人と会ってコミュニケーションを取る時は、相手の顔を見ながら話すものだ。
仮に、相手の人の顔を凝視できるほどの間柄でなかった場合であっても、相手の顔の周辺(衿元とか、付けているピアスとか、あるいは背景にあるものとか)を見ながら話したりするものである。
フェイス トゥ フェイス という言葉があるように、人は顔を通して他人と繋がる。
もしも、顔のない人がいたら(そういう人はいないが)、君はいったいどこを見て話したらいいのか?戸惑うことだろう。
手や足をじっと見ながら話しても、相手と繋がっている感じはしないだろう。
パラリンピックなどに出ている競技者たちは、手や足を失っていても、顔は生き生きとしている人が多い。
手や足は全くの健常者であったとしても、もしも顔がやけどなどでケロイド状になってしまったら、人はきっと生きてはいけないような気がする。
現代の形成外科の技術をもってしても、目(瞳)や口(唇)などがケロイド状になれば、その復元はできない(鼻や頬や顎や髪の毛などは、なんとかなるが)。
実際に、戦場で顔に人には見せられないような大きな傷を負った人が、四肢はなんともないのに、自殺してしまったというケースはあったようだ。
たとえ手や足を失ったとしても、顔さえなんともなければ、人はそれだけでも前向きに明るく生きてゆけるものなのだ。
顔は、身体の中で、最も大切な部分なのだろう。
それでも人は、顔に少しぐらいできものが出来たり炎症が起きても、あまり病院には行きたがらいのは何故だろう?
指の爪が剥がれたり、手や足が骨折したり脱臼したりしたら、大騒ぎして病院に行くくせにね。
ps
美人でなかったため、風俗の仕事に就いても、一切お客がつかない女性がいた。
そんな悲哀を、小説「依存姫」(菜摘ひかる著)を読んだ時、女の人は顔のことでこんなにも苦しむものなんだ、と感じたことがあった。
psのps
1970年代に、アメリカから輸入されたキャラクターの中に、ホリーホビーという作家が描いたイラストがあった。
大きな帽子を被り、横顔を隠してブランコに乗る少女。
帰宅途中のような陽だまりの中の田舎道を、愛犬と一緒に歩く後ろ姿の少女。
ホリーホビーの描く少女の絵には、どれも顔が描かれていなかった。
だが、表情はなくても、その哀感はそのシュチュエーションから充分に伝わってきた。
いつも一人ぼっちの少女だったが、それでもそこに淋しさは全く感じられなかった。
淋しさではなく、ただ哀感があった。
ポジティブでもなく、ネガティブでもなかった。
安部公房の「他人の顔」を読んでいたら、ふとホリーホビーのイラストが甦ってくるのだった。