2019早秋の京都~渋谷街道をゆく(華頂山 元慶寺) | 菊蔵の「旅は京都、さらなり」(旅と歴史ブログ)

2019早秋の京都~渋谷街道をゆく(華頂山 元慶寺)

2019早秋の京都最終回になります。


清閑寺から渋谷街道に入り、花山トンネルから山科区に入ってしばらくすると、『栄華物語』『大鏡』に登場する寺院があります。また、『百人一首』ゆかりの寺院とも言えます。

 


 

華頂山 元慶寺

 

 

京都市駒札


元慶寺


 天台宗の寺院で、華頂山元慶寺という。本尊は薬師瑠璃光如来。

 六歌仙の一人として知られる遍昭が、陽成天皇降誕に際して貞観十年(868)に定額寺と称して建立した。元慶元年(877)に清和天皇の勅願寺となり、元慶寺と改めた。

 寛和二年(986)外孫・懐仁親王の皇太子即位を画策する右大臣藤原兼家と道兼父子の策謀により、在位二年で第六十五代花山天皇が退位、出家されることとなった。花山天皇は元慶寺で出家し、花山法皇と称した。その後、花山法皇は徳道上人が創始したのち、廃れつつあった西国三十三所観音霊場巡りを復興したため、これが縁で元慶寺は西国三十三所番外札所となっている。

 寺格も高く多くの寺領で栄えたが、応仁の乱で焼失した。今日に残る鐘楼門、本堂(薬師堂)、五大堂、庫裏は、寛政元年(1789)から寛政四年にかけ、妙法院宮堯恭法親王と真仁法親王の御遺志に従った妙厳と亮雄恵宅が再興したものである。

 鐘楼門の上には、菅原道真が勅命により元慶寺のために詠んだ漢詩が刻まれた三代目の梵鐘が再興され、収められている。


京都市


寛和の変と呼ばれる、藤原兼家・道兼親子の策略により花山天皇が退位する事件の舞台。

 


 

参道


元号寺だから、往時はどれほどの規模だったのでしょうか。現在の境内から想像できません。


出家については、「古典文学と京都」で追々取り上げるので今回はなしで、『百人一首』だけ少し後半で取り上げます。

 

 

納経所


規模は縮小されていても、境内は手入れが行き届き、凛とした気持ちになります。元号寺の矜持ですね。

 

 

本堂(薬師堂)



人皇六拾五代花山院法皇御落飾道場の碑 

 

 

 本堂(薬師堂)


 

元慶寺 寺号扁額

 

 

遍昭僧正御墓の碑

 

 

勅願所華頂山元慶寺再興碑記


駒札に書かれていた亮雄によって建立されています。


 

右・素性法師の歌碑

左・僧正遍昭の歌碑


 

天つ風


雲のかよひ路


吹きとぢよ


をとめの姿


しばしとどめむ 


僧正なのに(心の中では坊主のくせに)、舞姫の姿を留めたくて、風に雲間の通り道を塞いでおくれなんて歌を詠むのかと、百人一首を覚えたての頃思いましたが、「古今和歌集 五節の舞姫を見てよめる 良岑宗貞」から、出家前に詠んだ歌だと知り、勘違いも甚だしいものだと思いましたよ。


隣の素性法師は、遍昭の子。


いまこむと


いひしばかりに


長月の


ありあけの月を


待ちいでつるかな


今すぐ来ようと、あなたが言ったばっかりに、(陰暦)九月の明け方の月を向かえてしまいました。


歌は平安時代に詠まれているので、当然、待っているのは女性。女性の立場になって男性が詠んだ歌になります。


これにちょっと恨みを込めたのが、『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母


なげきつつ


ひとりぬる夜の


あくるまは


いかに久しき


ものとかはしる


町小路の女にうつつをぬかした夫に対する恨み節。



分かっちゃいました?



そう、このうつつをぬかした夫こそ、寛和の変の策略者、藤原兼家なのだ。




おしまい。