2019京都 花園今宮神社 | 菊蔵の「旅は京都、さらなり」(旅と歴史ブログ)

2019京都 花園今宮神社

 
花園会館でcoffeebreakを終え、妙心寺から程近い神社を当日最後に参拝しました。
 
 
 
 
花園 今宮神社
花園御霊会等の詳細は最後にして境内をご紹介。
 
 
手水舎
 
 
由緒書
 
祭神 素戔鳴尊
 
由緒
 
 当今宮神社は平安時代、長和四年(1015)六月、都に疫病が流行した際、三条天皇のご託宣により神殿が建立され厄除神である素戔鳴尊をお祀りし疫病除け祈願したところ、お詣りする人々で大いに賑わい間もなく疫病も鎮静した。
 永寿七年(1052)五月、再び疫病が流行した。後冷泉天皇により神社を造営し御霊会が執り行われた。この神殿は厄除神今宮大明神として人々から崇敬された。
 現在の御本殿、末社松尾社、拝殿等は後光明天皇の寛永二十一年(1644)五月、徳川家光公の保護を受けて仁和寺門跡覚深法親王(後陽成天皇第一皇子)による御本願で造営されました。
 その後明和四年(1767)以降も御本殿等の修理修復が再三行われた。
 平成十四年(2002)に御本殿一間社流造の桧皮葺お屋根葺替えた。
 平成二十六年(2014)当社壱千年を祈念し、拝殿、お屋根を木賊葺に、末社松尾社、手水舎も同時に修理修復した。
 
 
 拝殿と拝所
 
 
拝殿から
 
 
本殿
 
厳かな雰囲気が漂います。
 
祇花園社、花園社とも呼ばれ、花園・安井一帯の産土神で、中世以降は、近くの法金剛院及び仁和寺の鎮守社となっています。
 
 
昨年、例祭当日に訪れた仁和寺に鉾が建てられていましたね。
 
 
 
忘れ物?
 
 
石碑
文字が確認できません(涙)。
 
 
末社・松尾社 
 
花園から衣笠山周辺の神社は松尾大社の影響力が強いです。
 
それでは花園御霊会についての記録と考察。
 
 
 
 『百錬抄』長和四年(1015)六月二十日
 
京人花園辺建立神殿。祠疫神。依疫神。託宣也。
 
『小右記』長和四年(1015)六月二十五日
 
西京花園寺坤方紙屋河西頭。新卜疫神社。是西洛人夢想云々。或伝託宣云々。今日東西京師凡庶挙首捧御弊。
 
概略
(洛西花園寺西南の紙屋川西岸に、夢想を蒙って新たに疫神社が出現し、人々が群参した)
 
再び疫病が流行した永寿七年(1052)の記録。
 
『春記』永寿七年五月廿八日
 
近曽西京住人夢称神人之者来云。吾是唐朝神也。無住所流来此国。巳無所拠。吾所到悉以発疫病。君祭吾称作住其所了者。可留病患也。
 
概略
(西京の住人の夢に神が現れ、私は唐神であるが、住むところなく此処に流れ着いた。私を祀って神殿を造った者は病患を留めると言われた)
 
神社縁起は上記の記録が元になります。長和四年の御霊会の疫神は不明ですが、永寿七年の疫神は唐神とあり、これが外来神である牛頭天王とされ、祭神が牛頭天王(素戔鳴尊)とされたのでしょう。記録と神社縁起が一致しています。
 
ここで留意したいのは、怨霊にルーツをもつ御霊会の文献上の初見である貞観五年(863)神泉苑御霊会との相違点。
 
10世紀末から11世紀初頭に頻発した御霊会、花園御霊会及び船岡山御霊会、紫野御霊会は、神泉苑御霊会と違い、奈良時代の疫神祭との関係がより深いと考えられます。ここらへんは文献史料を集めてあるので書こうと思えばいろいろ書けますが、とってもながーくなってしまうから勘弁してくだしゃい(´;ω;`)。
 
さて、ですから、同時期に執り行われた衣笠岳御霊会により興味を惹かれるわけですね。文献を読む限りでは、衣笠岳御霊会のみ奈良時代の疫神祭、神泉苑御霊会と違い、祖霊神が祭神とされていますから。
 
こちらは研究途中なので勘弁してくだしゃい(。>д<)。
 
とにかく、令和になっても衣笠山周辺を徘徊しますわ。
 
なかなか更新できず、5月まで引っ張った3月の平成最後の京都旅ブログはやっと終了です。
 
一部の皆さんが楽しみにしている総集編は・・・やるよ。反省文としてね。今回とは関係ない画像もアップします。
 
参考文献
 
『京都大事典』(佐和隆研・奈良本辰也・吉田光邦ほか 淡交社 昭和五十九年)
 
『天神御霊信仰』(村山修一 塙書房 1996年)