2024・7月京都回想記⑪〜後白河法皇御所聖跡 法住寺 | 菊蔵の「旅は京都、さらなり」(旅と歴史ブログ)

2024・7月京都回想記⑪〜後白河法皇御所聖跡 法住寺

仕事は忙しいは、朝はオリンピックでメダル獲得シーンが続くはで、更新が滞ってしまいました😅。
 
それでは7月京都回想記のつづきです。
 
実は2日目に拝観した寺院は一ヶ所のみ。
 

 
後白河法皇御所聖跡    法住寺
 
 

 
法住寺殿蹟の石標
 
 

 

 
表門と寺号標
 
 
 
法住寺
 
東山区三十三間堂廻り町にある天台宗の寺。永延二年(988)藤原為光が創建。本堂(釈迦堂)をはじめ法華三昧堂・常行三昧堂などがあったが、長元五年(1032)に焼失。現在の法住寺は、永暦二年(1161)後白河上皇が御所法住寺殿を造営した際、御所に付属して仁安元年に不動堂、安元二年(1176)には千体の千手観音を安置する千手観音堂を建立、ほかに念仏堂、小御所などを建立歯たことに始まる。長寛元年(1163)に蓮華王院、承安三年(1173)に最勝光院が御所の中に別の区画を設けて創立された。安元二年建春門院が没すると御陵として法華堂が建立され、建久三年(1192)の後白河法皇崩御にも新たに法華堂が建立された。その後法住寺は後白河法皇の御陵寺として維持されたが、明治維新で御陵と寺地を分離、一時大興院と称した。現在、本尊は不動堂安置の身代り不動尊。
 
『京都大事典』(佐和隆研・奈良本辰也・吉田光邦ほか 淡交社 昭和五十九年)
 
藤原為光は、寛和元年(985)に亡くなられた夫人と弘徽殿女御(忯子)の菩提を弔うために建立しています🤓。
 
 

 
玄関
 
 

 
鎮守社
 
豊川吒枳尼天・厳島神社弁財天
 
 

 
百度石
 
 

 
本堂前庭
 
 

 

 
本堂
 
境内自由だから、三十三間堂界隈を散策する時は必ず参拝してます😄。
 
御本尊の不動明王像は、慈覚大師円仁作と伝え、木曽義仲の法住寺殿襲撃の際、不動明王が身代りになったことから、身代り不動と呼ばれるようになりました。
 
お不動様が天台座主明雲となって身代りになった話ですね😊。
 
法住寺は、大石内蔵助が法住寺の不動尊に詣で大願成就を祈誓されており、法住寺が妙法院の院家であることから、宮方を通じて公儀の情勢を伺い、同志の連絡・会合の場所としています。
 
その関係から、大石内蔵助以下四十七士木造が安置されています。
 
 
しかし、四十七士像と親鸞作の阿弥陀如来像は見たことも拝んだこともありません😥。
 
 
 
 
つづく〜
 
 
 
参考   後白河法皇御所聖跡天台宗法住寺ホームページ