2019早秋の京都~東山をゆく(歌中山 清閑寺) | 菊蔵の「旅は京都、さらなり」(旅と歴史ブログ)

2019早秋の京都~東山をゆく(歌中山 清閑寺)

見るにだに

 

迷ふこころの 

 

はかなくて

 

まことの道を 

 

いかで知るべき 

 

 

ある日の夕暮れ、お寺の前を行き交う人を眺めていた真燕僧都。1人の美女が目に留まり、たちまち恋心を抱く。言葉をかける理由がみつからず、思わず清水寺への道を尋ねた。美女は真燕の俗心を察し、戒めるように歌を詠んだ。

 

 

美女が歌を詠んだ所を歌の中山言う。

 

この美女は寺の本尊・十一面千手観音の化身だった伝える。

 

 

歌中山 清閑寺

 

在清水寺南五町計本堂西向千手観音菅神作天台宗古山門末寺今属因幡堂開基紹継法師延暦二十一年創建一条院御宇佐伯公行再興長保二年勅爲官寺。

 

『山城名所巡行志』

 

在清水寺山之南播州刺使佐伯公行之所創建也(補遺延暦二十一年紹継開基)今真言宗僧守之。

 

『雍州府志』

 

延暦二十一年(802)比叡山の紹継が創建。一条天皇の時代、佐伯公行により再興。長保二年(1000)勅願寺となる。後、因幡堂の兼帯寺となり、慶長年間(1598~1615)性盛により天台宗から真言宗に改めた。本尊は菅原道真作と伝える千手観音像。

 

 

 本堂

 

 

 書院・本堂

 

 

京都市駒札 

 

 閑寂な境内は、『平家物語』の悲話の舞台で知られている。

 

 

 小督剃髪の本堂の碑

 

 

 剃髪させられる小督

 

 嵯峨野に隠棲していた小督局は再び高倉天皇の元へ戻るが、平清盛によって、この寺で強制的に剃髪、出家させられる。

 

六波羅から派遣された武士二人に監視されながら剃髪し、泣き崩れる小督局の姿は涙を誘う。

 

 

 謡曲「小督」と清閑寺

 

 

小督局供養塔(手前)、紹継法師供養塔

 

 

小督の局

 

高倉天皇に仕えた女房小督殿ともいう。保元二年(1157)生まれる。父は中納言正二位藤原成範。治承元年(1177)高倉天皇の第一皇女範子内親王を生む。高倉天皇天皇との愛を権力者平清盛に引き裂かれた小督は清閑寺で出家し、この地で生涯を終えた。小督の墓は高倉天皇陵の傍らにある。小督は京の都が一望できる「要石」のあたりに立ち宮中の日々を懐かしんでいたと伝えられている。

 

 

要石

 

ここから京都市内を望む。その展望から扇の要に見立てられ、要石と言う。

 

 

 その要石は、願をかけると叶うという。


願いあらば


あゆみをはこべ


清閑寺


庭に誓いの


要石あり

 

 

小督局が宮中を懐かしみ眺めた景色。

 

 

今は小督の桜がひっそりと都を眺めている。

 

 

 高倉天皇陵

 

小督局を寵愛した高倉天皇は、二十一歳の若さで崩御された。

 

小督局の没年が不明のため詳細は不明だが、『雍州府志』にはこうある。

 

「高倉院之愛妃小督局死日葬此山帝哀慕之崩御時依遺勅而奉葬此寺陵上有大楓樹傍有小督局之墓」

 

高倉天皇の寵妃、小督局は亡くなった時、この山に葬られた。天皇はこれを哀慕し、崩御の際、遺勅によりこの寺に葬り奉る。陵の上に大きな楓があり、傍らには、小督局の墓がある

 

時の権力者・平清盛に翻弄され、現世での成就を叶うことができなかった二人は今、清閑寺の傍らにある陵で寄り添うように眠っているのである。

 

※小督局が高倉天皇の菩提を弔い余生を送ったとする文献多数有り。

 

 

洋画家・黒田清輝は帰国後の京都旅行で清閑寺に立ち寄り、寺の僧が語った小督局の悲話に不思議な感動を覚え「昔がたり」を描いた。現在絵は焼失したが、下絵が寺に残る。

 

 

 

寺の下には渋谷街道があり、清水寺への道・歌の中山と分かれる。歌が詠まれた時代、東海道の脇街道として多くの人が行き交っていたのだろう。

 

 

清閑寺は、都を後にする淋しさと、山を越え、ようやく見えた都の姿に喜ぶ旅人達の相反する情感が交差する場所でもあった。

 

年を経て

 

世にすてられし

 

身の幸は

 

人なき山の

 

花を見るかな

 

 

与謝野鉄幹の父・礼厳が、妻を亡くした悲しみから清閑寺に隠棲して詠んだ歌。自身を詠んだ歌であろうが、都を去らねばならない感情と共通するものがある。

 

 

鐘楼

 

 

大西郷月照王政復古謀義旧跡の碑 

 

 

清閑寺茶室「郭公亭」

 

幕末、西郷隆盛と清水寺の月照が密義をした郭公亭が境内にあったが、平成三年解体。この二人の別れも哀れであった。

 

 

 成田不動尊ご分霊

 

 

清閑寺窯発祥の地の立て札

 

江戸時代、野々村仁清の師・清閑寺の僧・宗伯が開いた窯跡。この地で色絵陶器が造られ、後に五条坂へ移転したことから、清閑寺窯発祥の地とされる。


歌の中山


私の前にも美女が現れるのだろうか

 

 

 ニャ!?


美女には違いないか。



 

参考文献

 

『新修京都叢書 第三巻』(新修京都叢書刊行会 山岸精二 光彩社 昭和四十三年)

『新修京都叢書 第二十二巻』(新修京都叢書刊行會 野間光辰 臨川書店 昭和四十七年)

 

『京都大事典』(佐和隆研・奈良本辰也・吉田光邦ほか 淡交社 昭和五十九年)

 

『<決定版>京都の寺社505を歩く 上』(著 槇野修 監修山折哲雄 PHP研究所 2007年)

『彩色 みやこ名勝図絵』(白幡洋三郎 京都新聞社 2009年)