日本歴史に見る運の強い人 | 真空管のアナログ世界に魅せられて

真空管のアナログ世界に魅せられて

「温故知新」と言う言葉が有りますが、真空管は将にそんな存在だと思います。真空管を今では知る人も少なくなりましたが、デジタル全盛の今でも、真空管のアナログ技術を学び、真空管ラジオを楽しむ人は沢山います。私もその中の一人です。真空管を愛しむ想いで・・・・。

万事運がいい人は羨ましい限りです。運さえ良ければ、危難を避けることが出来ますし、生命さえ全う出来ます。もちろん、その得な性分は後でわかることですが・・・・。



歴史上の人物でその候補を挙げるとすれば、私の認識では有りますが北条時宗、源 頼朝、豊臣秀吉の3人が挙げられます。



以下、史実から運の良いことを検証してみましょう。



1.北条時宗


執権当時に蒙古(モンゴル)のフビライによる文永の役(1271年)と弘安の役(1281)の2度の来襲を受けました。文永の役では大暴風雨の天恵もあって、元軍に壊滅的な損害を与え、これを退けることが出来ました。



その10年後の1281年に弘安の役が勃発、再度元軍の来襲を受けますが、再び大暴雨が襲ったことと、文永の役後、時宗が元軍の再度の来襲を予測し、博多湾に石塁を築くなど、準備怠らなかったことにより、元軍に壊滅的な打撃を与え、再び退却させることが出来ました。



2.源 頼朝


1180年(治承4年)に、300騎を率い旗揚げをしました。その緒戦で平家方の大庭氏と小田原市の石橋山で戦いましたが、予定していた三浦氏3000騎との合流が、豪雨で小田原の酒匂川が氾濫した為、果たせず、結果として大敗します。



破れた頼朝は僅かな人数で、全身ずぶぬれで命からがら、神奈川県真鶴にある「ししどの岩窟」に潜むところを、平家方(頼朝の敵方)の梶原景時に奇跡的に助けられました。



3.豊臣秀吉


羽柴秀吉(豊臣の姓を名乗るのは天下を取ってからです。)と柴田勝家は所謂、相性が悪く、事あるごとに秀吉は勝家に反発していました。



その事件は1577(天正5年)に起こりました。そのころ、信長の命を受けた柴田勝家は上杉謙信と対峙していましたが、戦況思わしくないため、秀吉に勝家の「後詰め」を下命しました。



やはり、軍議で秀吉と勝家は悉く意見が合いませんでした。そこで秀吉が取った行動は戦場放棄でした。秀吉は、勝家には言うに及ばず、信長にも無断で重要な戦線を離脱、長浜に引き上げてしまったのです。



しかし、秀吉は強運の人でした。伊勢の信貴山城の松永久秀が叛旗を翻すと言う、一刻も疎かに出来ない事件が発生しました。ところが、信長の手には、この緊急事態にすぐさま差し向けるべき駒がなかったのです。



已む無く、信長は謹慎中の秀吉に対し、伊勢方面の作戦遂行の軍事命令を出しました。秀吉は幸運でした。それは信長にとっても秀吉を助ける口実が出来たわけで、ほっとした筈。



「天、我に味方せず」のその時、先人のとった行動とか、思考を歴史から学び、その強運にあやかりたいものです。


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