、この世に生まれいづるのはうたも我らも同じこと」
そうだな、確かに。
そして「きみまちのうた」。
一つ、心の臓がうちはじめ (おろしがね・水へし・小割)
二つ、赤き血がめぐりめぐる (積み重ね・折り返し鍛錬)
三つ、眼はまだ光を知らず (作り込み)
四つ、手足は分れ指を成し (素延べ)
五つ、耳は音の意味がわからず (火作り・しのぎ・?)
六つ、口はまだ言葉を持たず (?・土置き・焼き入れ)
七つ、その肺に空気を吸い込めば (?)
君は産声を上げるだろう
初見では衣装や踊りに気を取られて歌詞がしっかり頭に入らなかったのだけど、大阪で観てよくよく歌詞を聞くとものすごく興味深い。
眼?耳?口?謎解きみたいな歌詞。
だけど最後の兼さんの「七つ、その肺に空気を吸い込めば」で気が付いた。
これはヒトの体が母胎で発生して出来上がっていく順番だ。
新しい刀剣男士の肉体が出来上がっていくということ?
その発生は人間と同じなの?
ということは、刀剣男士の肉体は人間と全く同じなの?
そしてそして。
一昨日童子切安綱を春日大社の国宝館に見に行ったら、作刀の手順の簡単なモデルが展示してあったから興味深くみていたのだけれど、家に帰ってまた歌合のデイレイを見ていてふと気づく。
コーラスで歌っているフレーズ、聞き取りにくいけど「すのべ」「やきいれ」って聞こえた気がする。
「すのべ」は「素延べ」で「やきいれ」は「焼き入れ」?
だとしたら作刀の作業の順番を歌っているのではないのだろうか?
そう思ってデイレイ配信を必死で何度も聴いて聞き取ってみた。?の部分はどうしてもわからなかったのだけれど。
きっとそうだよね?ね?これでほぼ合ってるよね?
そうだとしたらすごいな。凝りまくってるね。
「こちらへ、こちらへ」と歌いながらドンドンと足を踏み鳴らす男士たち。
足を踏み鳴らす動作は日本の古代の舞踏の大きな特徴。
日本語で踊ることを「舞踏」と呼ぶ、その「踏」こそが舞に「足を踏み鳴らす」という動作が当たり前に入っているという証拠なのかもしれない。
天岩戸の物語でも隠れてしまった天照大神を呼び出すためにアメノウズメの命が足を踏み鳴らして踊る場面が古事記にある。
日本古代の舞踏の「足踏み」は善き精霊?神?を呼び寄せる動作といわれている。
地方に残る古い神楽には力強い足踏みをするものは珍しくないし、能や歌舞伎などにも「足拍子」として残っている。
男士たちが足を踏み鳴らしながら踊り歌い、「神おろし」をする。
なんだかどっぷりと神道の世界だ。
そして八つ目があの呪文のような言葉。
伊弉諾尊(イザナギノミコト)が天之尾羽張(あめのおはばり)の剣で火の神加具土命(カグツチ)を殺した時に生まれた八人の神様の名前を審神者と男士たちが一緒に唱える。
新刀剣男士を呼び起こすのはもえたぎる八つの炎。
そして与えられたのは肉体と八つの苦悩なのか……。
八つの苦悩とは
生・老・病・死 愛別離苦・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五陰盛苦(ごおんじょうく)
五陰盛苦……人間の身心を形成する五つの要素、色(肉体)、受(感覚)、想(想像)、行(意志)、識(判断)から生まれる苦悩のこと。
いきなり仏教が混じってきたよw
わりと神道って「辛い時は笑いましょう」的な要素があって、そしておおらかで明るかったりする。
また天岩戸のお話になるけれど、天照大神が引きこもってしまい世の中が暗闇になってしまったとき、悲しみに暮れてしまうのではなく、面白い踊りをして笑うことで天照大神を天岩戸から誘い出すことに成功したのが日本の神話ですものね。
だから、急に「人生は思うようにいかない、辛いもの、我慢するもの」というスタンスから始まる仏教の考えが入ってきたら、ちょっと違和感を覚えたりはする。
審神者は刀剣男士を顕現させることで八つの苦悩を、特に五陰盛苦を与えることになるのか……。
うーん、なんか審神者ってすごい業が深い気がしてきたなあ。
深く意味を考えていたら、最後の「あなめでたや」というの、ちょっとそういう気分になれなくなってしまった。
「この世に生まれ、生きて行くことは苦しみである」と説く仏教要素は、ちょっと余計だったのではないだろうか……。
まあでもここは素直に新刀剣男士の誕生をお祝いすることにいたしましょう。
さて。今年の「歌合乱舞狂乱」
終わりよければすべてよし。
ではありますが……。
ちょっと盛沢山すぎだった感はどうしてもある。
ベースはやはり天岩戸の物語ですよね。
洞窟の中に隠れてしまわれた日の神である天照大神を呼び出すために、神様たちが洞窟の前で歌い踊りそして「笑ひゑらぐ」(「騒いで笑って楽しむ」の意)
その「天岩戸」の前で歌い踊り楽し気にみんなで「笑ひゑらぐ」のを寸劇とライブパートで表現しようとしたのですね。
楽し気に笑わないといけないから、なんだかコントっぽいお話が多かったのですね。
やっとわかりました。
でも、やっぱりその寸劇パートに和歌を題材として使うのは難しすぎたと思う。
そもそも万葉集や古今和歌集の和歌に「笑ひゑらぐ」要素はほとんどない。
だからか、和歌と寸劇の関連性に無理がある。こじつけとか、その和歌はそういう意味なのか?みたいなのが多くて。
むしろそれ意味が逆だろ?みたいなのもあったし。
和歌、もっと効果的に使える気がするのよ。
「和歌」というカードをここでこういう形できってしまったのがちょっともったいない。
一度しか見れない審神者さんも多いと思うし。
審神者さんたちは皆さんとても博識だというのはTwitterなどでよくわかりますが、でもみんながみんな、刀剣のこと、日本の上代文化、和歌などの日本文学、その他もろもろにとても詳しいわけではないと思う。
やはり初見でももう少し理解しやすい構成のほうが、ショーとしては見やすい。
6つ出てくる和歌と演劇パートのシナリオのつながりがしっくりしないことで、初めて見たときに意味が分かりづらく、何が言いたいのだろうかと混乱してしまった。
そして、プロローグとエンディングがまた思いっきり神道色なわけで、面白いと言えば面白いのだけれど、それに挟まれた和歌と演劇パートとの雰囲気が違いすぎて、作品全体のトータル感はやっぱり欠けてしまっていると思う。
それと、私は合計4回、ライビュを入れたら5回観たけれど、最後の新刀剣男士顕現のことがあったりで公式からかん口令が敷かれてしまっていたというのも、公演内容で意味がわからなかった部分をSNSで情報を集めたりして他の審神者さんから教えを請うことが出来なくて、ちょっとしんどかった。
正直、私は初見だった福岡公演をアリーナ席で一回観終わった時点では、内容の20%くらいしか意味が分からなかったと、今から振り返って思う。
二度目の大阪城ホールの初回のスタンド席が全体がとてもよく見える席で、立ったり座ったりもなく落ち着いてじっくり見ることが出来て。
福岡から大阪公演まで約一ヶ月あって、その間に「あれはどういう意味だったんだろう?」と考える時間を持ったり、「よく見えなかったから、あの部分をもう一回ちゃんと観たい」とか、自分なりのポイントを絞ってから二回目を観たというのも、全然違うように見えた理由かもしれない。
「歌合」って言葉がいらなかったんじゃないやろか?
「乱舞狂乱」でええやん?
「うた」を「和歌(やまとうた)」ではなく普通の「歌」として、和歌とあまりこじつけなかったほうが良かった気がする。
天岩戸を模したストーリーだけで十分面白かったと思うな。
もちろん、今もデイレイ配信観ながら書いてますが、こうやって配信や円盤買って何度も観ることを前提として、わざとわかりにくい(←)複雑な構成にしたというのなら、それはそれでアリだとも思いますが……。
なにせ、いろんな要素がこれでもかというほど詰め込まれているので、噛めば噛むほど味の出るスルメのような作品になってると思うので。
ただ、去年のらぶフェスは現場参戦することでしか味わえないライブの良さが満載だっただけに、年に一度のLIVEを生かした作品としてみると……。
現場での臨場感を楽しむとか、LIVEのドライブ感は、去年より目減りしてしまってる感じは否めなかった。
これから刀ミュのこの年末のLIVEはどういう方向に行くのかなあ。
私個人としては、もう少し易しくしてくれたほうが楽しめるな。
目の前で生で踊って歌う推しを、ただもう何も考えずおバカになって応援して単純に愛でる機会というのもなかなか楽しいものなので。
頭を空っぽにしておバカになって楽しむパート(ライブパート)と、知識総動員して深く読み込み鑑賞し意味を考えるパートが短時間に入れ替わる。
脳みその「スイッチ」を頻繁に入れ替えて見ねばならないのが、おそらく私が初回を観終わったあとに「なんだか去年と違って頭が疲れたなあ」とふと思った原因だったのだと思います。
最後のカーテンコールでの兼さんの「ここで一句」、すごくよかったですね。
「なかまたち めぐりあわせの うたあわせ」
うんうん、そうだよね。
歌合でともに集い、笑い、楽しみ、新刀剣男士誕生の場面に立ち会った縁を、これからも共に大切にしていきたい。
ね、兼さん。
とてもとてもいい一句でした。