2019早秋の京都ブログ未公開画像(東山編①)
早秋の京都ブログ未公開画像。
3日目最終日は朝から雨。以前いただいた高台寺の無料招待券を使おうと東山へ。
植髪堂
青蓮院の境外仏堂。本尊は阿弥陀如来像。親鸞聖人童形像が祀られています。親鸞聖人が得度された由緒あるお堂ですが、誰でもお参りすることができます。
駒札
植髪堂の由来
養和元年(1181)親鸞聖人が九歳の時、青蓮院第三世門主慈鎮和尚のもとで得度した時に剃り落した髪を、親鸞聖人の親族が保管し、張り子で造った親鸞聖人の童形像の頭上に植え付けて常に自分達の傍に置いていました。まもなく、この像は青蓮院に移され、永く蔵せられることになります。
親鸞聖人の教えが広まるにつれ、この像のことを伝え聞いて礼拝をを願う人々が数多く訪れるようになったので、新たに一閑張りのお像を造り、法衣を纏い、当院の末寺で、一番近くにあった金蔵寺(明治に廃寺)の御供屋に安置して誰でも拝めるようにしました。
宝暦九年(1759)に熱心な信徒の方々が御供屋の東側に一つのお堂を建て、阿弥陀三尊像をお祀りして、その傍らに、このお像を安置しました。お堂は「阿弥陀堂」と言い、「植髪堂」とも称えられるようになりました。
天明五年(1783)定法寺町(神宮道三条上がる東側)に、新たにお堂を建て移す準備を始めることになりましたが、経済的に困難が大きかったらしく、毎年各地で植髪尊像の出開帳を行うなどした上、文化八年(1811)正月に立柱、三月に入佛供養が行われました。このお堂が、現在の植髪堂で、その後、当地に移るまでに二回の移築を経ています。
昭和五十四年(1979)八月に、十ヶ月に亘る長期大改修工事を経て現在に至っています。
植髪像を祀る御厨子は、宝暦十年(1760)に造られたものです。中央に植髪像と共に、元の形に倣って阿弥陀如来をお祀りしています。
また階下及び隣接堂宇に納骨堂を設置し、ご縁の方々に広くご利用いただくよう努めています。
慈鎮和尚とは、『愚管抄』を書いた慈円になります。『百人一首』の
おほけなく
うき世の民に
おほうかな
わが立つ杣に
黒染の袖
の作者ですね。
外から堂内の様子を眺めながら、外からお参りしてお隣の青蓮院。
青蓮院
拝観しませんが、閑雅な雰囲気を味わいたくて受付のある寺務所まで散策。
寺務所
青蓮院らしい枯山水庭園。
ここから引き返して神宮道。
大谷本願寺故地
弘長二年(1262)没した親鸞聖人は鳥辺野北・大谷に葬られ、末娘の覚信尼が文永九年(1272)に現在の知恩院三門北の崇泰院あたりに遺骨を安置した廟堂跡。本願寺の起源になる場所です。廟堂は江戸時代初頭東山五条坂西大谷に移っています。
瓜生石
古門前通と神宮道の交差点路上にある知恩院七不思議の一つ、瓜生石。
知恩院創建以前からあり、祇園社の牛頭天王が降臨して一夜のうちに瓜が生えて実ったとか、二条城まで続く抜け道、隕石が落ちた場所等、さまざまな言い伝えのある石。
神宮道から円山公園
円山公園内
坂本龍馬・中岡慎太郎像
円山公園を抜けて
京都祇園堂
阿弥陀堂と祇園女御塚跡に建てられた京都祇園堂。白河法皇の寵愛を受けた祇園女御の菩提を弔うよう阿弥陀如来が祀られています。
祇園女御供養塔
祇園女御といえば、平清盛の生母伝説があります。祇園堂については、『祇園女御と祇園寺ー祇園周辺の歴史・文学散歩ー』(成瀬宗慶 竹腰幸夫 法政出版 1999年)に詳しく、いつか古典文学と京都ブログの参考文献として取り上げたいと思います。
西行庵
東山散策の定番
毎回の「あの歌」なので、今回は
もち月の
ころはたがはぬ
空なれど
きえけむ雲の
ゆくゑかなしも(な)
左近中将定家朝臣
西行の往生を聞いて藤原定家が詠んだ歌。
困っちゃうなぁ『祇園女御と祇園寺』では左近中将家定朝臣とあるから、???でしたよ。よい方に解釈して、誤植ということにしておきましょう。
持ってて良かった『西行物語』(笑)。
お隣の芭蕉堂
芭蕉堂
毎回お参りしているな。
東山編②へつづく~
参考
京都市歴史資料館
青蓮院
知恩院
祇園堂
各ホームページ