橘逸勢研究~貞観十八年の真相と真実 | 菊蔵の「旅は京都、さらなり」(旅と歴史ブログ)

橘逸勢研究~貞観十八年の真相と真実

今回はリクエストにお応えして、先日の研究発表の後半部分、下桂御霊神社の創祀についてアップします。なお、今回のブログは、所々曖昧にしておりますので、ご了承ください。

 
 
 
 
平治元年(1159)九月二日、後白河上皇の御結構により、橘逸勢社において祭典が行われた(『百錬抄』)。『諸社根元記』、『国史略』では社の所在地を姉小路猪熊としている。一方、仁安二年(1167)五月廿七日に南側の源通能邸から出た火によって橘逸勢社焼失(「南至于三條、北至于油小路○、油小路東西焼亡、橘逸勢社焼了」『山槐記』)から、『平安京提要』『角川地名事典』では、橘逸勢社は姉小路北堀川東・蚑松殿邸内に祀られていたとする。
 
 
 
 平安京条坊図
 
 
姉小路猪熊橘逸勢推定地。現中京区役所。

 

 

姉小路北堀川東入ル 橘逸勢邸址

 

 

 
赤枠が橘逸勢邸・蚑松殿
 
 
油小路通(右側が源通能邸)
 
 
油小路通と姉小路通の交差点。『山槐記』では、この両側が焼失。
 
『中外抄』「上十七」には、東三条院の邸宅西北隅に祀られていた「角振・隼明神」が記されており、当時の貴族邸内に社があったことは他の例からみても珍しくない。『年中行事絵巻』では、貴族邸内で下級貴族を含めた多くの人物が闘鶏を楽しむ姿が描かれており、平治元年の祭典が邸内で執行された可能性はある。
 

 

 
年中行事絵巻(甦る平安京より)
 
 
『国史大辞典』では、「『橘逸勢伝』(橘以政)が仁安元年(1166)に作成、献上されたのが当時の橘氏是定・藤原基房(1144~1230)の可能性が高い」としている。『橘逸勢伝』文中「有橘逸勢墓」の表現は、邸内の社について書かれたものではないだろうか。
 
蚑松殿は安元の大火(1177)で焼失し、以後再建されることはなかったが、所有者の変遷がどれだけあろうとも『平家物語』巻第一「内裏炎上」に、他の貴族邸宅とともに「橘逸勢のはひ松殿」と書かれていること、『山槐記』の記録から、橘逸勢社が最終的に蚑松殿邸内にあったことは明白である。
 
なお、一部文献では、『平家物語』の記述から、蚑松殿を橘逸勢社とするが、『水左記』承暦元年(1077)正月廿三日に源俊房(1035~1121)が蚑松殿を訪ねていることから、少なくとも承暦元年の時点では蚑松殿=橘逸勢社ではない。
 
橘逸勢社の創祀についても発表していますが、多くの史料から導き出した考察なので、ここでは割愛します。

 

 

 
下桂御霊神社
 
京都市西京区下桂の御霊神社は、『下桂御霊神社誌』「由緒略解」によれば、祭神を橘逸勢とし、創祀を貞観十八年(876)とする。それに対し『橘逸勢と夏目甕麿の研究』(夏目隆文 新葉社 平成七年)、『橘逸勢』(三ヶ日町橘逸勢史跡保存会 平成十一年)の先行研究では、藤原明衡(989~1066)の『雲州消息』(下巻末)の「桂邊有領地」から、社焼失後、散位橘の領地であった現在の下桂に遷座されたとする。
 
貞観十三年(871)「葬送」ならび「放牧地」として葛野郡の「五条荒木西里・六条久受原里」が設定された。この二ヶ所は現在の桂離宮付近に相当する。つまり、九世紀後半の桂川は、下桂及桂離宮の西側を流れていたことが判明する。(『甦る平安京』京都市 平成六年)

 

 
『平安京右京の衰退と地形環境変化』(戸口伸二 人文地理第48巻第6号 1996年)より抜粋
 
橘逸勢が御霊信仰の一翼を担う特別な存在であったことを考慮すれば、早良親王を祀る上高野の崇道神社の創祀が(社伝によれば)貞観年間(859~77)であることから(『京都大事典』)、都外である上高野、五条荒木西里、六条久受原里にそれぞれ貞観年間(早良親王)、貞観十八年(橘逸勢)に祀られたことは否定できない。また、後の船岡山御霊会(994)、衣笠御霊会(1005)が葬送地で行われたことから、その地に御霊系神社が建てられたとしても不思議はない。
 

 

夏目隆文、橘逸勢卿史跡保存会は、『雲州消息』の散位橘「桂邊有領地」から、安元の大火後、橘氏の領地であった下桂に遷座されたとする。
 
 桂離宮
 
しかし私は、藤原道長造営の桂殿は現在の桂離宮辺りにあり、藤原氏の荘園・下桂荘は桂殿を核に形成されているため、安元の大火後の遷座に異論はないが、蚑松殿が藤原氏及びそれに近い人物が所有者であったことを踏まえ、橘氏是定(藤原氏、事実上の橘氏氏長者)により、下桂に遷座及び合祀(春日神社)されたと提案する。

 

 
桂離宮と下桂御霊御霊神社、春日神社
 
 
橘氏は平安中期から急速に衰え、平安末期には藤原氏家司まで没落した。氏長者の権限も藤原氏に渡ってしまったことから、下桂荘内に神社を建てることができるのは、藤原氏をおいて他ならないと考えるからである。

何故藤原道長が桂に桂殿を造営したについて、発表はしましたが、ここでは論及しません。
 
 
 
貞観十八年の真相と真実
 
下桂御霊神社の創祀について最も古い文献は、元禄二年(1689)に書かれた由緒書である。そこには、創祀を元禄二年から遡ること850年前、承和六年(839)とある。根拠は明らかでないが、承和六年は橘逸勢生前である。
昭和十二年(1937)神社関係者によって『下桂御霊神社誌』が編纂される際、創祀年について議論がされたことは神社誌から窺い知ることができる。そこで前述した崇道神社、及び塚本宮(現・藤森神社西殿祀神早良親王)の創祀等を踏まえたのであろう、最も早い年として貞観十八年としたのである。

これが貞観十八年の真相である。
 
桂は昭和六年(1931)京都市に編入され、それより三年前の昭和三年、新京阪電車(現阪急京都線)が敷かれた。桂は京都の西の玄関となり、大阪へは30分で達する交通至便の土地となった。桂駅周辺は開発され、人口増加とともに新興都市へと変化していった。人口増加は下桂にも及んできた。そのさなか、郷土の誇りと郷土愛の目標となるべく神社誌は編纂されたのである。葛藤のすえ編纂された神社誌の創祀年は、下桂に住む人々の日常生活に根ざし、行事の規範性を有する。
 
これが貞観十八年の真実である。

 

 
明治時代の桂
 
 
現下桂
 
 
 
仮説は提案したが、創祀について否定しなかったのは、真相と真実の違いを神社誌からメッセージとして受け取ったからである。
 
抽象的な表現ですが、従来から住んでいる人と新しい住民との間の垣根を少しでも低くするように新たに神社創祀が作られたということと、子供たちにとって神社は学校以外のコミュニケーションの場であり、その子供たちがゆくゆくは神社行事の担い手になると捉えてください。

あったことよりも信じられてきたことに重みをおくことは、ある意味危険な思想ですが、神社誌には議論されたことが記されているため、ここでは先行研究、私の仮説よりも思想史を優先させたわけです。

私がその場にいたら、葬令皇都条を持ち出して、邸内は供養塔で、嘉祥三年(850)遠江国から遺骨が改葬されたのが下桂で祠が建てられ、それが神社に発展したとしますねてへぺろ
 
 
事典・辞典以外の主な参考文献
 
『増補史料大成第八巻 水左記』(増補「史料大成」刊行会 昭和四十年)
『増補史料大成第二十七巻 山槐記』(同 )
『御堂関白記 全註訳』(編者山中裕 思文閣出版 2009年) 
 
『史料京都の歴史第十五巻 西京区』(京都市 平凡社 平成六年)
 
『講座日本の荘園史7 近畿地方の荘園』(吉川弘文館 1995年)