古典文学と京都66〜更級日記より(烏丸御池遺跡遺跡・平安京跡/逢坂の関)
何と😳1年半ぶりの「古典文学と京都」ブログです😆。
今年はボチボチ更新していきます😄。
復活一話目は『更級日記』から。
『更級日記』
粟津にとどまりて、師走の二日、京に入る。暗く行き着くべくと、申の時ばかりに立ちて行けば、関近くなりて、山づらにかりそめなる切懸といふ物したる上より、丈六の仏の、いまだ荒造りにおはするが、顔ばかり見やられたり。あはれに、人離れていづこともなくておはする仏かなと、うち見やりて過ぎぬ。
ここらの国々を過ぎぬるに、駿河の清見が関と、逢坂の関とばかりはなかりけり。いと暗くなりて、三条の宮の西なる所に着きぬ。
粟津に滞在して、十二月二日、京に入る。暗くなってから京に到着するようにと、午後四時頃粟津を発って行くと、逢坂の関近くなった所で、山沿いにほんの間に合わせの切懸という板囲いをしてあるその上から、丈六の仏像の、まだ荒造りでおいでのが、お顔の部分だけ眺められた。わびしげに、人里離れて所在なさそうに立っていらっしゃる仏像であることよと、眺めながら通り過ぎた。
多くの国々を通り過ぎて来たが、駿河の清見が関と、逢坂の関ほど印象深いところはなかった。とても暗くなってから、三条の宮の西にある我が家に到着した。
参考 『更級日記』現代語訳付 (原岡文子訳注 角川文庫 初版平成十五年)
菅原孝標の赴任地・上総国から都を目指した一家は、瀬田川あたりから都へ向かいます。
丈六の仏像とは『関寺縁起』によれば丈五弥勒仏であり、制作中の弥勒菩薩像を作者は眺めています。
関寺遺跡 時宗 長安寺
午後四時頃出発していますから、逢坂の関に着く頃は暗かったはずですが、作者は清見の関とともに印象深いと述べています🧐。
逢坂山關址
かねよさんはなかったはずですが🤭。どこが印象深かったのかな🤔。
到着した我が家は、三条の宮(一条天皇皇女・脩子内親王の竹三条邸)の西。ということは・・・
「烏丸御池遺跡・平安京跡」の石版辺り(東西・烏丸通と東洞院通、南北が御池通(三条坊門小路)と押小路)が菅原孝標の邸宅になります。
ここには三条上皇の三条院がありましたから、三条上皇崩御後に購入したと思われます🤓。
父の資忠、子の定義がともに大学頭文章博士になっていることから、官職とは無縁な凡庸な人物と思われがちですが、その財力は目を見張るものがあります🤗。
石版によると、後鳥羽上皇の押小路殿、足利一門の邸宅、織田信長の宿館とありますね。
この場所、幕末には安政の大獄で幽閉中に病死した人物の邸宅になっています。
烏丸通に沿って立っているから見落としがちな石標。
命懸けで撮った1枚は「梅田雲濱邸址」の石標。
玄孫の昌彦先生に「危ないとこにたってますわ〜」って言ってしまった😆。