土方さんの発句を考える | 雪の上に照れる月夜に梅の花

雪の上に照れる月夜に梅の花

雪月花の時 最も君を想う…土方歳三、新選組、薄桜鬼大好き

 

先日の夜中、娘と土方さんの発句談義をした。

 

話題になった句はこれ。

 

 

降りながら 消ゆる雪あり 上巳こそ

 

 

 

この句、土方歳三資料館の図録の豊玉発句集では「上巳かな(漢字では可奈)」と読み下してある。

「かな」という詠嘆の切れ字で終わる句は他にも四首あり、確かに他で「かな」で終わる句の「かな」の手蹟と比べると、この句の「かな」は上から違う文字を書いている感じがあるといえばあるけれど、「こそ」(漢字では許曾)と読めるかと言われるとよくわからない。

「かな」は詠嘆、「こそ」は詠嘆に強調の意味を含む。

 

そして、この句の右には「井伊公君」という添え書きがある。

 

この句は、そのまま「かな」で終わると読めば「春先の桃の節句(三月三日=上巳)の頃の雪は、地面にたどり着くまでに消えてしまうなあ」という意味。

綺麗な句ですよね。

しかし「井伊公君」という添え書きがあることで、この句が三月三日に起こった桜田門外の変のことを詠んでいるというのがわかる。

桜田門外の変。

それは大老井伊直弼が、水戸浪士や薩摩藩士によって殺された事件である。

何故水戸浪士と薩摩藩士が井伊大老を殺害するに至ったか。

その経緯がそう単純ではないことは、桜田門外の変をウィキればわかる。

 

この土方さんの句に対して、二つの解釈がある。

 

① 桜田門外の変で井伊直弼を討った水戸浪士を快挙とした土方の攘夷思想のあらわれ。(日野市ふるさと博物館『新選組のふるさと日野~甲州道中日野宿と新選組~』より)

② 井伊直弼の無念さを春の雪に託して読んだ、追悼句。(俳人・復本一郎氏による)

 

 

全く正反対である。

 

さて、どちらだろうか。

 

 

「どちらでもないような気がする」

 

 

娘がそう言った。私もそう思う。

 

 

 

ところで。

桜田門外の変が起こったのは安政7年3月3日(1860年3月24日)、土方さんは満24歳。(数え年25歳)

奇しくも、土方さんはその六日後の安政7年3月9日に天然理心流に正式入門している。

土方さんは農家の末っ子ということで奉公に出されるが、従来いわれていたみたいに奉公先から逃げ帰ったり云々ではなく、14歳から24歳(数え年)のおそらく秋ごろまで奉公を続け、きちんと勤め上げて帰郷しているのはもうよく知られていること。

桜田門外の変は、土方さんが奉公先から戻って約半年後、まだ浪士組として上洛する4年も前、しかも試衛館に正式に入門もしていない頃に起こったことになる。

 

ただ、円満退職とはいえ土方さんが何故故郷に帰ってきたのかも気になるところなのです。

一説には土方さんは大層機転が利き物覚えもよくて着合わせや正装ならばこうすべきというような細かい着物のルールなどの知識もあり、そして器用で、奉公先の呉服屋の主人に随分と重宝がられ、よくお得意先に共に連れて行かれていたという話もあります。

お得意先のお好みに合う反物を選ぶセンスがあり着物のルールに精通していて、そしてまた納品の際はその場ですぐにお直しする裁縫の力(上流階級の着物はオートクチュールですから)があったということです。

その逸話が本当なら、どうして奉公を続けて暖簾分けをしてもらって呉服商を目指さなかったのかな~と。

まあ、先輩が沢山いたとか、いろいろタイミングが悪い場合があるかもなあ。現代と同様に。

 

でも、そんな土方さんに対する私のイメージは、東京でファッションの世界にいて流行の先端に触れる仕事をしていたのに田舎に帰ってきてしまったという、そんな感じなんですよね……。

 

土方さんは6男4女の10人兄弟の末っ子。

そのうち男女二人ずつは幼くして亡くなっている。

無事成長した男子4人のうち、長男は一時家督を相続し家長となっているが、ほどなく病気で両目を失明、家督を次男に譲った。

三男は医者の家に養子にもらわれている。

長男が病気で失明し、次男が家長となったため、万が一の場合にそなえて跡継ぎのスペアとして呼び戻されたのか?

いや、そうでもなさそうで。

というのは、この次男さんは土方さんが帰郷して一年経つか経たぬ万延元年(1860年。安政7年=万延元年)9月6日に亡くなっているのです。

その際、土方家は弘化2年(1845年)生まれの、当時満14歳か15歳くらいのその次男さんの長男(土方さんからみたら甥になる)に家を継がせることを選びました。

ここで土方さんは土方家のいわゆる「部屋住み」の地位になってしまったわけで。

本家の息子とはいえ、土方家にいる限り、結婚もさせてもらえない居候の厄介者の地位です。

 

このあたりの土方さんの心のうち、すごく考えます。

 

近藤さんと本当に親しくて兄弟盃を交わしていたのは佐藤彦五郎さん。

でも、彦五郎さんは大きなおうちの家長でもあり、浪士組に参加は無理。

機転が利いて役に立つ男ということで、近藤さんに推薦したのが土方さんだった。

 

ちなみに、病気というか、流行り病、そして労咳はなかなか多かったみたいで。

 

家長だった次男さんが亡くなった次の年(1861年)、土方さんもまた大病(病名不明)に罹りました。

年齢的なこと、回復したことから考えたら、一種の流行り病だったのかな。

 

その年の翌年の1862年は、江戸で麻疹が大流行した年。

沖田総司がそれに罹ってしまいました。

一命は取り留め回復はしたものの、その際体力がめちゃくちゃ落ちてしまった。

一説には、若くて体格も良かった沖田総司が結核に感染したのは、大病ののちの体力が落ちたときだったのではないかという話があって、結構信ぴょう性がありそうと思ったり。

 

土方さんは叔母の嫁ぎ先の医師本田覚庵の元に通って米庵流書道を習っていたと言われています。

子どもの頃、手習い(読み書き計算)を神社の宮司さんに習っていたようだけど、それから奉公に出るという、多分よくあるパターンだったと思いますが、書道は奉公から帰ってきてからなのかなあ?それとも子どもの頃からなのだろうか?

でも、当時は習いに行くといっても徒歩で行くしかないから、そう頻繁にはいけないはず。
家にある手本で独自に練習するとか、お兄さんとかに見てもらっていた可能性は大きいですよね。

そんな土方さんの手蹟は町人風だという。

確かに、近藤勇や沖田総司に比べるとソフトなイメージがする。

近藤さんはきっちりとした文字、沖田総司はちょっと雑な感じがする文字を書きます。

土方さん本人は自分のそんな文字をちょっと気にしていたのかもしれません。

というのは、京都時代の土方さんから勝海舟に宛てて書かれた手紙が一通残っているのですが、それが誰かの代筆なのです。

 

そんないろいろな話を寄せ集めてみたら、

土方さんって若い時は本当にフツーの町民の男だったのではないかと思ってしまうのです。

京に上ってからも、土方さんは政治的なことに触れる手紙をほとんど残していない。

もっぱらそれは近藤勇の役割だったといえます。

 

 

だから……。

 

桜田門外の変に関する発句に、思想的な色合いを持たせて解釈するのには無理があると思う。

 

でも大老暗殺は、今でいう総理大臣が暗殺された的なインパクトは絶対あったと思うし、そもそも多摩は幕府の直轄地だから幕府の大老が暗殺されたなんて、ものすごいショックな事件だったとは推測する。

 

浪士組として上洛することの当初の目的は将軍警護。

尊王攘夷思想は、このころの日本人は基本全員。

でも、京で清川八郎が帝に建白書を書き、生麦事件の処理の件で尊王攘夷のために急遽浪士組は江戸に帰ると言い出したとき、近藤さんが反対を唱えたのは尊王攘夷ではないというより、将軍警護はどうするんだよ?ということであって。

尊王であり攘夷ではある。しかし将軍を警護するには京に残るべきだと考えたわけで。

むしろ近藤さんは、将軍上洛を望んでいた。

尊王であり、そして幕府が中心になって攘夷を行うのなら、帝と将軍が京という同じ地にいてくれることは警護する方にとっては都合がいいから。

 

 

そういう意味で私は土方さんに政治的な思想があったとは思わない。

近藤さんと親しかったのは佐藤彦五郎。

土方さんにとっては近藤さんは幼馴染ではない。師匠だ。

(だから正直、ドラマ等で土方さんが近藤さんのことを「かっちゃん」と呼ぶ演出には少し疑問も持っている)

佐藤彦五郎が使える男として自分の代わりに近藤さんの元に送ったのが土方さん。

佐藤彦五郎の推挙もあり近藤さんと共に上洛し、確かに使える男だと近藤さんが認めて土方さんを引き上げたのではないだろうか?

そして土方さんはそんな近藤さんの期待に応えた。

でも、そうやって京時代を共に過ごした土方さんが近藤さんから学んだことは大きかったのではないか。

 

そう考えるから、土方さん個人の本当の人生の選択は、近藤さんが亡くなってからではないかと思う。

 

 

土方さんは戦士という意味では武士だった。

 

でも、本当の意味で彼が武士になりたかったのかというと、それは疑問に思うのだ。

 

 

彼は主従関係に縛られる武士という立場ではない何かを思っていたのではないか。

その何かのために蝦夷地に赴いたのではないか。

 

 

 

最近そんなふうに考えている。