今日は3連休の最後の休日。海の日ですね。当地は、梅雨空のどんよりした空から、パラパラと雨を見たり、一時の薄日もある等、極めて天候の不安定な一日でした。お日様が出ない分、暑くは有りませんでした。
久しぶりに江ノ島、、逗子、鎌倉、北鎌倉周辺を一回りして参りました。街中の観光客は、休日と有って沢山見られました。海はヨット、サーフィンが盛んでしたが、大雨の恐れもある所から、遊泳禁止で有ったようです。江ノ島近くの片瀬海岸、由比が浜ともに砂浜に遊ぶ人は時期にしては珍しく少なかったですね。
今回は「行合橋」について紹介します。この橋は江ノ電の江ノ島駅から、約3キロほどのところに有ります。丁度、由比が浜の側を走る、逗子方面に至る海岸沿い道路に存在します。その橋から鎌倉駅までは約7キロの距離です。
「行合橋」から江ノ電の走るを望む。
「行合橋」の標
この橋の名前はどうも意味有り氣で、小説の男女の逢瀬の場面を思わせますが、この橋こそ、日蓮上人が処刑されるに及び、処刑場である龍口寺からの使者が、必死に馬に鞭打ち走りに走り、この橋まで来たところ、鎌倉幕府側からも必死の馬上の使者が処刑場に向うのと、この橋でかち合いました。それ以来、「行合橋」と称されています。
日蓮宗の宗祖、日蓮(1222~1282)は有名な「立正安国論」を著したことで知られています。その日蓮は、自身の奉じる法華経こそ唯一至高のものとし、当時、鎌倉で流布されていた浄土宗、律宗、真言宗などを激しく攻撃しました。日蓮は他宗教を全く相容れない排他的宗教家だったのです。遂には、他の宗派を廃し、法華経(日蓮宗)を唯一の国教にする事まで、時の幕府に迫りました。
日蓮は鎌倉の辻、辻に立ち、命を賭けて住民に説法を続けたわけです。その跡が鎌倉の随所に見られます。
日蓮の辻説法跡(鎌倉若宮大通り辺に有ります)
ここに至り、時の将軍、北条時宗は、日蓮ないしは法華経(日蓮宗)をして、幕政に益しないものと断じ、日蓮を、鎌倉龍口寺近くの龍の口に於いて、処刑する事を命じます。1271年9月12日の事です。ところが、将に首討たんとした所、俄に雷鳴とどろき、処刑が不首尾に終わりました。
時は将に、日蓮がさきに「立正安国論」著し、幕府に強く訴えていた国難が、元寇の役(1273)として、現実のものになる気配濃厚になった事と、時宗の母方に、病に臥せる人がいましたが、病状思わしくないなどの事情があり、宗教に携わる者を、処刑する事を大いに懸念して、日蓮処刑を急遽中止する事になった訳です。
龍口寺(処刑場がこの近くにあった)
江ノ島から数百メートルの位置にある。
現代であれば、携帯電話で簡単に、処刑役人に命令を出す事が出来たでしょうが、鎌倉時代では、如何せん早馬しか手段が無かったわけですね。日蓮さんも危機一髪のところで、命一つ助かった訳ですが、その後、佐渡島に配流に成っています。この事件から、二年後に、元寇の役が勃発します。
今回は、「行合橋」を中心にお話しましたが、歴史の散歩のとき、この様な些細な事でも耳学問なり、パンフレットなどで予備知識として心得ていると、その散歩はもっと違った味のあるものと成るに違いありません。