2020京都夏ブログ③~島原をゆく 1(輪違屋/角屋)
久しぶりに7月京都のブログを更新します。
諏訪開諏訪神社から島原へ。
島原を散策するのは 8年ぶりかな。
島原 大門
島原は江戸の吉原と並ぶ代表的な遊郭。
初め二条柳町に開かれ、その後六条三筋に移転。寛永十七年(1640)突然現在地への移転命令が出され、翌年の騒動が島原の乱の騒ぎに似ていたことから、また、その構成が島原城のように一方口だったため、島原と称したと言われます。
当初は西新屋敷と呼ばれ、江戸幕府公認の京都唯一の遊女街として発展します。
画像の大門は何度か建て替えが行われ、現在の大門は慶応三年(1867)に建てられています。遊女の逃亡や捨て子を防ぐために造られた門で、当初の出入口はここ一ヶ所に限られていましたが、享保十七年(1732)西門が造られています。
門前には橋があり、入ろうかどうか迷う思案橋がありましたが、川が暗渠になったため撤去されました。ちょっと見える柳は「見返り柳」と言って、島原を訪れた人が名残を惜しんだことに由来します。
京都市駒札
島原の境域は、東西99間、南北123間で、外周に幅1間半の堀をめぐらし、内側には土塀が築かれていました。東西178㍍南北220㍍ぐらいだから、それほど遊里の面積は広くありません。
島原の由緒を説明する石碑。島原には島原伝統保存会の石碑が所々にあります。
門が閉められていたために火災の際、多くの遊女が焼死した教訓から置かれた用水手桶。
風情ある大門からすぐの坊城通の四つ角を右に折れると現在も置屋兼揚屋として営業するお茶屋があります。
輪違屋
輪違屋は元禄年間(1688~1704)創業と伝える由緒ある置屋。現在の建物は安政四年(1857)の再建。その後増改築がなされ、明治四年(1871)にはほぼ現在の姿になっています。
京都市駒札
屋号の軒行灯
島原温泉の煙突と誠の湯の看板(島原温泉と誠の湯は違う施設です)。
島原を訪れたのは、30代前半、草野球チームの旅行で旅館・松栄に泊まったのが最初になります。誠の湯は松栄さんに併設されているスーパー銭湯です。玄関撮ろうかとしたけど、お客さんがたむろしてたので、諦めました。
もちろん、その時の旅行計画から宿、先斗町の納涼床の手配まで全て私がやりましたよ。
島原は祇園新橋や祇園花見小路周辺と違って、住宅地の中に廓の遺構がある印象だから、現代の京都らしい街並みと言えます。
おそらくみんなが忘れた頃に島原から京都画像クイズを出題しますから、街並みの画像を公開するのはやめて、もう一つの遺構へ移動
。
角屋(角屋もてなしの文化美術館)
角屋は寛永十八年(1641)頃に六条三筋から移築。その後増改築を繰り返し、幕末の頃現在の姿になる揚屋の遺構(重要文化財)。
現在は角屋もてなしの文化美術館として一般公開されています。
この日は令和二年の春期企画展(扇の趣展)が開催されていたはずですが、ちっ!コロナめ。門は閉められておりました
。
一度入館しておりますから
その時の画像。
8年前はあまりよい画像が撮れなかったから、晴れたこの日改めて撮るはずだったのに残念です
。
つづく~
参考文献
『京都大事典』 (佐和隆研・奈良本辰也・吉田光邦ほか 淡交社 昭和五十九年)
『新版 京都府の歴史散歩 中』(山本四郎 山川出版社 1995年)