◇◇私の紀行・・・・島田の旅。 | 真空管のアナログ世界に魅せられて

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「温故知新」と言う言葉が有りますが、真空管は将にそんな存在だと思います。真空管を今では知る人も少なくなりましたが、デジタル全盛の今でも、真空管のアナログ技術を学び、真空管ラジオを楽しむ人は沢山います。私もその中の一人です。真空管を愛しむ想いで・・・・。

電車この4月1日から3日ほど、私の姪の住む島田へ、気の向くままの小旅行に出かけて来ました。今回は私の島田見て歩き紀行を紹介します。


2日は、激しい雨で行動を束縛されましたが、幸い、3日は打って変わって良いお天気だったので私の目的は叶いました。

島田は静岡県の中部にあり、大井川の下流域に位置します。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と馬子唄に歌われ有名です

しかし、私が見たところ、現在の大井川は上流に1957年、「井川ダム」が出来た所為で、水量は少なく、何の苦もなく渡川できます。天気の良い日は、子供の川遊びも可能なほど水深は浅く穏やかな流れです。


資料を調べてみますと、この大井川は室町時代、急流で深く危険な川で有った為、渡川の旅人を、地元の人が助けていたようです。川幅は島田辺りで800メートルは有ります。

現在は、JRの立派な鉄橋があるほか、「蓬莱橋」といわれる木製の歩道橋が有ります。この橋は木製歩道橋としては、世界一長く、ギネスに登録されているようです。長さは897メートル有ります。


徳川時代に成っても、この大河に橋は架けられる事はなく、人の肩車や、連台といわれる、木材を組んだ簡単な筏風の乗り物に、人を乗せ川越し人夫が担いで川を渡しました。


川越しの料金は水深で変わったそうです。梅雨とか洪水で水が増量すれば、旅人の路銀も目減りしました特に旅人を悩ませたのは、夏の洪水だったと思います。水深が4尺5寸(136センチ)になったら足止めになったようです。何日たっても、水が引かなければ、そこで動けません。路銀の豊かな旅人であれば、我慢できますが、大多数と思える旅人にとっては、路銀が乏しくなるし、旅の不安が増幅し、はらはらする辛い毎日だった事と思います。ついに旅を断念する人もいたでしょうし、旅の疲れで病になる人も多数有った事と思います。実際そこで、行き倒れの旅人も多数有ったようです。その反面、皮肉な事ですが、川岸の、旅籠とか、茶店の類の商は繁盛しました。地元にとっては、いい収入になり、潤った事が想像されます。


私の個人的見解ですが、交通の便を第一に考慮すれば、当然、橋を架けるのが当然なのですが、幕府は西方の押さえとして、意図的に橋を架けなかったものと思います。便利な橋が架けられていれば、幕府に悪しき思いを抱く輩などが、一気に大軍を移動できますからね。橋を架けない事は自然を利用した強力な防御だったのでしょう。

それに、川越しにより、幕府にとっては安定的な収入源でしたし、幕府が人夫を雇うことにより、地元の雇用対策にもなりました。お互い安定的な収入が得られることは何としても助かった事でしょう。


島田にある「島田市博物館」に入館しましたが、「旅と旅人」をテーマに、広く開放されています。平成4年5月開館ですが、立派な鉄筋コンクリート造りの建物です。しかし、和風屋根の造りで、歴史の雰囲気を損なう事はありません。一階は刀剣、島田髷、民具などを展示し、二階は資料館になっています。但し、私が訪れた4/2は整理中とかで二階を見ることはできませんでした。

当時は、個人の旅の自由が認められていませんでしたから、伊勢講のように、村人が出し合った浄金を、代表者が2、3人で代参することが普通でした。入銃に出女(江戸から出立する女)はスパイ防止の意味で厳重に監視されていました。弥次喜多道中のご両人も、お伊勢講で旅に出た訳ですからね。


当時の女性の流行のファッションであった、島田髷は曽我兄弟の兄と恋仲になる大磯の遊女虎御前が考案したというのも面白いですね。


大井川関連に重点を置きすぎたように思いますが、以上で私の島田見て歩きを終わります。


広重大井川駿岸


廣重「大井川駿岸」江戸より23番目の宿

島田蓬莱橋トリミング

島田「蓬莱橋」