ディーダラスのひこーき工房 ~Dedalus's Aviation Studio~ -3ページ目

ディーダラスのひこーき工房 ~Dedalus's Aviation Studio~

「ホップ、すてっぷ、ジャンプしたらそのまま飛んでいけ!」
 "Hop, step, jump and fly away!" This is the studio to build "airplanes" from materials in the storehouse in my brain...

今私が住んでいる集合住宅には、建物のすぐ目の前に結構なスペースがあるにもかかわらず、「駐車禁止」が厳しく決められている。

そうは言っても、定められた駐車場は坂を下ったところ。大量に買い物をしてきたときなどは荷物を持って移動するのが大変なために、建物の前に一時車を停め、荷物を運び込む人も多い。

そういう「一時駐車」の車が数台停めてあるすぐ近くに、ちょっとした空き地がある。昼間は何人かの子供たちが集まり、そこで野球やサッカーをして遊んでいる。


先日、たまたまそのあたりを通りかかったら、ある子供が蹴ったサッカーボールが、駐車していた車の側面にぶつかった。そのときの子供たちの会話。

「あー、ぶつかっちゃった」

「いいんだよ。ここに車停めてる方が悪いんだから」


子供は全てを二分法で考える。
彼らの頭の中にあるのは、「良い」か「悪い」か。
そして、「悪い」に分類されたものは絶対悪だ。それに対しては自分が何をしても許されると思っている。

実際には、車をそこに停めていけないというのは、住人同士の共通の決まりにすぎず、しかもそれを破った者に対して罰を与える権利など誰も持ってはいない。上の例の場合、子供が行ったのは単なる器物損壊であり、車の持ち主から賠償請求されるのは子供たちの方だ。

しかし子供は、一度「約束を破った悪い人」は何をされても良いものだと信じこんでいる。
一方的にレッテルを貼り、そのレッテルに則って、自分には相手を攻撃する無限の権利があると信じ込む。

これは差別の基本構造である。


なぜ子供はこのような思考をするのか。それは、これが最も分かりやすい世界の理解だからに他ならない。
世の中に絶対的に「良い」ものと絶対的に「悪い」ものしか存在しないのなら、自分が「良い」側に属してさえいれば、自分には何も罪が無く、罪を持つ「悪い」を無限に虐げ、無限に搾取することができる。

しかし、人間は本来それほど単純ではない。人には様々な側面があり、一方で善行を行う人間が他方で悪行を行うことやその逆は珍しくない。

そうした複雑な人間の側面を考慮しながら、最良の社会を作る努力をする。それが大人に求められる力であり、責任であるはずだ。


ところが残念なことに、こうした思考の力と責任感を持たず、子供と同様の単純化と差別を行う大人も数多くいる。


このところ話題となっている、「福島県からの避難民に対する差別」も根にあるのはこうした単純な二分法である。
福島県民と聞いただけで「悪」と決めつけ、それに対して自分が何をしてもいいと考える。

こうした差別を行う人間は、自分の無知と思考の幼稚さを恥じるべきだ。

私はこうした単純な二分法的思考と差別を軽蔑している。そして、そうした差別をしている人間をも軽蔑して構わないと思っている。

「『差別する人間=悪』と単純化して軽蔑するのでは、差別している人間と同じではないか」という指摘はもっともだ。しかし、その人たち自身がそうした差別の世界に生きているのだから、彼らのルールに従ってやっている限り、彼らに文句を言われる筋合いはあるまい。
先日不在にしていたせいで、ガス開栓の機会を逃してしまっていたわが家。

電話は全くつながらないので、一計を案じて「引っ越し開栓申し込みページ」から開栓の申し込みをしてみた。
その他連絡事項のところに、「電話がつながりません」と書き加えて。

すると、翌日夜に電話がかかってきて、開栓の予約がとれました。
ただし、相手の時間指定は「午後1時から8時の間にうかがいます」。長い!

でもこの時期だから仕方ない、と仕事で休みをもらって家で待ってました。
そして、やっと開栓!

家でお湯が使えるって本当にありがたい。ありがとう、仙台市ガス局。

調子に乗ってお湯を使いすぎないようにします。
長引いていたガス復旧工事。
全国から助っ人に来てくださっている業者さんのご協力により、昨日とうとう復旧しました!本当にありがとうございます!

が・・・、ガス管は直っても、本人立ち会いのもと「開栓」作業をしなければ、ガスは出ない。

昨日家に帰ったら、入ってましたよ。「ご不在のお客様へ」。

「・・・ガスをご使用いただくためには、作業員による安全確認を実施したうえで、ガスメーターを開栓させていただく必要があります。つきましては、再度お伺いしますので、下記の連絡先までお知らせくださいますようお願い申し上げます。」

その「下記の連絡先」。「災害復旧開栓作業専用ダイヤル」の番号が一つしか書いてないのを見て、イヤな予感がしてましたよ。ええ。

予感的中。何回かけてもかかりゃしない。そりゃそうだ。この一つの番号めがけて、同じように不在票を置かれた何万人という人が同時に電話してるんだろうから。

思うに、うちみたいな集合住宅では、前日に「行きますよ」っていう張り紙を入り口の掲示板にでも貼っつけておくだけで、不在の人は大分減ったんじゃないだろうか。

仙台市ガス局のホームページを見ても、この「電話がつながらない」ことに対するフォローは「おわび」以外何もなし。「電話が繋がらないので、こうします」的なことは何もない。

仙台市ガス局

一度不在にしていた家は、いずれ電話が繋がるまで我慢していろ、ということなのだろうか。


直してくれたのは有り難いけど・・・がっかりしてしまう手際の悪さだなー。
7日、震度6強の最大余震。その瞬間に口をついて出た言葉は、「もう、いい加減にしろよ!」
無意識のうちに、天災を、天という名の「自分以外の誰かの意志」と思っているのだろう。

さて、余震は本震のひずみから生まれるものとされるが、これは物理的なものに限らない。
人間の心にも、大きな揺れのあとにはその余震とも言える「揺り返し」が来る。

今回の震災におけるその一例が、「自粛」に対する揺り返しである。
東日本大震災の後、派手なイベントは不謹慎だ、エネルギーの無駄遣いだ、という判断で、中止もしくは延期というムードが高まっている。
しかし、特に春の恒例行事である花見を巡り、こうした自粛ムードに異論が上がっている。「経済を回すため」にも、イベントはどんどん行うべきだ、というのがその主なものだ。

そしてまた、「日本人の尊厳」にも揺り返しが来つつある。
震災直後、世界から賛嘆された日本人の冷静さと団結力。海外メディアの報道を機に、こうした日本人の性質を見直す風潮は日本国内にも一気に広まった。
日本のメディアはこれを日本人の美徳として繰り返し報道しているが、その際に追加されて出るのが、「これは日本人が持つ『横並び意識』という欠点の裏返しである」とか、「これが悪い方に働くと、『リーダーが育たない国』」となってしまう」といった指摘だ。気のせいか、日が経つにつれてこうした意見は増えてきているような気がする。


こうした心理的な揺れと揺り返しは極端から極端へと走る傾向がある。これから「花見のどこが悪い!」と開き直って騒ぐ人たちも出るかもしれない。「日本人はもっと自己主張しなきゃだめなんだよ!」と日本人批判も始まるかもしれない。

もちろん、こうした揺り返しの意見にも一理がある。しかし、揺れであろうと揺り返しであろうと、全てを一括りにする態度には問題がある。全てを自粛するのが極端であるのと同様、全てを解禁にするのも極端だ。日本人の一つの特徴を全肯定するのが極端であるのと同様、一つの特徴を全否定するのも極端だ。

こうした極端な議論が交わされる中、揺れがどう収まっていくのかを被災地の人間は見ている。そして、揺れが収まるなかで自分はどこに立つべきかをも見ている。

被災地の人間にとっては、揺れも、揺り返しも、自分以外の誰かの意志なのだ。
4月2日のNet Research News より。

多くが不適切と考える「想定外」の表現。「ずさんな設計は想定外ではない」「起きたことを想定できたというのは後出しじゃんけん

(以下、記事より抜粋)

先月11日に発生した『東日本大震災』以降、様々な識者や関係者から「想定外」という言葉が頻繁に使われています。先月23日には、こういった状況を受け て、社団法人 土木学会・公益社団法人 地盤工学会・社団法人 日本都市計画学会それぞれの会長の連名で「われわれが想定外という言葉を使うとき、専門家としての言い訳や弁解であってはならない。」といった共同緊急声 明も発表されました。

先月27日から実施されている「【大震災】想定外という説明は適切? 」と題したlivedoorネットリサーチには2,844件の回答が寄せられており、現在、「適切」と回答した方が12.1%、「不適切」と回答した方が87.9%という結果になっています。

(ここまで)

今この時期にこういうアンケートをとれば、大半が「不適切」と答えるのは当然だろう。
しかしこの記事を読んでいて私が気になったのは、「適切」という回答の中のこんな意見だった。

「想定外の津波」が言い訳でケシカラン、というなら、その津波で亡くなった人たち、また家族を助けられず痛恨の思いでいっぱいの人たちにも“想定外”の津 波で逃げられなかった、助けられなかった、は言い訳でケシカランとなる。被災地域の自治体が取り組んできた防災対策、津波対策もみな全てがケシカランとな る。それで何が解決になるのか?東電とて津波の被害者だ。」

そもそも「適切か、不適切か?」という二分法には、その問い自体に一種の詐術がある(良いか悪いかなんて、そんなに簡単に決められるものではないのだ)。そのため、少数派の意見は極端に聞こえてしまうことが多い。
まあ、そのことを考慮したとしても、この意見にはなかなかインパクトがある。

この意見の中で、明らかに間違っているのは、東電の「想定外」がケシカランと言うなら、「津波で亡くなった人たち、また家族を助けられず痛恨の思いでいっぱいの人たち」も同様にケシカランとなるではないか、という部分である。

個人と、公共の事業に関わる企業を混同してはいけないだろう。「ケシカラン」のは、それによって多くの人が被害を受けるからである。個人が「想定外」の津波でその家族を亡くしたとして、そのこと自体が多数に二次被害をもたらすわけではない。一方、東電はその「想定外」の事態に対応できなかったせいで、今後多くの人に二次被害を与え続けることになるだろう。この違いは無視できない。

ただ、「被災地域の自治体」も同様に想定が甘かったせいで多数の被害者を出したのではないか、そうした自治体も同様にケシカランと言うつもりなのか、という指摘にはちょっと考え込んでしまう。なるほど、と思える部分がなくもない。

しかし、私がここで問題にしたいのは、天災に備える人たちの「想像力」と「誠実さ」だ。

たとえば今回津波によって町が一つ消えてしまった、南三陸町のことを考えてみよう。
南三陸町は、大津波のことを想定していなかったわけではない。チリ地震のときの津波の高さを示す表示が町のあちこちにたてられ、毎年津波避難訓練も行われていた。

(参考)南三陸町での津波への備えについて、2010年に書かれたブログ
「チリ地震津波50年」

5.5メートルの津波が来たというチリ地震津波を教訓に建てられた防災庁舎は3階建て11メートル。チリ地震津波並か、それを多少上回るくらいなら持ちこたえられるという計算だったのだろう。しかし、実際に襲ったのは15メートルの波だった。

南三陸町の人々、自治体には、「想像力」と「誠実さ」があったと私は感じる。津波がまた来ることをみんなが想像しており、それに対して十分と考えられる備えをしていた。しかし、実際に来たのはそれを遙かに超えていたのだ。
とても悲惨な結果がもたらされたが、南三陸町の人々に想像力と誠実さがある限り、きっと町を復興したときには各所にさらなる工夫を凝らし、天災へのさらなる備えを固めるに違いない。そう思わされる。

翻って東電はどうか。
2009年に、過去の歴史からM8.0以上の地震・津波発生の危険性を指摘されたときには「それは歴史上のこと(だから、真面目に考えるに値しない)」と退けた。過去の津波を元に東電が想定した津波の高さは5.4~5.7メートル。そして、その想定のもとに、東電はむきだしの海水ポンプを5.7メートルの場所に作った。ギリギリにもほどがある。

(参考)「福島第一原発事故、生かされなかった警告

とても危険な物質を扱い、下手をすれば周辺地域だけでなく、東日本全体、あるいは日本全体が危機にさらされるような施設を管理しているのに、彼らが発する言葉や対応にはその自覚と、そこからくる想像力も誠実さも感じられない。

想像力と誠実さ。この2つが無い者は、必ず同じ過ちを繰り返す。

まとめると、こうだ。
想像力を駆使し、誠実さを持って津波に備えていた、それでもダメだった、というのなら理解できるし、まだ信頼できる。これからの対策もきちんとしてくれるだろうと思えるからだ。しかし、これまで想像力も誠実さも持たずに対応してきた者が、今回のことを「想定外」の一言で済ませることは許されない。

多くの人が東電に対して感じる憤りの原因は、ここにあるのではないかと思う。

上で挙げた回答者の最後の部分に、こう書いてあった。
「それで何が解決になるのか?東電とて津波の被害者だ。」
「それで何が解決になるのか?」という質問にはこう答えよう。
「彼らが自分たちに想像力と誠実さが足りなかった、と自覚することが、未来の安全対策の第一歩となるのだ。」

そして、「東電とて津波の被害者だ」という意見にはこう反論しよう。
「確かにそうだ。しかし、彼らは津波の被害者であり、津波後の加害者でもある。一つの天災で自分たちが加害者となり得るということを、彼らが事前にどこまで想定していたのか?想定外だと言う前に、『ここまでは想定内だった』ということを国民に示してみればいい。そこに想像力と誠実さがあれば、国民は納得するだろう。」