京都画像クイズ132の答え | 菊蔵の「旅は京都、さらなり」(旅と歴史ブログ)

京都画像クイズ132の答え

 蔵出し京都画像〜京都画像クイズNo.132。

 

今回は従来と違った解説で更新します。

 

 

 

 ちょっと勉強の時間

 

になるかな🤔。

 

 

 

庫裏の画像だけで、よくこの寺院が皆さん分かりましたね😳。

 

こちらの寺院は

 

 

高台寺塔頭月真院

 

幕末、高台寺党と呼ばれた御陵衛士屯所跡になります。

 

 

 鰻の寝床のような境内。

 

この境内画像は今回の問題の要でした😊。

 

 

実相山 本光寺

 

 

伊東甲子太郎外数名殉難の地 京都市駒札

 

慶応三年(1867)11月18日新撰組は時勢の意見交換等の口実で伊東甲子太郎を近藤勇の休憩所に招いた。その後、酒宴となり、伊東甲子太郎は酩酊。午後10時頃になり休憩所を辞し、千鳥足で木津屋橋通から油小路通に差し掛かった。

 

その時!

 

待ち伏せしていた隊士の繰り出す槍が、伊東の肩口から喉元を貫き、次いで隊士達がいっせいに襲いかかった!。

 

おのれ卑怯な😠

 

伊東は必死に抵抗がするが、ついに油小路の本光寺門前の題目石塔に寄りかかり絶命。

 

最後に「奸賊ばらが〜😖」と叫んだと云われる。

 

油小路事件である。

 

 

題目石塔

 

伊東甲子太郎絶命の跡

 

正解は、伊東甲子太郎でした😉。

 

新撰組は使いを月真院に向かわせ、油小路七条の辻に伊東の遺体を運び、駆けつけてくる御陵衛士を待ち伏せた。

 

月真院から駆けつけたのは七名。彼らは遺体を収容する籠を用意し、遺体を収容しようとした。

 

おのれ裏切り者💢

 

待ち伏せていた新撰組隊士と激しい斬り合いとなり、七名のうち服部武雄、毛内有之助、そして試衛館以来の仲間・藤堂平助も乱闘の中で討死した😭。

 

昔は境内に入れず、伊東甲子太郎外数名殉難之跡の石標と京都市駒札しか見学できなかったので、斬殺された御陵衛士の藤堂平助、服部武雄、毛内有之助も元新撰組ですから正解に含まれますが、「画像の本光寺」境内に伊東甲子太郎の碑があること、絶命地が服部、毛内、藤堂は現在の油小路七条交差点付近ということ、さらに最後のヒント画像に縁があるのは伊東甲子太郎のみ(不動堂村屯所は御陵衛士が月真院に移った後)ということから、正解は伊東甲子太郎になります😊。


御陵衛士が新撰組から分離を認められたのが慶応三年3月20日。不動堂村屯所移転が6月15日。

 

服部武雄、毛内有之助、藤堂平助と解答された方はオマケで半分正解です😅。三名の名前が出れば当然伊東甲子太郎は知っていますから。

 

彼らの四人の遺体は数日間放置され、その後、光縁寺に葬られるが、翌年、伊東甲子太郎の弟・鈴木三樹三郎らにより改葬された。

 

 

泉涌寺塔頭 戒光寺

 

 

 丈六さんだけじゃありませんぜ🤣。

 

御陵衛士は、伊東甲子太郎一派が孝明天皇陵のある泉涌寺戒光寺の湛然和尚に働きかけ、戒光寺が朝廷へ上奏。その後、武家伝奏を経て御陵衛士を拝命した。

 

その関係から、戒光寺に改葬されたのですね。だから、御陵衛士は現在も御陵衛士なんです😤。

 

 

ヒント画像にしてはイケズな油小路塩小路下ルにある道祖神社と不動堂明王院。

 

 

 こっち(道祖神社)じゃくてあっちだニャ😺

 

 

 不動堂明王院

 

西本願寺は新撰組を退去させるために費用の全額を負担し、同寺の所有する不動堂村付近に新しい屯所を建設した。不動堂村の地名は同院に由来するとされます。

 

 

 新撰組不動堂村屯所は、堀川通沿い西のリーガロイヤルホテルに碑文、塩小路通沿いにあるホテル京湯元ハトヤ瑞鳳閣に新選組最後の洛中屋敷跡の碑があります。

 

 

リーガロイヤルホテル敷地内の碑文。

 

こちらを使うか迷った結果、不動堂明王院の画像を使いました🤭。


なぜ、壬生寺、八木邸、西本願寺の画像ではなく、不動堂明王院の画像を使ったのかお分かりですね😊。

 

 

参考文献

 

『図解雑学 新選組』(菊地明 ナツメ社 2001年)


参考サイト


京都風光