ラプターズのHCがニック・ナースに決定(非公式)/パスカルシアカムの記事を読む③(完結) | NBAブログ 〜We The NorthとGrind City〜

NBAブログ 〜We The NorthとGrind City〜

NBAが大好きな、しがない大学職員の書くブログ。
ラプターズのことを中心に試合情報や負傷情報、トレードや噂などのNBA記事を和訳で綴ります(でも英語は苦手!)。

毎日が24時間で足りない日々ですが、
苦手な英語と戦いながらできる限りの情報をお届けします。

いつも閲覧くださりありがとうございます^^

 

今日はあまり時間がないのですぐに本題行きます。

本題2本立てですけどね。。。

 

さて、昨日も話題に出したラプターズのHC問題ですが、どうやらニック・ナースがケーシーの後任ということで落ち着きそうです。昨日の深夜にその記事が上がってきていました。

最後の最後までスパーズのACであるメッシーナと選考をしていたナース。

再構築・・・いえ、再改革のために外の風を吹き込むのも良いかとは思いましたが

私としては、あと1年くらいはラプターズの素敵な文化を引継ぎ、メンバーもできるだけ引継いで欲しいと思っていたので、この決定には少し安堵しました。

 

記事を読んでみます。

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

Raptors To Hire Nick Nurse As Head Coach

ラプターズはヘッドコーチとしてニック・ナースを雇う

 

 

 

ラプターズはアシスタントコーチのニック・ナースを新しいヘッド・コーチとして雇うことを進めている、とESPNのエイドリアン・ウジャロースキーが報告している。彼らは現在、双方が契約の詳細を最終決定しているところである、と付け加えている。このレポートは、ニューヨークタイムズのマーク・ステインのトロントはナースを選ぶだろうという“NBAコーチングサークルについての予想が高くなっている”という記載に続いて報告された。

 

レポートでは、今週初めに、トロントの決定はおそらくナースかスパーズのアシスタントのエットーレ・メッシーナにくだされるだろうということが示され、彼は、ヘッドコーチの欠員について二度目のチームとのミーティングを行った。ナースは、元ヘッドコーチドウェイン・ケーシーのもとでトップアシスタントを務めていたが、今回の選定の過程で最有力候補と見なされていた。

 

ブリティッシュ・バスケットボール・リーグを含む様々なリーグでの長年のコーチであるナースは、BBLの2度のチャンピオンであり、2011年と2013年にGリーグで2つのタイトルを獲得した。2回目となるGリーグチャンピオンシップの後、彼はトロントのケーシーのスタッフとして直近の5シーズンを過ごした。ナースは今年初めに NBAの役員によって、間もなくHCとなる見込の候補者に選ばれ、2017/18シーズンにはラプターズのオフェンスシステムを大幅に改訂したことで多くの賞賛を受けた。

 

 

 

 

シーズン勝利のためのオフェンスとフランチャイズレコードの改善にもかかわらず、今年の春にラプターズは再びレブロン・ジェームズとキャバリアーズにプレーオフであっさりと跳ね返され、ケーシーの解雇につながった。直近の5シーズンでラプターズが48試合〜59試合に勝利したことを考えれば、ナースにとってこのハードルは高いだろう。バスケットボールの運営者であるマサイ・ウジリと共に、ナースはクラブのレギュラーシーズンの成功を維持しながら、チームをより強力なポストシーズでの競争チームにしていく方法を見つけなければならないだろう。

 

ナースとメッシーナに加えて、ラプターズはレックス・カラミアン、アイミ・ウドカ、シャルーナス・ヤシケヴィチュス、マイク・ビューデンホルツァー、そしてジェリー・スタックハウスをヘットコーチとしてサーチしていたが、ケーシーの後釜として当初最も好ましいと考えられていたビューデンホルツァーとスタックハウスは他のチームと契約し、他の候補者はファイナリストではなかった。

 

 

 

カラミアンやトロントの他のアシスタントが、ラプターズのナースのスタッフとして残るか、デトロイトでケーシーとともにしようとしているのかどうかは興味深いところとなるだろう。ケーシーはピストンズで自分のスタッフを選ぶ自由を持っている。

 

ラプターズはヘッドコーチが不在の最後のNBAチームだったので、ナースとの契約を正式にすると、リーグの30チームのHCの仕事がすべて満たされる。

 

 

原文:HOOPSRUMORS 2018.6.12(現地)

Raptors To Hire Nick Nurse As Head Coach

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

そうか。カラミアンはケーシーに持って行かれる可能性があるのか・・・。

 

 

両方とも候補だったナースとカラミアンですが

ラプターズでのACの役割的には、ナースがオフェンス、カラミアンがディフェンス寄りだったので、守備に固執してもなかなかディフェンスが良くならなかったラプターズが、突如オフェンス重視になったりしたら、それはそれで面白いかもしれないな〜なんて思いますし

ナースHCに対し、あとは他のACも加わることになると思うので

(・・・ってここにスタックハウスを置きたかったのに!)

ラプターズは来季、また少し違ったチームになるでしょうね。ちょっと楽しみではあります。

 

 

━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─

 

はい。

 

ちょっとブログが長くなってしまって申しわけないところなのですが

あまり遅くなってしまうといけないので、ここでパスカル・シアカムのお話の続きをのせます。

 

今回が完結編です。以前の話はこちらからどうぞ。↓

①過去記事(2018.6.6)

デローザンがマジックジョンソン・アワード受賞/パスカル・シアカムについての記事を読む①

 

②過去記事(2018.6.9)

ラプターズの若手、パスカル・シアカムの記事を読む②

 

 

 

 

前回は、バームーティに出逢って、バスケットボール人生が始まった、というところまででした。

今回はそれから先に起こった波乱の人生が書かれています。

最後の回はとても長くなってしまったのですが、切るべき場所が見つからなかったので残り全部としました、長文ですが、宜しければおつきあいください。

 

それではどうぞ。

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

Inside Pascal Siakam's 6,000-mile journey to the Bench Mob

パスカル・シアカムの秘密:ベンチ・モブに至るまでの6,000マイルの旅

 

(前回からの続き)

 

セントアンドリュース神学校の学生として、シアカムは1日1時間の身体活動を許可されていた。彼はサッカーをしていないとき、寮の背後にあるセメントコートで、ゲームを学んだ。

シアカムはルーク・バームーティのバスケットボールキャンプに冗談で参加した。それは2011年の夏のことだったので、シアカムはセント・アンドリューズを休みながら、若い頃の友人と一緒にタッグを組んでいた。バームーティは、カメルーンのバスケットボールの非公式の後援者だった。彼は自国の土地でバスケットボールのスポーツを盛んにするために、ジョエル・エンビードやシアカムの兄弟などの若く有望な才能を彼らの才能をさらに追求する機会を提供するため、フリーキャンプを設立した。

 

 

 

 

彼の3人の兄弟が大学のバスケットボールをしたことで、パスカルの家族のバスケットボールの評判により参入を許可されたが、彼は一目置かれるという期待は持ってなかった。

しかし彼より前に、まだ激しく才能を発揮していないエンビードと同様に、シアカムはコーチの想像力を魅了する否定できない競技力と競争力を持っていた。彼は未熟ではあるが活発で、痩せていたが接触を吸収する意欲があった。カメルーンでは、若いバスケットボール選手は結果ではなく潜在的な能力で計測されるのだ。

 

2012年の2回目となるバームーティの夏のキャンプの後、シアカムはBasketball Without Bordersに出場するために選ばれたことに驚いた。シアカムは何が賭かっているのかを認識した。彼がうまくプレーして見込みがあることを示せば、兄弟たちがそうであったようにアメリカへの切符を得ることになるだろう。実践練習で彼の順番になったとき、彼は自分を識別してもらうことを望んだ熱情でプレーした。そして、ブロック・ショットに必死に駆けつけ、ルースボールに飛びついた。

彼のショットの技術は基本的なものだった。しかし、ウジリが指摘している。

“彼の努力は印象深いものだった。”

 

 

 

 

 

彼はテキサス州ルイスヴィルの神学校より奨学金を授与し、1年後にこれをニューメキシコ州への奨学金を申請した。2013年シーズンのシアカムは、ニューメキシコ州で1年の留年を行い、ジムで自由な瞬間を過ごした。彼が家に帰った稀な機会に、パスカルは父の口から誇りの気持ちを聞くことができた。それまでにセントアンドリューズでの彼の行動に対する失望は許されたが、忘れられてはいなかった。

2014年〜15年のニューメキシコ州のプレシーズンの前夜、電話が鳴ったときにシアカムは寮の部屋にいた。米国で勉強していた姉妹のライサーだった。

 

泣きじゃくる合間に、彼女は父親が交通事故で亡くなったとパスカルに伝えた。“僕はそれについて何も覚えていないんだ”とパスカルは言っている。“そのときのことはすべて空白になっているんだよ。”

 

また、そこから数分でジェームズが電話した。パスカルには疑問があったが、母親のビクトリアは悲しみに暮れていた。詳細は不十分だった。チアモは2台の車の衝突に関与し、近くの病院に運ばれていた。そこでビクトリアのもとで4日間生存し、内蔵の負傷が原因でこの世を去った。

 

“僕の母親にとってはとても苦しいことだった。僕らは彼女をプッシュしなかった”とジェームズは言う。“この数年後(の今)、僕らははまだ少しずつこまごまとしたことを学んでいるんだ。”

 

シアカムはただ考えることに集中した。僕は家に帰る必要がある。ジェームスは既にドアラへの飛行を予約していたが、パスカルはまだ処理中だった新しいビザを申請した。彼がカメルーンに渡航した場合、適切な書類作成なしに米国に帰ることができない可能性が高い。“僕の兄弟たちは、‘(お前は)来ることはできないよ’と言っていた。母もそう言っていた‘とパスカルは言う。

2年前に父親を失ったニューメキシコ州のマヴィン・メンジーズHCは、選手(パスカル)の側に駆けつけた。彼は電話をかけたが、シカムの最善の選択は、父の葬儀への出席を見送る苦しい決定をすることであることがすぐに明らかになった。彼がカメルーンに帰国した場合、奨学金と未来を潜在的な見通しとして失う危険にさらされたのである。

 

パスカルは靴に "RIP Dad"と書き、シーズンをチアモに捧げた。多くの夜に、彼は部屋の中で静かに泣いて過ごした。ジェームズは、“それはパスカルが忘れたことのないことだ”と語った。“彼が葬儀にはなかったことを知っているよ”

 

 

 

I miss my dawg! #RipDad #DoingItForYou

Pascal Siakam🙏🏾👪🏀さん(@pskills43)がシェアした投稿 -

 

シアカムは悲しみと痛みでぼんやりしたシーズンにWAC Freshman of the Yearに選ばれた。次のシーズンである2015-16年には平均20.2得点、11.6リバウンド、そして2.2ブロックを記録し、WAC Player of the Yearに選ばれた。“パスカルが彼の父親の死を経た後、成長にさらに情熱を感じた。彼は父親を誇りに思う動機付けとしてそれを抱いていた。"とメンジーズは語った。

 

シアカムはNBAの世界に飛び込むことを決意し、ラプターズは彼をニューヨークのBuffaloでのドラフト前のワークアウトに招待した。ワークアウトの前に、彼はスカル・ラビシーレとポートルに挨拶を交わした。しかし、グループに分分けられたとき、ポートルとラビシーレは1つのバスケットに案内され、パスカルは第2層と見込まれる選手たちと共に別のバスケットに配置された。

 

“僕は夢中になったよ。”とシアカムは言う。“僕にとって、これまでで最高のワークアウトだった。僕は腹が立って、そのようにプレーしたよ。

 

ラプターズのドウェイン・ケーシーHCは、ディフェンシブなスタンス、フットワーク、ボールの追求に注目した。しかし、彼がもっとも買ったのは、シアカムのエネルギーだった。“彼は私が見たどの選手よりも最高のモーターを持っているよ”とケーシーは語る。

 

2週間後、トロントは2016年のドラフトでシアカムを27位で指名した。それから3ヵ月後、ワシントン・ウィザーズとのプレシーズンゲームの前夜、シアカムは4年間で初めて母親を目にした。彼女はDCエリアに住んでいたライサーに会いにきて、パスカルのプレーを見た。

 

父親が死亡して以来、パスカルは一度もその腕に母親を抱きしめていなかった。ジェームズは、兄弟全員が同じ部屋に一緒にいるのは、16年ぶりだと推測した。ビクトリアは、パスカルがより大きく、より強く、より大人になったように見えると述べた。彼らはホテルの近くのレストランでピザを食べ、出られなかった誕生日、休日、人生の節目のことの隙間を埋めようとした。パスカルは、その訪問中の母親がとてもストイックであったと言う。“彼女は感情的になるのを見せたくなかったようだったね。でも、後で泣いたって確信してるんだ。”

 

5日後、パスカル・シアカムが最初に見せたNBAの試合は、これまでにプレーした中で最高のものだった – ルーキー・スターターとして。

 

 

↓お母様にも素敵なプレゼントになりましたよね。きっと。

 

 

 

パスカル・シアカムは、5年近くの間カメルーンに戻っていない。彼は、バフィア、神学校、そしてコリンズ父親から学んだ難しい教訓に立ち返っていることに気づく。神学校の親友、ルドビッチ・ジッチェムは、カメルーンでの宗教的訓練を続けており、シアカムは故郷からのニュースを受け取る。ジッチェムはビクトリアの様子を確認し、時には旧友に電話する。

コリンズ神父はシアカムを司祭に育てることができないことを理解していたが、彼は十代の彼に人になることを教えることはできると考えた。彼が神学校を離れた数年後、シアカムはNBAの選手になるという夢を実現した。

2017年5月10日、シアカムの電話は夜中に激しく鳴った。それはジッチェムであった。シアカムの心臓はドキッと鳴った。

 

違う、僕のお母さんじゃない。お願いだ、お母じゃありませんように・・・彼は思った。“君のお母さんは元気だよ。”ルドビッチは保証した。それはコリンズ神父だった。彼が自宅で亡くなっているのが見つかっていて、犯罪に巻き込まれたことが疑われていた。

バフィアのビショップであるジャン=マリー・ベノイト・バラの胴体が漁師によってサナガ川から引き上げられた3週間後、謎がさらに深まった。その後の剖検では、コリンズ父親の親戚であるビショップが拷問されて殺害されたと結論づけられた。バフィアの当局は、2人の死亡がつながっているかどうかを調べ続けている。“僕はショックを受けたよ”とシカムは言います。

 

“僕は後悔したよ。少し罪悪感を感じた。解るよね?” 彼はコリンズ神父に言いたかったことがあった。今なお後悔が残っている。

 

今日、シアカムはビクトリアをアメリカに連れて行き、彼と兄弟が彼女を世話することができるようにすることを決心している。3月8日にロケッツがトロントに来たとき、彼はバームーティと話し、2人は一緒に夕食に行った。その夜、彼らは家族、国(カメルーン)、そしてコリンズ父親について話し合った。

バームーティはシアカムがベンチ・モブの役割を担って急成長を遂げたことを祝福した。彼はシアカムがNBAにやってきた、もっとも正統でない、そしてあり得ないような旅を賞賛した。

 

彼らはわずか数年前はバフィアのバンキングルームから6,000マイル離れたところにいて、シアカムはいつも脱出を計画していた。

 

しかし、その距離は確かにそれ以上に大きいものだった。

 

 

原文:ESPN

Inside Pascal Siakam's 6,000-mile journey to the Bench Mob

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

おつきあいくださり、本当にありがとうございました!

 

 

最後に書かれている言葉は本当にその通りですね。

 

しかし、その距離は確かにそれ以上に大きいものだった。”

 

実際の距離以上に、NBAは彼にとってものすごく遠い存在だったに違いありません。

パスカルの人生が、ぎゅっと詰まったようなこの記事、私はとても興味深くて

最後まで和訳の意欲も失せずに、引きこまれて読みました。

本当にたくさんのことがありました。急展開で彼の人生が変わって行く様子がよくわかりました。

これを読んだ後では、彼が今ラプターズでプレーしていることすら不思議に感じますし、

バスケットって技術や才能も大事だけど、やはり熱意や一生懸命さは実を結ぶのね、って思います。

 

司祭になるための神学校からはじまって、バームーティとの出会い

父親の突然の死を見送ることができなかったこと、恩師の司祭の死への罪悪感。

自分がある程度成功して報告や伝えたいことはたくさんあったはずですが、それを成し遂げることができないままなんですね。

 

 

 

その経験があるから、これからも彼は今を後悔しないように必死に頑張って行くんだと思うし

頑張れることをいつも楽しんでいるように見えます。

きっと来季、彼のことをもっと好きになれるだろうし、もっと応援したくなると思います。

彼のこれからのますますの成長を見守って行けたら嬉しいです。

 

 

 

 

あつかましくて申し訳ありません。

最近疲れ気味な私デルフィですが、皆さんの応援が活力になります^^

↓気が向いたらピコってしてやってください。