死には青い薔薇を
ほんの少しの歯車が狂えば、積み上げたものが、いとも簡単に音を立てて崩れ落ちる。
そこに大きな力や労力や、ましてや時間という概念すらない。
ただ、自然的に歯車が少し狂うだけでいいんだ。
たったそれだけで、全てが、パーフェクトに、崩れていく。崩れ続けていく。
そこに残るのは、客観的には、空虚な空間と時間が、主観的には絶望と無念さがそっと残る。
それはちょうど、葬式の後、死者を火葬し、多少の酒を飲んで、あらゆる人たちが涙も見せず
あらゆるところへ帰っていき、家族しかいなくなったあの時間と空間と感情に似ている。
死についてもう少し考えてみよう。
僕は、生を受けた瞬間からその最期にある死に向かい、そこに着くのを”死”と捉えている。
小さいころからなぜか葬式に出る機会が多かった僕は、同年代の多くの人間よりも
早い段階から死について考えさせれてきた。
死をとてつもなくおそれた時期もあったけれど、今は通常の物事と同じように捉えているつもりだ。
それは、髪質や爪の形のように、いくら嫌っても、恐れてもどうしようもないことで
生と死は切り離せないものなんだろうな、と理解している。
死は、ある場合においては突然、ある場合においてはゆっくりとやってきて命が奪われる。
死は、生活のあらゆるものに似ているんだろうな、とも思う。
生(活)に含まれ、かつ、突然だったり、ゆっくりと訪れ、何かが奪われたり、失われる。
それは、人間関係だったりもするし、仕事かもしれないし、何でもいい。
生活において、突然あるいはゆっくりやってきて、何かがなくなる。
よくあることだ。そう、よくあること。それが”死”。
生活に含まれる"死"。
*
彼女は、彼からの電話とその会話により、改めて僕との距離を測り直した。
そんな些細な電話と会話により、また僕は失われた。
それは、突然やってきて、パーフェクトに彼女のすべてを奪っていった。
ヨクアルコトダ ソレガ”シ”
ここに残るのは、希望なき未来、すなわち絶望と、なみなみとある彼女への想い。
死をとめることはできないのに、僕は彼女に手紙を書いた。
彼女の返事は、基本的に、全般的に、一貫して、総論も各論も
英語でもポルトガル語でも、NOだった。100%のNO。
体の芯の力が抜け、もう全てのやる気がなくなった。
生きる意味とは何だ、と自分に問うた。
生きることは、幸せになることなんじゃないのか、という稚拙な答えが出た。
これほど愛していても、誰一人幸せにできない。
もちろん、自分も幸せではない。
”What a wonderful world” が空っぽの頭の中で流れた。
I see trees of green red roses, too.
木々の緑、赤く咲くバラ
I see them bloom for me and you.
僕と君のために咲いている
And I think to myself "What a wonderful world !"
ふと思う、”なんて素晴らしい世界”なんだろうって。
(訳:おれ)
Wonderful Worldなんてない。
僕と彼女のためには、木々は緑になっても、赤い薔薇は咲かない。
僕にあるのは黄色の薔薇で、2人の間にあるのは青い薔薇。
花言葉は・・・嫉妬と、
不可能。
* * *
死に飾る花として、ちょうどいいだろう。
いつものタバコと、いつも飲んでるウィスキーも添えてくれ。