2019水無月 伏見をゆく5~御香宮神社その1(参道から拝殿・本殿) | 菊蔵の「旅は京都、さらなり」(旅と歴史ブログ)

2019水無月 伏見をゆく5~御香宮神社その1(参道から拝殿・本殿)

西岸寺からアーケード街の大手筋4番街から1番街を抜けるとひときわ大きな鳥居が見えてきます。

 

 

明和四年(1767)に奉納された大手筋にある大鳥居。

 

昔は大手筋も参道でした。

 

 

御香宮神社

 

元和元年(1622)、徳川頼房が伏見城大手門を拝領して神社に寄進した門(重要文化財)。

 

伏見城大手門だけあって豪荘な構えをしています。

 

 

 

京都市駒札

 

読めないので、御香宮神社御由緒から抜粋します。

 

御香宮神社

 

 創建年は不詳。日本第一安産守護之大神として広く崇められている。神功皇后を主祭神として仲哀天皇、応神天皇他六柱を祭る。

 

初めは「御諸神社」と称したが、約1150年前の平安時代貞観四年(862)9月9日に、この境内から「香」の良い水が涌き出たので、清和天皇よりその奇端によって、「御香宮」の名を賜った。

 

 豊臣秀吉は天正十八年(1590)、願文と太刀(重要文化財)を献じてその成功を祈り、やがて伏見城築城に際して、城内に鬼門除けの神として勧請し社領三百石を献じた。その後、徳川家康は慶長十年(1605)にもとの地に本殿を造営し社領三百石を献じた。

 

 慶応四年(1868)正月、鳥羽伏見の戦には伏見奉行所に幕軍が籠り、当社は官軍(薩摩藩)の屯所となったが、幸いにして戦火は免れた。

 

十月の神幸祭は、伏見九郷の祭礼とされ、古来「伏見祭」と称され、今も洛南随一の大祭として聞こえてくる。

 

 

 

参道

 

御香宮神社は3回目の参拝になります。1回目は車で境内駐車場から参拝。2回目は大雨の中、雨宿りしながら本殿まで進んだので境内社は殆んどお参りできませんでした。

 

今回はできるだけ境内を散策しながらお参りしましたよ~。

 

とにかく境内社が多いので今回は3回に分けてブログをアップします。当初は2回の予定でしたが、文献を読んでいたらどうしても分からないことがあったので3回にしました。

 

 

 

伏見義民事蹟

 

 

 

天明五年(1785)時の伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に訴え、伏見町民の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた文殊九助ら七人の伏見義民の顕彰碑。

 

藤森神社にある「伏見義民焼塩屋権兵衛碑」はこの時に獄死した深草出身の焼塩屋権兵衛を顕彰した碑になります。

 

小堀政方といえば作庭で有名な小堀遠州のことではありません。遠州も伏見奉行に任ぜされていますが、名は政一。政方は遠州から六代目になります。

 

碑には奉行を罷免されたとしかありませんが、なんと!大名である小堀家が断絶したのは伏見義民一揆が発端で、政方の悪政が幕府に知れて改易されてしまいました。

 

伏見生まれなのに、家の財政が圧迫したことで町民から御用金を徴収したり、奉行が奉行なら、配下の者もやりたい放題だったと言うことです。

 

後に御家人に復帰してますが、大名と御家人では天と地なのだ。

 

参考文献

 

『京都大事典』(佐和隆研・奈良本辰也・吉田光邦ほか 淡交社 昭和五十九年)

 

 

何気に通りすぎたらアカンですねぇ。

 

 

大手筋木鳥居旧基礎石

 

 

大手筋木鳥居旧基礎石について

 

 江戸時代・萬治二年(1659)紀州徳川頼宣は当神社境内入口の大手筋に石鳥居を奉納した。

その鳥居は寛文年間の大地震により倒壊、その後数度の建替を経て、明和四年(1767)に現今の鳥居が奉納された。

 今回修理にあたり基礎を鉄筋コンクリートにて補強するのに際して旧来の柱根石を交換したが、柱根を支えていた石底根石は再利用している。

 ここに十数㌧の重さを支えていた基礎石の状況を図示して、往時の土木技術の確かさを感じとっていただければ幸いである。

 

平成十一年九月吉日

 

技術については感心します。が、図面が理解できない(涙)。

 

詳細を載せたのは、神社仏閣に興味はなくとも、土木技術に興味を持たれる方がいるからです。たまにメッセージを頂きます。

 

再び参道

 

 

大杉社

 

 

桃山天満宮 

 

 

こちらは前回、雨宿りついでに参拝しています。

 

伏見城跡残石

 

わざわざ注意書があるのは、私みたいな奴が転げ落ちたからかな。

 

京都市内の神社で子供が遊んでる姿はあまり見ませんが、府内某市の神社では悪ガキ健在で、宮司さんが追っかけ回しているそうです

(宮司さんに直接お聞きしましたから実話です)。

 

 

桃山天満宮 拝殿と本殿

 

そんな子供も大人になると神妙にお参りします。

 

悪ガキだからこそ神社は身近な存在。祭典や行事になると人一倍神社に尽くすようになるだなこれが。って、前回も注意書読んでそんなこと考えました。

 

 

蕉門の十哲の一人・向井去来の句碑。

 

梅の香に のっと日の出る 山路かな

 

伏見なら桃ですが、天満宮だから梅で(由来にある)香ですね。そういえば、去来が住んだ嵯峨野の落柿舎に長いこと行ってませんわ。

 

 

 お約束のナデナデ

 

天満宮内に摂社がいくつかありましたが、今回は長くなるので先へ進みます。

 

 

迎賓館

 

 

見えて来ましたね。

 

 

個人的には最も美しいと思う拝殿の一つ、御香宮神社拝殿。

 

 

手水舎

 

 

寛永二年(1625)、紀州徳川家初代・徳川頼宣によって寄進された本瓦葺割拝殿(京都府指定文化財)。極彩色の彫刻によって埋め尽くされています。絵じゃないですよ彫刻です。

 

表門が豪荘なら拝殿は絢爛豪華と申しましょうか。 

 

平日とはいえ、なかなか人が写っていない画像を撮るのに苦労します。皆さん、その美しさに見とれて動きませんから。

 

 

 

 拝所

 

ご祭神は、主祭神に神功皇后・仲哀天皇・応神天皇。他に瀧祭神・宇部大明神(武内宿禰)・河上大明神(豊玉姫命)・若宮(菟道稚郎子)・高良大明神(高良玉垂命)・白菊大明神(白菊翁)が祀られています。

 

なお、文献により祭神は一定せず、『山城名跡巡行志』では、春日明神、金札明神、住吉明神三座の神名が見えます。なお、祭神とくに白菊大明神に疑問を持ったので後日アップします。

 

戦前までは武神として崇拝され、現在は主に安産・子授け・子育て・諸病平癒・開運厄除の神として広く信仰されています。

 

 

 

 

本殿 

 

慶長十年(1605)、徳川家康の命により京都所司代板倉勝重を普請奉行として建立された、桧皮葺五間社流造の本殿。全体の造り、細部の装飾とともに豪荘華麗でよく時代の特色をあらわし桃山時代の大型社殿として、昭和六十年に国重要文化財に指定されています。

 

江戸時代には修復に関して、その都度伏見奉行所に届け、費用は、徳川御三家(紀伊・尾張・水戸)の寄進と氏子浄財にて行われたそうで、大修理の際は、江戸幕府から直接の寄進を仰いだそうです。

 

御三家の祖はみんな伏見で産まれていますから、費用を負担したのでしょう。

 

その御三家の祖・頼宣、義直、頼房の産湯に使ったのが

 

 

御香水

 

神社な名の由来となった清泉で、「石井の御香水」として、伏見七名水の一つとして知られ、『名水百選』にも認定されています。

 

こちらは手水

 

 

 こちらは濾過されているので浄財を納めれば汲んで持ち帰ったり、飲んだりできます。

 

昔は濾過されてなく、そののまま飲みましたが・・・いろいろあったんですよね。

 

それでは境内を少し

 

 

 

 絵馬堂

 

御香水の霊験や説話を画題にした「社頭猿曳ノ図」が懸かっています。

 

猿まわしと猿が御香宮神社近くに来たとき、猿まわしが病気になり、猿が御香水を汲んで飲ませたところ病が治り、お礼に法楽の舞を奉納したという説話です。

 

 

能舞台

 

 

 安産乃社とあるから、安産祈の石標ですね。

 

 つづく~

 

仕事とテニスで1週間ほど更新できないかもしれません。

 

文中以外の参考文献

 

『新修京都叢書 第十六巻』(新修京都叢書刊行會 臨川書店 昭和四十四年)

 

『新修京都叢書 第二十二巻』(新修京都叢書刊行會 臨川書店 昭和四十七年)

 

参考サイト

 

御香宮神社ホームページ

 

抹茶スィーツ宇治茶 伊藤久右衛門公式オンラインショップ 「ちょっと言いたくなる京都通」

 

京都風光