まずは、能登地震の犠牲者の方々に心よりお悔やみ申し上げます。

そして多くの被災された方々にお見舞い申し上げます。

 

そして、支援物資を運ぶところだった海保の隊員の方々の

悲しい事故に心を痛めております。

殉職された隊員の方々、ご家族の方々へはかける言葉が見つかりませんが

お悔やみ申し上げます。

日本の大事のためにお力を尽くしていただいていた最中に

このような事態になってしまったこと本当に残念です。

 

その一方で、JALの方々の素晴らしい働きによって

乗客全員が助かったこと、日本人として誇りに思います。

どうやら、9人のオーストラリア人旅行者も乗っていたようで、

オーストラリアのニュースで特集を組まれてたのをyou tubeで見た。

 

改めまして、あけましておめでとうございます。

とも言えなくなった2024年の始まりでしたが、皆様いかがお過ごしだった

でしょうか。

 

わたしはといえば、30日に親戚たちが集まって忘年会をして楽しかった。

その後は、ひたすら↓デイヴィッドの自叙伝を読んでた。

 

 

デイヴィッドの自叙伝は、オリジナルはもちろんドイツ語。

わたしも買ったんだけれど、その後、英語→イタリア語と

翻訳されてるんだが、英語の方が読みやすいなと思って出版された時

すぐに買っといた。

 

で、ようやく読み始めた。

チャプターは45あって、今のところ、7番目の「Ida Haendel」のところまで

読み終えたところ。道はまだまだ遠い・・・・。

 

 

 

 

ここまででは、幼少期にパパとどういう訓練をしてきたのかとか

どういう先生に習ったのかとか、初めてのステージデビューの時とか

書いてある。

 

ざっくりいうと、

デイヴィッドがイタリアの出版イベントでも語っていたのだけれど

 

ヴァイオリンを始めたのは、お兄ちゃんのアレックスがクリスマスに

ヴァイオリンをプレゼントされたことやアレックスがパパとレッスンしてたのも

羨ましかったことがモチベーションとなっている。

最初は二人でレッスンしていたんだけれど、パパのプレッシャーが

酷くて、アレックスが脱落してしまった。

 

アレックスは決して能力的に劣っていたわけではないんだけれど、

パパのレッスンは気の毒になるほど厳しかった。

昨日よりもbetterにならなければ終わらなかったし、うまくいかないと

パパは不機嫌になって夕食の食卓は沈黙の食事になった。

毎日それを要求される生活。

そして、ヴァイオリンのオークションハウスを経営していたボンガルツ家

(デイヴィッドの本名)ではちょっとしたお披露目会があって

そこにアレックスも出たんだけど、あんまりうまくいかなかった。

何もかも強権発動で管理されていた二人だったんだけど、

アレックスは、ある時勇気を出してパパに、

ヴァイオリンを続けることはやめる、自分はピアノをやる、と主張した。

デイヴィッドが言うには「自分は兄よりも頑固だった」

からやめなかった。

 

デイヴィッドはその頃は、子供用のスズキヴァイオリン1/16サイズを使って

いたんだそうだ。

 

デイヴィッドの先生は

・4歳〜6歳:Coosje Wijzenbeek

 オランダ人でオランダのHilversum在住のヴァイオリニスト。

 彼女には、ジャニーヌ・ヤンセンも習ってたみたいで、そこで彼女とも

 会ってるみたいなんだけど、あまり頻繁には通っていなかったので

 あまり記憶にはないと言っている。

 

 ちなみにこの間の5歳の時に、デイヴィッドはJugend Musiziert という

 若手アーティストのためのコンテストで1位となっている。

 この時に使っていたのは、すでにスズキじゃなくて、

 ドイツのHornsteiner(ホルンシュタイナー)1/8となってた。

 

・7歳:Saschko Garwriloff(サシュコ・ガヴリーロフ)

 ドイツのヴァイオリニストでケルン大学で音楽を教えていた。

 この頃のヴァイオリンは、フランスのメーカーのJomber(ポール・ジョンバー)

 だった。

 

・8歳〜9歳:Zakhar Bron(ザハール・ブロン)

 日本の天才少女、妃鞠ちゃんが優勝したコンテストで審査員になってた先生ね。

 妃鞠ちゃんをザハール・ブロン・ヴァイオリン・アカデミーに迎えたらしいけど。

 

 ブロンに習っていた時、パパがブロンに意見したことがあるそう。

 と言うのは、パパはもっとちゃっちゃとベートーヴェンとかブラームスの

 ヴァイオリンコンチェルトをやって欲しかったらしいんだけど、

 ブロンは急がなかったんだって。

 振り返ってみると、ブロンは正しかったとデイヴィッドは回想している。

 メニューインは自叙伝の中で10歳でベートーヴェンのコンチェルトを弾いたと

 書いているけれど、デイヴィッドのイメージでは親のプッシュがあったんじゃ

 ないの?ということ。

 ブロンの生徒たちでコンサートをする場があって、その時の花形は

 レーピンとヴェンゲーロフ。

 デイヴィッドも初めてパブリックの場でソロイストとしてモーツァルトの

 ヴァイオリンコンチェルトNo.1を弾いた。9歳の時だった。

 圧倒的な拍手で、その後の記事でも賞賛であふれていた。

 その時、ギャラで500マルクをもらったらしい。

 (日本円だと1989年当時のレートで見ると大体7万円ぐらい)

 自分の貯金にしようと思ってたのに、パパのポケットに入っちゃったって😆

 

そして、10歳の時にプロのマネージャーがつくことになる。

ママがベルリンからレターや電話をもらってた。

そしてある時ベルリンに出かけて行ってHans Adlerからの契約書を持って

戻ってきた。Hans Adlerはコンサートマネジメントのエージェンシーで

彼のクライアントにはベルリンフィル、アンネ-ゾフィー・ムター、

メニューインまでいた。

そして、デイヴィッド・クリスチャン・ボンガルツからデイヴィッド・ギャレット

になった。

彼のおかげで、著名な音楽家に会う機会を得た。

ズービン・メータ、東ドイツ出身の指揮者クルト・マズア、フランス系アメリカ人

の指揮者ロリン・マゼール、元ベルリンフィルの指揮者クラウディア・アバド、

ジュゼッペ・シノーポリ、小澤征爾、のちに先生となるイツァーク・パールマン

などなど。

 

そして彼によって、ハンブルクフィルハーモニーオーケストラの

首席指揮者だったゲルト・アルブレヒトとハンブルクのLaeiszhalle(ライスハレ)

でサラサーテのツィゴイネルワイゼンを弾いた。

デイヴィッドのパフォーマンスはセンセーションを巻き起こした。

10歳の子が弾くにしてはハードルが高いだろうと思っていた批評家や

オーディエンスはG線のパフォーマンスを2分弾いたら、

喜びの囁きが広まっていった。

スタンディングオベーションと拍手が爆発したようだった。

 

ザハール・ブロンは、そのコンサートの後デイヴィッドに言ったそうだ。

デイヴィッドのことを「・・の才能に劣らない」と。

でも、デイヴィッドはその対象の名前を出していない。

察してって感じ。でも自分にとってはものすごい賞賛だったと言っている。

 

このチャプターの中で面白かったのが、衣装の話。

パパはメニューインの大ファンなのでメニューインのように

なんでもしたがった。

メニューインは13歳までステージに半ズボンで立ってて、

あまつさえ足の毛まで剃っていた。その方が若く見えるからと。

だから、この時のデイヴィッドの衣装もメニューインスタイルの

半ズボンだったんだって🤣🤣🤣

それがめっちゃ嫌だったって言ってる。

(*さっきまで、メニューインをハイフェッツって書いてた。

先に読んでくださってた方、すみません)

 

今日は、ここまで。また次のブログで。

次は、イダ・ヘンデルの話。

 

↓件のデビューがこれ。

10歳の子にこれやられたら、鳥肌立つよ。観客もざわついている。

スゴイわ。 

 

 半ズボンだわ。

ママがバッグに穴開けてカメラ仕込んで撮ったらしい😆