「どろろ」観たけど | 雪の上に照れる月夜に梅の花

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雪月花の時 最も君を想う…土方歳三、新選組、薄桜鬼大好き

 

アニメ版「どろろ」の最終回を観た。

 

第二部に入って最初の方でストーリーに興味が持てなくなってしまったので、録画はしてあったものの観るのも面倒でほぼ放置になっていたのですが、それもまとめて観た。

 

 

なーんだ、舞台版と結末一緒じゃん……。

 

舞台版はアニメ版とはストーリーが違うって話だった。

だけどふたを開けてみれば舞台版はアニメの主題歌使っていたりとかしていて、なんだ、アニメとのコラボ作品なのかと思ったし、アニメを第二期の最後まで見たら、舞台版は時間の関係で端折ってるだけでアニメ版のネタバレ満載でした。

 

舞台版でナゾだと思った百鬼丸の産声の件はアニメ版見て解決した。

百鬼丸は五体満足で生まれ出た(だから産声を上げた)次の瞬間に体の部分を鬼神たちに奪われたんですね。

だから声を失っていたけど、産声はあげたんだ。

 

ということで、アニメを全部見終わったあとの感想は、ほぼ舞台版を見たときと同じでした。

 

 

奪われたものが目に見えてはっきりしていて、そして取り戻すことが出来た百鬼丸。

見た目はとても幸せだけど、奪われたものが目に見えるものではなく、最後まで取り戻すことが出来なかった(と私は思う)多宝丸。

 

多宝丸は目に見えないものを百鬼丸に奪われ続けていた。

母の関心を得られないことほど、幼子にとって辛いことはないよ。

それだけではなく、幼い頃からの彼の寂しい心を支えてくれていた陸奥と兵庫までをも百鬼丸との戦いで奪われてしまった。

 

縫の方は醍醐の国の安寧は百鬼丸一人の犠牲の上にあると言い切る。

だけど多宝丸がどれだけ醍醐の国の、そして親として愚かな父の景光と母の縫の方に心を傷つけられ続けて生きていたか。
縫の方が多宝丸の犠牲に全く気付いていないところが悲しすぎる。

気付いているのかもしれないけれど、百鬼丸が第一で、いつも多宝丸は百鬼丸の二の次だというのが可哀そうすぎ。

舞台のときも思ったんだけど、最後に多宝丸が鬼神からもらった百鬼丸の目を百鬼丸に返すシーンで、多宝丸がもう倒れて死にかかっているのに、縫の方が一目散に百鬼丸に駆け寄り、ぐだくだと許してくれだのどーのこーのと呑気に話しているのが母の姿として本当に不思議で仕方がない。

あんたの子、もう一人そこに瀕死で倒れているじゃないか。

こんなとき私なら絶対どちらか一人だけに駆け寄ったりなんかできないよ。

ずっと一緒に暮らしていた多宝丸を放置なんてできない。

多宝丸はもうどうせ死ぬからいいってことかよ?

よっぽど多宝丸への愛情が薄かったんだな、縫の方ってのは……と思った。

むしろそれを表現したかったのだろうか?

 

一緒に死ぬことで多宝丸がすべて許してくれると思っているのか、この縫の方って母親は。

そんなわけないだろう(怒)

多宝丸という子どもの側の親へのすがるような愛や情に最後まで甘えているとんでもない母親だと思う。すっごい腹立たしい。

どろろ自身の亡き母を慕う気持ちも、第二部最後の方に出てきた馬の親子の情も、この縫の方の多宝丸に対する薄情さでぜーーんぶ嘘臭く見えてしまってぶち壊しなんだよね。

 

人として心の育ちが未熟でまるで幼児のように怒りに身をまかせることができ、そして最後に体の全てを取り返し生きてゆく百鬼丸のハッピーエンドだというのはよくわかった。

でも、人として体は完全になったけれど心が未完全だというのは舞台版での鈴木百鬼丸を見ていてすごく伝わってきていたなあと、そのへんを台詞がほとんどないのに演技だけで表現した鈴木百鬼丸の演技力はすごいな。改めて痛感しました。

 

体を取り返しただけでは人とはいえない、心が人間らしくなければならない、だから百鬼丸は生きていくうえで試練があるであろうという含みもあるエンドだった。

だけど百鬼丸本人は全く気付いていないけど思ってくれる人がいて、その人の愛情を得て生きてるってすごい幸せじゃないか。

 

取り返すべきものをすべて取り返した百鬼丸と、奪われ続け最後にすべて、命をも失った多宝丸。

 

そして、何が腹立つかって、多宝丸を失った父・景光は、最後に体をとり返した鬼神丸に対し「あの日鬼神に願わなければ、鬼神丸がこの国を継いでいたら……」って、ホント、こいつも人の親として最低だなと思った。

そりゃ、こんな徳のない御領主さまじゃ、国も亡ぶわ。

 

 

でもアニメの第一部で百鬼丸は未央って少女とこころを通わせていたような気がするんだよね。

アニメではそのとき百鬼丸の心の存在を感じさせたと思った。

だけど舞台では未央との話はほぼ全部割愛だったので、体を取り戻した百鬼丸が今度は心の旅に出るというのがわりとすんなりとわかったのだけど、アニメはそこがなんだろう?第一部の未央とのことで心が目覚め、第二部で少しずつどろろとの心の交流が生まれた感じがあって、それでこうなんというか中途半端というか、最後にどろろを置いていく理由がいまひとつだなと思った。

 

 

まあ、「どろろ」をどろろでも百鬼丸でもなく多宝丸側から観てしまった私がオカシイのだということは重々承知。

舞台を観てしまって有澤多宝丸の王子様感に惚れちゃったのでね~。

 

有澤多宝丸、めちゃよかったよ(←やっぱりそこか)