永六輔さんが60代だった頃、刑務所へ慰問に行ったことが何度かあるそうです。
男の刑務所へも、女の刑務所へも行きました。
いわゆる女囚の人たちが入っている女の刑務所に行った時に、永さんは異様な体験をされたようです。
女囚たちの眼が獲物を狙うかのように、永さんを執拗に睨めまわしていたそうです。
女の刑務所内には、男性の刑務官は一人もおりません。
刑務官も事務官も全て女性なのです。
お酒も煙草も化粧もインターネットも厳禁のコンプリートな女だけの社会が、そこでは見事なまでに構成されています。
女囚たちの中には、3年も、5年も、あるいは人によっては10年も、生身の男性の姿を見たことがない人がいます。
60代の少々くたびれたオッサンの永さんでも、彼女たちにとってみれば、何年かぶりに見る生身の男性の姿だったのです。
そういう絶対世界のことを、僕は時々イマジンすることがあります。
僕らが生きている地上(この世)は、相対的な世界です。
物事や現象には、全て相反するものが存在しています。
生があるから、死もあります。
(生だけでは存在しえません。生の中には死もセットとなって含まれています)
北があるから、南もあります。
(どんなに北の方角へ行ったとしても、そこには南も必ず含まれています)
同じように、男がいるから女もいます。
光があるから闇もあります。
拡大と縮小、ドライとウエット、コレクトとインコレクト、遠いと近い、大きいと小さい、優しいと厳しい、暑いと寒い....
何であれ、全てのものには対極の存在や現象が必ずあります。
どちらかの一極だけしか存在しない絶対世界とは、
僕らが死後に行く世界であり、それは実は、生まれる前にいた世界のことでもあります。
その世界には、ポジティブしかありませんでした。
肯定形しかありませんでした。
不可能なことはありませんでした。
地上では4大悲しみと云われている<老、病、死、別>も、そこにはありません。
いつでも好きな年齢のままでいられたし、病気なんてないし、死もないし、別離もありませんでした。
もちろん事故もないし、災害もありません。
でもそこでは、愛が生まれませんでした。
愛は、不幸や不運やネガティブなことの中から生まれるものだからです。
僕らは、愛を求めるために、このネガティブがいっぱい漂っている地上に降りてきたのでしょう。
ネガティブがあるからこそ、この地上は愉しいのです。
ポジティブだけしかなかったら、ものすごい退屈だとは思いませんか?
僕らは、その退屈さから逃れるために、この地上に降りてきたのです。
与えられた厳しい条件の中で、考えて生きることって、きっと愉しいものなのです。
苦しいって、ある意味、とっても欣ぶべきことなのです。