□□戦国武将の末裔・・・その後。 | 真空管のアナログ世界に魅せられて

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「温故知新」と言う言葉が有りますが、真空管は将にそんな存在だと思います。真空管を今では知る人も少なくなりましたが、デジタル全盛の今でも、真空管のアナログ技術を学び、真空管ラジオを楽しむ人は沢山います。私もその中の一人です。真空管を愛しむ想いで・・・・。

ロケット本日、「王JAPAN野球」キューバを下し、悲願の世界一達成。

しかし、ここまでに至る道は険しいものが有りました。アメリカ主審の不可思議な判定、王監督、抗議するも通らず。また、対韓国戦で、3連敗かと思われましたが、此処は日本が勝ち、3連敗はかろうじて回避できました。しかし、翌日はアメリカとメキシコ戦。


ここは、誰の眼にもアメリカがメキシコを下すと予測しました。この時点では、日本に、決勝進出の芽は全く有りませんでした。流石に、野球評論家も悲観的でしたね。



しかし、ここにドラマが有りました。 まさかのアメリカ敗退。一旦、消えたかに見えた芽が生き返りました。日本準決勝進出決定。何とした事!メキシコが日本に勝機を授けてくれました。この状況を例えれば、敵に塩を送られたと言う事に。


私は、この一連の成り行きを見て、学びました。人間、如何なる局面においても、「一筋の光明が有れば、結果が出るまで諦めるな!」と言う事でした。


さて、本題に戻りますが、戦国武将は、天下を取る為に、相手を攻め滅ぼした後は、それで終わらず、敵方の一族を皆殺しにする事が普通に行われていました。滅ぼされた側から見れば、恨みが有るから、仇を討たんとしますからね。後顧の憂いを絶つ為には、情けを掛けることは致しませんでした。


時代は遡って、平家の平 清盛が、源 義朝の3人の子(頼朝、義経、範頼)に情けを掛け、助けたが為に、自らが滅ぶ運命に遭いましたからね。


戦国時代の大物武将と言えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が挙げられますが、この3人の中で、意外や、家康は比較的情が有りました。


武田信玄の子、勝頼は信長と同盟関係にあった家康と激しく戦い、天正10年(1582年)甲斐の天目山で自刃ましたが、このとき、勝頼の女子(当時6歳)は、駿河の田中に落ち延びました。家康はこの女子を探し出し、家臣、高力正長に預け、扶持まで与えています


この当時、家康は信長の配下では無く、同盟関係でしたから、余り、信長に気兼ねしなかったのかも知れませんが、思い切った大胆な事をやったものです。

後に、家康の命で幕臣、宮原勘五郎義久に嫁がせまます。勝頼の一女は嗣子、晴克を生しました。


その他、家康は、秀吉の子、秀頼の女子の命も助けました。後に、鎌倉の駆け込み寺と言われた「東慶寺」の住持、天秀尼その人です。天秀尼は正保2年(1645年)に37歳で没っしましたので、秀吉の血はここで絶えたとする説が一般的です。勝頼の男子国松は処刑を免れ、九州に逃れたと言う説も有りますが、これは、義経は死なずの類の「判官びいき」の一種と私は考えます。


勝頼には、盲目の兄、龍芳が居ましたが、その子、道快の筋は、幕府により、元禄13年(1700年)、甲斐に500石を与えられ、武田氏の再興を許されました。


この様に見て行きますと、家康は、敵方であった末裔に対し、寛容で有ったことが見受けられます。もっとも、武田氏と言えば、当時の最高のブランドですから、滅ぼすに惜しいと言う事も有ったり、助けるにしても女子だからと言う思いも有ったとは思います。しかし、家臣に嫁がせるなどは、「おお甘」の処置と言えないでしょうか。それとも、名門、武田源氏を惜しんだが故でしょうか。


皆さんのご感想は如何ですか?お時間のある時に、皆さんご自身の歴史観みたいな事を反芻して見てください。


四国高松城


四国「高松城」織豊期「生駒親正」築