人間が生きて行くために、塩は欠かせません。戦国時代には城攻めの際、兵糧攻めが度々行なわれました。
織田信長が伊丹城を攻めた際も兵糧攻めでした。また、秀吉が鳥取城を攻めたのも同じです。城を囲んで、城内に蓄えた食料の尽きるの待つと言う戦法です。
これらの戦法は攻める側に犠牲が少ないが、攻められる側には残酷な戦法です。
その他に、城を囲んで地下水脈を絶つ戦法もありました。
その外、「命の塩」を絶つ戦法も実際に有りました。
先ず、この戦国時代の勢力図を見てください。武田氏の版図の甲州、信濃は山に囲まれ海に接していません。
ただ一つ、武田氏には日本海の糸魚川から信濃の松本間の「塩の道」が有りましたが、このルートは武田家と敵対関係に有る上杉家の領土を通ることになり使用できません。
塩の道の途中に在る「妙高高原」のお土産
一方、上杉家と今川家、北条家は、それぞれ海に囲まれているので、海からふんだんに塩が得られます。
武田家は今川家とは縁戚関係に有りましたから、駿河湾から塩を確保出来ていました。
ところが、桶狭間の戦で、今川義元が織田信長に討たれた結果、武田家と今川家は敵対関係に成りました。
今川義元の子、氏真は北条家と手を組んで武田家に対し、経済制裁として塩停めを敢行しました。
この結果、武田方の領民は大いに苦しんだわけです。
そんな時、武田家と宿年の敵対関係に有る越後の上杉謙信は、それを見かねて自分の領土から武田方へ「命の塩」を送り武田方を助けました。
これが、世に言う「敵に塩を送る」の謂れと成りました。
窮地に立つ敵すらも助ける謙信の度量の大きさに驚嘆です。




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