真理の奥にあるもの。
それは無です。
何も無い。
でもその意味するところはある。
真理の奥に答えとして何も無いからこそ、
生きている生きとし生けるものの命、愛、友情などが
大事ということ。
(かつての友人が言ってたことは当たってた。)
でも私は思うの。
生まれながらに愛や友情が当てにできないから、
それを幼少の頃からわかっていたから
真理を目指したのにそれが愛や友情に回帰するなんて
それは結局、性同一性障害者にとって生は絶望ってことじゃん。
たとえ世界の答えが愛や友情でも
それらを大切にしない訳じゃないけど、
私はそれをメインに生きたくない。
私を大切にしない世界をなぜ私が大切にする必要があるの!?
(ホリックの雨童女っぽい言葉w 何年前の話?w)
ではどうすれば良いか?
一番奥には答えとして無と愛と友情がある。
一番奥にはね。
途中の他の道になら、何か救いになるものがあるかもしれない。
それを探そうと思います。
だから性同一性障害者は奥(すべての根本)まで行っちゃダメ。
途中に落ちてる真理でないものが人生の答えになる。
ということは、一見、無駄で無意味と思われるものが
性同一性障害者の人生にとって
大きく有意義に作用するということになる。